第一話
――意識が浮上する。
仰向けに倒れていたらしい。冷たい風が頬を撫で、鼻をくすぐる青草の香りが広がっていた。
目を開けると、見知らぬ空があった。
澄み渡る青空。ゆっくりと流れる白い雲。
(……俺は、どこにいる?)
ゆっくりと体を起こす。
辺り一面、見渡す限りの草原だった。風にそよぐ草が波のように揺れている。
不思議なほど美しい光景。だが――違和感がある。
それは景色のせいではない。
――自分のことが、何も思い出せない。
「……俺は、誰だ?」
声に出しても、答えはない。
記憶がない。名前も、生い立ちも、何をしていたのかも――何も。
焦燥感がじわりと広がる。
ゆっくりと立ち上がり、自分の姿を確認する。
黒い革手袋に包まれた手。その指が握っていたのは、一振りの剣だった。
武骨な造りの片手剣。特別な装飾はないが、使い込まれた形跡がある。
(……俺は、剣を使う人間だったのか?)
何気なく剣を持ち直す。驚くほど、しっくりと手に馴染んだ。
まるで、ずっと使い続けてきたかのように。
その時――
ザザッ!
近くの草むらが激しく揺れた。
咄嗟にそちらを向く。
草の間から、赤い光がこちらを睨んでいた。
次の瞬間、黒い獣が草むらから飛び出してきた。
――狼。
いや、それとは微妙に違う。
黒く艶めく毛並み。ギラついた赤い瞳。
通常の狼よりも二回りほど大きく、筋肉質な体。
ルポルカニス。
(……知っている?)
なぜか、名が浮かんだ。
だが、考える暇はない。
ルポルカニスが喉を鳴らし、一瞬で飛びかかってきた。
(――くる!)
頭が勝手に動く。
ルポルカニスの爪が空を裂く――その直前に、体が反射的に動いた。
避ける。
それは、ほぼ無意識の動作だった。
だが、次の行動で足が止まる。
(攻撃……しないと?)
剣を構えたまま、動けなかった。
頭では分かっている。
目の前の獣は、俺を狩るつもりだ。倒さなければ、やられる。
だが――
(……本当に、殺さなきゃいけないのか?)
自分が何者か分からない。
何をしていたのかも分からない。
ならば、この剣を振るう資格があるのか?
ほんの一瞬の躊躇。
それが命取りになりかけた。
ルポルカニスが再び飛びかかる。
今度こそ、避けられない――そう思った瞬間。
ザシュッ!
鋭い音が響いた。
風を切る閃光が走る。
ルポルカニスの動きが止まった。
次の瞬間、短く悲鳴を上げ、光の粒子となって消滅する。
(……助けられた?)
「おい、大丈夫か?」
振り向くと、剣を携えた男がこちらを見下ろしていた。
装備は簡素だが、使い込まれた軽鎧。
戦い慣れしているのが分かる。
「お前、新人か?」
その言葉に、胸がざわついた。
「……分からない」
男が眉をひそめる。
「じゃあ聞くけど、お前、NPCか?それともAPCか?」
「……それも、分からない」
男は短く息を吐いた。
「マジかよ……とりあえず町に行け。ここから近いのは……リア・クレストだ」
指さされた方向を見る。
その瞬間、脳内に違和感が走った。
リア・クレスト。
どこかで、聞いたことがある。
――違う。
(……知っている?)
否。
ここはゲームの世界だ。