第七話 数えられる夜 前編
境見文彩堂の閉店札を掛けたあとも、棚の紙が妙に乾いて見えた。喉の奥がひりつくのは、冷えのせいじゃない。朱の輪郭が、頭の片隅に残っている。
差押え印。
札の縁に馴染む朱は、見えない視線みたいに冷たい。
「ひより、行くなら早く行け」
父の境 恒一が、帳簿を閉じながら言った。止めない代わりに、目が釘を刺す。
「うん。今夜は白坂さんもいるし、手順は最小で済ませる」
「役目を果たして戻れ」
「分かってるって」
私は明るい声を作って返し、鞄の肩紐を直した。結び札、境札、糸、清め水。控えの束。余計なものは入れない。手順を増やすほど数えられる。
白霧神社の石段の下で、白坂朔が待っていた。黒いコートの襟を立て、手袋を握りしめている。指先の震えが、昨日より少し強い。
「境。今夜は俺も入る」
「うん。師匠から聞いた」
私の口調が落ちる。頭の中が静かになる。仕事の時間だ。
「社務所は」
「御影さんがいる。戸は閉めるって」
朔は短く頷いた。
「見て、聞いて、言い当てるな。師匠からだ」
「形だけ扱う、だね」
「そうだ」
社務所の引き戸が開いて、元気な声が飛んできた。
「ひよりさん! 白坂さん!」
御影しおりが駆け寄ってくる。笑顔は無邪気で明るい。けれど二の鳥居の方角が視界に入った瞬間、口角が僅かに固まる。すぐに笑って誤魔化す。周りが避ける理由が、また増える。
「ひよりさん、苦情帳、また……」
「見せて」
社務所の机の上。苦情帳は今日だけで数ページ進んでいた。字が違うのに、言い回しが寄っている。息が白い。鈴が遠い。戻される。読めない地名。写真が白くなる。手が震える。
そして一番下に、見慣れない筆跡が一行だけあった。
締めるな。
文字の端が、白く欠けている。
しおりが笑いながら言う。
「ひよりさん、ぜんぜん気にしてないですけど! これ、誰が書いたんでしょうね!」
無理してる。分かりやすいほど。
「分かんない。だから今夜、手前だけ締めて帰る」
私は明るく言って、しおりの空気を軽くした。
「しおり、戸は閉めて。鈴が遠くなったら、まず息を整える。苦情帳は閉じない」
「はい! ひよりさん! 」
返事は元気。でも指が、境札の鈴に触れっぱなしだ。
境内へ出ると、風が冷たい。日が落ちるだけで、空気の厚みが変わる。足元の影が濃くなる。
「行くぞ」
朔が短く言う。私も頷いた。
喉に指を添え、声に出す。錨を打つ。
「境見市、白霧山。白霧神社、二の鳥居」
空気が一枚、薄くなる。二の鳥居のしめ縄が、昼より濃い影を落としている。立入禁止の札が揺れているのに、音がしない。
息が白い。鈴の音が一度鳴ったのに遠い。
戻される気配が、足首に絡みつく。
「早い」
朔の声が硬い。右手が震え、すぐに握り直す。
「今夜は返納優先。縫いは最小」
声が冷静になる。胸の奥の乾きが、逆に頭を落ち着かせる。
縄の向こうへ一歩出す前に、視界の端に白い抜けが走った。点じゃない。細い線が、鳥居の根元へ引かれている。欠けは意味を教えない。形だけを示す。
私は鞄を下ろし、結び札を一枚取り出した。




