そしてありがたみを知る。
「まだ逃げねぇのかよ?めんっどくせーな」
とうとうすぐ背後で聞こえた。
ルベン!と叫び出したいけど、緊張でまだ喉は干上がったままだ。足がガクガクと立つので精一杯になってくると、視界に少し捕らえられるくらいに白いモフモフの毛と鼻先が見えた。
自分の倍以上の全長がある狼相手に怖じけることなく、最後は私の前にまで立ってくれた。白くて大きなモフモフの尻尾が私の視界から狼の死体を隠す。
その瞬間、緊張が糸のようにぷつりと切れて地面に膝をついて座り込んでしまう。べちゃっ、と足が汚れたけど今だけは全く気にならない。
グルルッと唸る狼が、ルベンに毛を逆立てる。鋭い眼光が真っ直ぐルベンと彼が狼に構え続けている武器に向いていた。
ランプの明かりでチラリとは見えるけど、まだ背後からだと全形が掴めない。さっきは避けられちゃってたけど、この至近距離なら大丈夫だろうか。
そう少し思考が働いてきたところでだった。ルベンが狼に構えていたそれの照準をおもむろに下ろす。どうして⁈と私が思った瞬間、狼も隙を逃さないように助走無しでルベンに飛び掛かる。
唸り声と涎を同時に零しながら、遥かに上から文字通りひと飲みしてしまいそうな大きな口で鋭い牙を剥いたその瞬間。
ルベンの小さな足が、狼の横ツラを蹴り飛ばした。
……うっそ。
一瞬過ぎて白い毛玉が回転したようにしか見えなかったけど、ルベンが跳ねて横向きに宙返りしたと同時にモフモフの足で狼を吹っ飛ばした。
目を疑う間も無く、木に狼が叩きつけられた音が響いた。木の葉がパラパラ舞って、最初の葉が落ち切るよりも先にルベンが着地した。
更には倒れ込んだ狼の尻尾を容赦なく掴むと、冗談みたいに振り上げて大きな狼の身体を尻尾ごと振り上げて地面に叩きつけた。どすん、と地鳴りのような音が響いて私の心臓がひっくり返る。
もうキャインの悲鳴も上げない狼の方が可愛そうに見えてきた。
「こんなのにも勝てないとか雑魚過ぎだろお前。そんなんでオークから逃げれると本気で思ってんのか?」
気がつけばピクリとも動かなくなった狼二匹を尻目に、ルベンが茫然とする私へ振り返る。
地面にぺったり座り込んだ今、ルベンの方が目線は上だ。口が僅かに開くだけで声が出ない。ランプも地面に底がついて私の方に小さく傾いた。
取り敢えず助かったのだと時間を置いてから思ったら、じわりと涙が滲んできた。
震えそうな唇を噛み締めれば、ルベンが面倒そうに眉を寄せる。なんだよ?と声を掛けられて、眼前まで更に近付いてくれたルベンを考えるよりも先に抱き締める。
「わ⁈」とルベンからは声が漏れたけど、モフッとした柔らかな感触が凄く落ち着いた。爪先までの震えを堪えるべくルベンを抱き締める腕に力を込めれば、今度はため息が聞こえてきた。
「そんなに怖かったのかよ……だせぇ」
今はもう何言われても良い。
暫く森の中でルベンを抱き締めながら呼吸を整えた私が、何とか張り付いた喉から言葉を発せられるようになるまで三十分はかかったと思う。
それまで棒立ちのままだったルベンだけど、私が落ち着くまで待ってくれていたから本当に優しい。
ランプを一度地面に置き、目を擦りながらヒクつく喉でやっと「怖かった」と「ありがとう」が言えた。
「だから言ったろ、ルベンがいねぇとソーはすぐ死ぬって。次はもっと離れるなよ!矢だってタダじゃねぇんだからな!」
ぷいっと顔を背けながら、狼の死体に刺さった矢と地面に刺さった矢をそれぞれ抜いていく。
よく見るとルベンの右腕に何か付いていた。腕に嵌めるようにして固定された小さな弓だ。何か、どっかで見たことがある気がする。選択授業で世界の戦争とか武器とかの科目にあった。
確かボーガ……いや、クロスボウとかそんな名前だった気がする。試しに「それは?」と掠れた声で聞いてみると、振り返ったルベンは私の視線の先と自分の右腕を確認してから「武器」と一言応えてくれた。……武器名が知りたかったんだけど。
「獣人族は人間族より身体能力はずっと上だけど、ルベンみたいな狐族とかは身体の長さが足りねぇだろ?だから戦う時はこういうので補助するんだよ」
拾った矢の汚れを自分のズボンで拭ったルベンは、それを纏めて肩に下げたバッグの中に放り込んだ。
続けて、邪魔だからという理由でクロスボウも外すと適当な様子でバッグにしまう。まさかルベンのバッグの中にあんな凶器が入っているとは思わなかった。
「ついでに言っとくとオークは獣人族とも比べ物にならねぇくらい怪力だからな。動きだけは遅ぇからやばくなったらすぐ走れよ」
ルベンよりも怪力。
その言葉に身体が震え上がった。あの大きな狼を蹴り飛ばして軽々叩きつけたルベンよりってどんだけ凶悪なんだろう。
看板でみた掲示を思い出せば、猪の化け物のイラストが頭に浮かぶ。思わず地面に指を立てて土を掴めばルベンが「帰るか?」と尋ねてきた。
「オークがやべぇのはわかっただろ?それにこの狼だって獣人族なら皮剥いだら食えるけど、オークは皮ごと食えるんだぜ。ソーが話をしようとしてんのはそういう化け物だからな」
「…………化け物じゃなくてオークだし」
ぼそっ、と思わずの反論が漏れる。
命の恩人且つ私のことを心配してくれたルベンにこういう態度は最悪だとわかりながらも、目を逸らした私は唇を尖らせる。悪いのは私だってわかってるけど、どうにも今の言葉だけは聞き流せない。
ルベンからも返事がこなくて、絶対怒ってるよなと思うと振り返れない。代わりにまた嫌な悪態が口から溢れ出る。
「ルベンや他の種族には化け物でも、私は言葉が通じるし。外見とか身体能力の差とか食生活の違いだけで化け物扱いするのは絶対嫌」
これじゃルベンの挙げ足取りだ。
自分でもわかってるけど、つい沸点に達してしまった。よりによってルベンに言われたのが余計に嫌だったのかもしれない。
我ながら大人気ないと思いながら平坦な声が出る。頭の隅ではもうやめとけと私が私に頭を抱えていた。駄目だ、教授と喧嘩した時を思い出す。
「絶対帰らない。オークに会うまで帰らない。話が通じない化け物かどうかは私が決めるし。……オークに事情を話すまで絶っっ対帰らない」
腕を固く組んで、断固拒否の姿勢を示す。
顔を上げれば、目をぱちくりさせているルベンと目が合った。
ランプに照らされて吊り上がった青い目がくりんと光って見えた。大きな口をぴったし閉じたルベンは、まるで剥製だった。
白いモフモフの毛に囲まれた顔色は全く分からなかったけれど、驚いているようにも見えた。あまりにも何も言わないから、言い切った私の方が心配になって「ルベン?」と尋ねたけれど反応がない。顔の前で手を開いて振って見せると、暫くしてからやっとペシンと肉球の手で弾かれた。「やめろって」と小さく零した後、顔を顰めてハァッと声に出して大きな溜息を漏らした。
「ルベンは、……ソーのそういうとこは嫌いじゃない」
ぼそっ、と呟くように聞こえた言葉を私は聞き返す。
〝ソーのそー〟と言葉遊びのような台詞から段々とくぐもって聞こえなかった。私から目を逸らしたルベンは言い直してはくれず、代わりに「仕方ねぇな」と別の言葉を返してきた。
「ほら行くぞ。オークと話したいとか絶対お前ルベンより馬鹿だからな。次狼来ても助けてやんねぇから絶対ルベンから離れるなよ」
そう言って早口でまくし立てたルベンは、空いた手で私を指した。お前に言ってんだぞという意思がはっきり伝わってくる。
助けないというわりに離れるなと言ってくれるところがルベンの優しいところだなと思う。こういうルベンの素直じゃないのに優しいところは好きだ。
うん、と一言返してから私はこっちにピンと立った白い尻尾を見せるルベンの背中に付く。
ちゃんと照らせよ、と言われて夜目が利くんじゃなかったっけと思いながら前方のルベンにも光が届くように高々とランプを上げる。途端に「前じゃなくてソーの足元に決まってんだろバカ」と怒られた。
改めて足元を照らしながら、ルベンの尻尾の先に触れるくらいにぴったりくっ付いて前に進む。さっきみたいにひょいひょい前に進んで行かずに私と歩速を合わせてくれるルベンはやっぱり優しい。
「ビビらせれば泣いて帰ると思ったのに何で俺が逆に説得されてんだよクソ。狼なんざでビビッて泣いてベロベロで漏らしかけてたくせに。人間族のくせに転移者のくせに弱いくせに口ばっかのくせにノロマのくせにソーのくせにばーかばーかばーかばーかばーか」
…………なんか、ぼそぼそと悪口が木々の騒めきに紛れて聞こえる気がしたけど。ここは聞こえなかった振りをしよう。
こうして私達は更に森の奥へ奥へと進んで行った。




