第六話 読めない地図 前編
境見文彩堂の昼は、観光客の声で少しだけ賑やかになる。御朱印帳の見本を手に取って、迷いながら笑う声。旅ノートの紙質を指で確かめる音。そういう普通の気配があると、昨夜の朱が薄まる気がした。
差押え印。
札の縁に馴染んだ朱は、見えない誰かの視線みたいに冷たい。見なかったことにできないのに、触れすぎると増える。
帳面を閉じたところで、スマホが震えた。祖母、境いとの番号。
「ひより。昼のうちに白霧へ行けるかい」
「行ける。何かあった?」
「札師組の者を一人やる。朔だ。お前の控えと、昨夜の札を見せてやれ」
声が淡いのはいつも通りだ。けれど言葉の角が、少しだけ硬い。
「分かった。今から行く」
「無理はするな。締めは夜。昼は目と耳を使え」
「了解」
通話を切って、私は紙袋に控えを入れた。結び札の写し、輪郭取りの札、名越ヶ淵のパンフレット。ついでに社務所へ渡す新しい苦情帳も入れる。
父の境 恒一が、帳簿から顔を上げた。
「今日も白霧か」
「うん。おばあちゃんから呼ばれた。すぐ戻る」
「役目を果たして戻れ」
「分かってるって」
私は明るく返して店を出た。
石段の前に立つと、白霧山の風が頬を撫でる。昼の白霧神社は静かで、怖さよりも空気の澄みの方が勝つ。
社務所の引き戸が開いて、勢いのいい声が飛んできた。
「ひよりさん!」
御影しおりが駆け寄ってくる。今日も無邪気で、嬉しそうに手を振る。けれど近づくと、笑顔の奥が疲れている。目の下が少し赤い。
「しおり、寝てる?」
「寝てます! 寝てますよ! ひよりさん!」
言い切るほど無理が出る。私は笑って紙袋を差し出した。
「苦情帳の替え。あと控え。今日は祖母の用事もある」
「ありがとうございます! ひよりさん、ほんと助かります!」
しおりは紙袋を受け取り、すぐに社務所の前へ目を向けた。そこに立っていた男が、境内の案内板をじっと見ている。
細身で、二十代くらい。黒いコートの襟を立て、手袋を外した指先で板の端をなぞっている。観光客の手つきじゃない。
「……ひよりさん、あの人、さっきからずっと地図見てるんです。」
しおりの声が少し跳ねる。地図の場所は、二の鳥居へ向かう導線上だ。
男がこちらを見た。視線が鋭いのに、表情は落ち着いている。
「境ひより、だな」
名指しされた。私は一瞬だけ驚いて、それから元気に返した。
「そう。白坂さん?」
「白坂朔だ。札師組」
名乗り方が簡潔だった。挨拶の代わりに、彼は自分の右手を見せた。指が僅かに震えている。寒さの震えじゃない。
「欠けが大きい。ここ、見えるか」
「見える」
私は口調を落とす。頭の中が静かになる。仕事の時間だ。
案内板の地図の一角。名所の一覧に、ひとつだけ目が滑る場所がある。文字の端が白い。紙を破った跡のような抜け。昼なのに、はっきり見える。
「……名越ヶ淵」
声には出さずに輪郭を追う。喉がひりつく気配がある。
朔が小さく頷いた。
「俺も同じだ。師匠から聞いた。地名は必ず声で確かめる。だが、欠けは声を奪う」
しおりが、明るい声を作るように言った。
「ひよりさん! それ、えっと、いつものやつですか! ぜんぜん平気です!」
無邪気に振る舞うほど、無理が目につく。私はしおりへ軽く笑いかけた。
「大丈夫。今は昼。ここで締めるだけ」
朔が、合言葉みたいに小さく言った。
「見て、聞いて、言い当てるな」
「……それ、札師組の?」
「師匠に叩き込まれた。欠けの意味を口にすると、引っ張られる。形だけを扱えってな」
私は頷いた。言葉は違っても、やっていることは同じだ。
そのとき、案内板の前で観光客らしい親子が立ち止まった。母親が指で地図を追い、首を傾げる。
「あれ、ここ……なんて読むの?」
白い抜けが、母親の視線に反応するみたいに濃くなった。空気がすこし冷える。息が白くなりかける。
しおりが一歩前に出て、明るく言った。
「えへへ、あの、ここは……」
言いかけて、止まる。二の鳥居の導線に近いからだ。無理して笑う顔が、剥がれかける。
私はしおりの肩に手を置いて、前へ出た。
「すみません。そこ、今は読まないでください。案内はこっちでします」
自分の声が冷静になる。余計な言葉を削る。
朔がすぐ横に並び、手袋を握りしめた。指の震えが少し強くなる。
「反復の入口だ」
風もないのに、地図の紙面が薄く波打った。白い抜けが、線になりかける。




