そして追いやられる。
「ッ?!吸うな!!!」
クン、と一瞬鼻を鳴らし掛けたルベンが短く叫んだのを最後に自分の鼻を両手で押さえ口を固く閉めた。
一番鼻が効くからこそ、遠くからうっすら香った段階で異変に気付き警告する。ルベンの叫びにソーもサウロも返事をするまでもなく息を止めた。
どこからのものかも判断できず階段を降りる足が遅くなれば、下の階から「もっと出せ!!」と怒鳴り声が聞こえてくる。
息を止めた上で自分の手でも鼻と口を摘まみ覆ったソーも、その怒声ははっきり聞き取れた。更にはうっすらと下の階から煙のように白く靄が掛かっている。
自分が嗅がされた薬か、それともまた誰かのスキルかと考えを巡らせるが今は確かめるすべはない。吸い込んだらどうなるものかもわからない以上、今危険なのは自分だということは理解する。息が一番続かないのだから。
下からの騒ぎ声に、このまま突破するかそれともとサウロも判断に悩む。
口を開けない分、ソーに意見も求められない。しかし自分よりもソーの方が呼吸の時間が持たないことは知っている以上、ここでのんびりはできない。
ルベンが風のスキルで周囲の空気ごと払おうとしたが、それでは足りないほど下から霧のように何かがもわもわと湧いてきていることに気がついた。下階のどこから続いているのかも自分達が今何階にいるかもわからない以上、これ以上霧の濃い場所へ潜るのはソーが持たない。
一瞬、構えていた斧に力がこもったが、そこで留まった。今この場で天井ごと切り捨てれば空気は確保できると思うが、それでは上階のエルフがまとめて死ぬことになる。サウロ自身はそれでも良いが、ついさっきソーが叫んでいた言葉を思い出せばここですぐに破るわけにもいかなかった。
階段を降りる足を止め、一つ上の階へ駆け戻ろうとすればエルフ達が武器を構えてなだれ込んできた。一先ず、足を止めた階の廊下へと走り抜ける。窓があればそこから空気も吸える。ある程度地上に近くなっていれば飛び降りるのもサウロは考えた、その時。
ガクン、と。急激に膝から下の力が抜けた。
「?!……」
膝の健でも切られたかのように自由が効かず、膝をついた振動がそのままソーとルベンにも伝わった。
固く口を閉じていた二人から声は漏れなかったが、目を限界まで開きサウロの足と顔を交互に見比べる。しかしサウロ自身も何が起きたのか分からない。
スキルかと、そう理解したのは白い霧が部屋全体ではなく自分達の足下に溜まっていることに気がついてからだった。
振り返れば、あれだけなだれ込んでいた追手も背後に続いてこない。ルベンが一度肩から降りようとしたが、サウロが斧を背中に仕舞いその手で押さえ止めた。膝をついた状態になった途端、今度は段々と膝から上も感覚が薄れてきていた。
自分の肩や胸の高さにいるルベンとソーが無事なのも、まだ霧に触れてないからだと思う。
ソーも下ろしてと言わんばかりに足をバタつかせたが、サウロは首を横にする。
ずるり、ずるりと。それから膝立ちの麻痺した足で引き摺るように窓を目指す。もうこの足で二人を無事に抱えて階段は降りられない。
少しでもサウロの荷を軽くしたい気持ちと、そして自分の足で走って窓で呼吸をしないと危うくなってきたソーがまた暴れるがサウロの腕の力の方がまだ強い。更には「降りては駄目だ」と、サウロが自分の息を犠牲にしてまで警告した途端もうソーは動けなくなった。ここでまた暴れてまたサウロの酸素を無駄に吐かせられない。
自分の口を両手で押さえながら、息を吸い上げたくて仕方なくぷるぷると肩から全身が細切れに震え出す。
「おい下っ端ァ!もう出てって良いか!!」
「誰が下っ端だ!!今降りたらテメェらも俺のスキルでくたばるぞ!!」
「慌てねぇでも触れるだけで半日は動けねぇんだ!!吸ったかどうかなんざ関係ねぇ!あのデカブツに止めを刺すぞ!!」
「女は死んでも逃がすな!狐は俺がぶち殺す!!!」
ずるり、ずるり、と身体を引き摺りサウロが進む中、ソーだけがエルフ達の会話を拾い取る。
痺れ薬の類いか、それとも毒なのかと。彼らの会話だけではそのスキルの脅威まではわからない。しかしこのままでは窓に辿りついてもそれでサウロの足は動けるようになるかわからない。自分より息を長く止められるサウロが被害に遭っているということは、触れるだけでも駄目なのかと遅れて気付く。サウロにもスキルの毒は有効だ。
せめて窓に、窓から外が近ければサウロを引っ張り出せるだろうかと考えるが向かう先の窓は身体の大きなサウロが潜れるほどの大きさではなかった。
それでも構わないようにずるりと進むサウロは、いつの間にか膝だけでなく片手も床に付き三本足で進んでいた。姿勢が低くなればなるほどに霧の影響も色濃く全身に行き渡る。
そしてそれは、同じく抱えられる位置が低くなるソー達も同様だった。
既にその霧が触れるだけでまずいものと理解したソーは、足先までピンと上げ上半身も必死に起こす。それでもさっきまでは感じないチクチクと痺れるような、擽ったいような痺れる感覚にぞわりと背筋が冷えた。
ずっと止めていた息も半分溢してしまう。触れるだけで痺れるその霧を、吸い込んだらどうなってしまうのか考えないように必死に思考から振り払う。ルベンがスキルを駆使し、これ以上自分達の方に入ってこないようにと階段の方へ空気を押し戻していなければとっくにサウロの足は止まっていた。
あと八歩、あと七歩と窓が近付く。
ルベンならばなんとか飛び移れる距離じゃないかとソーが目を向ければ、ふいに身体が少し持ち上げられた。サウロの片腕に抱き抱えられていたまま、胸よりも上の位置に上げられこれはルベンと同じように肩に乗れという意味だろうかとソーは考える。
息も限界に近いままサウロの首へ手を伸ばせば、ルベンもソーを持ち上げようと手を伸ばしその瞬間。
更に浮き、瞬きの間もなく放り投げられた。
「え!!!?!!」
目を剥き、直後には悲鳴を上げながら窓の向こうにいるサウロを凝視する。息が切れ、生理的に酸素を吸い上げることで悲鳴が強制的に止まる中、今度はルベンまで放り投げられるのを確かに見た。
サウロが窓の外へ投げたのだと、背中で空気を感じやっとわかった。
重力に従い下へと吸い込まれていく中、どういうことかまだわからない。しかし落下する直前、自分達を投げる為に身体を起こしていたサウロが窓の下へ崩れるのを見てしまった。……もう限界だったんだと、そう理解する。
背中から頭が下にと落ちながら、自分の状況よりもサウロがどうなるのかばかりに思考がめぐる。
あの霧がどういうものなのかもわからない。半日は動けない。吸ったらどうなるのか。もう一歩進むのもできなくて、自分達だけでも逃がそうと腕の力で投げ逃がしてくれた。それを反芻する余裕もない。
「ソー!!」とルベンの声に引かれれば、自分より上空から落ちていた。スキルを使いながら自分を追いかけるように落下を早め手を伸ばすルベンに、呆然と自分も手を伸ばす。
こうして落ちるのも初めてじゃないなと、どこか頭の冷たい部分が客観的に呟いた。ルベンの伸ばしてくれた手に指先が掛かるよりも先に、衝突に襲われる。
ざぶんっと、湖の水面に頭からぶつかり落下の速度は緩めながらも沈んだ。
外に放り出され呼吸が叶ったところでまた息ができなくなる。建物の周りが水で囲まれているとまだ知らなかったソーは、目を丸くしながら数秒はじっと動けなかった。息ができない、水だと危機的感覚にやっと脳が動いたところで見開いた目の先でルベンがバタバタと自分に手を伸ばしてくれていると認識する。
服が水分を重く吸い、自由に身体が動かない。湖の底に吸い込まれていく感覚に思考が白くなりかけながら、ソーは縋る想いでルベンにもう一度手を伸ばした。
今度こそソーの手を掴んだルベンは、握った感触を力を込め確かめながらそこで底に向けて風のスキルを使う。
水中に放たれた風が、ルベンとその手を握るソーを水上へ押しやった。足をバタつかせるだけでは到底叶わない速さで水面に上がる。
ぶはっ!!と、水上に顔を出したところで二人は大きく口を開き吸い上げた。
息を吸い上げ、また吐こうとしたらそこで沈みそうになりソーは混乱で手をルベンから放しかけた。「馬鹿!!」と怒鳴られ、ルベンの方が掴む形でなんとか水上に顔を出したまま留まる。
ルベンが泳ぎ、更に自分以外の重さ分も支えられるようにスキルを水中に向けながら溺れかけているソーが落ち着くまで待つ。
ゼェ、ハァッ、と息を切らせながら息苦しさと溺れかけた恐怖感に押され、状況の理解よりも前に涙が目に滲むソーがやっと自分からも水を蹴るように足をバタつかせる。ルベンを支えにバランスを取った。
「ルベッ……どッ、しよっ……サウロ!!サウロどうやって!!」
「知らねぇよそんなの!!!まずは俺達が逃げねぇとどうにもでならねぇだろ!!岸まで泳ぐことだけ考えろ!!」
水面より上に口と鼻を維持できても息絶え絶えにしか話せないソーに、ルベンが吠える。
ソーの手を掴みながら一番近い岸へと足をバタつかせ水を漕ぐ。サウロを助けたいのは同じだが、まずは自分達が助からないといけない。
湖の周りには他にもエルフの仲間がいるのも鼻で微かにわかった。
サウロが建物を破壊した騒ぎで、ただでさえ湖の周りにエルフ達が集まっている。全員が仲間なのか、それとも助けてくれるような一般人かなどルベンに見分けはつかない。自力で岸まで這い上がるしか確実に逃げる道はない。自分の手に掴まりながら、息を切らせる音に混じって嗚咽のような音も漏らすソーに今は怒鳴ることも振り返る余裕もない。
泳ぎも下手で呼吸も短いソーを速く岸に上げることだけを考えながら、必死に泳ぐルベンは弓矢で狙われているなど気付かなかった。
ヒュッ、と建物の窓から細く風を切り、エルフの弓矢が放たれる。
サウロという壁もない、自分達に背中を向け、お荷物を引きながらバシャバシャと水面を掻き泳ぐ白い狐など格好の的だった。
ソーの眼前で上空からの降ったと錯覚するように鋭い矢がルベンの背中へと打ち込まれた。「グァッ……」と微かに呻く音がルベンから溢れたが、それ以上声は出なかった。ぴたりと水を押していたスキルの風が止まってしまう。
さっきまで泣きじゃくっていたソーの方がルベンの手を引き彼の名を繰り返し呼びかける。
弓が貫通せず、半身近くルベンの毛皮の下に埋まり、周囲の水ごと毛を赤く染め上げた。自分でバタ足もできずに急激に動けなくなったルベンを、どういう体勢で守れば良いのかも水面で維持できるかも今のソーには考えられない。自分も水面を蹴るだけでじわじわ顎の先まで沈んでいくことにも気付かず、ルベンに突き刺さった矢が現実を受け止められない。
心臓に近い位置まで矢の先が届いたルベンは、スキルも止まってしまった。
「嘘うそうそ嘘うそ嘘うッぶぐぁっ……ぶッあ!るべッ……」
ルベンが早く返事をしないかと思いながら目が離せない。
さっきまで丸かった目が半開きに近くなり、口が中途半端に開いたまま長い舌が小さく溢れたルベンは、水に口がついても閉じることができなくなった。
ルベンだけでも水に浸からないように抱き上げて岸を目指す。……そんな簡単なことにも、今のソーは頭が回らない。
今も死んでいるんじゃないかと思うほど急激に力なくなったルベンを抱き締めながら、恐怖で水を蹴る足まで止まりかけた。スキルもない、ルベンの助けもないままに水を吸った服に再び水底へと引張られ始める。
ルベンだけでも息ができるようにさせたいのに、意思ばかりで具体的な行動にまで考えられない。生きてるのか死んでるのか助かるのかどうすれば良いのか自分の所為でと、意味もなくルベンを呼びながらとうとう仰向けにしたルベンより先に自分の顔が鼻の上まで浸かる。
岸まではまだ遠く、びしゃりびしゃりと必死に水を払おうにも両手はルベンを抱えて漕げない。矢に刺されたルベンから手を離すという選択自体思いつかずに沈み出す。
建物の窓から嘲笑っていたエルフ達までもこれには慌て出した。
まさか泳げないのか、このまま死ぬんじゃと人間を泳がせたことのない彼らはみるみるうちに顔を青くする。
味方のスキルでようやく動けなくなった侵入者の首を斧で切ったぞ死んだぞと燥いだ矢先のことだった。
泳いでソーだけ死ぬ前に回収しようと思ったが、彼らの位置からは水面も遠くとても飛び降りれる距離ではなかった。
どうすると悩んでいる間にも、小さな口沫を遺しながらソーは頭の先まで沈んでいく。それを追うように、肺に空気を溜めるほどの呼吸もできない狐も背中から沈んでいった。
つぷん、と。二人を飲み込むその音を拾える者はどこにもいなかった。




