82.反撃
精霊竪琴と心を通わせたリリスは混沌竜に立ち向かう。
リリスの足元から、淡い光の音階が立ち上がる。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ
それぞれが、彼女の感情と記憶を宿している。
「・・・すごい・・・止まら・・・ない・・・」
魔力が、枯れるどころか、溢れ続けている。
だが、制御できている。
壊れない。
飲み込まれない。
《・・・あなたは・・・もう・・・一人じゃない・・・》
エリオディアの弦が、リリスの呼吸に合わせて震える。
歌わなくても、音は生まれる。
だがリリスは、歌うことを選ぶ。
「・・・リリスの歌は・・・もう・・・奪うためじゃない・・・」
声が、戦場に響く。
それは命令でも、呪いでもない。
共に立つための歌。
混沌竜が、明確に反応する。
咆哮が、苛立ちを帯びる。
音の流れが、瘴気を押し返し、空間そのものを“澄ませていく”。
ライナが、その異変に気づく。
ルミナも、息を呑む。
リリスの背後で、七色の音翼が、静かに広がった。
精霊竪琴は告げる。
《・・・歌って・・・リリス・・・》
《・・・あなたの歩んだ全てが・・・力になる・・・》
そしてリリスは、新たな一歩を踏み出す。
それは、終わらせる音ではない
混沌竜が、再び翼を広げた瞬間だった。
瘴気が膨張し、街を呑み込もうとする“圧”が、地面を軋ませる。
王達が退いた聖場の方向へ混沌竜の視線が、確かに向いた。
「・・・来る・・・!」
ライナが歯を食いしばる。
ルミナが魔術障壁を展開しようとするが、間に合わない。
その時リリスが、静かに竪琴を抱き直した。
「・・・エリオディア・・・」
弦に、指を置く。
歌ではない。
旋律ですらない。
“呼吸と同じ速度の音”。
《七律停界・オルディナ・サイレンス》
七つの音階が、世界を“止める”。
爪弾かれた瞬間、音が広がるのではなく、世界の側が音に飲み込まれた。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ
七つの律が、空間に刻まれる。
混沌竜の動きが、ぴたりと止まる。
翼が、途中で凍りつく。
瘴気の奔流が、“流れようとしている形”のまま、宙に固定される。
咆哮すら、音にならない。
完全な静寂。
世界が、一拍、息を止めた。
《終奏・エリオディア》
リリスの声が、かすかに重なる。
「・・・まだ・・・終わらせないですぅ・・・」
精霊竪琴が、淡く震える。
これは、終奏と名がついてるが終わりの歌ではない。
倒すための旋律でもない。
“これ以上進むな”と願う音。
その願いが、混沌竜の本能に直接触れる。
混沌竜の瞳に、一瞬だけ、理解不能な感情が宿る。
恐怖でも、怒りでもない。
拒絶。
静寂に、亀裂が走る。
バキッ。
混沌竜の体表に、無数の黒い亀裂。
止められている。
だが、抑え込めてはいない。
『・・・小娘・・・』
混沌竜の声がリリスに聞こえる。
それはリリスもライナと同様に混沌竜と単体で渡り合えるレベルになった事を意味していた。
『・・・世界を・・・止める真似事など・・・』
混沌竜の身体が、軋みながら動き出す。
ゆっくりと、だが確実に。
七律の拘束が、一つずつ、破られていく。
「・・・っ・・・!」
リリスの膝が、わずかに折れる。
エリオディアが、必死に支える。
《・・・これ以上は・・・あなたが・・・壊れてしまう》
奥義は、一瞬しか持たない。
だがその一瞬で、街は救われた。
王達は、完全に退避した。
仲間達は、態勢を立て直した。
そして、ライナが、剣を握り直す。
「・・・十分だ・・・リリス・・・」
リリスが縛っていた混沌竜の拘束が、完全に砕け散る。
世界が、再び動き出す。
だがその時、誰もが確信していた。
今の一音がなければ、もう終わっていた。
リリスが作った時間の価値を、ライナが理解している
静止していた世界が大きな呼吸音と共に、動き出す。
七律の拘束が砕け散り、混沌竜の巨体が揺れる。
その衝撃が空気を震わせる刹那にライナは動いた。
剣を握りしめ、足裏で大地を踏み砕き、全身が最短距離の軌跡で前へ跳ぶ。
今、混沌竜は完全には動けない。
止められた時間と、解放の反動が、ほんの一瞬、隙を生んでいる。
その隙はもしかしたら0.3秒にも満たない。
だが、十分だ。
「リリス・・・ありがとう」
小さく呟いた言葉は、風にちぎれて消えた。
だが本人に届く必要はない。
理解し合えている。
これは、信頼で繋ぐ攻撃だ。
背中から、黒い霊気が噴き出す。
だが暴走ではない。
解放でもない。
制御し、調律し、削ぎ落とした“純度の高い力”。
全身がしなる。
思考も、視界も、心拍さえも、一撃のために集中していく。
全てが、線になった。
世界が追いつけない速度。
混沌竜の胸下、硬質化した鱗の間にある、“古い傷跡”を見つける。
遥か昔、太古の魔物である四種の竜が付けた傷跡。
そこへ、刃が届く。
「ッ!!」
金属が砕ける感触。
ライナは一瞬グラネシスが砕けたかと思ったが、砕けたのは混沌竜の鱗だ。
黒く鋭い破片が空中に散る。
硬い鎧を剥がす音が、弾けるように響いた。
混沌竜が低く唸る。
『小僧・・・!』
声が震えている。
痛み。
怒り。
そして驚愕。
本来の力を取り戻したはずの自分の体に傷をつけた。
その理解が、竜の巨躯を震わせる。
だがライナは止まらない。
剣を強く握り直し、抉り込むように力を込め、一歩、地面を踏み抜き・・・。
さらに深く、さらに鋭く、さらに速く。
「まだだ――ッッ!!」
肩甲、首、胸甲、下腹、急所ではない。
だが、混沌竜の核心へ通じる道を刻む。
鱗が砕け、黒い血が散り、空気が震え、
大地が裂ける。
世界が、ライナの軌跡を理解できない。
音速すら置き去りだ。
雨のように斬撃が降り注ぎ、鼓動の間に、十数回の刃が閃く。
混沌竜が、大きく揺れ動く。
『ぬ・・・ぐッ・・・!!』
その揺れ方は、たった今までとは違う。
混沌竜の巨体は大きく退いた。
隙がさらに生まれる。
ライナの一撃が、混沌竜の内部に届き始める。
混沌竜の片翼が大きく開かれた。
その瞬間、瘴気の風圧が爆ぜる。
反撃の兆し。
破滅の前兆。
ライナは、ほんの一瞬だけ理解する。
「ここで逃げなければ死ぬ」
だが逃げない。
代わりに剣を逆手に持ち替え、最後の一閃を叩き込む。
斬撃が、混沌竜の頸部に深く刻まれ、鮮血が噴き上がる。
混沌竜の咆哮が響く。
街が震える。
雲が裂ける。
ライナは後方へ跳び退いた。
呼吸が荒い。
視界が霞む。
腕が震えている。
だが、その目は迷っていない。
「・・・まだ・・・終わらせない」
その言葉は、リリスに向けられたものでも、
混沌竜に向けられたものでもない。
自分自身へ確かな誓いとして刻まれた。
深く刻んだ傷跡から、黒い霧が噴き出す。
混沌竜の巨躯が震え、低く唸り、次の瞬間、世界が軋む。
『全て消し去ってくれるわ!!』
空が震撼した。
耳が割れるような衝撃音。
大地がひっくり返るほどの余波。
街中心部から、さらに外周へ破壊が加速していく。
崩落した建物が雪崩のように崩れ、火柱が立ち上がり、地面が裂ける。
世界が終わる音だった。
ライナは、その中心に立っていた。
呼吸が浅い。
視界がぼやける。
脚が重い。
腕が痺れる。
そして胸の奥で、熱い痛みが脈打っていた。
「・・・ッく・・・そ・・・体が・・・」
一瞬だけ体勢が崩れた。
足元がふらつき、片膝が地に落ちる。
その動きを混沌竜が見逃すはずがない。
巨大な触手状の尾が、黒い炎をまといながら視界を覆う。
『終いだ!!虫ケラ!!』
振り下ろされた。
潰される、避けられない、もう動けない。
そんな未来だけが迫る。
だがその瞬間、爆ぜるような火炎が空を裂いた。
「間に合った」
赤い閃光の奔流が、尾撃を弾き飛ばす。
焼け焦げた空気が揺らぎ、炎の中から男が歩み出た。
カイルだった。
「あんたはこの戦いの最後の希望だ。倒れられちゃ困る」
その直後。
空を裂く風が吹く。
嵐が渦状に巻き起こる。
ふわりと舞い、風と共にフェリアが降り立った。
「ルミナから話は聞いてるよ。超強いんでしょ?」
カイルとフェリアは混沌竜を見る。
「逃げろ・・・。あんた達が敵う相手じゃない」
二人を止めようとするが体がいう事を聞かず後ろに倒れかけたところに誰かが支えてくれた。
「そんな事百も承知だ」
シリウスだった。
「シリウス・・・」
「随分無茶をしたな。ボロボロじゃないか」
ライナはシリウスに支えられながら立ち上がる。
「シリウスも逃げろ」
剣を構えるライナ。
「無理だな」
三人が、ライナを包囲するように立った。
混沌竜の視線が揺れる。
怒りと警戒が混ざり合う。
三人はライナの体に触れ、力を流し始めた。
「ライナ。お前に俺達の力を流し込む」
「大丈夫だ。あんたが俺達の力を全て受け取れる未来は見えてる」
「だから大船に乗ったつもりで素直に受け取ってよね」
フェリアがライナに向かってニコッと笑う。
三者が重なるように力を流し込むと、ライナの全身から黒い霧が散り、崩れかけていた精神が持ち直していく。
視界が広がる。
脚が地を踏む。
腕に熱が戻る。
「・・・ッ!ありがとう・・・!」
だがそれでも、敵は混沌竜。
まだ届かない。
轟音と共に、竜が再び身を起こす。
『消えろ。全て』
世界を呑む黒炎が溢れ出し、巨大な腕状の影が空を覆う。
その圧力の前にカイル達でさえ、揺らいだ。
「・・・化物め・・・!」
そこに、七色の輝きが走った。
音の奔流と光の軌跡が重なる。
リリスとルミナ。
二人は息を切らしながら駆け寄り、ライナの背に手を触れる。
ルミナは震えながら囁く。
それは祈りのような響き。
「あなたに全部を託す。私達はあなたを信じる」
リリスは力強く告げる。
「あんなやつちゃちゃっと倒すです!!」
二人の魔力が重なり、負傷だらけのライナの体に最後の力が注ぎ込まれる。
熱い。
苦しい。
痺れるほどの魔力が全身を流れる。
腕が震え、胸が脈打ち、魂が灼けるように燃え上がる。
だが折れない。
ライナは立ち上がる。
全身ボロボロのまま、だが誰よりも強く、剣を掲げて。
「・・・ああ。今度こそ終わらせる」
仲間全員が、その背中に視線を向けた。
混沌竜が、世界を砕かんと咆哮した。
黒炎と絶望が渦巻く中たった一人、ライナが前へ歩み出た。
未来を決める戦いが、ここから始まる。




