123.魔王グラン・ディアヴォルス⑩
ライナは虚無感の中に違和感を感じていた。
静寂。
崩壊しかけた空間の中で、音は完全に死んでいた。
風もない。
瓦礫の転がる音すらない。
完全な“無”。
その中で――
「……」
ライナだけが、わずかに目を細める。
(……何だ……これ……)
分からない。
理屈も、理由も。
だが――
“聞こえる”。
ズン……
低く、重い何か。
まるで大地の奥から響くような振動。
それが――
目の前の魔王から発せられている。
「……ほう」
魔王グラン・ディアヴォルスが、ゆっくりと構える。
「来い」
その一言。
次の瞬間、空間が潰れる。
見えない圧が、一直線にライナへと叩きつけられる。
だが。
「……」
ライナは、わずかに身体を傾けるだけ。
踏み出すでもない。
跳ぶでもない。
ほんの数センチ。
それだけで。
――圧は、通り過ぎる。
「……何?」
魔王の眉が動く。
避けたのではない。
“当たらなかった”。
まるで最初からそこに無かったかのように。
「……」
魔王が、腕を振るう。
高速の一撃。
空間を裂く斬撃。
だが。
ヒュン……
その“音”が、ライナには聞こえていた。
鋭い、高音。
一直線に来る“線”。
「……そこ」
一歩、踏み込む。
斬撃の“外側”ではない。
“内側”へ。
最も安全な一点へ。
――スッ
かすりもしない。
完全に、外れる。
「……っ!」
魔王の瞳が鋭くなる。
連撃。
速度を上げる。
重さを増す。
圧と斬撃が重なり、空間そのものが暴力となる。
だが――
「……ズレてる」
ライナが、呟く。
攻撃の合間。
わずかな“間”。
ほんの一拍のズレ。
それが――
“聞こえる”。
トン……
踏み込む。
まるで音楽に合わせるように。
最小の動きで。
すべてを“すり抜ける”。
「……馬鹿な……!」
魔王が、初めて声を荒げる。
当たらない。
何度攻撃しても。
何一つ。
「……何をしている……!」
問い。
理解できない現象。
だがライナは答えない。
ただ。
静かに言う。
「……分からない」
本当に、分かっていない。
「でも……」
一歩。
踏み出す。
コツ……
本来なら聞こえないはずの足音が。
なぜか、確かに“響く”。
「……聞こえる」
その瞬間。
世界が、変わる。
魔王の動き。
魔力の流れ。
空間の歪み。
すべてが“音”になる。
ズン……ギィン……ヒュン……
重なり、交わり、流れる。
それはまるで――
一つの楽曲。
「……ならば!」
魔王が、両手を広げる。
黒い魔力が、渦巻く。
全方位攻撃。
逃げ場はない。
空間ごと押し潰す。
だが――
ライナは、動く。
トン……トン……トン……
刻むように。
音を踏むように。
そのすべてを、すり抜ける。
一切の無駄なく。
最短で。
最適で。
そして――
目の前。
懐へ。
「……っ!」
魔王が反応する。
だが、遅い。
ライナの剣が、動く。
振るうのではない。
“合わせる”。
音の“終わり”に。
ズレた一拍に。
――ザンッ
確かな手応え。
魔王の身体に、深く刻まれる一撃。
「……ぐっ……!」
後退。
明確なダメージ。
「……なるほど……」
魔王が、低く呟く。
理解し始める。
「視ているのではないな」
ライナは、答えない。
ただ――
ほんの一瞬。
空気が、揺れる。
「……♪……」
微かに。
本当に微かに。
リリスの旋律のような音が、響いた気がした。
ライナの動きが、さらに洗練される。
「……貴様」
魔王の目が、細まる。
「“それ”は……誰の力だ」
沈黙。
だが、その背中が答えていた。
借り物ではない。
奪ったものでもない。
残ったもの。
受け取ったもの。
「お前が一番分かってるんじゃないか?」
「……そうか」
魔王が、ゆっくりと構える。
今度は、完全に。
「ならば――その音ごと、叩き潰してやろう」
魔力が、膨れ上がる。
先ほどとは比較にならない。
世界を塗り潰すほどの力。
だが。
ライナは、止まらない。
「……」
一歩。
また一歩。
音を、踏む。
戦いは――
もはや剣ではない。
魔術でもない。
“音”と“破壊”のぶつかり合い。
そして今。
その均衡が――
静かに、崩れ始めていた。
崩れた空間の中で、二つの力がぶつかり続ける。
音なき戦場で、ただ一人“聴いている”ライナが、最小の動きで全てを捌き、確実に斬り込んでいく。
だが――
「……まだ足りん」
魔王の一撃が、重くなる。
先ほどまでとは明らかに違う。
対応し始めている。
音の“ズレ”を埋めるように、攻撃の精度が上がっていく。
「……っ」
ライナが、わずかに体勢を崩す。
完全ではない。
まだ、届ききっていない。
その光景を――
後方で、ルミナは見ていた。
「……っ……」
膝をついたまま。
魔力は、ほとんど残っていない。
呼吸も、荒い。
視界の端には――
静かに横たわるリリスの姿。
「……なんで……」
震える声。
「なんで……あんたばっかり……」
唇を噛む。
血の味が広がる。
「……最後まで……勝手なのよ……」
思い出す。
あの言葉。
『出来の悪い魔術師ですぅ』
「……ほんっと……ムカつく……」
涙が、こぼれる。
だが。
そのまま、俯いたままではいられなかった。
(……このまま終わったら……)
絶対に。
(絶対に……あいつに馬鹿にされる……!)
ギリッ、と歯を食いしばる。
顔を上げる。
その瞳に、もう迷いはない。
「……上等よ」
ゆっくりと、立ち上がる。
ふらつく足を、無理やり支える。
「音とか……分かんないわよ……」
正直な本音。
リリスのように奏でることはできない。
感じることも、理解することも。
「でも……」
杖を、強く握る。
その先に、魔力が集まり始める。
氷。
光。
そして――
微かに。
“揺らぎ”。
「……魔術なら、分かる」
空気が震える。
リリスの奏でていた“何か”。
それを、無理やり再現するように。
魔力の波を、組み替える。
「……こうでしょ……!」
パキン――
空間が、わずかに鳴る。
音ではない。
だが、確かに“何かが合った”。
「……ほぉ」
魔王の視線が、一瞬ルミナへ向く。
興味が、戻る。
だが、その一瞬。
「――そこ」
ライナが踏み込む。
ズレた一拍。
魔王の意識が逸れた、その“隙”。
――ザンッ!!
深く、斬り込む。
「……っ!」
魔王の身体が、揺れる。
明確なダメージ。
「……なるほど」
魔王が、低く呟く。
「”お前も”か」
視線が、二人を捉える。
「一人ではないな」
ルミナが、前に出る。
ライナの隣へ。
肩を並べる。
「……別に」
息を整えながら。
「合わせたわけじゃないわよ」
だが。
その足取りは、自然と“噛み合う”。
ライナが一歩踏み出す。
ルミナの魔術が、それに“重なる”。
ズレたリズムを、魔術で固定する。
空間を、縛る。
「……っ!」
魔王の動きが、一瞬止まる。
完全ではない。
だが、確かに“狂う”。
「今……!」
ルミナが叫ぶ。
ライナは答えない。
だが――
動く。
トン……
その一歩に、すべてを合わせる。
ルミナの魔術が、その軌道を補強する。
氷が、流れを固定し。
光が、逃げ道を塞ぐ。
そしてライナの一撃が、突き刺さる。
――ザンッ!!
「……ぐっ……!」
魔王が、後退する。
二歩。
三歩。
明確に、押されている。
「……はは……」
ルミナが、かすかに笑う。
「やれるじゃない……私」
その時――
ほんの一瞬。
「……♪」
どこからともなく、微かな旋律が重なる。
ルミナの魔術が、わずかに精度を増す。
「……今の……」
だが、考える暇はない。
目の前には、魔王。
ライナが、さらに踏み込む。
ルミナが、それに応じる。
二人の動きが、完全に噛み合う。
まるで最初からそうであったかのように。
魔王が、構える。
今度は、明確に。
「……面白い」
その口元に、笑みが浮かぶ。
「実に……面白い」
魔力が、さらに膨れ上がる。
だが。
今度は一方的ではない。
「……行くわよ」
ルミナが呟く。
ライナは、何も言わない。
ただ、一歩。
踏み出す。
その背中に――
もう一つ分の“意志”が、確かに重なっていた。




