そして連れて行かれる。
「おい!誰かこの泥棒狐ふん縛るの手伝ってくれ!」
……突然、だった。
何処からか男の人の荒い声がすると思えば、活気付いていた町並みが一気にざわついた。私も声に引っ張られるように振り返れば、裏路地から男の人にずるずると後ろ首を引っ張られるようにして白い物体が出された。
グルルッと唸り声を上げて牙を剥くそれを、私は良く知っている。さっき会った時の真っ白なモフモフが嘘のように泥に汚れた狐は、つり上がった眼を更に鋭くして自分を掴んだ男の人を睨んでいた。
その両手には抱え込むようにして中くらいのポーチらしき物がある。周りにいる人がそこに手を伸ばそうとすると、モフモフが大きな口をグァバと開けて威嚇していた。
その明らかな敵意と危険性に、体格の良い男の人達が次々と集まってくる。
「この狐が俺の財布を奪いやがったんだ‼︎」
「とうとうやったか⁈」
「おい狐!良いからそれ返せ!このままだとふん縛ることになるぞ⁈」
皆、モフモフのことは知っているのか怒鳴っている男の人以外は彼から穏便に財布を取り返そうとしている。
牙を剥いて、唸り声を上げる彼は威嚇し過ぎて口から涎を垂らしていた。さっきの案内してくれた彼とは別人だ。もしかしたら同じ種類の別人かと思ったら、次の瞬間に聞き覚えのある声が放たれる。
「ふざけんなよ‼︎どいつもこいつも数だけ揃えりゃあ良いと思いやがって!どーせ一人じゃ俺に敵わねぇからだろ⁈」
やっぱり彼だ。
グルルと唸り、財布を離そうとしない。私よりもずっと小さな身体なのに、大柄な男の人達が来ても全く折れない。その内、本当に噛み付きそうなモフモフに、男の人達が集まり過ぎてここからだと姿が見えなくなる。
「誰か縄を持ってこい」「自警団はまだか⁈」「口を押えろ!」という声が合わさってあまりにも穏やかじゃない。ヒヤヒヤしながら列が動いても私一人その場から動けない。
サンドラさんが何か言ってるけれど、今はあまりにも凄まじい怒鳴り声で身体が震えた。
「俺が拾ったんだから届けんのも俺だ‼︎お前らのせいで持ち主逃しちまったじゃねぇか‼︎鼻もきかねぇ猿族もどき!」
そして彼の方も口だけじゃ負けていない。
あまりの言葉の荒さに、本当に乱闘になりそうだった。だけど、彼の意見に誰も聞く耳を持たない。
そうこうしている内に、男の人達が次々と狐を捕まえる道具を店から取ってきてしまった。ちょっと流石にそれは無い。野生動物相手なら未だしも、話が通じる相手に多勢で無勢にもほどがある。
人権はどうなっているのか。大体、彼の意見をなんでそこまで聞かないの⁈どうみても人種が違うからとかで済まして良い問題じゃない。
「っ……」
縄を片手に駆けてくる男の人達よりも先にと、思い切って走り出す。
スカートが走りにくいけれど、構わず膝まで捲り上げて走った。これでも元陸上部だ。負けるものかと駆け込んで、彼らより先に声を張る。
「やめて下さい‼︎‼︎」
男の人達の低い怒声の中で、女性である私の高い声は予想外によく通った。
驚いたように目を丸くして、珍しいものを見るような視線を私へ向ける。初対面で尚且つこの世界では奇天烈な格好をしている私にドン引くのも当然だ。でも、お陰で注意が向いてくれるなら都合が良い。
彼らが膠着している間に私は一気に距離を詰め、男の人達の壁を素手で押し退ける。「失礼します」と言いながら、男の人達の隙間に無理矢理足を、腕を、身体をねじ込んで行く。目を丸くしたまま固まるおじさんを上目で睨み、満員電車の中を進む要領で搔きわける。
三、四人を押し退けたところで彼がいた。
歯を剥き出しにしたまま涎からは血が混じっていた。私が現れたことに鋭い眼を見開いて瞼をピクピク痙攣させている。男の人の一人に後ろ首を掴まれたまま、両手の財布を抱え込んで白い毛を逆立てていた。
小学生くらいの背しかない彼の隣で両膝を折り、並ぶ。後ろ首を掴む男の人の腕ごと彼を横から大柄の犬のように抱き締め引き寄せる。汚れた彼の白かった毛が顔にかかった。そうして男の人達に彼の弁護側だと見せつける。
「拾っただけだと言っているじゃありませんか‼︎何故そうまで聞いてあげないんですか⁈持ち主が違うとも言ってますし聞く価値くらいあると思います!」
私からも彼と同じように彼らを睨み付け、なるべく凄む。
今まで教授と進路指導課相手以外でこんなに怒鳴ったり睨んだことはなかったけれど、全員惑うように目を見開いた。
取りあえず逆上して殴りかかってくる人がいないことに心の中で安堵する。前に出てはみたものの私じゃ彼ら一人にだって勝てない。
それでもモフモフをしっかり抱き締めて、せめて彼が猛獣みたいに捕まえられることだけは防ぐ。さっきまで呻り声を上げていたモフモフも今は大人しい。釣り上がった目を丸くして顔ごと向けて私を見ている。もしかして人間なんて同じ顔に見えるからもう覚えていないのかも。
でも、見かけ的には鼻が利きそうだし匂いとかでわかりそうなものなのだけれど。
そう思いながら今度は彼の後ろ首を掴んでいる男の人を振り返り、睨み付ける。
殴りたそうに拳を握っていたけれど、震わすだけで振り下ろされない。周りをチラチラ気にしているのを見ると、もしかして人前で女性を殴るのを躊躇っているのかもしれない。今更ながら女で良かったと思う。
すると、男の人が喉を震わせてから絞り出すように「何を……」と低めた声で私に投げかけた。
「何言ってやがる嬢ちゃん。こいつは俺の財布を盗んだんだ。拾ったわけがねぇだろ……」
「でも彼はそう言ってます!他に目撃した人がいないなら条件は一緒じゃないですか!」
口論にも討論会にも慣れている。伊達に何年も進路のことで先生や教授と喧嘩はしていない。
人目を気にしてか、言葉を選ぶように並べる男に私から正論で噛みつく。モフモフを抱き締めたまま睨むと「何言ってやがる」と男は気味が悪そうに喉を反らした。
周りの男の人達も頭が冷えたのか、半歩ほど私達から距離を置いた。自分でもなんだけれど、こんな見ず知らずの訳分からない小娘相手に皆が皆大人しく言い負かされるなんて、この世界の男の人は気が弱いんじゃないかと思う。
今の状態を守ろうと、私は抱き締めた腕を片方だけ緩めてモフモフの後ろ首を掴んでいる男の腕をペシリと叩く。
「離してあげて下さい!」と言えば、また言っている途中で彼の手が引っ込んだ。軽く叩いただけでこの反応とか弱すぎる。
後ろ首を捕まれた状態から解放されたモフモフは逃げようとしたのか、突然暴れ出したけれど抱き締めた腕で今度は私が掴まえる。ちょっと待って!と声を上げて引き留めるけれど、今度は彼が全く聞く耳を持たない。
「離せよ!なんだよお前もどうせ財布目当てなんだろ?!」
「違う!でもここで貴方が逃げたら本当に犯人にされちゃうでしょ⁈ちゃんとこの人達と話さないと!」
ここまで来て私まで財布狙いだと思われている。
否定をしながら彼をがっしり捕まえる。意外と力が強く、全体重を掛けても引きずられかけた。話を聞いて!と訴えても彼は全く聞いてくれない。
でも、手加減はしてくれているのかさっきみたいに噛み付こうとか歯を剥いたりはしなかった。
更には彼が暴れ出しても周りの人達は誰一人として騒ぎ出す人はいない。彼を押さえつけようと手を伸ばすこともなければ、私を引きはがそうともしない。
ただ、そうしている間にも小さな身体もモフモフに私の方がズリズリと引きずられ出す。
「は~な~せ~よ!絶っっ対渡さねぇからな!」
「じゃあせめて中身を見せてよ!貴方が拾ったっていう証拠はないの?!」
完全に犬ぞりになったように引きずられる。本当に犯人にされちゃうのに!
ここまで中身を頑なに見せようとしないということは、本当に彼が盗んだのだろうか。ぷんすか怒りながらもその場を去ろうとする彼にそれでも私は齧り付く。すると
「ねぇ……貴方何やってんの??」
何とも言えない声が、突然私の耳に届いた。
男の人達が全員棒立ちの地蔵になっている中、今度は女の人の声だ。しかも聞き覚えのある声に顔を上げれば、サンドラさんだった。男の人達の背中から顔を覗かして私も見ている。何とも信じられないといった表情だ。目を大きく丸くして、口端が片方引きつっている。
サンドラさんに気づいた男の人達が無言で道を次々と空けていく中、私は助けを求める。
「サンドラさん!この子の話聞いてあげて欲しいんです!財布を届けようとしているだけですし、まずは冷静に話し合って……」
「いや……それは無理でしょ」
あっさりと断られる。
なんで?優しい姉御のサンドラさんなら協力してくれると思っていた分、ショックが大きい。サンドラさんに同意するように男の人達も勢いよく首を縦に振っている。
話し合いすらして貰えず犯人扱いなんで、皆あまりにもモフモフに対して理不尽過ぎる。
さっきもモフモフに対してサンドラさん割とドライだったし、まさかここって人外は差別とか疎外されている世界とかなのだろうか。さっきサンドラさん奴隷とか不審なワード話していたし!どうしよう、あまりにも物騒な世界に来てしまっ
「何言っているかわからない奴にどうやって話聞くっていうの……」
え?それは、どういう……
モフモフの言っていることが支離滅裂ということだろうか。でも、私が聞く限りちゃんとそれなりに話は通っている筈なのに。
サンドラさんの言葉にそう思っていると、モフモフがまた再び私を引きずり出した。同時に舌打ちまで聞こえてきて、凄い不満が毛皮を通して伝わってくる。
さっきと方向を変えた様子のモフモフは、真っ直ぐにサンドラさんの方に向かっていった。周りの男の人達が気がついたようにサンドラさんを守ろうと前に再び出るけれど、サンドラさん自身が断ってもっと前に出た。腕を組み、顎を上げて見下ろすように睨むサンドラさんが少し怖い。
三秒ほど怖い沈黙が流れて、思わず私の方が二人から目を逸らしてしまう。
モフモフはおもむろにさっきまで必死に抱えていた財布を、サンドラさんへと手渡した。
さっきまで死に物狂いで抱えていたのにどうしてなのか。サンドラさんも少し驚いたらしく、一拍ほど固まった後に無言で受け取った。「これ?」と盗まれていたと主張していた男に投げかけると「おお!それです!」と声が返ってきた。
「それです!私のです!いや~助かった。ありがとうございます」
さっきの乱暴口調が嘘のように丁寧に下手に出る男をサンドラさんは一瞥する。
軽く財布を掲げ、次に私達の方に目を向けてくれば、モフモフが空になった手をサンドラさんにまた伸ばした。
「金」
「⁈ちょっと!こんなところでお金請求しないでよ‼︎」
状況を全く理解していないのか意味のわからない行動のモフモフに、思わず私は全力で突っ込む。
でも、モフモフは私の声が聞こえないように無視をしてサンドラさんに手を伸ばしたままだった。肉球のついた手のひらをサンドラさんは眺めると、またジーンズのポケットの中を探り出した。そこからクシャクシャのお札を三枚ほど出すと、モフモフの手に乗せる。
するとモフモフへまた暢気にその場でお金を確かめ出す。どんだけお金大好きなの。
「ま。今日はこれだけでいっか」
「!待って!まだ疑いは晴れてないでしょ⁈」
勝手に自己完結しようとするモフモフを私は抱き締めたまま、ぐいっと引き寄せる。状況分かってる⁈と言ったけど、やっぱり無視される。
モフモフはまぁまぁ満足げにお札を下げていた鞄の中にいれてしまった。
私の困惑も置いたまま、サンドラさんは持ち主だと自称する男に目を向ける。片手につまんだ財布を揺らしながら「本当にアンタの?」と尋ねれば「勿論です!」と高らかに男は声を上げた。
「その娘は頭がおかしいんですよ。私は狐に財布を奪われて困っていただけで」
「じゃあ中身言ってみ。金以外に何が入ってる?」
サンドラさんの試すような声に、男がぴたりと口を閉ざした。
作り笑いが固まって、近くで見ると夥しい汗を湿らしているのがわかる。
お金の他に中身がわからないということは持ち主ではない証拠だ。あまりにもあっさりと嘘がバレた男は溜めるような声で「ど忘れを」と言い出した。
「じゃあこの子が言っていることの方が信憑性が高いわね。狐が拾ってアンタが盗もうとしたということになる」
「なっ!何言ってんだそんな訳ねぇだろ!!こんな頭のおかしい女の言うことが正しいと思うのか?」
立場悪くなった途端に言葉遣いをころころ変える人に言われたくない。
不満を目だけに込めて、私を指す男をこちらからも上目で睨み返す。その間にもモフモフはその場から帰ろうとまた私を引きずり歩き出した。サンドラさんの話を聞きながら、私は頑張って踵で地面に噛み付いて彼を引き留める。
男が必死に自分の財布だと主張するけど、サンドラさんは目の前で揺らすだけで渡さそうとしない。段々と気怠そうに話を聞きながら「ていうかコレさぁー」と話し出
「動物の言葉なんざわかるわけねぇだろ⁈‼︎」
怒声がサンドラさんの言葉を思いっきり遮った。
……動物、って。
あまりの男の貶し言葉に私は眉を寄せる。モフモフもこんな酷いこと言われてよく言い返さないなと思う。私だったら「人間も動物だろ」の一言くらい言い返してやるのに。
やはり差別の激しい世界なのか。確かにモフモフは八割狐だけど、二足歩行で歩いているし考える頭もある。お金の概念もあるし、何より彼とは言葉だって通じ……、…………え?
……今、わかるわけないって言った?この人。
「まぁそこは私も同意だけどね。でも。本人がわかるって言っているならそうなんでしょ?それに」
「ふざけんな!なんで町長の娘がそこまで肩を持ちやがる⁈」
淡々とサンドラさんが男と会話を勧める。……てか待って。言葉わからないって何言ってるの?この子、さっきから普通に喋っているよね?
「ねぇ貴方。……あー、ごめんそういやぁ名前なんだっけ?」
聞くの忘れてたわ、とサンドラさんが思い出したように言う。そういえば自分の名前は名乗っていなかった。
私から「奏です」と返すと、サンドラさんは改めて言い直す。
「ソー。その狐、本当にこの財布拾ったって言ってたの?」
「ええ、……はい。さっきからずっと自分が拾ったからお礼も自分が貰うんだって……」
皆さんも聞いていましたよね?と確認するように見回すけれど、誰も頷いてくれない。それどころか無言で思い切り首を横に振られた。
今更になってじわじわと彼らが私の発言に対してすぐに黙りこくった理由に気付く。あれは私に怖じ気づいたわけでも論破された訳でもない。意味の分からない発言をする私に戸惑っていたんだ。
そこまでわかってから、もう一度モフモフを見る。私とサンドラさん達が話している間も全く会話に興味なさそうで、ずるずると私ごと身体を引き摺って帰ろうとしている。
「ねぇ、貴方もさっきから私達の話す言葉わかってるでしょ……?」
問い掛けてみるけど、答えない。
私の言っている言葉が理解できていないのか、それとも単純に無視をしているのか。「ねぇ」と強めにもう一度聞いたけれどやっぱり答えてくれない。
段々周りの人達の雲行きが怪しくなる。モフモフではなく、私を頭のおかしな人として警戒する眼差しだ。胸が痛い。
《スキル発動。オートモード〝同族〟言語から覚醒。変換翻訳を可能にします》
「ちょっと無視しないでよ!ねぇ、財布拾ったのよね?もう一回言ってみて!」
モフモフは答えない。
ずるずるととうとう男の人達を掻き分けて去って行こうとする。これじゃあ私が一人で相撲取ったみたいだ。
財布男も「ほら見ろコイツがおかしい!」と喜々として声を荒げ出す。サンドラさんは何も言わないけれど、明らかに私が不利だ。どうしよう、モフモフはお金貰えて良いのかもしれないけれど誤解は全然解けてない。
《スキル〝万族翻訳〟を開放します》
お願いだからまだ行かないで!と私はこのまま去っていこうとする彼に、無視をできないくらいの大声でもう一度喉を張る。
「『貴方は財布を拾っただけでしょ⁈』」
そう、叫んだ瞬間。モフモフが目に見えてビクッと身体を震わせ、振り返った。
耳が良いだろう彼に大声で叫び過ぎたかなと、あまりの彼の反応に口を思わず閉じる。
……あれ?今、私なんか変な発音をした⁇
ここに来て初めて自分でも違和感に気付き、片手で口を押さえる。
モフモフだけじゃなく周りの人達までざわつき始めた。なんだ、おい、今の、なんて言った?人間だよな?と口々に囁き合っては不気味なものを見る目を私に向ける。
自分でも今話した言葉の発音が信じられなくて口の中で舌を回した。さっきまで普通に話していたつもりなのに。なんか、日本語を話していたつもりなのに急に英語を話してしまったような感覚だ。
モフモフが釣り上がった目を見開いて、足を止める。私を見る目が警戒にも近い。
私は口から手を離し、一言ずつもう一度口にしてみる。
「『貴方は』」
また、周囲が息を引く。
モフモフが尖った耳をピンッと立てた。やっぱり今度こそ言葉が伝わっている。
「『財布を』」
こんな言葉いつ勉強したっけ。
でも、今私は間違いなくこの子の言語を理解している。普通に英語を聞いて、話しているような感覚で彼の言葉もわかるし、どの言葉がどういう意味かもわかる。
まるで今まで覚えてきた十カ国語の内の単なる一言語のようだった。
「『拾っただけでしょう?』」
まるで、当然のようにわかる。
この子が話した言葉を、意味を、当たり前みたいに。
今度こそ、発した言葉にモフモフは静かに頷いた。瞬きもしない目で信じられないように私を見る。そして僅かに開いた口でゆっくりと言葉を捏ねた。
「なんで、人間が獣人の言葉話せるんだよ……?」
恐々とした声は、どこか怯えているようだった。
……どうして、さっきまで気づかなかったのだろう。
まるで突然スイッチが切り替わったかのように、今までの不自然に気がつく。
あの森で彼に会った時から、確かに彼は私達と違う言語を喋っていた。なのに、当然のように彼の言葉の意味もニュアンスもわかってしまった。
英語しか話せない人に日本語でずっと話しかけていたのだから理解されないのは当然だ。
しかも、私はここに来てから、……異世界に来てからずっと日本語すら話していない。サンドラさん達と話していた言葉も、見せて貰った職業案内の書類も。店の看板も全て前の世界にはない言語だったし文字だった。なのに全部当然のように読めたし、聞き取れたし理解できたし話せた。
同じ人間だからだろうか?いやでもそれじゃあ今モフモフの言葉が話せた理由にも当然のように聞き取れた理由にもならない!
え、なにこれどうなってんの⁈異世界の言語がどれも今まで覚えてきた言語と同じようにわかる!!
驚きで私自身開いた口が塞がらない。
突然黙りこくったことで逆に気になったのか、モフモフは止めた足で踵を返して私に身体ごと向き直った。少し土色に汚れた大きな尻尾を一振りしてから腕を組む。
「……財布は、拾った。朱色の服を着た婆さんが落としたんだ。拾って届けに行こうとしたらそこの男が奪おうとしてぎゃあぎゃあ騒いでここまで引き摺られた」
突然私の質問に淡々と答えてくれたモフモフはそう言って目だけで男を睨んだ。
今までは言葉が通じなかったから答えてくれなかったらしい。そしてやっぱりこの男の人の財布じゃない。
私も一緒に男の人を睨んだ後、サンドラさんに目を向ける。目を丸くしたまま財布を持っていない方の手で首の後ろを摩ったサンドラさんは、私と目が合うと丸くなった背中を伸ばした。
「サンドラさん。やっぱり、この子は財布を拾ったと言っています。朱色の服を着たお婆さんが持ち主だそうです。届けようとしたらこの人が奪おうとしたらしいです。」
犯人はお前だという意思を込めて、男を指す。その途端、肩を上下させた男が「ハッタリだ!」と叫んだ。
でもサンドラさんは全く男の方を信用しないようにじっとりと湿った眼差しを向けたままだ。財布を手の中でくるくると遊ばせながら、ふーんとどうでも良さそうに男の話を聞く。
どう言ってもサンドラさんの柳に風な返答に、男が顔を真っ赤にして震え始める。耳まで鬼の子のように燃やして、歯を剥き出しにしてまた怒鳴る。ふざけるな!と唾を飛ばして声を荒げる男にサンドラさんは
「ていうかこれ、私の婆ちゃんの財布なんだけど」
……え。
あまりの衝撃的事実にポカンとする。
男も流石にそれは予想外だったらしく、怒鳴った口のまま顎が落ちた。周りからもざわりと響めきが起こり、あれだけ集まってきていた男の人達が早足で距離を取り出した。片腕で抱き締めたままのモフモフがその様子に「なんだこれ」と疑問を溢した。
彼からすれば男女が言い合って急に人が引いていったから不思議なのだろう。
「『……あの財布、サンドラさんのお婆ちゃんの財布だったみたい……』」
「サンドラって誰」
貴方が渡した相手でしょうが!と思ったけれど、自分で喋って見ても固有名詞すら発音が獣人だと全然違うと気づく。人名まで違っちゃうとなると、本当に聞くだけじゃ意味不明だ。
完全に泥棒確定された男が、一気に滝のような汗を額から湿らせて首元の服まで濡らした。震える足で後ずさりするけれど、大股で簡単にサンドラさんが距離を詰める。
タンッと軽く地面を靴が鳴らしただけで男の喉がヒィッと鳴いた。
「さっきから言おうとする度にアンタが遮るしさー。今日婆ちゃん朱色の服着てたしやっぱ間違いないわ。狐がそこまで知って返してくれたかどうかはわかんないけど」
そう言いながらチラリとモフモフに目だけで振り返る。私から「彼女のお婆ちゃんが持ち主だと知ってた?」とモフモフに尋ねてみると首を横に振られた。
じゃあなんでサンドラさんに財布を渡したのか。私からも正直に「知らなかったそうです」と返せば、サンドラさんが男の方を向いた。へー、と呟きながら財布を自分のジンズの隙間に挟む。
「その狐さー、落とし主わかんなかったら私のところに持ってくるのよね。代わりに駄賃せびってくるけど」
なるほど。サンドラさんの言葉にやっと納得する。
つまりサンドラさんはこっちの世界での交番とかお巡りさんみたいな感覚なのだろうか。……お巡りさん達は落とし物拾ってもお駄賃くれないけれど。
でもモフモフが突然サンドラさんに財布を手渡した理由はやっとわかった。届けようとしたお婆さんを見失ったから、諦めてサンドラさんに任せることにしたんだ。
ついさっきまで自分が届けるってあそこまで意気込んでいたのに切り替え早いなとは思ったけれど。
「アンタさー、この町で落とし物強盗とか馬鹿でしょ?」
平坦な声が妙にドスが利いていた。
男の人が言い訳を探そうとサンドラさんに目を泳がせながら喉を逸らした瞬間。空気を振動させるほどの凄まじい殴打音が耳を震わせた。
何とか目で捉えられたのは、高々と上げられたサンドラさんの長い足と、顔面から勢いのままものの見事に吹っ飛ぶ男の残像だった。
なんかどの言語にもあり得ない謎の叫び声を上げて数メートル吹き飛んだ男は、その後も地面にゴロゴロと跳ねて転がった。土埃を上げて転がった身体が、その後は遠目からでも分かるくらいピクピク痙攣してそれ以上は立ち上がらなかった。
圧倒的な脚技を見せたサンドラさんに惚れ惚れしながら、私はさっきスキルを説明してくれた時に自分のスキルが〝格闘〟スキルだと紹介してくれていたのを思い出す。
格闘できるんだすごーいくらいにしか考えていなかったけれど、予想以上に凄まじい。モフモフもサンドラさんの攻撃は初めて見たのか、とんがった白い耳から白いモフモフ尻尾の毛先まで全身の毛をピンと逆立てていた。
なかなかドン引いている様子の彼に、私から落ち着けるように背中を撫でる。
問答無用で男を蹴り飛ばしたサンドラさんは手の中で財布をぽいぽいと遊ぶと、男ごと後片付けを周りの人達に任せた。
「自警団に突き出しといて」と指示を回すと、ジーンズから財布を再び抜き出してこっちに振り返る。私とモフモフに歩み寄り、両膝を曲げて腰を落とした。
モフモフもさっきのを見たせいか、サンドラさんに怯えるように一歩後ずさった。
「うちの町だと金拾って貰ったら、お礼に一割払うのが礼儀なのよ。まぁそこの狐は言葉通じないし、私に届けたら代わりに駄賃払ってやってんだけど。」
濡れ衣だし三千じゃ足りなかったかなー、とサンドラさんが遠慮なくお婆さんの財布の中を開く。
中にはぎっしりとお札や銀貨、チラチラと金貨まで詰まっていた。……まだこの世界の物価が分からない私にも大金なのがよくわかる。流石町長のお母様、結構持ってるんだなぁと思う。
サンドラさんは財布の中から金貨を一枚モフモフに摘んで手渡した。肉球のついた手でその一枚を両手で受け取ったモフモフは目を丸くしてすぐ手の中に隠した。結構な大金なのだろう。誰にも見られていないのに盗み見るように確認してから、慌てて鞄の中にしまった。確かにさっきの男みたいな人に狙われたら大変だ。
モフモフの冤罪も解けたし、財布もお孫さんの元に戻って良かった。そう思って私もホッと肩の力を抜くと……不意に熱のこもった視線に勝手に顔が上がった。
見上げれば、私達に腰を落としたままのサンドラさんが見開いた目を私に向けている。えっと思わず私が声を漏らすと同時に
「取り敢えず卵かけご飯はまた後にして。……スキル鑑定急ごっか……?」
ポン、と肩に手を置かれる。
いつもの口調で話すサンドラさんの目は、口端こそ若干引き攣っているものの目が興味の二文字に輝いていた。
当然ながら、当分の面倒を見てくれる兼町長の娘兼最強格闘姉さんに私が逆らえるわけもない。
モフモフに今度こそ別れを告げ、私はグイグイッとサンドラさんに腕を引かれて引き摺られるようにその場を去った。途中一度だけ気になってモフモフの方へ振り返って見れば
一歩も動かず、ただただ茫然と私を見つめていた。