第六話 読めない地図 後編
私は母親と子どもを案内板から一歩下げた。距離を取るだけで、冷えが少し引く。地名は錨だ。読めない地名は、錨にならない。だから揺れる。
「ここ、白霧神社の境内図なんですけど、今ちょっと印刷が擦れてて」
明るい口調を作り、相手の恐怖を増やさないように言う。嘘じゃない。見える人が少ないだけで、実際に擦れているように見える。
「御朱印なら社務所で。名所案内は、紙で渡しますね」
母親がほっと息を吐く。子どもが手を引かれて笑った。危ないのは、今の一瞬だ。
朔が低い声で言った。
「昼でこれなら、夜はもっと早い。ここ、締めるか」
「締める。けど縫い直しは最小。返納優先」
私は鞄から、細い結び札を一枚だけ出した。昼の光の中でも、白い抜けが浮く。案内板の欠けの輪郭を写す。意味は追わない。形だけ。
朔は札を一枚取り出し、案内板の下にそっと置いた。墨ではなく、乾いた紙の匂いがした。境札だ。境界を固定する札。
しおりが、少し離れた場所で両手を握っている。無邪気な笑顔を作ろうとして、うまくいかない。
「ひよりさん……大丈夫ですか?」
「大丈夫。しおりは社務所の戸を閉めて。苦情帳は閉じない」
「はい! ひよりさん!」
返事は元気。けれど目が潤む。泣けそうなのに泣かない顔だ。胸の奥が少し痛む。
私は喉に指を添えた。地名は必ず声に出して確認する。錨を打つ。
「白霧神社。境内案内板」
空気が落ち着く。白い抜けの輪郭が定まった。
糸を通す。結び目は一つ。昼だから、縛りは浅く。夜までの応急だ。
監修印は打たない。ここで印を押すと、相手が数える。差押え印が濃い今は、余計な手順を増やさない。
代わりに清め水を、ほんの一滴だけ落とした。
紙をめくるような音が、遅れて聞こえた。案内板の白い抜けが少し縮む。母親たちが振り返っても、もう目が滑らない程度に。
朔が、息を吐いた。
「今のは上手い。さすが師匠の孫だな」
「師匠の指示がうるさいだけ」
私は淡く返して、結び札を鞄へ戻した。そこでようやく、朔の右手の震えが少し収まったのに気づく。
「朔、さっき震えてた。欠けの大きさで出るの?」
「小さいのは欠け程度で済む。でかいと手が震える。目がかすむ。ひどいと頭痛になる」
淡々と説明する。慣れている声だ。慣れたくて慣れたわけじゃない声。
「師匠が大切にしてる理由、分かったかも」
「大切にされるのも、楽じゃない」
朔はそう言って、案内板を一度だけ見た。
「名越ヶ淵の縁と、二の鳥居の縁が似てる。筋が近い」
「私も同じことを思った」
そのとき、足元の影が僅かに濃くなった。昼の影。カゲは話せない。けれど聞いている気配だけが、いつも通り足元にある。
私は影に向けて、小さく言った。
「夜に、もう一回。今のは応急だよ」
返事はない。けれど影が、ほんの少しだけ揺れた。
社務所へ戻ると、しおりが戸を閉めて待っていた。無邪気な笑顔を作って飛び出してくる。
「ひよりさん! すごいです! あの地図、普通に読めるようになってました!」
明るい声。けれど二の鳥居の方角を見た瞬間、笑顔が硬くなる。気づいていないふりをしているのが分かる。
「しおり、今夜は早めに戸を閉める。鈴が遠く聞こえたら、すぐ合図して」
「はい! ひよりさん!」
朔が、社務所の机の上の控えに視線を落とした。私が持ってきた札の写し。白霧神社の欠け。名越ヶ淵の欠け。輪郭が似ている。
その端に、薄い朱が噛んでいるのが見えた。
差押え印。
昼の応急なのに、もう反応している。数えている。手順を見ている。
喉の奥がひりつく。泣けそうな気配だけが立つのに、涙は出ない。胸の底は乾いたまま冷える。
朔が小さく言った。
「監査が近い。師匠が急ぐはずだ」
私は元気な口調を無理に作らず、静かに頷いた。
「今夜、二の鳥居を締め直す。名越ヶ淵の筋も、もう一段見る」
しおりが明るく手を上げた。
「ひよりさん! 私、ぜんぜん気にしてないですけど! 今夜も、苦情帳、閉じないで開けておきます!」
無邪気な声の裏に、必死が混じる。私は笑って返した。
「それでいい。怖いなら怖いでいい。私が聞く」
しおりが笑った。笑い切れなかった。
差押え印の朱は、控えの端で消えなかった。




