50.暴走
嵐のように渦巻く光と闇の奔流の中、ライナは立っていた。
その周囲に浮かび上がるのは、自身の「感情」。
怒りに燃える赤黒い炎。
迷いを象徴する深い霧。
恐れを映した黒い獣の影。
それらが次々とライナに牙を剥く。
『それらはお前自身の感情だ!恐れるな、拒むな!受け入れ、昇華しろ!』
グラウ=ネザルの声が轟く。
「・・・感情を、力に・・・?」
ライナは迫る炎を両手で掴み、剣に注ぎ込んだ。
刃が赤く灼け、熱気を帯びる。
迷いの霧は剣を鈍らせたが、ライナは目を閉じ、一歩踏み出してそれを貫いた。
獣の影が襲い掛かる瞬間、ライナは自らを信じて振り下ろす。
「うおおおおおおおっ!!!」
灼熱の刃が霧と獣を一閃し、感情の塊は光の粒子となって消えていった。
『・・・よくやった。今の一撃に、お前の“怒りと恐れと迷い”が昇華されていた。それが感情を武器とする第一歩だ』
グラウ=ネザルの声は珍しく賞賛を帯びていた。
だが次の瞬間・・・。
空間の奥に、奇妙な「扉」が現れた。
漆黒に縁取られ、中心には禍々しい文様が浮かぶ。
まるで呼びかけるように、低い唸り声が空間全体に響いた。
「・・・あれは?」
ライナが眉をひそめ、一歩踏み出す。
『行くな!お前にはまだ早い!そこは我の力が及ばぬ領域だ!』
グラウ=ネザルが珍しく慌てて声を荒げる。
『開けるな!お前の精神が飲み込まれる!!』
だがライナは扉から漏れる力に抗えなかった。
吸い寄せられるように手を伸ばし・・・。
ギィィィィ……ッ!
扉が軋む音を立てて開かれた瞬間、禍々しい影が奔流となってライナに襲いかかった。
「ぐっ・・・!?なんだ、これ・・・!!!」
影が渦を巻き、ライナを飲み込もうとする。
グラウ=ネザルが咆哮し、その身を横たえて庇うが、黒い奔流は龍の幻影すら貫いた。
『しまった・・・!人間、抗え!さもなくば、お前は・・・!』
だが、ライナの意識は暗闇に引きずり込まれていった。
宿の一室。
ベッドに横たわるライナの体が突然びくりと跳ねた。
苦しげに眉を寄せ、汗が滲み、口からは低いうめき声が漏れる。
「ライナ!?どうしたですか!」
ライナの様子を見にきたリリスが慌てて駆け寄る。
ライナの胸元が光り、神竜剣の紋様が浮かび上がる。
だがその光はいつもの白銀ではなく、禍々しい黒紫へと変じていた。
「どうなってるの!?魔力の流れがおかしい・・・!このままじゃ身体が持たない!」
そこにルミナも合流し即座に杖を構え、必死に魔力探査を試みる。
ライナの手足が震え、血管が黒く浮かび上がる。
その様子はまるで何かに体を侵食されているようだった。
「ライナ、しっかりしてです!くそっ、どうすればいいんですか!」
リリスは手を握りしめるが、彼の反応はない。
「・・・外から干渉はできない。ライナの精神世界で何かが起こってる・・・!」
ルミナの顔色も青ざめていた。
リリスはライナの頬を押さえ、必死に呼びかける。
「ライナ!ライナはこんなところで倒れるような男じゃないです!戻ってきて下さいです!」
だがライナの瞼は閉じたまま、体を黒い光が包み込んでいく。
その黒は、まるで彼を異形へと変貌させようとしているかのようだった。
暗闇のなかの扉は、意外に静かに開いた。
軋む音がひとつ、空間を裂いた瞬間、そこから滲むのは「音のない喪失」。言葉にも感情にもならない飢えだった。
血の匂いでも硫黄でもない、存在そのものを渇望する匂いが、ライナの胸の奥を凍らせる。
「行くな!」
グラウ=ネザルの声がいつになく鋭く響いた。だが、虚の扉の縁には彼の影の届かない領域がある。巨竜の咆哮はその縁で空回りし、竜の尾はただ風を切るだけだった。
扉の中から流れ出したのは黒い渦、触手にも似た影の奔流。
それは形を求めず、むしろ、形を奪う。触れたものの輪郭、声、記憶の端をひとつずつ削ぎ取っていく。ライナの足元から、彼の小さな幼い記憶までもが雪解けのように溶けていく感触。それが一番、恐ろしかった。
「ここは、我の力が及ばぬ域だ」
グラウ=ネザルは必死に制止を入れるが、ライナの手は震えながらも扉へと伸びる。吸引力は言葉にしがたい説得力を持ち、囁きは甘い。何も考えなくていい、痛みも後悔もあなたを縛らない、すべてを飲み込んで安らげるのだと。
中から、欠けた声が届いた。複数の声が重なり、ライナの耳元で過去のささやきを演じる。父母の嘲笑、師匠の遠い視線。錯綜する幻影が「お前の価値は消えろ」と囁きかける。意志は揺らぎ、足が砂のように沈み始める。
そのとき、現実の体が激しく痙攣する。宿舎の窓辺、眠りの中のライナの胸が乱れ、唇から嗚咽が漏れた。リリスは容赦なく叫んだ。
「ライナ、戻って来てです! 聞こえるですか! しっかりして下さいです!」
だが肉体だけの呼びかけは、精神の渦には届かない。ルミナは必死に杖で基礎の結界を張り、リリスは唇を震わせながら小さな子守歌を口ずさんだ。あの日、彼女が使った癒しの旋律の断片、それは肉体の命を繋ぎ止めるための糸に他ならない。二人は直接救えないことを知りながら、可能な限りの「引き止め」を現実側で続けた。
精神世界。
ライナは闇の渦に飲まれ、声が遠のくように自分を見下ろしていた。身体は動かず、剣は遠く小さく、世界は薄れていく。だが、その極限のその一点で、彼の胸に何かがこだました。
師匠の教えだ。荒い呼吸、剣を流す感覚、受け止めて返す訓練。シリウスが教えた「流れを読む目」。ルミナとリリスの笑顔。失いたくないという、あまりにも強い「守る」という意志。渦は記憶を喰らおうとするが、記憶が刃となって返ってくる。
「思い出せ。お前が守りたいものは何だ!」
グラウ=ネザルが、理不尽なほど低く、しかし確かに語りかける。竜の響きが、ライナの胸の中で残っていた小さな光の芯を揺らす。
ライナは、半分朦朧としたまま思いを一点に凝集した。
怒り・・・世界を理不尽に壊そうとするものへの憤り。
恐れ・・・仲間を失う恐怖。
迷い・・・剣を使うことへの逡巡。
だが今それらは散乱する瓦礫ではなく、一つの「槍」になった。彼はその槍の柄を両手で握り締めた。
「お前は、消すな!」
叫びと共に、彼の意思が刃になり、闇へと突き刺さる。白銀と蒼黒が渦巻き、記憶の断片が光の破片となって弾ける。闇は呻き、舌のような影が裂かれて退く。
しかし扉は一度開かれた宿命を免れず、闇の核は尚そこに蠢く。グラウ=ネザルは自らの一部を代価にして盾となる。
剣の中から、古竜の「糸」のようなものが伸び、ライナの胸に巻きついて力を引き戻す。だがその代償は大きかった。
剣の奥に宿る意志の一節が、静かに鈍るのをライナは感じる、助けはしたが、剣が少しだけ冷たくなった。
同時に、現実の宿舎では奇跡のような光景が起きていた。リリスの歌が、微かに細い金の糸となって空気を振るわせ、ライナの胸に届く。
ルミナは自分の魔力を限界まで絞り、肉体を守る結界をはり続ける。二人の必死の行為が、精神世界でのライナの一撃とシンクロし、黒い渦が苦鳴を上げて崩れ去ってゆく。
闇が引く。扉は怒鳴り声のように閉まりかけるが、完全には塞がらない。代わりに、そこに小さな「瘢痕」が残った。
虚の扉の欠片が、ライナの精神に張り付いたように、冷たい印として刻まれる。それは見る者には不可視、だが本人には刺に近い違和感を残す、夜、ふとした瞬間に囁きが聞こえるような痕だ。
現実に引き戻され、ライナの体は大きく痙攣したあと、荒い呼吸を繰り返しながら静かに落ち着いた。リリスは膝をついて嗚咽し、ルミナは震える手で額の汗を拭った。
生命徴候は戻っている。脈は遅いが確かに刻まれている。神竜剣の刃は以前より少し重く、剣の内部からは小さな、だが確かな疲労の低鳴りが聞こえた。
グラウ=ネザルの声が、剣の奥、ごく小声で、しかし確かに響いた。
『扉は閉じた。だが印は残る。愚かな人間よ、珍しく我が手を汚した故、我の一部が眠る。お前の魂の一部もそこで触れられた。忘れるな。それと一旦制御訓練は中止だ。今やればあの扉に今度こそ全て呑み込まれる』
ライナは深い眠りのまま微かに笑っているように見えた。夢の端で、守るべき顔が浮かび、安堵の吐息が漏れる。
リリスは優しく彼の手を取り、指を絡めて小さく呟く。
「戻ってきてくれて、よかったです・・・」
ルミナは静かに杖を胸に抱え、目をそらしながらも固く頷いた。
敗北の痛みと勝利の重さを同時に噛みしめること、それがこれからの自分の糧になると、彼女は胸に誓う。
しかし、誰も口にはしなかったが明らかだった。ライナの内側には扉の痕が残った。
いつか再び囁きが聞こえるかもしれない。
だが今は、目の前の仲間が生きている。足音が戻り、三人の旅はまた歩を進める。
まぶたの裏に、まだ暗闇の余韻が残っていた。
押し潰されるような重圧と、飲み込まれかけた虚無の冷たさ。
その全てが霧散していく中で、ライナは意識の端に光を感じた。小さな灯火が風に揺れながら、必死に呼びかけている。
それは、声ではなく温もり。誰かがそばで祈っている気配だった。
「・・・ん、ぐ・・・」
かすれた吐息が喉を震わせる。
乾いた唇がわずかに開き、視界がじわじわと明るさを取り戻す。
天井の模様、窓から差し込む光、そして、潤んだ瞳が飛び込んできた。
「ライナ!」
泣き声に近い叫びと同時に、リリスが彼に飛び込んだ。白い腕が震えながら首に回され、涙が彼の肩を濡らす。
ライナはまだ体に力が入らず、抱きしめられるままにされるしかなかった。
だが、その温もりが確かに「現実」に引き戻してくれる。
「よかった・・・本当に、よかったです・・・! もう・・・もう、死んじゃうかと思ったです・・・」
震える声に、ライナはゆっくりと瞬きをし、微笑みに近い表情を浮かべた。
「・・・ただいま、って言った方がいいのかな」
泣き笑いするリリスの声が部屋に広がる。
少し離れたところで、ルミナが杖を抱きしめたまま立っていた。彼女は涙を見せることはせず、ただ小さく肩を落とし、安堵の息を吐いた。
「・・・生きててよかった。ライナが倒れたら・・・私たち、どうしようもなかったから」
その声は珍しく柔らかく、いつもの反発や強がりは含まれていなかった。
ライナは二人の顔を見渡し、まだ少しぼんやりした頭で「守れた」という事実を噛みしめる。
そしてふと、自分の右手に違和感を覚えた。視線を落とすと、手の甲に黒い痣のような模様が刻まれていた。
細い線が絡まりあい、まるで扉の欠片が焼き付いたかのように。
「・・・やっぱり、残ったか」
ライナは低く呟き、その痣をじっと見つめた。恐怖よりも、決意の色が瞳に宿る。
「この力・・・必ず使いこなしてみせる。あんな闇に呑まれるだけじゃ終わらない。俺が・・・逆に呑み込んでやる」
リリスは泣きながら顔を上げ、心配そうにその痣を見つめる。
ルミナも眉をひそめるが、ライナの瞳の奥に燃える光に気づき、何も言わなかった。
命を賭けて掴んだ生還。その代償は痣という形で刻まれた。
だが、それは同時に「誓い」の印。ライナの心に、扉の向こうを越える決意が固く根を下ろした瞬間だった。




