第一話 苦情帳の白 前編
境見文彩堂の紙袋を提げて、白霧神社の石段を上がった。夕方の境見市は冷えるけれど、参道の空気はまだ昼の名残を抱えている。
社務所の引き戸を叩く前に、鈴の音がして、元気な声が飛んできた。
「ひよりさん! 来てくれたんですね!」
御影しおりが、ぱたぱたと駆け寄ってくる。頬が赤い。仕事中でも子どもみたいに明るい。
「うん、頼まれてたやつ持ってきたよ。帳面、増えすぎって言ってたからさ」
私は紙袋を揺らす。中身は御朱印帳と、旅ノートの新しい見本。それから、社務所用の苦情帳の替え冊子だ。観光客対応の備品は、うちで作っているものも多い。
「助かります! ひよりさん、ほんと頼りになります!」
しおりは両手で受け取って、袋の口を覗き込む。嬉しそうに笑って、すぐに顔を上げた。
「……あの、ひよりさん。ちょっとだけ、見てほしいものが」
「ん? 何?」
しおりの笑顔が、一瞬だけ固くなる。明るく振る舞おうとしているのが、逆に目についた。
「えっと……苦情帳なんです。最近、変で」
社務所の机に案内される。しおりが開いたページには、丁寧な字で短い記録が並んでいた。観光客の忘れ物、道案内の行き違い、境内での小さな揉め事。いつもの内容だ。
その中に、妙に乾いている行が混じっている。
・二の鳥居手前。十七時二十分。
・どれだけ歩いても入口に戻る。
・スマホの地図が回り続ける。
しおりは、その行を指でそっと隠した。隠したのに、指が震えている。
「ひよりさん、これ、読めました?」
「読めた。二の鳥居、だね」
口に出した瞬間、しおりの肩が僅かに跳ねる。平気なふりをして笑うけれど、目が笑っていない。
「はい! えっと、ぜんぜん気にしてないんですけど! あはは!」
無理してる。見ていて分かる。
「しおり、ここは無理しなくていい。誰かに何か言われた?」
「言われてないです! ほんとです!」
しおりは勢いよく首を振ってから、机の端に置いた鈴を握り直した。境見文彩堂で買った境札モチーフに、自分で鈴を付けたものだ。効き目はない。ただ、癖みたいに触れている。
「……でも、ちょっと怖いです。二の鳥居の近くの話って、みんな避けるじゃないですか」
「避けるから、余計に怖くなるんだよね」
私は明るく言って、紙袋の残りを机の横へ置いた。
「今日、ついでに境内の点検も頼まれてるから。私が見てくる」
「ひよりさん! ほんとに行くんですか!」
「大丈夫だよ、奥へは行かない」
言いながら、自分の声が少し落ちたのを自覚する。仕事モードに切り替わる。頭の中で手順を並べると、余計な感情が引く。
社務所を出る前に、しおりが小声で追いかけてきた。
「ひよりさん、もし何かあったら、すぐ戻ってきてくださいね!」
「すぐ戻るよ。それと、苦情帳は閉じないでおいて」
「はい! ひよりさんの言うとおりにします!」
しおりは笑って手を振る。でも、笑顔が少しだけ硬い。
夕方の境内は、参拝者が引いていく時間だった。石段を下りる人の足音が遠ざかり、杉の葉が風に擦れる音が残る。鳥居が見えてきたころ、足元の影が濃くなる。
「やっとだな」
踵のあたりから声がする。姿はまだない。夜にだけ立体化できる影。
「カゲ、今日は二の鳥居の手前だけ。奥へは行かない」
「地名」
短い催促。私は喉に指を添える。
「境見市、白霧山。白霧神社、二の鳥居」
声にして錨を打つ。空気が一枚、薄くなるように軽い。
二の鳥居のしめ縄は、近づくほど影が濃い。立入禁止の札が揺れているのに、音がしない。土の匂いが薄く、息が白くなる。
試しに一歩、縄の向こうへ足を出した。




