第五話 差押え印 後編
縄の向こうへ一歩出す前に、景色がふっとずれた。私の視界だけが、参道の同じ石へ戻る。身体は動いていないのに、位置が変わったみたいに感じる。
反復の手前だ。戻される回数を増やせば、そのうち本当に戻る。
「早いな」
「返納だ」
カゲの声は必要最低限だった。私は頷き、口調を落とす。冷静になる。感情を動かすほど錨が浅くなる。
まず声で確定する。
「白霧神社。二の鳥居」
空気が少し落ち着く。白い抜けが視界の端に現れた。欠けは意味を教えない。形だけを示す。今夜の形は細く、縁が尖っている。締めようとすると、ほどく手が入る。
監査が近い。
私は鞄を下ろし、結び札を一枚取り出した。藍墨を落とし、筆先を整える。輪郭写しは最小。縫いは一結び。印を打つ前に、返納の段取りを先に組む。
返納は、結び直しより優先だ。原因を返さないと、締めてもまた漏れる。
私はしめ縄の根元へ目を凝らした。濡れた紙片がある。昨日までの紙より小さい。けれど手触りが文彩堂の和紙に近い。紙が残る。残るということは、まだ外へ出ている。
私は声に出さずに地名の輪郭をなぞる。読むほど喉が痛む。今夜は読まない。錨が歪む。
返納は形でやる。
結び札に、白い抜けの輪郭を写す。点と線をまとめ、根元へ引かれる癖を一つにする。欠けの縁が、名越ヶ淵の系統と同じだと分かる。水の匂いが、僅かに混じる。
糸を通す。結び目は一つ。締める瞬間だけ指先に力を入れ、あとは触れない。
「印」
監修印を打つ。
――その瞬間、札の縁に朱が噛んだ。
差押え印。
今夜は濃い。輪郭がはっきりしている。押されたわけじゃない。最初からそこにあったみたいに、朱が紙に馴染む。
喉の奥が痛い。胸の底が乾いたまま冷える。
「来てる」
「返納を急げ」
カゲの声が低くなる。影が足元で揺れ、輪郭が一瞬だけ濃くなる。普段より行動範囲が増えているのが分かる。紙が鍵になっている。
私は清め水を落とす前に、返納の手順へ入った。
札を一度、地面へ置く。しめ縄の影が届く範囲。結び札は現場に返すための器だ。ここで水を打つと、封じになる。先に返す。
私は紙片を拾い上げ、掌で温度を測った。冷たい。水の冷たさ。白霧山の冷えとは違う冷えだ。
紙片を結び札の上へ置く。輪郭が重なり、白い抜けが一度だけ静まる。まるで紙が、帰り道を思い出すみたいに。
私は喉に指を添えた。声に出せる地名だけを言う。錨を歪ませない。
「白霧神社。二の鳥居。白霧山」
空気が一枚、めくれる。紙片の白い抜けが、すうっと縮む。けれどまだ残る。返納が半端だ。
私は最後に、清め水を一滴だけ落とした。
紙をめくるような音が遅れて響く。白い抜けが輪郭を持って縮み、紙片が軽くなる。風がないのに、紙がふわりと浮き、しめ縄の影へ吸い込まれた。
返納が成立した。
同時に、戻される気配が一度だけ引く。反復の歯車が噛む直前で止まった。今夜は持った。
けれど差押え印は消えない。
札の縁に残った朱は、こちらの勝ちを許さないみたいに濃いままだ。
「締まったが、監査が残る」
カゲが言う。淡々としているのに、影が僅かに引かれる。あなたも疲れているのが分かる。
「うん。今夜は返納で止めた。縫い直しは最小。これ以上触ると危ない」
私は札を鞄へ戻し、社務所へ引き返した。
社務所の明かりが近づくと、鈴の音が近くなる。遠さが薄れる。しおりの鈴だ。今夜はちゃんと、ここにある音がする。
引き戸を開けると、しおりが勢いよく顔を上げた。
「ひよりさん! おかえりなさい!」
無邪気な声。けれど目が赤い。泣いたわけじゃない。泣きそうなのをこらえた赤さだ。
「大丈夫?」
「大丈夫です! ぜんぜん平気です!」
しおりは笑った。笑い切れないまま、苦情帳を押し出す。
「ひよりさん、これ……今、増えなくなりました」
ページの端が、さっきまでより落ち着いている。反復の波が止まった証拠だ。
「止めた。今夜は返納」
「返納……」
「返すだけ。縫い直しは次」
私は明るい口調に戻して、しおりの頭上の空気を軽くした。
「今日はもう閉じていい。戸も閉めて、休んで」
「はい……ひよりさん」
しおりは頷いた。その頷きのあと、二の鳥居の方角を一度だけ見て、すぐに笑った。無理が見える笑いだ。
スマホが震えた。父からのメッセージ。
『遅い。無理するな』
私は短く返す。
『今戻る。今日は返納で止めた』
送信し終えた瞬間、足元の影が僅かに濃くなる。カゲが踵のあたりで息を吸った。
「札が残っている。次は、人の手が入る」
「監査?」
「それだけではない」
私は鞄の中の結び札に触れた。差押え印の朱が、布越しでも冷たい気がする。
今夜は止めた。けれど数えられている。手順も、回数も。
白霧神社の異常は、もう神社だけの問題じゃない。




