42.一歩
リリスの喉から再び旋律が零れ始めた瞬間、空気がざわめき、耳を裂くかのような震動が広がった。
竪琴の弦は勝手に震え、黒い波動を撒き散らす。
その歌は、もはや大地そのものを呪い殺そうとする破滅の調べ。
ライナは膝をつきかけながらも、血に濡れた手で神竜剣を強く握りしめた。
「・・・まだ、終わらせない・・・!」
その瞬間、神竜剣の奥底から重々しい声が響く。
『我が器になる者よ・・・ここで死んでもらっては困る』
グラウ=ネザルの声。
普段は冷淡に拒絶する存在が、今はライナの意思に応えるように力を放ち始めていた。
剣身が黄金と蒼の光を纏い、竪琴の不吉な旋律を相殺するように振動する。
ライナはその共鳴を感じ取り、剣を構えた。
「行くぞ、グラネシス!」
『仕方ない。一時の共闘だ』
次の瞬間、ライナは疾風のように飛び込み、光刃を閃かせた。
剣から放たれる波動が音の刃を切り裂き、リリスの歌声を押し戻す。
「なっ・・・!?リリスの歌が・・・!」
リリスの旋律が途切れ、呪葬歌が寸断される。
そして反撃に出たライナは斬撃を飛ばしリリスに直撃し体を切り裂く。
リリスは体を後ろにのけ反り、しばらくその場から動かなかった。
リリスがライナの方に顔を向けた直後、その表情は驚愕を越え、怒りへと変わっていた。
「よくも・・・リリスの歌を、止めてくれましたねぇ・・・!」
リリスの瞳は狂気に揺れ、再び口を開いた。
だが、その瞬間。
彼女の喉が焼け付くように震え、身体が痙攣した。
「っ・・・!あ・・・ぁ・・・!」
リリスの白い指が竪琴を強く掴む。
黒い靄が彼女の体から溢れ、まるで歌そのものが彼女の肉体を蝕んでいるかのようだった。
それでもリリスは歌おうとした。
血を吐きながらも、震える声で旋律を紡ごうと喉を震わせる。
「やめろ、リリス!これ以上は・・・お前自身が・・・!」
ライナは叫び、必死に彼女へと駆け寄る。
「黙れッ!」
リリスの目は涙で濡れていた。怒りとも、苦痛ともつかぬ感情が入り混じる。
「敵に情けですかぁ?リリスは・・・歌うのです・・・!この声で、すべてを・・・滅ぼすまでぇぇぇ!!」
ライナは剣を構えながら、必死に彼女へ手を伸ばす。
『馬鹿者!!あの小娘の言う通り、敵に情けをかけるな!!討つ絶好の好機ではないか』
グラウ=ネザルがライナの行動を否定し、グラネシスで攻撃態勢に入る。
が、ライナは力を押さえ込む。
竪琴の弦が再び強く鳴り響く。
リリスの喉から、血に濡れた声が紡がれようとする。
しかし同時に、その声は苦悶の呻きに掻き消され、旋律は乱れていく。
リリスの唇から最後の旋律が紡がれた瞬間、世界そのものが沈黙した。
《呪葬歌〈ディル・カンティクス〉》死をもって奏でられる歌は、嵐のような魔力の奔流と化し、真正面からライナの身体を貫いた。
耳を劈く振動、全身を打ち砕く衝撃。
その光景を見て、リリスは息を荒げながら笑みを浮かべる。
「・・・ふふ・・・これで・・・終わりですぅ。お前も・・・他の人間たちと同じように・・・歌に沈む・・・」
しかし。
土煙が晴れた時、ライナは、まだ立っていた。
胸から腹にかけて深く抉られ、鮮血に染まりながらも。
その瞳だけは、かすかな炎を宿したまま。
「・・・う、そ・・・」
リリスの声が震える。
「不完全だったとはいえ、呪葬歌〈ディル・カンティクス〉をまともに受けたのに、どうして・・・立っていられるのです・・・?そんな身体で・・・!」
『この小僧・・・何故立っていられる!?あり得ぬ』
グラウ=ネザルも驚愕していた。
ライナは答えなかった。
ただ、片足を前へと踏み出す。
その動きは遅い。崩れ落ちそうで、倒れそうで、それでも確かに、彼は歩みを進めていた。
一歩。
また一歩。
「来るな・・・来るなぁ!」
リリスは後ずさり、竪琴を強く抱きしめる。
「リリスは勝ったのですぅ・・・!お前なんて・・・もう、死んでるはずなのに・・・!」
それでもライナは止まらない。
血を滴らせながら、ただ真っ直ぐにリリスだけを見つめて、彼女の前まで辿り着いた。
そして。
その腕が、ふらりと伸び。
「・・・っ!」
リリスは抵抗しようと竪琴を振りかざす。
だが、その前に、ライナは彼女を、そっと抱きしめた。
「え・・・?」
細い肩を包み込むように、優しく、強く。
傷だらけの腕の温もりが、リリスの震えを包む。
耳元で、掠れた声が響いた。
「・・・リリス・・・たとえ・・・攻撃手段だとしても・・・」
ライナの声は弱々しく、それでも真っ直ぐだった。
「大好きな歌を・・・歌ってるはずなのに・・・なんで・・・そんなに苦しそうなんだ?悲しそうなんだ・・・?」
リリスの瞳が大きく揺れる。
今まで誰も問わなかった言葉。
今まで誰も触れようとしなかった痛み。
「・・・リリスは・・・歌しか・・・歌だけが・・・存在する理由だから・・・!」
震える声で、リリスは答えた。
「奪われたら・・・消えてしまう・・・だから・・・苦しいの・・・だから・・・奪うの!」
ライナの意識は今にも途切れそうだった。
それでも、その腕の力だけは決して緩めなかった。
血に濡れ、倒れそうになりながら彼は、彼女を包み込んでいた。
「・・・歌は・・・奪うためじゃない・・・」
「誰かを・・・癒し、救うために・・・お前は歌ってたはずだ・・・」
その言葉に、リリスの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。




