15.オークは期待する。
「大丈夫。すぐ戻るから。何かあったらルベンが助けてくれるよ」
…………置いていかれるのは、苦手だ。
村に到着してから、建物の影に身を潜めるように指示をした女性は明るい笑みで私達を置いて行った。
足元に立つ、狼のような獣人族と並びながら空を見上げる。
下を俯きたかったが、そうすると何故か狼の蒼い目が嫌でも視界に刺さった。あの女性を守る為に私へ目を光らせているのか、純然たる威嚇か。獣人族の言葉がわからない私には確かめようもない。
不安を紛らわせるように、何故自分がこんなところにいるのかと思考を巡らせる。
本当なら、あの森奥に今もいる筈だった。洞窟に入らず夜に焚き木を起こしていたのもドラゴンを誘き寄せる為だけだった。まさか人間族を誘き寄せることになるなど思いもしない。…….人間族に誘われるなど、期待すらできていなかった。
『ねぇ、絶対怖がらないから顔を見せて』
……今の女性からではない。まだ、オークの集落に居た頃に何度か言われた言葉だった。
肌の色が不気味だと、本当にオークなのかと、醜いと。何千と吐きつけられた私にとっては、それはとても貴重な言葉だ。
姿を隠し多くの者には腫物にされながらも、それだけで判断しない者も居た。中身は良い子だ、優しいと親しくしてくれる者はその言動全てが優しく美しく、私以外のオーク全てに愛される者ばかりだ。
見せて、と言われる度に躊躇う。だが、それでも最後は見せた。拒んで見捨てられたくないのと、僅かなの期待があの頃はまだあった。
見せれば、どんなに優しいと呼ばれたオークもあまりの違いに顔を痙攣させた。その場で逃げたりはしない。ただ、当たり障りのない優しい言葉を最後に、……自ら関わってくれなくなるだけだ。
誰かが言った、人間のようだと。誰かが言った、あれはエルフだと。どちらであるわけもない。私はオークなのだから。
そして最後には、遊牧を生業としていた彼らに一夜で森に置いていかれた。その時だけは誰も出発の日取りを私に教えず、誰も行き先を教えず、誰も私を起こさず、誰も……迎えに来なかった。
十年期待した。誰も来なかった。
更に五十年待った。仲間どころかオークすら寄り付かなかった。
更に三十年。……住処を出てみるようになった。
オークが拠点を張るのは異種族と関わらずに済む、外れの地。
それまで誰も寄り付かない住処ではあったが、暫く歩き続ければ果物や獲物も豊富な地帯に辿り着いた。ここならばオークが通りがかるのではないかと時折足を運ぶようになった。
異種族に見つかることを避け、夜な夜な森を彷徨い……人間族に、出会った。
生まれて初めて見た人間族は、恐らくは女性だった。
ランプを片手に不安げな足取りで歩く女性は、木陰に隠れる私には気付かず森の奥へ奥へと進んでいた。
隠れ、逃げ、息を潜めながら、初めて目にする人間族は、……確かに、どのオークよりも私に似ていた。
『まるで人間族のようだ』
異種族同士は言葉が通じない。
それは誰もが知る、当然のことだ。同じ二足歩行で物を考えられても所詮は違う生き物なのだから。だが顔の骨格も、肌の色彩も、骨と皮だけのような細すぎる身体も、やはりオークよりは彼女らに私は似てる。水面に映る己を見れば、嫌でもそれは自覚できた。
話せなくても良い、意思疎通など不可能だ。それでもやっと出会えた自分と似た姿の女性に、どうしようもなく心惹かれた。
仲良くなろうなど微塵も考えなかった。邪な気持ちなどない。ただ、数十年ぶりに出会えた相手だった。初めて出会えた、私と同じ形の生き物だ。なら、ならせめて
この醜い姿を、〝普通〟の目で見られたかった。
一度で良い。
笑んでくれなくて良い。受け入れろとも話しかけてくれとも思わない。ただ、己を存在しても良い姿だと思いたかった。
その辺にいる獣や、植物のように、ただ道を横切るその他大勢の一部として見て欲しい。人間の姿に近しく産まれてしまったならば、せめて人間にとっては普通だと思いたかった。
そう願って私は初めての人間に一歩ずつ歩み寄った。武器も降ろし、頭まで被っていた毛皮も肩まで降ろした。
女性の行き先へ先回り、ただ木に寄りかかって佇み待ち続けた。
心臓が気持ち悪く波打ち、吐き気すら覚えた。オークの集落に置いていかれてから最初の夜のようだった。目を閉じても視界がぐらぐらと揺らめき、待てば待つほど頭がどうにかなりそうにもなった。
大丈夫、人間と同じ、私は人間に似ていると何度も何度も自分に暗示をかけ、そしてとうとう待ち侘びた人間が現れた。
私の姿を確認した女性は、……叫喚を上げ、私の肌のように顔を更に蒼白させ恐怖で零れ落ちるほどに目を見開き、ランプを落として逃げて行った。言葉がわからずとも、悲鳴だったことはよくわかった。
追いかける気にもなれず、膝から崩れ落ちるほどの衝撃を受け、覚悟していたにも関わらず傷付いた自分に驚いた。
同族のオークに気味悪がれ、姿が似た人間族にも怯えられ逃げられた私に行き場などありはしないのだと思い知らされた。
それからさらに数十……途中から、時を数えることも虚しいだけだと気付いた。オークの寿命は五百年以上。その中で私が何年消費しようと意味などないのだから。
暫くはまた住処の周りだけで怯えて暮らし続けた。そして、自分が生き永らえたところで意味はないと気付いてからは、また森を降りるようになった。
醜く、薄汚く、豚のような生活を何十年も続けた私は、いつどのような理由で殺されても大した問題ではないとわかれば、もう恐れもなかった。
村人に見つかっても、悲鳴を上げられるか、逃げられるか、遠巻きから指されるだけだった。
大昔に首領から言い聞かされた異種族の誓いが、まだ残っているのだとそれだけでわかった。そうでなければ、人を喰らうことができ、何よりも視界に入れることすら罪な醜い化け物の私を村人が殺さない理由が
『私は人間族です。スキルで全種族の言語がわかります』
……オークだと、数十年ぶりに現れた同種族だと最初は思った。人の姿を確認した時は私と同じ異形種かと期待した。
そして〝期待〟を自覚してしまった瞬間、恐怖が込み上げた。
── 絶望が、来る。
この数十年、忘れることができた感覚だ。
死んでも良い、醜い自分に価値などない、豚のような生活がお似合いだと。誰もが私の姿に顔を歪め、避け、怯え、逃げる。
同種族でも、外見の似た人間でも同じだと。仕方ない、そういう産まれなのだと、このまま死ぬしかないのだと納得し諦められた私にとって最も触れたくないものだった。
── 私の言葉がわかる存在。私と似た容姿を持つ人間族。
期待したくない。期待をすれば絶望する。絶望は死よりも恐ろしい。
膝から崩れ、息も拍動も不可能になり、この場で消えてしまいたいとあう欲求のみに支配される。己の存在が理解していた以上に無価値なものだと思い知らされる。
誰も迎えに来なかった数十数百年のように、己の醜さが異種族にすら許されなかった夜のように、ただただ空っぽな器に成り果てる。
期待の塊が、在ろうことか私に近付いてきた時は喜びどころか恐怖でしかなかった。期待させるな、去ってくれ消えてくれ、いっそ残酷な言葉を浴びせてくれ、どうかこの醜い姿を
── 見て欲しい。
見ないでくれと。明滅する思考で、望み願った。
気が付けば、目の前の女性から無様に泡を食って逃げていた。何かから逃げることも……追い掛けられることも始めてだった。
受け入れられる筈がない。逃げられるに決まっている。そんな都合良く、私の言葉を理解できる異種族が私を受け入れてくれる筈がない。
また怯えて逃げられ、死よりも辛い絶望が待っているに決まっている。またあの森に、あの洞窟に私一人を置いて逃げ去ってしまうに決まっていると
「££££££££££!!!オークも!待たせてごめんね!」
……思って、いたのに。
知らない響きの直後、待ち望んだ言葉があまりに容易に掛けられた。
見上げれば、入っていった建物から女性が人間族の男達を連れてきていた。寝間着のような姿の男と私よりも屈強な腕をした男だ。頭から毛皮を深く被り直したところで、隠さずともドラゴンの血で黒に塗り潰されきっていたことに気が付いた。
女性に連れられた男達は私達を目の当たりにしてすぐに顔色を変えたが、不思議ともう絶望は感じない。それよりも聞き取れない言語で男達と話し続ける女性に、本当にすぐ戻って来たのだということにばかり思考がいった。
男達が隣の建物へ駆けて行った後、女性は狼に何かを話し、そして私にも当然のようにその口を動かした。
「今、さっきの人達が馬車を取りに行ってくれてるから。今日は他に泊まり客もいないから、その間に宿の中で待ってて良いって」
こっち、と軽々しくそう言って女性は私の腕を建物の中へ引いた。
私が村人を襲ったと思い込んでいる村の中で、男二人に私の存在が知られ、何処かへ去り、逃げ場のない建物の中に誘われる。普通に考えれば罠だ。
村人を集め、私を売り渡すつもりだと考えるのが普通だ。その為に私に甘い言葉を囁き懐柔して敵陣の真ん中に引きずり出したのだと考えるのが自然だ。きっと裏切られる、今までにない深い絶望に突き落とされるとまだ思う。それでも
「ごめん、水浴びさせてあげたいけど明日まで待ってね。安全に村から逃げることの方が先決だから」
「……ああ、わかった」
もう、期待せずにはいられない。
彼女と共に居たい。彼女に期待し続けたい。できるなら今度こそ離れたくない。
堕ちるのならば何処までも。本当に裏切られ絶望したらその時に死を選ぼう。後悔などはしない。
一分一秒でも彼女と共にいれるのならばこの幸福の為ならば、どれほどの代償でも払ってみせる。彼女と共に居たい、彼女ともっと話したい彼女のことがもっと知りたい。そして
『ずっと貴方の居場所が見つからなかったら、その時は私が面倒見るから』
……期待、したい。
私の居場所など〝そこ〟以外、もう世界の何処にも無くて良いから。




