42.全ての種族
ゴボォ。
「‼︎おい!マジであの女沈んだのか⁈」
「知らねぇよ‼︎泳げねぇ生き物がおかしいだろ‼︎」
突如浮かび出した気泡を前に、エルフ達は青ざめた顔を見合わせる。
逃げ出した高級品の転移者が沈んだまま上がってこない。自分たちが沈めた当人であることは隠したまま大声で湖の周りまで駆けつけた仲間達へ窓から喚き散らす。
泳いでこっそり逃げようとしてるんじゃないかとも思ったが、高い位置から見下ろしている自分達の目にも沈んでいく狐の影はあっても、あがってくる気配は魚すらない。
女が落ちた、上がってこない、はやく追え!と上から怒鳴られたエルフ達も、最初は意味が分からず立ち尽くした。わざわざ濡れなくても、湖はどこにも繋がっていないのだから水上にあがってきたら捕えれば良いじゃないかと思う。まさか水中で息ができないどころか、泳ぐこともできない生き物を想定しない。
さっきまではなかった水面に、小さな気泡が次々と浮かんでき始めたところでやっと泳げない生き物の可能性が頭に過ぎった。湖の近くにいるエルフから次々と飛び込んだ。あまりに遅過ぎる救出活動だった。そして彼女にとって最後となる、一際大きな気泡が水面へ向けて上がり始めると同時に
光が、湧いた。
ブワァァアアアアアアアアアッッ!!!!!
湖一帯を埋め尽くす光が水中から柱のように溢れて消えた。
今にも飛び込もうとしていたエルフ達も慄きひっくり返った。
それまでは、湖の騒動に気付いてすらいなかったエルフ達も建物内にいた。侵入者に深傷を負わされたエルフも、スキルで動きを奪った侵入者に刃を突き立て、血の量や心臓の音だけでは安心できないと首を完全に落とすべく斧を繰り返し繰り返し振り降ろしていたエルフも、誰もがその夥しい規模の光は嫌でも目につき、振り返った。
─〝初めに神が朝と夜を欲した〟
何かの爆発か新たな敵襲かと考えられるものも限られるほどの光量を直視し、目が潰れ転がり回る者まで現れる。
水中で見てしまったエルフはあまりの光に一時的に視界が潰れ上も下もわからなくなりその場で停止した。陸の歩行と同じ感覚で泳ぎ、長時間水中にいることも苦ではないエルフ達にもできないことはある。仲間と会話することも、一瞬の光に目が潰されていれば意思疎通することも、耳も水中では拾える音が少なくなる。自分の立ち位置もわからなくなる中
ガブリ、と足が噛み付かれても正体がわからない。
「ッ⁈……‼︎」
魚か、罠か、挟まったか。ただ足の激痛はわかっても、悲鳴は泡で消える。目が潰れて機能しないまま足を必死にバタつかせても、同じように水中にいる仲間は気付けない。すると今度は別のエルフの腹が矢で貫かれた。
驚きと混乱で見えないまま手を振り回したが、当たらない。原因がわからないままに、痛みの根元に触れれば細い矢を掴めたが水中で抜くほど馬鹿ではない。水中を探るどころか、もう水上に上がることしか考えられなくなる。
一人、また一人と水中にいたエルフ達が負傷しては悶えるしかできない。どこが上か下かもリセットされたまま、ひたすらに目が慣れるのを待つ。
やっと目が機能してくる時には、もう一人として無傷のエルフはいなかった。そして、無完全な視界でエルフ達ややっと知る。自分達を襲ったのが魚でも鮫でも無機物でないことを
真っ赤に目を血走らせ、怒りのままに歯を剥く白狐だ。
あまりの殺気と、そして水中に人間がいることしか想定していなかったエルフ達は思わず叫ぼうとボコボコと大きく口から酸素を吐き出した。中には悲鳴をあげようとした者がいる。目の前でちょうど自分へ狐が牙を立てるところだった。
ガブリ、と腕が千切れんばかりに噛まれ、狐へ報復しようと向かおうとした仲間がボウガンの矢で貫かれる。既に狐自身を貫いた矢は他のエルフへ貫き返した後だった。
繰り返される狐の逆襲で、次第にうっすらとだが水面に泡だけでなく赤い染みが見えるようになってきた。しかし水面で思いとどまったエルフ達もまたそれに気付く者はなく、助けに飛び込むことはしない。
─〝光よあがれ、闇よ沈め〟
「 」
声ではないそれを合図に、また一瞬だけ激しい光が生じた。
一度目はまともに受けたエルフ達も、二度目はすかさず瞼を閉じて目を潰すことは避けた。
途端に今まで静かだった湖で水流が生まれたが、気づくのは湖にいる者のみだった。負傷した状態ではエルフ達もすぐには反応できず、流れに乗れば良いのか、逆向きに泳ぐべきなのかもわからず溺れないようにするのが精一杯だ。ただただ不自然な流れにかき混ぜられる中、湖のただ一箇所を水が避けていることにも気付く余裕はない。
攻撃側に転じた白狐だけが、その流れを受けながらバタバタと手足を自在に使い湖の中で唯一水のない不自然な空間へと飛び込んだ。
ぶはっと途端に空気にさらされ、久々に肺まで息を吸い込んだ。自分を待っていた女性を前に、ブルブルと濡れた毛を激しく振るう。「あー苦しかった‼︎」と叫び、今度はあんぐりと口を開けながら天を仰ぐ。
「すっげー‼︎ここだけ水が避ける‼︎ソー!お前なにやったんだよ⁈」
おおぉぉぉ、と声を漏らしながらルベンは目を輝かす。見上げた先には間違いない、何にも隔たれない剥き出しの空があった。
まるで自分達だけが透明の筒に守られてるかのように、水に触れない。ソーの周りだけが綺麗に丸く水にぽっかり穴を空けていた。そのことに、ルベンは迷いなくソーがやったことだとわかって投げかけた。
眷属である彼には、ソーが発したそれが音ではなくとも聞き取れていた。
「退けって言ったろ⁈あれ水のことだったんだろ⁈」
なぁ!と声を上げるルベンに、ソーは口を開かない。
代わりに首を傾げてみせ、仄かにだが笑った。あまりにもいつも通りなルベンに少しだけほっとさせられる。現実感に引き戻された。
しかし、それでも自分の内側大半を埋め尽くすそれは拭えない。唇を絞り、空を見上げて睨む。水中にはエルフ達、ルベンが負傷を与えてくれたが、ここからどう動くかを妙に冷たくなったままの頭で考える。
いつ、湖の空間に陸にいるエルフ達が気付くかもわからない。はやくその前にここから抜け出さないことには何も始まらない。
しかし実際は、その陸のエルフ達に気付く者はいなかった。血の汚れが水面に滲んでも気付かなかったのと同様に、湖の一箇所にぽこりと空いた穴にも突然生じた水流にも、誰も気付かない。
湖の目の前で尻餅をついたエルフも、塔の中から湖を見下ろしていたエルフ達も、時間が経過し潰れた目が機能を再開し視界が明滅からだんだんと正しく認識できるようになった後も尚。
突如として動き、暴れ出したサウロを前にそれどころではなかった。
「バケモノォ!!」
「嘘だろあいつどうやりゃあ死ぬんだよ⁈痺れ効いてねぇのか!!」
「心臓止まったんだぞ!!」
確認もした!とエルフ達が声を荒げる間にも、サウロの長い腕が振るわれる。
さっきまで蟻に制される蝉のように乗られ、足蹴にされ、解体されようとしていたのが嘘のように四肢に力も取り戻していた。
群がってくるエルフを構わず立ち上がり、素手でも事足りると言わんばかりに殴り、蹴り飛ばす。その騒ぎは地上にいるエルフ達にも届いていた。湖にかまっていられる状況ではない。
今度こそあの化け物の息の根を止めにと、視界が戻った者から再び塔へと駆け戻っていた。
床に転がるエルフを自身の体重をかけて踏み付けたところで、いつのまにか自分の背中にあった筈の物が部屋の隅に放り転がされていることに気付く。
サウロが動かなくなった時点で厄介な武器も没収したエルフ達だが、その重量に数人がかりでも窓の下へ捨てなかったことは間違いだった。
止めようとするエルフ達の妨害も攻撃も薙ぎ払い、サウロは自分の武器に駆け出し手を伸ばす。建物を両断する威力を持つ斧を振るうことにもう迷いはない。サウロの眼光が鋭く走った瞬間、止めることも諦めエルフ達は逃げ惑う。
斜めに振り下ろした斧がそのままに、また再び建物を低くした。
上階にいたエルフ達の命などもうどうでも良い。天井から斜めに滑り、ソー達を投げ出した窓とは反対側に崩れ落ちていった。
窓へ駆けずとも見通しが開け、強制的に最上階となった場所でサウロは窓のあった方向へ立ち尽くす。
あの時は仕方がなかったが、しかしこんな高さから落ちて彼女達は大丈夫だっただろうかと今更ながらに不安に駆られた。
すると、そこで遠目にも視力の良いサウロは違和感に気付く。何も変哲もない筈の湖にぽつりと妙な穴が空いていることに。
湖際に歩み寄り、膝をつき手をつき鼻を働かす。本当にうっすらとだが、馴染みの匂いを嗅ぎ取れた。
「ソー」
呟くその声に、ソーは答えない。
遠目にサウロらしき影を見つけたソーは、無事である様子にほっと息を吐いた。
何を言っても言葉を返さない彼女の瞳に鈍くそして暗雲を差していることに、ルベンは二度瞬きをする。
サウロ!と遅れて手を振り喜んだが、直後に彼もまた鋭い嗅覚でもう一つの匂いに気付く。クン、と鼻を振らし、囲う水の匂いに惑わされることなく別方向を指さした。何の気はない、ただ自分の恨む敵として覚えた匂いの持ち主にグルルッと牙を剥く。
「あのエルフ!!なんだよまだ生きてんじゃねーか!!」
ぴくっと肩を揺らした彼女も大きく振り返る。ルべンが示す先、湖の脇で今やっと気がついたように自分達を見下ろしているのはリーダー格のエルフだ。
湖の大穴に何が起こったかもわからず、せっかくの高級商品となる転移者を確保する為に降りてきたエルフが、止血した手を押さえながら今はもう近づこうとすら思わない。
狐のスキルか、それとも転移者のと考えてもどちらも納得いかない。ただ、巨大な湖全てが彼女達の味方についていると理解するだけで、驚異を覚えるには充分だった。
ルベンに見つかり、さらにはソーと目が合ってしまった瞬間喉を反らす。
苦渋に顔を歪め、食いしばる。数秒逸らせなかった目を意識的に逸らし、踵を返す。どういう理由であれ、理解不能の力を見せる相手と、さらには建物からは化け物エルフが息を吹き返した。彼女達が湖の大穴で立ち尽くしている間にと一人足早にその場を去っ
「 」
「ッ?!」
ピシリと、動きが止まる。背後で何かが瞬いたように思ってすぐだった。エルフの足が、踵を返した向きのまま固まった。
聞こえなかった筈なのに、足が一歩も進んでくれない。金縛りのように自分の意思でどうしようもなくなる。
誰か別に仲間か、スキルかと考え、自由な首だけを回したがそれらしい相手は見つからない。見捨てようとした自分を仲間が逃がすまいとスキルを使ったかとも考えたが、無条件に相手の動きを奪うスキルなど持っている者がいればとっくに有効活用している。
わけもわからず自由な手と首を動かし藻掻くエルフを遠目に、ルベンだけが現状の事実を断片的にだが把握した。
顔を青くして逃げようとしていたエルフが動きを止めたのは、ソーが呼びかけてからすぐだった。
逃げないで、と。
「 」
こっちに来て。……そう聞こえた、眷属だけが。
ソーにしては平たい、冷たい声にぞわりと薄くルベンの毛が逆立った。尖った耳を下げ、見上げたまま思わず貝のように口を閉じ喉を鳴らしてしまう。
ゴクリ、とその音をルベンが鳴らすと同時にエルフは宙に浮く。「う、ああ?!」と間抜けな声を漏らし、まるで見えない手につまみ上げられるように足下を失い一方向へと背中から吸い込まれていく。
空中から吸い込まれ、エルフは落下と呼べる速度と浮遊感に喉を限界まで張り上げた。落下死と溺死の二つが頭に過ったが、そのどちらにもなりはしない。
ドスンと、全身に広がる鈍痛だけで尻餅をつく。いてぇと包帯を巻いた手で押さえ摩り、絞った視界の先にここがどこかを理解する。さっきまで自分が見下ろしていた湖の大穴だ。
水が音を飲み込むように、妙な閉塞感と沈黙に飲まれながら口をぽかりと開けてしまう。
タン、とかすかな足音にも過敏に反応し、息も止めて振り返った。仲間が撃ち殺した筈の狐と、そして自分が売ろうとしていた女に今は己が見下ろされていた。
ヒッ、と。短い悲鳴が漏れた。
ここに巨大なエルフはいない。しかしそれでも、この異様な空間と自分の身に起きている事象のままにそれが彼女達と無関係だと思うほどエルフも呑気ではなかった。
整った顔を役立てる、今まで異種族に向けてきた愛想笑いを浮かべてみたがそれも酷く歪で引き攣った。ははっ……と背後に手を突き正面を彼女に向けるが、返ってくるのは虫を見る眼差しだけだった。
悪かった、もう手を引く、ちょっと軽い気持ちだったんだ、全部誤解で、本当に違うんだ。そう、まくし立てるエルフにも彼女は眉一つ動かさなかった。
初めて見る彼女の眼光に、ルベンはエルフへ牙を剥く気にもなれなくなった。それよりも彼女と、そして無様に地べたに崩れ両手を振り必死に機嫌を取ろうと見上げるエルフの姿に別の記憶が蘇る。
自分が彼女と出会って間もない頃、異世界人でこの世界のことをなにも知らない彼女が読んでいた、狐族でも知っている世界共通の伝承を。
─ そう唱えた瞬間から朝と夜が世界で生まれ、存在を許された〟
この世界の神が、言葉だけで全てを作り上げた天地創造の物語。
瞼も無くした目でルベンは思考する。考えるのも得意ではない彼が、今だけは本能的にわかってしまった。
さっきから、ソーが喋っている言語は一体〝誰〟のものなのか。
〝万族翻訳〟
『初めに神が朝と夜を欲した』
『光よあがれ、闇よ沈め』
『そう唱えた瞬間から朝と夜が世界で生まれ、存在を許された』
言葉一つで世界を創造する力を、彼女は宿し見下ろした。
今自分が最も憎くて憎くて仕方が無い、死んでほしい一匹を。
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