【コミカライズ連載中】【短編版】聖女様をお探しでしたら妹で間違いありません。さあどうぞお連れください、今すぐ。
帰宅するとまず、私室の扉という扉、引き出しという引き出し、蓋という蓋のすべてを開けるのが日課。ベッド下の箱よし、クローゼットよし、鏡の私……よしじゃないけど。と、ひとつずつ確認していくのです。
頭頂でお団子にした艶のない栗毛はほつれてるし、自慢だった翠の目も今は曇って見える。それもこれも全部……いえ、言っても仕方ないですね。
「今日は何もなくなってないといいのだけど」
普通の歩幅で五歩もあれば壁から壁にたどり着いてしまう小さな部屋です。棚もひとつしかないし確認自体はすぐに終わるのですけど。と、机の引き出しを開けてゾッとしました。あるべきものがない。
机の横では亡き父によく似た幽霊が困り果てた顔で腕を組んでいます。そう、幽霊。と言ってもそんなものは見慣れてしまったし、今はそれどころじゃないのです。
「ソニア! ねぇ私の机にあったお金知らないっ?」
狭くて急な階段を駆け下りると、キッチン兼ダイニングのテーブルでお茶を飲む双子の妹ソニアが「んー」と曖昧な返事をしました。
丁寧にブラシのいれられた金色の髪をかきあげて、教会のステンドグラスみたいな青の瞳を細めながら口を開きます。
「今日は司教様が教会にいらっしゃるって言うから」
「まさか献金したのっ? あれはブーツを新調するために貯めてるって言ったよね?」
いつ壊れてもおかしくないくらいベコベコになって、靴底も外れかけている靴をだましだまし履きながら三ヶ月。やっともうすぐ買い換えられると思ってたのに、ソニアは教会へ差し出しちゃったそうです。
「でもそのお金で助かる人がたくさんいるんだよー?」
「そのお金がなくて困る姉と、無理言って格安で修理させられる靴屋の事情は無視ってこと?」
「壊れるような靴さえない子がいるってこと! ねぇ、それよりお腹すいちゃった。今日ね、ボランティアで教会の草むしりやっててー」
溜め息をどうにか呑み込んで、勤務先のパン屋からもらってきた廃棄予定のパンをテーブルへ置きました。
妹のソニアは容姿だけでなく心も美しく、毎日ボランティアに精を出し、困った人がいればなんとしても手助けをする……と評判です。ソニアこそ「聖女」に違いないと。
ただその手助けのしわ寄せが姉である私ジゼルに及んでいることは、世間はもちろん本人さえ気付いていないのが困ったところで。
「あら、昨日作っておいたスープは?」
「それも教会に持ってったー」
「えっ! じゃあ今日もパンしかないじゃない」
「これも世のため人のためー。パン余ったら明日持って行っていい?」
「駄目って言っても持ってくくせに」
実際、外を歩いているときによそ様から「妹に助けられた」と感謝を伝えられることも少なくありません。そんな善行をやめろと言うわけにもいかず、発散できないモヤモヤが溜まっていくばかりです。
そんな平凡なようで平凡でないある雨の日のこと。私の働くパン屋のカフェスペースに見慣れない男性がひとり、ふらっとやって来ました。
王都からそう遠くない街ですが、交通の要所というわけでもないので滅多に外部の人は来ません。なのでよそ者はただでさえ目立つのですが、加えて見目麗しい彼はかなり人の目を集めているようです。
だって外からもチラチラ覗こうとする女性がいるし、パン屋の女将さんも仕事の合間に「イイ男だねぇ!」と耳打ちするほどですから。筋肉自慢の旦那さんも素敵だと思いますけどね。
……確かに陶器のような肌に青みを帯びた銀の髪はツヤツヤで、それでいて服の上からもわかる実用的な筋肉。まるで教会にある聖人様の彫刻みたいで現実味がありません。ぼんやり窓の外を眺める姿もまた様になっています。
「お待たせしました。コーヒーとクロワッサンですねー」
注文の品を運ぶと、彼は窓から目を離して顔をあげました。すみれ色の瞳が柔らかく細められ形のいい唇が「ありがとう」と動きます。ついで、彼は窓の外を指しました。
「見て、雨がやんで虹が出てる」
「あっ、ほんとだ! ぬかるみにげんなりしてたけど、こんなご褒美があるなら雨も悪くないですね」
男性はククッと笑ってコーヒーを一口。指の先まで洗練された動きにうっとりしてしまいます。これでは女将さんのこと笑えませんね。
「貴女はこの街の人間だろう。聖女がここにいるという噂については?」
「ああ……。聖女に会いにいらしたんですか?」
ソニアの噂は街の外にも広がっていて、たまにこうして聖女を探しにやって来る人がいます。それは崇拝対象として会いたいのか、興味本位なのか、それとも救いを求めてなのかはわからないけれど。
探るような視線を投げてしまったからでしょうか。男性は背筋を伸ばし、懐から取り出した紙を開きながら声をひそめて言いました。
「本物であれば国が保護することとなっているのは知っているだろう?」
「あ、なるほど……」
なんと書いてあるかまでは見えなかったけど、彼の手にある紙には王家の紋章がありました。
恐らくソニアを迎えに来たということなのでしょう。平民風の服なのにその仕立てが素晴らしいのは、身分を隠すつもりはないけど悪目立ちもしたくない、といったところかしら?
我が国の聖女は精霊と話ができるのだそうです。それによって天災などの大きな出来事を予言したり、または精霊に権能の行使をお願いしたりするのだとか。権能の行使というのはたとえば雨乞いなどがそれにあたりますね。その代わり王都にある大聖樹に祈りを捧げなければならない。
聖女がいないと国が亡ぶというわけでもないでしょうけど、国民の心の拠り所になっているのは確かと言えます。
「新たな聖女が我が国の北東部、つまりこの街を含む北はヤエル山地、東はゼハン港の辺りまでだな。そのどこかで誕生したとのお告げがあったのが十七年前。当代の聖女の力は次第に弱まっていて、次代の聖女の保護が急務でな。何か知っているなら情報がほしい」
「きっと、おそらく、いえ絶対教会にいます。誰もが認める聖女が! どうぞよろしくお願いします!」
ぶんっと勢いよく頭を下げると、彼は呆気にとられた様子を見せました。でもすぐ雲間から太陽が顔を出すみたいに笑顔が広がっていきます。
「そうか。ではあとで行ってみよう。感謝する」
話し方には生まれながらの上位者といった空気が滲んでいます。さすが、聖女を保護する任務に就くだけあるというか……聖女に失礼がないようそれなりの立場の人を寄越しているのでしょう。そのうえこんな人を疑うことも知らないような表情はまさに聖人様という感じ。もしかして聖人様の生まれ変わりでは?
私は男性にお辞儀をしてカフェスペースから店頭のカウンターへと戻りました。
妹が聖女として王都へ行くことになったら、と思うとつい頬が緩んでしまうのです。だって、廃棄予定のパンで命を繋ぎ、無理に繕った古い服を着て、紛失したものがないか確認する毎日とサヨナラができるってことですからね!
それに何より、あの子が国に保護されるというなら私はもうあの子を守って生きる必要がないということ。大体、働きもしないで毎日ボランティアボランティアって……。
鼻歌をうたいながらパンを並べ、態度の悪い常連のおじいちゃんに笑顔で対応しながら、教会へ向かうと思われるイケメンさんを見送ります。今日は廃棄パンだけじゃなくて従業員割引でちょっと豪華なパンも買おうかしら!
夕方近くなって、パン屋の仕事は筋肉自慢の店長と交代します。店長は夕方から夜中にかけて翌日に売るためのパンを仕込むの。女将さんは朝早くからそれを焼いたり、お店の管理をしたり。週に一度の定休日だけが私たちのお休みです。
デニッシュ生地にベリーのジャムをたくさん練り込んだパンをふたつ買い、あと廃棄のパンもいつも通りいくつかいただいて裏口から外へ出ました。
靴屋さんに寄ってブーツの修理を依頼してから帰ろうかなーなんて呑気に考えていたら。
私が扉を開けると同時にガサっと物音がして、小さな足音が走り去って行きます。度々遭遇しているので確認せずともわかるのですが、これは廃棄したパンを盗む孤児です。店主夫婦が何も言わないので私も普段は見て見ぬふりなのですが、今日はそうもいきませんでした。
だって、犯人が走り去った方向からどんがらがっしゃんと酷い音がしたんです。慌てて駆け寄ってみると、脚立に足を引っ掛けたらしく孤児の男の子が盛大に転んでいました。廃棄のパンは全て水溜りに転がっていて。
「あらー。せっかくのパンが泥だらけじゃないの。あなたもね。ほら、立てる?」
七、八歳といったところでしょうか。男の子に手を差し伸べると、彼はぱんぱんに膨らませた頬と引き結んだ口でそっぽを向きながらひとりで立ち上がりました。叱られると思って虚勢を張ってるかのように見えます。でもチラっとこちらを見て囁くようにお礼を言ってくれました。
「……ありがと」
「今日は聖女さまが教会にパンを持って行ってるはずだけど、貰わなかった?」
少年は俯いて小さな声でそれを否定します。
「聖女なんかじゃねぇし。俺ら子どもにはこき使うばっかで優しくないもん。でも大人はみんな聖女の味方なんだろ」
「そうなの? 何かすれ違いがあるのかもしれないね」
ボランティアで何かあったんでしょうか? とは言っても子どもをこき使うという意味がわかりません。ソニアが意図したことが間違って伝わってるとか……?
けれど少年は涙を堪えるように眉根を寄せて顔をあげました。
「ほらみろ、大人は信じてくれない!」
「あ、なるほど、あー、確かに。ごめん、今のは私が悪かったわね」
泣きそうな子どもを前に、というか半泣きにさせたのは私なので罪悪感に襲われてしまいました。罪滅ぼしとばかりに泥だらけのパンを片付けて、彼を水場へと連れて行きます。
普段、近所のご婦人方が集まって水仕事をするところです。私も休日には衣類をまとめて持って来てせっせと洗濯するのですが、夕方のこの時間は野菜を洗う人さえいません。
「さぁ少年よ、服を脱ぎたまえ」
「サシャだよ」
下着姿になった少年、サシャにショールを巻き付けて、ご婦人が置きっぱなしにしている石鹸を拝借しつつ服を洗っていきます。サシャは水場の縁に腰掛けて遠くを見つめながら口を開きました。
「聖女は俺らをパンとかスープとかで働かせて、自分だけ金貰ってんだ」
「どういうこと?」
「草むしりとか、掃除とか、他にもいろいろ。街の奴の手伝いしてんの。食いもんがないときは小銭くれたりもするけど、聖女はもっとたくさん金貰ってんだぜ」
「それ……司祭様はご存知なのかしら」
サシャは強く頷きます。
「聖女が稼いだ金のほとんどは教会に寄付するから司祭は何も言わねぇし、金払った奴だってゼンコーだって褒めるだけだよ」
からくりがわかりました。
私の持ち帰るパンは教会へ寄付するのではなく、孤児に報酬として渡していたんですね。私にボランティアだと報告していた彼女の働きはすべて、金銭を伴うサービスだった。けれどその依頼料の多くは教会へ寄付されるため、街の人は喜びこそすれ文句を言うことはない……。
彼女の着る衣類などは教会へ持ち込まれた古着をいただいてるんだと言っていたけど、それも怪しくなってきましたね。
そんなの、聖女でもなんでもないじゃないの。せめて子どもたちに正当な報酬を払わないと。
無言になった私の顔をサシャが不安そうな表情で覗き込みました。
「どれくらいで乾く? 妹が待ってるから早く帰らないと」
「んーどうかなぁ? 風の精霊さまに早く乾かしてーってお願いしよっか」
水場のそばには洗ったものを暫定的に引っ掛けておく洗濯紐があるので、そこへ服をかけました。サシャとふたり並んで立って、両手を組んで風にお祈りします。
ふわりと暖かな風が吹きました。私の目には、亡き母が微笑みながらサシャの服をパタパタ揺らす姿が見えています。幽霊と言うのでしょうか、私は小さな頃から亡くなった人の姿を幻視することがあるのです。
両親が亡くなったあと、ふたりの姿が見えると言ったら「ずるい!」とソニアが激しく泣き出したので、以来この幻視については口にしなくなりました。思えばあの子が善行に傾倒するようになったのもそれくらいの時期だったかもしれません。
辺りがゆっくりと暗くなっていつの間にか周囲が見えづらくなってきた頃、幻の母が小さく手を振って消えました。確認すればサシャの服はすっかり乾いているようです。
「もういいみたい。少し風が強かったからすぐ乾いたね。もう暗いし送って行こうか」
「ありがとう!」
ふたり手を繋いで彼の住む家、スラム街へと向かいます。
「お姉ちゃんね、聖女様と少しだけ知り合いだから。ちょっと話をしてみるね。子どもたちにも優しくしてあげてねって」
「ん。……あ、ここまででいいや。この先は姉ちゃんにはちょっと危ねぇもん」
「ふふ、カッコイイね。それじゃあコレあげるから、妹と一緒に食べな」
「おー、美味そう! ありがと、ございます。偽聖女のことはさ、もういいよ。俺らが我慢すればいいんだし。姉ちゃんが他の大人に変な目で見られたら困るだろ。じゃ、今日はありがとな!」
ベリーのデニッシュパンをあげて、スラム街付近でお別れです。最後はニコニコで大きく手を振ってくれたので、彼の言葉を信じなかったという罪は償われたことにしたいと思います。ベリーのパン……は、ちょっとだけ残念ですけど仕方ありませんね、慰謝料です。
さて。何かすれ違いや勘違いがあっただけだと思うのですが、家に帰ったらソニアと話をしてみましょうか。子どもが我慢すればいいだなんて、そこまで言わせて何もしないわけにいきませんし。
あ、でももし王都へ行ったらそんな心配はいらないのかしら?
家に帰るべく来た道を戻ろうと振り返ると、建物の陰からこちらの様子を窺う気配がありました。場所はスラム街近くですし、思わず息を呑んでしまいます。が、相手は隠れることなくこちらへぬらりと姿を現したのです。
「怖がらせたならすまない。近くを歩いてたら君を見つけたから」
今朝、パン屋で朝食をとっていた聖女探しのイケメンさんでした。ホッとして挨拶をすると彼もばつが悪そうな顔でこちらに近づいて来ます。
「家は近く?」
「いえいえ、逆方向です」
「それなら送って行こう。土地勘のない俺でもこの辺りは女性がひとりで歩ける場所じゃないとわかる」
「えっと、じゃあ教会まで」
「くくっ。用心深いのはいいことだ」
この時間に外を歩くことは少ないのですが、周囲の家の窓から漏れる明かりや各家の軒先に吊るされるランタンの明かり、それに星明かりのおかげで難なく進むことができました。でもスラム街であればそうはいかないでしょうし、サシャの助言は正しかったと思います。
我が家は裕福でも貧しいわけでもないごく普通の住宅街にあります。もちろんこの街の中では、ですけど。代々の土地と建物があるおかげで、両親と死別してからもどうにか妹とふたりで生きてこられました。あの家がなければ今頃はどうなっていたことか。
私の歩幅に合わせてゆっくり横を歩いてくれる男性が……って名前も聞いてませんでしたね。その彼が思い出したように口を開きます。
「聖女は確かに教会にいたし、君の言うとおり誰もがあのソニアって子を聖女だと言っていた」
「でしょう。彼女を王都へ?」
「一度王都へ連れて行ってから聖女か否かの確認をすることになるな」
「どうやったら聖女と判断できるのですか? 予言とか?」
「いやいや、大聖樹への祈りというのが聖女にとっての修行みたいなものらしくてな。何もしていないのに予言などなかなかできるものではない……らしい」
前方に教会の明かりが見えてきました。話が尽きない私たちは一度足を止めます。
「では、どうやって?」
「しばらく修行してもらってから、ランタンの火を大きくしたり小さくしたり? 詳しくは知らない」
「ふふ。まぐれだってあり得るでしょうに、それじゃ聖女探しが難しいのも納得です」
そうなんだよと苦笑するイケメンさんに会釈をして、家に帰ろうとしたのですけれど。なぜか彼がついて来るのです。
「あの……?」
「ああ、今夜は聖女の家にお招きいただいてるんだ」
彼は右手に持った紙袋を自身の顔の前へと掲げました。紙袋の口から瓶の先が飛び出ています。つまり、お酒。
「は? え、なんておっしゃいました?」
「ん? いや、聖女が夕食に招いてくれたんだ、と。家が近いなら途中まで一緒に行こう」
「なんですって……」
ソニアって子は! どうしてそんなの勝手に決めるのかしら!
大体、食事の用意だって自分ではほとんどやらないじゃない。ていうか間違いなく平民ではないであろう人にお出しする食事なんてないし。今夜もいつも通り廃棄パンしかないのに!
「な、なにか気に障ることを言っただろうか」
「いえ、あなたさまはなにも」
再び歩き出した私たちは、怒りのあまり私が早足になったせいもあってすぐに自宅へと到着しました。送ってくれた、いえ、送るつもりだったイケメンさんは戸惑いを隠さずに家屋と私とを何度も見比べています。
「こ、ここは聖女の家だと聞いている」
「そうですね。聖女ソニアの自宅であり、私の家でもあります。ソニアは私の妹なので」
イケメンさんは何か言いかけましたが、その言葉が発されることはありませんでした。勢いよく開いた扉からソニアが顔を出したのです。
「ようこそ――あら、お姉ちゃんもおかえりなさい。まさかふたりで帰って来るなんて」
「あ、ああ。まさか彼女があなたの姉上とは知らなかった」
ふたりの会話よりなにより、私が気になるのはこの香り。ドアを開けると同時に漂ってきた空腹を刺激するいい香りに、慌てて家の中へと入ります。
キッチン兼ダイニングの小さなテーブルに所狭しと並べられていたのはいくつもの料理。一方でキッチンには使用された形跡などなく。
「いったいこの食事はどうやって……。あっ、もしかして!」
狭く急な階段を上がって自室へ飛び込むと、ベッド下から箱を引きずり出して開けました。ここには次の給料日までの生活費が――。
「ない! やっぱり!」
ソニアが盗めないよう鍵を準備しようとずっと思っていたのだけど、その鍵を買うお金が捻出できないままずるずると過ごすうちにコレです。初めてのことではないけれど、前回だって散々注意したし、生活費にはもう手を出さないと信じてたのに!
怒る気力もないまま座り込んで放心していると、ギシ、と床を軋ませながらソニアがやって来ました。
「お姉ちゃん……? ご飯食べよ?」
「アンタねぇ、これ生活費だって知ってるくせに!」
「だ、だってアタシが王都行くためのヒツヨーケーヒ、でしょ?」
床にくっついたお尻が冷たい。なのに首とほっぺはとっても熱い。震えてるのは寒いからじゃなくて、お腹の中でぐるぐる回っている感情を発散できずにいるから。
よく見ればソニアの服は真新しく、この生活費の散財先が食事だけじゃないのは明らかです。私のブーツはボロボロなまま、新調どころか修理代金さえたった今無くなったところなのに。
大きく深呼吸すると、なんだか体の芯が一気に冷えていくような気がしました。
「そうね。さ、食事にしましょうか」
立ち上がり、ソニアとともに階下へ降ります。
イケメンさんはセレスタンというお名前なのだとか。改めてお互いに自己紹介をして、彼の持って来たワインを開けて団らんが始まりました。
ほとんどはソニアが聖女についての質問をして、セレスタン様が曖昧に言葉を濁しながら説明するというような会話。
「聖女様は王子様とご結婚することも多いって聞きましたけど本当ですかー?」
ソニアがキラキラ輝く青の瞳でそう問いました。当代の聖女が保護されたときには同年代の独身の王族はおらず、幼馴染の男性と結婚したと聞いていますが。
セレスタン様は苦笑しつつ首を横に振ります。
「王子殿下はおふたりとも婚約者がいらっしゃる。基本的にそれが覆ることはないだろう」
「えーそうなんですかー」
唇を尖らせるソニア。まさかド平民の自分が王妃になれると考えてたのかと思うと、驚きのあまり心臓が止まってしまいそうです。それでも貴族の人にはお会いできますよねーなんて、恐るべき立ち直りの早さを見せつけるソニアにセレスタン様が真剣な表情を向けました。
「先ほど教会でも説明したが、聖女かどうかの確認は王都へ到着してからとなる。可能なら明朝にも出発したいと考えているが、どうだろうか」
「もちろんですー!」
私になんの確認もないまま返事をするソニアを横目に、無言で食事をしました。この街で最も格式の高い……といっても王都と比べれば定食屋さんみたいなものかもしれないけれど、そんなお店の料理です。
「美味し……」
とっても美味しい。生活費を突っ込んだ価値があるかと言われると否ですけど。
食事の美味しさに加え、明日にはソニアがいなくなるのだと思ったらホッとして深く息を吐きました。姉としてそんな気持ちを持つことに罪悪感がないわけではありませんが、明日から自由なのだという喜びがそれを簡単に覆してしまう。
宿へと戻るセレスタン様を見送って、ソニアがこちらを振り返りました。
「やっとこの田舎から出られるわ」
「聖女かどうかまだ決まってないのによく言うわ。生活費まで使い切って。追い返されてもこの家には入れないからね」
「聖女じゃなくても当面の間は生活の保障があるって言うしー、その間に玉の輿に乗るのよ、この美貌でね!」
「はいはい、自信を持つのは素晴らしいことだけど。ずいぶん気の長い計画だったね」
もう溜め息すら出ません。私は彼女が玉の輿に乗るためだけに何年もの間苦労してきたってことですか、そうですか。
「うるさいなー、お姉ちゃんに私の気持ちなんかわかんないよ」
ソニアが階段を駆け上がり、大きな音を立てて扉を閉めました。片付けくらい手伝ってくれてもいいでしょうに。
すぐには眠れる気がしなくて、ランタンを持って外に出ることに。自宅から教会までの道は大きくて、少ないながらオイルランプの街灯も立っています。だからこんなモヤモヤする夜にはお散歩で気晴らしをするのが常でした。
亡き父の幽霊がまるで「行くな」とでも言うみたいに険しい表情で家の前に立っていますが、憂さ晴らしの散歩くらいさせてほしい。
だってたぶん私はもう我慢の限界なのです。というか、どうにか繋ぎとめていた理性みたいなものが生活費がなくなったことで切れたような感覚。
セレスタン様におかれましては速やかに彼女を王都へ連れて行ってほしい。そしたら私はブーツを新しくして、毎日の食事に一切れの肉とスープを追加するの。ぼろぼろの服も少しずつ新しくしたいし、それに取手の取れた鍋を修理したい。
そんなことを考えながらしばらく歩いていると、前方から誰かが歩いてくる気配がありました。ちょうど街灯の光が届かないところにいるので、顔や姿はまったく見えません。この街の住人であれば大体知ってるし怖いということはないんですけど、時間が時間なので身構えてしまいます。
「ソニアちゃん……?」
暗がりから呼びかけられました。街灯やランタンの明かりだけでは見分けがつかないのか、妹と間違えているみたいです。私にはあまり自覚がないけど、双子だから顔の造りは割と似ているほうだとよく言われます。髪や瞳の色のせいか性格の問題か、ソニアのほうが華やかだし人気者ですけどね。
「や、違いま――」
「王都行くんだって? オレを置いて?」
じりじりと近づいてくる気配。足元から少しずつ彼の姿が見えるようになってきました。
「え、いえ、だから私はソニアじゃ」
「この前新しい靴買ってあげたばっかりなのに、なんで!」
足早にこちらへやって来た人は、この街唯一のお医者さんの息子。ふくよかだけどいつも小奇麗にしていて、確かお父さまの跡を継ぐべく医学のお勉強をしていると聞いたことがあります。
その彼が私の腕を掴みました。
「待って、人違いですから!」
「ソニアちゃん、どうして!」
「違うってば!」
私が逃げようとするほど腕を掴む彼の力が増して、痛いし怖いし腹が立つし。どうして私がソニアのせいでこんな目に遭わないといけないの。
悔しさのあまり視界が涙で滲んだとき、私と彼の間を冷たく光る金属が遮りました。
「今すぐその手を離さないと利き手を替えることになる」
頭上から聞こえる低い声は聞き覚えがあります。というか、さっきまで聞いていたセレスタン様の声。そして私の胸の前あたりで光を反射している金属は、よく磨かれた剣です。このまま振りぬけば、私の手を掴む男の腕は……。
「ひっ、ひいぃっ!」
医者ジュニアは脱兎のごとく暗がりへと逃げて行きました。
途端に静かになった夜の一角で、剣を鞘へ納める音とセレスタン様の溜め息が響きます。
「夜に出歩くのは犯罪者と相場が決まってる」
「ではセレスタン様も犯罪者ですか」
私が問うと、彼はくくっと笑いました。その笑顔を見た途端に力が抜けて、ずるずるとその場へうずくまってしまいます。同じようにしゃがんだセレスタン様の両手が私の頬を包みました。真っ直ぐに私を見つめるスミレ色の瞳。
「怪我はないな? 無事でよかった」
「ありがとうございました……」
安心すると泣いちゃうって本当なんですね。
セレスタン様は泣き出した私を水場へと連れて行って、ふたり並んでベンチに座りました。泣いてる間ずっと何も言わず横にいてくれたのですが、そういう優しさに触れるのがすごく久しぶりだったから余計に泣いてしまって、ちょっと時間がかかってしまいました。
やっと泣き止んだ私に、セレスタン様は水に濡らしたハンカチを差し出して目に当てとけって。この人モテると思います。
「妹と離れるのが寂しい?」
「いえ。ただあの子にとって私はなんだったのかなって。ソニアと一緒に助け合って生きるつもりだったのに、結局いつも私――」
私ばっかり、と言いそうになって口を噤みました。
ソニアの行いが聖女らしくないと判断されたら、彼女の計画が壊れてしまいます。妹の幸せを願ってあげられない私だけど、玉の輿計画を潰そうだなんて思ってはいませんから。
「立場上いろんな人間に会うが……兄弟や姉妹ってのは思ったより仲が悪いのが多い。貴族なんかじゃ殺し合いするような家もあるほどだ。だから疎ましく思うことも思われることも、気にしなくていいと思う」
「セレスタン様はご兄弟は?」
「いない。姉がいたんだが、流行り病でな」
「それは……ごめんなさい」
「や、今の話の流れなら聞いて当たり前だろ」
ククっと喉で笑って、彼は星空を見上げました。
国に仕えるそれなりの身分の人だから、私とは住む世界が違うと思ってた。それは今も変わらないけど、思ってたよりずっと優しくて他者の心に寄り添える人なんだなって。彼の横顔に胸が高鳴って、でもそれを誤魔化すように私も夜空へと視線を移します。
「星、綺麗ですね」
「ああ。これなら明日も晴れそうだ。虹が出なくて残念だがな」
「ふふ、虹は雨のあとのご褒美ですから。晴れの日はそれだけでご褒美でしょう」
「そんなふうに毎日を穏やかに過ごせる人は好きだ」
突然の褒め言葉に落ち着きを取り戻し始めていた心臓が再び大きく跳ねました。やっぱりこの人はモテると思います。無意識な人たらしには断固反対していきたい。
赤くなった顔を見られないよう気を付けながら水場でハンカチを簡単に洗い、手の甲で頬の温度を確認してからセレスタン様を振り返りました。
「明日、ソニアを迎えにいらしたときにお返ししますね。きっとそれまでには乾いてるはずですから」
「気にする必要はないが、いや、ありがとう」
挨拶をして帰ろうとした私を引き留め、セレスタン様が家まで送ってくださいました。まぁ先ほどあんなことがあったばかりですからね。私も遠慮せずお言葉に甘えます。
自宅に到着してからもなんとなく別れがたく、「それでは」の一言が出ないままもじもじしていた私の視界に、幼い少女が浮かび上がりました。スミレ色の瞳の少女はあどけなく笑ってぺこりとお辞儀をします。
ぼんやり光って見える彼女が幽霊であることは疑いようがありません。彼女は自らを「ステラ」と名乗り、南西を指さして……。
「どうかしたか?」
セレスタン様が心配そうに首を傾げ、私はハッとして大きく首を横に振りました。
「あっ、いえ! すみません、ちょっとぼーっとしちゃって」
「いろいろあって疲れたんだろう、ゆっくり休むといい。おやすみ」
「おやすみなさい、また明日」
彼と別れ、私室に戻って寝支度を整えてからベッドへ。
先ほどの女の子は幽霊でした。
幽霊の姿を幻視することは度々ありましたが、言葉を聞いたのは初めてです。彼女は自らの名を名乗ると、少しだけ困った顔で私に「明日は大雨だ」と言いました。南西の方向を指し示して、雨が降ると。
南西は王都のある方向です。つまり、ソニアたちの進行方向ということ。
幽霊の言葉がどれほど信用に値するかわからないし、そもそも幽霊って私の妄想かもしれないし。それに明日は晴れだねってセレスタン様とお話ししたばかりだし。どうしたものかしら、と考えているうちに眠ってしまいました。
翌朝早く、ご機嫌なソニアに起こされて彼女の支度を手伝います。
「移動するだけなんだから髪型なんてなんだって……」
「だってセレスタン様と長時間ご一緒するのよ? あんなにかっこいい人と並ぶからには可愛くしていたいじゃない」
「あ、そ」
髪を編みながらアップにして華やかに見えるようになると、ソニアは満足そうに頷きました。そこへ馬車の近づく音が聞こえて彼女は勢いよく階段を駆け下りていきます。
まさか玉の輿の相手としてセレスタン様まで候補に入れているのかしら、と思ったらちょっとだけ胸が痛んだ気がしました。これが初恋だとしたら、私もとんだ面食いだわ。
来客の音がして私も階段を下ります。
今まで一体どこにいたのか騎士服を着た方々がいました。彼らはせっせとソニアの荷物を馬車へと運んでいます。
私が玄関から外へ出るとソニアはすでに馬車へ乗り込んでいました。挨拶もしないで行くなんて、ソニアらしいというか、なんというか。
小さく息を吐いた私のところへセレスタン様が大股でやって来ました。
「おはよう、ジゼル。ご褒美と思えるほどいい天気だな」
「おはようございます、セレスタン様。ソニアのことよろしくお願いします」
「ああ、任された。タラン渓谷を越えたところで一泊、イルノッサでさらに一泊して王都へ向かう予定だ」
「そうですか。タラン渓谷……」
私はこの街を出たことがないので、地名を聞いても景色が思い浮かぶわけではありません。でも街の外を知る人や、たまにいらっしゃる司教様から聞く話によれば。タラン渓谷は山を切り開いた土地で、その名の通り谷間であり水害が多いとか。
「どうかしたか?」
「今日、午後から雨になるかも? なので行程は天気と相談しながらがいいかと」
「雨……?」
セレスタン様は空を見上げて首を傾げました。すっごくいい天気ですもんね、そりゃ信じられないですよね。
私も信じられないし。うん、やっぱりただの幻覚と幻聴だったんだわ。疲労のせいね、きっと。
「いえっ、なんでもありません。気にしないでください。道中、どうかお気を付けて」
そんなこんなであっという間にソニアは王都へ向けて生まれ育った地を去って行きました。振り返ることなく、手を振ることなく。
「あ。あーやっちゃった」
部屋へ戻ると返し忘れたセレスタン様のハンカチが机の上に置いてありました。
起きた直後は覚えてたのに、ソニアの支度の手伝いをしてるうちに忘れてしまったみたい。もう会うこともないでしょうから、初恋の記念に貰っちゃおうかしら。
その後、洗ったお皿やお鍋を料理屋さんに返してからパン屋へ出勤。日常が始まります。と言っても、お給料を前借りしないといけないし日常とは程遠いのだけど。
この街に雨は降らなかったけど、昼を過ぎた頃に西の方に厚い雨雲が見えたのでもしかして本当に雨だったのかしらと緊張してしまいました。ソニアたちが何事もなく移動できてますように!
常連さんたちはソニアのいなくなった影響を逐一報告してくれました。
掃除をお願いしようと思ってたのにどうしたらいいのかとか、事情を知らない孤児たちが教会の前でソニアを待ってるとか。中でも驚いたのは、ソニアを取り合っていた男性たちが喧嘩を始めたらしいのです。我こそがソニアの恋人だと思っていたのにって。
昨夜ばったり会った医者ジュニアの様子を鑑みるに、複数の異性からの好意を利用していたのでしょう。我が妹ながら恐ろしい話です。でも全員そろって振られたんだから仲良くしてほしい。
女将さんに廃棄パンをぜんぶ貰ってもいいかって聞いたら、何も聞かずにいいよって言ってくれました。ソニアがいなくなった今、パンなんてひとつやふたつあれば十分だと彼女もわかってるはずです。だから私が何をしようとしているのかも理解しているでしょう。それでも駄目とは言わない彼女が好き。
仕事を終え、教会からスラム街のほうへと歩いて行くと途中の空き地で孤児たちが身を寄せ合っていました。今日から仕事を貰えなくなってしまった子たち。少しのパンのためにせっせと草をむしっていたのに、今後はその少しのパンを手に入れる術さえない。
そういう意味ではソニアの存在も必要だったのかもしれません。
「姉ちゃん!」
そのうちのひとりが顔を輝かせてこちらに駆けて来ました。昨日、水場でお喋りをした少年、サシャです。
「聖女と話をしようと思ったんだけどね。王都に行くことになっちゃったんだって。ごめんね」
「しょうがねぇよ、それは姉ちゃんのせいじゃねぇし」
紙袋ふたつぶんのパンを掲げて、空き地にいた子どもたちに「おいで」と声を掛けます。ひとりにひとつずつパンを配ると、みんな満面の笑みでそれにかぶりつきました。
「今日はこれをあげる。でもずっとはこんなことしてあげられない。君たちは今までちゃんと自分で働いて稼いでこれたんだから、みんなで力を合わせればこれからも生きていける、そうだよね?」
パンを食べるのに忙しいのか、それとも自信がないのか誰も返事をしません。さてどうしたものでしょうか。思案してると、サシャがパンの半分を幼い女の子にあげながら不敵に笑います。
「オレがどうにかする! 働いてたのはオレらだし、オレらの顔覚えてる奴もいると思うから、仕事もらう」
「おー、頼もしいねぇ」
「姉ちゃんがこうして励ましてくれたからな。オレにとっての本当の聖女は姉ちゃんだよ。ありがとな!」
「じゃ、サシャの聖女である私がひとつ情報を授けましょう。金物屋の奥さんが聖女に掃除を頼もうとしてたみたいよ」
「よっしゃ! あとで行ってみるよ」
子どもたちに見送られながら空き地を後にして家へと戻りました。いつものようにベッドの下から箱を引きずり出したところで我に返り、ダイニングでパンを食べます。日課というか生活の癖って恐ろしい。
「静か……」
ソニアに愚痴を聞かされることのない夜は寂しさと清々しさが半々で複雑な気持ちでした。
あの子が聖女、ですか。
私はソニアのことをずっと、身内は顧みずとも他者のためなら動ける優しい子だと思ってました。でも彼女の真実を知ってしまった今、素直に聖女って呼んであげられません。
聖女って、必ずしも清廉であるとは限らないんだなぁなんて。さすがに国に保護される正式な聖女ともなれば、今までのような悪さをすることはないでしょうけど。
そんなとりとめのないことを、風の音を聞きながらぼんやりと考えているうちにずいぶん時間が経ったようです。寝支度を整えて一階の灯りを消し、二階の私室へと向かいます。
私室の灯りも消して窓から入る星明かりだけを頼りにベッドへ。朝が早かったこともあって睡魔はすぐ近くにいます。うとうとと夢とうつつを行ったり来たりしている私の耳に、外を歩く人の会話が聞こえてきました。
「あのクソ女、騙しやがって。返すモン返してもらわねぇと」
「ぜ、全部持ってったんじゃないかな? なかったらどうする? そ、それにジゼルが家に入れてくれるかどうか」
穏やかじゃない会話だと思ったら私の名前が出て来てびっくりしました。ソニアに騙されていた人たちかしら? それにしたって、こんな時間に来て素直に家に入れてもらえるわけがないでしょうに、どういうつもりなの。眠いのに会話が気になって落ち着きません。
「入れてくれるか、じゃなくて入るんだよ。被害者はコッチなんだからな。モノが無ければジゼルに弁償させればいいし」
「ぼ、ぼくはジゼルをあんまり怖がらせたくないな。ジ、ジゼルも可愛くて好きだ」
「なら帰れよ……いや、そうだな。確かにジゼルも可愛い。胸はあれだがソニアより引き締まって上向いたケツはなかなか。身体で誠意みせてもらうってのもアリか」
「ど、どういう意味」
ほんとです、どういう意味ですか。なんだか嫌な予感がして、音を立てないようにベッドを出ました。どこかに隠れないとと焦る私を、幽霊の両親が導くようにキッチンへと誘導します。
ほどなくして玄関ドアがガタガタと揺れ始め、男の声がしました。
「ジゼル、急用だ。開けてくれ。おい」
開けさせるつもりがあるやり方だとは思えませんし、わたしはもう隠れてしまったので出られません。このまま諦めてくれればいいのですが。
返事をしないでいると、そのうち体当たりするような音が聞こえてきました。私はキッチンの床下収納に丸くなって震えながら、部屋を出るときに思わず持って来てしまったセレスタン様のハンカチを握りしめます。
ソニアのせいでどうして私がこんな目に遭わないといけないのかしら。お金なんてないし、何を持って行ってもいいから早く出て行ってほしい。どうせこの家には何もないのだし。
ドアを壊して屋内へ入って来た男たちは、息を殺しながらゆっくりと二階へと上がっていきます。もうドアを壊す時点で十分騒いでるんだから静かにする必要ないのでは……?
「ね、ねぇあんなにうるさくしたんだから、だ、誰か来るんじゃないかな。ジ、ジゼルも起きてると思うよ」
「左隣のじーさんは耳が遠いし、右隣はいま娘の嫁ぎ先に遊びに行ってっから大丈夫だ。だから今夜しかねぇってさっき言ったろ。まぁジゼルに無駄に騒がれても面倒だし、先に話つけとくか」
そんな会話が聞こえてきました。彼らの気配はもう二階にあって、私の姿を探しているようです。
私やソニアの部屋の扉を開ける音、クローゼットの中を確認する音。私がいないからでしょうか、困惑する様子が伝わってきました。そして床板を軋ませながら階段をおりて来ます。
「ど、どこかに出掛けてるんじゃないかな」
「いや。ランプがまだ温かかったから、ついさっきまでここにいたのは間違いねぇ。家の前は一本道だし俺らに気付いてから外に出ても絶対わかるだろ、だからどっかに隠れてる」
「そ、そんな大きい家じゃないよ。か、隠れるとこなんて」
「たかが知れてんだからそこを探せよ。勝手に家入っちまったんだから、きっちり話つけねぇと面倒なことになるぞ」
桶があるだけの狭いバスルームや、掃除道具などガラクタを放り込んである納戸をバタバタと開ける音。それと同時に、屋内を探るようにゆっくり歩き回る足音も。
――ギッ……ギギッ……
床の軋む音が少しずつ近づいて、私が隠れているところの真上の板が微かにたわみました。音が鳴るたびに痛いくらい心臓がぎゅっとなって、ちゃんと呼吸できているのかもわかりません。息を吸うのと吐くのと、順番がわかんない。ただ声を出してしまわないように、ハンカチで口を押さえます。
「見つけた」
足音が止み、代わりに男の鼻歌が聞こえてきました。
床下収納の蓋となっている頭上の板がゆっくりと持ち上げられていきます。彼らの持って来たランタンでしょうか、暗かった収納部に光が差して私は恐ろしいやら眩しいやらで目を強く閉じました。何か別の荷物と勘違いしてくれないかと、祈るように身体を小さくします。声は出ません。出そうとしても、ハッハッて犬の呼吸みたいな掠れた音しか出ないのです。
次第に瞼の向こう側に感じられる光量が大きくなって、恐怖に飲み込まれそうになったとき。頭上の板が突然閉じられて私の周囲は再び真っ暗闇となりました。
そして聞こえてくるのは鼻歌ではなく、家具が引き倒されたり何かを殴ったりするような粗暴な音。それにうめき声も混じり合って、何が何だかわかりません。仲間割れ、というわけでもなさそうだけど……。
暴れまわる音はそう長くは続かず、すぐに静かになりました。
「ジゼル、そこにいるのか」
静けさを取り戻した我が家に最初に響いたのは低いけど温かい、セレスタン様の声です。どうして彼の声がするのかわからなくて混乱しています。
「もう大丈夫、怖くない。開けてもいいかな?」
返事ができずにいると、しばらくしてから「開けるよ」と穏やかな声。板が持ち上げられると、やはり眩しくて腕で目を覆ってしまいました。
「怪我はないか? ゆっくりでいいから、顔を見せて。安心させてくれないか」
なだめるような声音に私の緊張や呼吸も少しずつ落ち着き、腕を下ろしました。顔を上げるとすごく苦しそうな表情のセレスタン様がこちらを見つめています。
「セレ……スタン様。どうして」
「説明はあとだ。立てるか?」
彼の伸ばした腕は力強く私を抱え上げ、狭い床下収納から救出してくれました。彼の腕の中から周囲を窺うと、ふたりの転がる男の姿が目に入ります。確か彼らは金貸しと雑貨屋の店主です。
身体を離したセレスタン様が私の頬と目尻を親指で拭い、大きく息を吐きました。
「間に合ってよかった」
「ありがとうございました。もう、どうなることかと」
指先はまだ震えています。彼はそんな私の肩にご自身のジャケットを掛け、出入口の方を手で指し示しました。
「ドアが壊れてる。今夜は俺と一緒に教会の世話になろう」
そうして連れられた教会ですが、こちらはこちらで大騒ぎになっていました。なんと司祭様が聖騎士によって捕らえられたというのです。
聖騎士とは聖女様をお守りするために結成された王国の組織ですが、異端者の調査や聖職者の取り締まりなども職務に含まれています。彼らに捕らえられたというのであれば、司祭様は聖職者としての地位を利用して悪さをしたということになります。
私は教会内の一室へ案内され、セレスタン様と向かい合うようにソファーへと腰掛けました。応接室と思われる部屋で、肩に掛けられた彼のジャケットを胸元できつく合わせて深呼吸をひとつ。
「もう、何がなんだか」
「司祭は聖女の名を使って多くの人に寄付や献金を迫り、さらにそれを自分の懐へ入れていた。俺はその調査でここに来ていたんだ」
「え? では聖女を探して保護するというのは」
「調査の過程で、この街には本当に聖女と呼ばれる存在がいるということがわかってね。俺は聖女が本物かどうかを確かめる術も資格も持たないから、ソニアを王都へ連れて行くことにしたんだ」
「そういうことでしたか」
聖女の確認方法についての話でセレスタン様が「詳しくは知らない」と言っていたとき、聖女を探しにいらしたのに方法さえ知らないなんて不思議だわって思ったのですが、なるほど。聖女探しが彼の本来の職務でないのなら納得です。
助祭様があわあわしながらもお茶を用意してくださって、それを一口いただくとやっと生き返ったような気持ちになりました。
ほう、と息を吐いた私に彼は神妙なお顔で口を開きます。
「と言っても次代の聖女が見つかるかもしれない、という情報に誰もが浮き足立ってな。聖女探しのために各地を放浪していた選別担当が急遽こちらへ来ることになった。で、折良くタラン渓谷付近で担当者と合流できたわけだ」
「聖女探しは急務だとおっしゃってましたもんね。やはり探し回っていらっしゃったのですね。それでセレスタン様は本来のご自分の職務のために戻ってらしたと?」
セレスタン様はゆっくりと首を横に振りました。緩慢な動作は何から伝えるべきか悩んでいるようにも見えます。
「いや。実は君の言った通り、雨が降ったんだ。おかげで我々は大きな被害もなかったんだが……つまり、君は予言をしたことになる」
「はい? 予言ですって?」
「よくよく考えれば、君は孤児の服を乾かすのに精霊の権能を行使してたんだよな。それを目撃したっていうのに雨が降り出すまで気づかなかったとは……」
「待ってください、ちょっと、何を言ってるのか。聖女はソニアですよね? 担当者の方と合流できたって言いましたよね」
言葉の通り受け取るとまるで私が聖女みたいじゃないですか。
理解が追い付かない私に、セレスタン様は疲れたお顔で溜め息をつきました。
そこへ、ノックの音が響きます。入って来たのは白いローブを羽織る男性を先頭に騎士がふたり。さらにふたりの騎士に挟まれるようにソニアもいました。どこか不貞腐れた顔でそっぽを向いていて目は合いません。
「どーも、お話にあった選別担当です! ささ、これをお持ちいただいて!」
白いローブの男性は大股でこちらへやって来て、真っ白な木の枝を私に持たせました。だいたい私の指先から肘くらいまでの長さの枝で、二方向に分かれた先に白い葉が何枚かついています。
「これは……?」
「大聖樹の枝です、すごいでしょう。ちょっとこの枝にお祈りをしてみてください。健康になりますようにとか、お金持ちになれますようにとか、なんだっていいですから」
聖女は普通、国の繁栄だとかを願うんですけど心にもないこと祈ってもねー、などと白いローブの男性は喋り続けています。私の反応を求めていないようなので、多分ひとり言が多いタイプなのでしょう。
周囲を見渡しても期待に満ちた眼差しがこちらに向けられているだけ。ソニアだけはどこか遠くを見ているようですが、あまりいい表情とは言えません。私にこの枝が渡されたことなどから考えても、ソニアは聖女ではなかったということでしょうか。
皆さんの視線に圧されながら枝を両手で持ち、現在のよくわからない状況や謎が全て明らかになるようにと願いました。いえ、そう願おうとした瞬間にセレスタン様と目が合ってしまったせいで、ちょっとだけ、セレスタン様ともう少し仲良くなれたらと思ってしまったり、しまったり、しまったり……。
「おぉ!」
白のローブの男性が声をあげました。
その声にハッとしてよく見たら、私の持つ枝の周りに両親とスミレ色の瞳の少女が佇んでいます。彼らは私と同じように枝に触れているのですが、驚くべきことに枝が発光していました。陽光を反射する大理石の彫像のように淡く清らかな光を発しているのです。
「素晴らしい! セレスタン殿のおっしゃる通り、ジゼルさんが聖女であらせられた!」
「なんでよ! お姉ちゃんが聖女なんて嘘!」
ソニアが騎士の腕を振り払おうと暴れていますが、さすがと言うべきかふたりの騎士はびくともしません。ソニアは一体どこで覚えたのかわからないような、口汚い言葉で罵っています。私は彼女の言ってることの半分ほどしか意味がわからないのですけども。
「インチキに決まってる! 聖女も精霊もいるわけないのにみんなバカだから騙されてんのよ!」
「いい加減にしなさい! あなたがやって来た今までの善行を、街のみんなが聖女と呼んだあなた自身が、そんな言葉で汚すんじゃありません!」
「な、なによ。善行なんかしてないってお姉ちゃんは気付いてるくせに! いい子ぶらないでよ、気持ち悪い! そういうとこ昔っから大っ嫌いだった」
「やり方はどうあれ、あなたに助けられた人はたくさんいるでしょう。目的はなんであれ、あなたの献金は誰かの糧となったでしょう。口だけの正義よりよっぽど価値のあることをしてるし、だから私は何も言わなかったの」
「ほんっと……嫌い」
それきり口を噤んでしまったソニアを、騎士たちがセレスタン様の指示で別室へと連れて行きました。セレスタン様曰く、ソニアには聖女を騙って他者から金銭を得るなどの詐欺の嫌疑があるのだとか。
私の記憶では、ソニアが自分の口で大聖樹の選ぶ次代の聖女だと言ったことはないはずですので、それはお伝えしておきましたけど。
白いローブの男性は「やっとボクの旅が終わりました」と言って私に深々と頭を下げ、おぼつかない足取りで部屋を出て行きました。聖女探しの旅はかなり過酷だったようです。お疲れさまでした。
そして部屋に残された私とセレスタン様。
お別れの挨拶ができなかった昨日の夜と同様に、なんと言ったらいいのかわからなくてもじもじしてしまいます。けれどセレスタン様は何か思い出したように「あ」と口を開きました。
「司祭について調べているときに見つけたんだが、この教会の屋根裏部屋から見る景色がちょっと綺麗だった。見てみないか?」
生まれながらの上位者である彼はいつも自信に溢れた物言いをするのに、今は少し控えめな声音でした。ソニアと私を取り巻くいびつな状況に気を遣ってくれているのでしょうか。
私はありがたくそのお誘いを受け、ふたりで屋根裏へ。街の規模にしては大きめの教会なのですが、屋根裏は住み込みの信者のためと思われる古いベッドや棚がいくつか並んでいました。掃除は行き届いているものの、シーツやキルトは掛かっていないので長いこと使われていないのかもしれません。
「西に窓があるのはここだけなんだ」
思っていたより大きな窓は薄汚れて曇っているけど、開けてしまえば街が一望できました。
「素敵……!」
どうにか絞り出した言葉はそれだけ。
西側には雨が降ったはずなのに今は雲ひとつなく、星が眩いばかりに輝いています。その星空の下で遠くに光る高い建物はお城でしょうか。お城の周りもまるで夜空の星がそのまま落ちたみたいにキラキラ輝いていて。
「タラン渓谷近くの時計塔も、イルノッサの領主館も邪魔になってないんだ。王都がこんなにしっかり見える場所はそう多くないぞ」
「あれが王都ですか。星空を映す大きな湖かと」
「あはは! それはさすがに大きすぎるな。……城のそばに大聖樹があるんだ。さすがにここからは見えないけど」
そう言われてお城をよく見たら、ぼんやり淡く光る部分がありました。もしかしてあのあたりに大聖樹があるのかしら?
「何もかもが綺麗。この街からこんな景色が見られるとは思わなかったです。なんとお礼を言ったらいいか」
この世には想像もしないような綺麗なものが他にもきっとたくさんあるんでしょうね。そのうちのひとつをこうして見られるなんて。
窓から入って来る風に目を細めつつ、きらきらの王都を見つめました。すると私の隣から「くくっ」と喉を鳴らすような笑い声が聞こえたのです。
「ずっとそのハンカチを握りしめてもらえるのは、照れくさいけど嬉しいものだ」
「え……っと、あっ、これは、その!」
視線を下げると手の中に皺くちゃになったハンカチがありました。
恥ずかしいけど確かに私はこのハンカチに助けられたというか、強く握りしめることで勇気をもらったような気がしています。でもやっぱり恥ずかしい。
「返すつもりが、こんな皺だらけにしちゃって……。あの、ごめんなさい」
「いいんだ、そのまま持っててもらえたら嬉しい」
ポケットへしまうのもおかしいし、恥ずかしさに任せてぎゅっと握るのもやっぱり恥ずかしいし、私は何も言わずハンカチの皺を伸ばす作業に没頭しました。伸びないけど。
セレスタン様は微笑みを浮かべたまま遠くへ視線を移します。
「俺は星空とか虹とか些細なことに幸せを感じられる君を、自分より妹の生活を優先する君を、孤児にも分け隔てなく接する君を……好ましく思ってる」
彼の言葉に胸が高鳴りました。イケメンはすぐにこんなドキドキすることを言うんだから油断も隙もありません。
俯いた私の視界の隅で、小さな足がパタパタと揺れています。何事かと驚いてよく見れば、なんと窓の桟に腰掛けたスミレ色の瞳の少女がセレスタン様を見上げていたのです。
「あ、いや。聖女とはこうあるべきだ、という意味であって、その、深い意味は」
言葉を発さない私にセレスタン様は慌てて言葉を付け足しました。勘違いするなってことですよね、わかります。わかりますが、少女の幽霊はそんなセレスタン様に頬を膨らませました。「素直じゃない」と怒ってますが、この少女は一体……。
「でも私が聖女だなんて信じられません。何かの間違いではないでしょうか」
だって私は今みたいに幽霊を幻視してしまうような人間なのです。人に知られれば、心を病んだかわいそうな人と言われるだけでしょう。
それに対してセレスタン様はゆっくりと首を横に振りました。
「権能を用いて瞬時に服を乾かし、雨を予言した。それに大聖樹が選んだんだから間違いないよ」
「昨日は風が強かったし、雨はステラが――っ」
ステラ。それは昨夜スミレ色の瞳の少女が名乗った名です。思わず彼女の名を口走ってしまい、ハンカチごと手で口を覆いました。
けれどそれはすでに手遅れで、セレスタン様のまとう空気が変わりました。怖さなどはありませんが、でもどこかひりついた空気がこの小さな屋根裏部屋に溢れたのです。
「今なんて?」
「いえ、なんでもありません」
「いや君は確かに『ステラ』と言った」
ステラは私の目の前で窓の桟に立ち、セレスタン様の頭をゆっくりと撫でています。その瞳はまさに慈愛と呼ぶべき色で。
「……気が触れたとお笑いになるかもしれませんが、私は昔から幽霊が見えるんです。雨が降るという話も予言なんかじゃなくて、ステラと名乗る女の子の幽霊がそう言ったからで。やっぱり私は病気なんでしょうか。幻覚を見てるのだと思ってたのに、昨日は声まで聞こえて。もしかして病が進行してるとか」
「違う。ジゼル、どうか落ち着いて聞いて」
セレスタン様は私に向き直り、ハンカチを握る私の手を両手で包み込みました。
「ステラは俺の姉だ。十を数える前に死んだ」
「なん……ですって」
「聖女が意志を伝え、また予言を受ける精霊という存在。それが死んだ人間の魂の残滓が寄り集まったものだという話を聞いたことがないだろうか。残滓など基本的には自己を忘れて辺りを漂うだけだが、時に愛する者へ強い思いを遺した魂は微かに自我を保つ場合があると」
「ステラは今……貴方の頭を撫でてます」
目を丸くしたセレスタン様がゆっくりと手をあげ、私の視線の向かう先、自身の頭にその手を乗せました。ステラは背伸びをしながら彼の頭を両手で抱え、彼の手に頬ずりをしたのです。
「レスティー、おしごとがんばってえらいね……って」
そうか、と囁いたセレスタン様は泣くまいとしてか眉間に力が入っていました。
「そう呼ぶのはステラだけだ」
「ではこの幽霊は幻覚ではないんですね」
「幽霊と精霊を分ける定義を俺は知らない。だがステラは確かにここにいて、君にはそれが見えてる。聖女のように」
セレスタン様はその場に跪き、あらためて私の手を取りました。それは少女たちが憧れる物語の騎士様そのもののように見えます。
「セレスタン・ド・タンヴィエは次代の聖女ジゼル・チオリエの剣となって戦い、盾となって守ることを誓う」
「えっ、はっ?」
私の指先に触れるかどうかのキスをして、彼は私を見上げました。
ていうか、待って。彼のお名前は。
「タ、タンヴィエって私でも聞いたことがあります。公爵家です。すごく偉い人です」
「そうだ。父は公爵であり、俺もその道を歩めるよう努力している」
「そんなすごい人に誓われるような人間じゃ――」
「君は聖女だ」
セレスタン様の言葉に同意するように、ステラも手を叩きながら頷いています。
「俺に守られていてほしい」
「……ッ!」
だから言い方!
すぐ誤解させるような言い方をするんですから。モテる人はこれだから!
その後、私は街のみんなに見送られながら王都へ向けて出発。道中のタラン渓谷では水害の復興のお手伝いもしたけれど、幸いにも被害は大きくなかったとのことでほとんど足止めされることなく王都へと到着しました。
それから半年。
ソニアは詐欺を働いたことは罪として認められたものの、自ら聖女を騙ったわけではないとのことで一年間のボランティアが命じられたそうです。聖女として有名になって王都へ行きたい彼女の野望と、聖女の名を使って儲けたい司祭様の欲望とが不幸にも噛み合ってしまった結果がこれ、なんですよね。
パン屋のご夫婦がソニアを働かせてくれるとか、サシャが俺のとこで働かせてやってもいいとか声を掛けてくれているみたい。どうか堅実に人生を生きてもらえたらと思います。
私は私でこの半年の間に本当にいろんなことがあって。けれども今は当代の聖女様のご指導のもと、聖女としての職務の他に社交界でのマナーなどを教えてもらっています。根っからの平民にはとても大変です。
というわけで平民気分が抜けない私は、たまにお城を抜け出して街を散策するのが趣味なのですが……。
「ジゼル様、また脱走ですか」
「ヒェッ」
従者用の出入口のそばできょろきょろする私の背後から低い声。振り返ると平民風の服装のセレスタン様が怖いお顔で立っていました。
「俺を連れて行けと何度言ったらわかるんです」
「だって」
「だってもへったくれもないです」
こっそり出ようとしてもセレスタン様には必ず見つかってしまいます。だけど引き留めずについて来てくれるし、しかもそれがデートみたいに思えてちょっと嬉しくなってるのは内緒です。
「大聖樹へのお祈りは?」
「終わりました!」
「じゃ、行きましょうか」
偉そうだった彼の口振りが丁寧になって、聖女と騎士という関係にも慣れて来た今日この頃。初恋は初恋のまま着実に成長しているけれど、繋いだ手を自然に握り返してもらえるうちはまだ、この気持ちに気付かれてはいないはず。そう思って今日も彼の手を取り、溢れそうな好きを少しだけ逃がすようにきゅっと力を込めるのでした。
王都へ向かってからの出来事は連載版(https://ncode.syosetu.com/n4633iy/)にて!
この先のジゼルの活躍も楽しんでいただけたら嬉しいです!
よろしくおねがいします、ありがとうございます!