第23話 王太子アルベルト
《紅茶女王クラリッサ》即位から二ヶ月。
わたくしの執務室には、不可思議な来客が現れておりましたわ。
「クラリッサ様、王国から重要な来客がいらっしゃいました」
グレゴールさんが、かなり緊張した面持ちで報告してきました。
「王国から!?」
わたくしは驚きました。
「何か、トラブルですの?」
「いえ……それが――」
グレゴールさんが、困った笑みを浮かべました。
「王太子アルベルト殿下が、ご自身で来訪されたそうです」
「王太子アルベルト!?」
ぴぎぃ!?
ピギィが驚いて帽子が落ちました。
かつてのわたくしの婚約者。
破滅フラグを踏み抜いたわたくしを、婚約破棄した男性。
「ですが、その態度は……かなり謙虚だと聞いていますが」
「謙虚……ですの?」
わたくしは、少し警戒しながらも、アルベルトをお迎えすることにしました。
─
会議室に現れたアルベルト王太子は――。
予想外の姿でしたわ。
かつての誇りに満ちた王太子ではなく、頭を垂れ、謝罪の態度を示している。
「クラリッサ……」
アルベルトが、わたくしを見ました。
その目には、申し訳なさと、敬意が宿っていますわ。
「本当に……申し訳ない」
「申し訳ない……ですの?」
わたくしは、眉をひそめました。
「何が申し訳ないのですの、アルベルト」
「あの時、お前を婚約破棄し、追放を黙認したこと」
アルベルトが、ゆっくりと言いました。
「あれは……間違った判断だった」
「……」
わたくしは、黙ってアルベルトを見つめました。
「謝罪だけで、足りますの?」
「いや……」
アルベルトが、公式な文書を取り出しました。
「父上から、正式な謝罪状をお預けしています」
わたくしは、その手紙を受け取りました。
『クラリッサ・フォン・ヴァルシュタインへ
わが国が貴殿に対して行った婚約破棄と追放は極めて不当であり、その後の貴殿の業績を見ればその過ちは明らかである。
貴殿は追放された身でありながら、辺境の荒れ地を独立国家に変え市民から女王と讃えられるに至った。
かつてわが国が貴殿に加えた判断は、わが国の重大な損失であった。
よって、わが国は貴殿および《辺境自由連合》に対して謝罪を申し上げる。
貴殿が望むなら、婚約を復活させることも、侯爵の位階を与えることもいとわない。
しかし、最も重要なのは――貴殿の許しである。
国王 フェルディナンド三世』
わたくしは、その手紙を読み終わって、思わず笑ってしまいました。
「ふふふ……」
「クラリッサ?」
アルベルトが、心配そうに言いました。
「怒っているのか?」
「怒っている? いいえ、むしろ……」
わたくしは、紅茶を一口飲みました。
「何という皮肉でしょう」
「皮肉?」
「ええ。王国から追放されたわたくしが、今、王国に認められています」
わたくしは、アルベルトに真っすぐに目を向けました。
「それで、アルベルト。王国はわたくしに何をお望みですの?」
アルベルトが、深く息をつきました。
「《辺境自由連合》との正式な交易協定の締結」
「交易協定?」
「ああ」
アルベルトが、書類を広げました。
「《アーシェ・ブレンド》が王国で大流行してしまい、王国の高級茶の売上が激減している」
「あら」
「皆がクラリッサの紅茶ばかり飲むようになって、わが国の茶なんか誰も見向きもしない」
アルベルトが、頭をかき乱しました。
「父上も、貴族たちも、大激怒だ」
「そりは大変でしたわね」
わたくしは、少し笑いをこらえながら答えました。
「つまり、王国は、わたくしに助けを求めに来た、ということですの?」
「ああ」
アルベルトが、真っすぐにわたくしを見ました。
「クラリッサ、頼む。《辺境自由連合》と王国の間に、正式な交易協定を結んでくれないか?」
「それで、王国は何をお望みですの?」
「《アーシェ・ブレンド》の王国内での独占販売権」
アルベルトが、直球で言いました。
「王国内での販売を、王国商会に一任する代わりに、月に金貨五千枚を支払う」
「五千枚!?」
わたくしも、オズワルドさんも、グレゴールさんも、驚愕の声を上げました。
「そ、そんな大金が!?」
「ああ」
アルベルトが、ため息をつきました。
「実は、王国貴族の間で《アーシェ・ブレンド》をめぐる争奪戦が起きているんだ」
「争奪戦!?」
「ああ。皆が『自分の領地で独占販売したい』と言い張ってな」
「何という状況でしょう」
「だから、王国統一の政策として、《アーシェ・ブレンド》の販売を王国商会に一本化することにしたわけだ」
「なるほど……」
わたくしは、少し考えました。
月に金貨五千枚。
年間で金貨六万枚。
これは、わたくしたちの現在の国庫収入の数倍ですわ。
「ですが、条件がございますわ」
わたくしが言いました。
「条件?」
「ええ。王国が、かつてわたくしを追放した件について――正式な謝罪と補償をしていただきたいのですわ」
ぴぎぃぃぃ!
ピギィが、わたくしの側につきました。
アルベルトが、膝をついてわたくしを見上げました。
「クラリッサ、本当に申し訳ない」
「申し訳では足りませんわ」
わたくしは、冷徹に言いました。
「あの時、わたくしは何をしましたの?」
「何も……」
アルベルトが、苦しそうに言いました。
「お前は何もしていない。わたしが……わたしが弱かった」
「そう。あなたは弱かったのですわ」
わたくしが立ち上がり、窓の外を眺めました。
「王太子のあなたは、市民の非難を恐れ、わたくしを切り捨てた」
「……」
「けれども、今のわたくしは、独立国家の女王。わたくしを切り捨てた判断は、王国にとって大損失だったというわけですわね」
「ああ」
アルベルトが、頭を垂れたままです。
「でも、クラリッサ」
アルベルトが、ゆっくりと顔を上げました。
「わたしは、この数年間ずっとお前を思い出していた」
「思い出していた?」
「ああ。破滅した悪役令嬢として追放されたはずのお前が、今や独立国家を建国し、市民から女王と讃えられている」
アルベルトが、敬意を込めて言いました。
「わたしは……わたしは、その判断の誤りに、気づいた」
「……」
わたくしは、アルベルトの目を見つめました。
その目には、本当の悔恨が宿っていますわ。
「分かりましたわ」
わたくしが、ゆっくりと言いました。
「王国との交易協定は、お引き受けいたします」
「本当か!?」
「ただし、条件がございますわ」
「条件?」
「第一に、王国はわたくしに謝罪する。文書によって」
「ああ、それは既に――」
「第二に、王国は《辺境自由連合》を、正式な独立国家として認める」
「それは……」
アルベルトが、少し考えました。
「父上に相談する必要があるが、わたしから直訴する」
「第三に」
わたくしが、真摯に言いました。
「アルベルト、あなたとわたくしの関係について」
「関係……について?」
「ええ。婚約破棄は撤回されません」
「……」
アルベルトが、黙りました。
「わたくしは、もはや王国の王太妃になる女ではありませんの」
わたくしが、静かに言いました。
「わたくしは《辺境自由連合》の女王です。王国の従属的な地位には、戻りませんわ」
「ああ……」
アルベルトが、その言葉の重みを受け止めました。
「わかった。クラリッサの意思を尊重する」
「ですが」
わたくしが、微笑みました。
「かつての敵が、今や友好国となるのですわ。これ以上のことはあるでしょうか?」
ぴぎぃぃぃ!
ピギィが、跳ねて喜びます。
「では、アルベルト。王国との新しい関係構築のために、わたくしたちは力を合わせるということですわね」
「ああ」
アルベルトが、わたくしに深く一礼しました。
「クラリッサ、ありがとう。そして、申し訳なかった」
「前を向きなさい、アルベルト」
わたくしが、微笑みかけました。
「わたくしたちは、もう過去に縛られている者ではないのですわ」
─
その夜。
《ぷにぷに喫茶》で、小規模な晩餐が開かれました。
アルベルト王太子も、一緒にテーブルについています。
「この《ぷにぷに喫茶》は何だ?」
アルベルトが、周囲を見回りました。
「我が国の象徴ですわ」
わたくしが答えました。
「紅茶と、ピギィのいる場所。市民たちが心を休める場所」
ぴぎぃ!
ピギィが得意げに帽子を揺らします。
「へえ、そのスライムが有名な……」
アルベルトが、ピギィを見つめました。
「かわいいな」
ぷぎゃあああ!
ピギィが、小さな炎を吐き出しました。
「わああ!」
アルベルトが、椅子から転げ落ちました。
「スライムが炎を!?」
「ふふふ」
わたくしは、思わず笑ってしまいました。
「ピギィは、ただかわいいだけではございませんわ」
かぷぎぃぃぃ!
ピギィが、勝ち誇ったように鳴きます。
「ところで、クラリッサ様」
オズワルドさんが、書類を準備していました。
「交易協定について、正式な契約書を――」
「明日でよろしいですわ、オズワルド」
わたくしが、優雅に止めました。
「本日は、友好国との再会の夜です。契約は明日にいたしましょう」
「承知しました」
オズワルドさんが、書類をしまいました。
「では、乾杯といたしましょう」
わたくしが、カップを掲げました。
「王国との新しき関係構築に!」
「乾杯!」
ぴぎぃ!
アルベルト王太子も、紅茶のカップを掲げました。
「クラリッサ、本当にありがとう」
「ふふ、こちらこそですわ」
わたくしは、微笑みました。
「かつての敵と、友人になるというのは、何と素敵なことでしょう」
──こうして、王国と《辺境自由連合》の間に、新たな関係が築かれたのですわ。
破滅フラグを踏み抜いた元悪役令嬢が、かつて自分を追放した王国と、対等な立場で交易協定を結ぶ。
何という不思議な展開。
けれども、それがまた、人生という物語の素晴らしさなのですわ。
窓の外、夜空に輝く星々。
《茶の香る国》と王国との間に、新たな架け橋がかかりました。
紅茶と共に。 仲間たちと共に。 そして、かつての敵さえも味方にして――。
わたくしたちの国は、確実に歩を進めていくのですわ。




