その日、主人公は思い出した
8話です。そう言えばこれ異能力ものでしたね。よその子出るよ!
夢を見た。この世界に転移してくる直前、あの異空間で出会った女神。彼女にもらった異能――スキル、サイキック。それを使って、ドアをぶち破ったんだっけ――
俺はそこで目を覚まし、ベッドの上で身を起こして、愕然とした。
職場体験、最初の日の酒場でのビール樽運び。
その次の、彫り師の店での暴れる客を抑える係。
それらで見事に筋肉痛を負った俺は、今日、こうして夢を見て思い出す。そして胸の裡で慟哭した。
(スキルをこっそり使えばよかったじゃんか……! 何の為のサイキックだよ!)
「トモヤー、起きた?」
ノックを3回。叩かれた扉の向こうから、イノセントが今朝も暢気に笑っていた。あのとき、「その力を使えば死ぬぞ」と肩を掴んで来たときの顔とは、まるで違った。
「今日はねえ、喫茶店を紹介しようと思って」
「喫茶店かぁ。この世界にもあるんだな」
ジェマーケット邸を出て、歩いて数分。それなりに賑やかで、それでいて穏やかな街角。本を抱えて歩いている青年も見かけた。こういう異世界では本は貴重品という印象があるのだが、この数日暮らしてきた所感としてこの国はイギリス産業革命辺りを彷彿とさせる。それ程貴重品ではないのかも知れない。そんなことを考えながら歩いていると、喫茶店の看板が見えた。「喫茶フェブラリー」、というところか。共通語は英語に似たエンデュミオン語で、公用語はアリストクラート語などという俺にとって未知の言語らしいが、どうやら日常的に使われる言語は英語の方らしい。恐らくそちらの方が客寄せ的に取っ付きやすいからだろうな、と思いながらも、イノセントが先導して店の扉を開いたときだった。
開かれた扉から男が飛び出てきた。驚く俺たち。しかしもっと驚いたのは、その直後のことだ。
「この食い逃げ!」
店内から投げつけられた、金属製の盆。いかにも重たそうだ。それがイノセントの顔面にヒットした。しかも、面ではなく、縁。縦にぶつかったそれはイノセントの顔にめり込んだ。思わずぽかんと見つめてしまったが、それどころではない。「食い逃げ」と言う単語が聞こえた。見れば男も驚いてイノセントの顔面を見ていたようだったが、我を取り戻したように駆け出そうとした。
(させるか!)
俺は男に足払いをかけた――誰にもばれないように、こっそりスキルも使って。
サイキックが上乗せされた足払いで、男は強かに転んだ。受け身を取る暇もなく顔面を舗装された道路に叩き付けた。うわ痛そう。他人事のように思いながらも、俺はとりあえず男の上に乗っかった。逃げられないように。
そのとき、店内から飛び出てきたのはひとりの男性だった。長い黒髪を括った、緑と青のヘテロクロミア。身長は185cmを優に超えている。非常に癪ながら、所謂「イケメン」ではなかろうか。イノセントは美少年カテゴリのためか不思議とあまり腹が立たない。たぶん成熟した男として見ていないためだろう。しかしこの青年は違う。同じ男として腹立たしさを覚えつつも――思い出す。ちょっと待て。そう言えばイノセントは……。
イノセントは顔を押さえていた。片手には盆。「うう」と小さく唸っている。それはそうだろう。理由は不明だがいきなり顔面に金属製の盆を投げつけられたのだ。それも縁。鼻血どころか鼻を骨折してもおかしくない――
しかし覆っていた手を外した顔は無傷だった。何でだ。ギャグ漫画か。驚く俺に構わずイノセントはぷんすかと怒る。
「ちょっとクロ君! いくら食い逃げを捕まえるためとはいえ盆を投げつけるとかひどくない!? しかも狙い逸れてるし! 無実の俺に当たってるし!」
「あーすいませんすいません。お詫びに今日はドリンク1杯サービスしますよ」
「バターケーキもつけて」
「逆にバターケーキでいいんですか? ――と、その前に。そこのお兄さん、食い逃げ犯確保有り難う御座います。今縄持ってくるんでもう少しそのままでいてもらえます?」
「はぁ……」
言われるがまま、次第に暴れはじめた男をイノセントが乗っかって動きを封じる。彼――クロ君などと呼ばれていた――が縄を持ってきた頃には、人が疎らに集まってきていた。呆けている俺に、クロ君とやらは言った。
「マスターが騎士修道会に通報してくれたんで、あとはその人らが連れて行ってくれます。さて、縛りますよ」
「放せー! 放せー!」
男はなおも暴れていたが、俺たちが抑え付けながら縛り上げ、やって来た人々に引き渡す頃にはすっかり力を落としていた。やって来た人々は、元の世界の修道服であるカソックを騎士風に改造したような制服を見に纏っていた。
俺はそれを見送りながらも、イノセントに耳打ちする。「騎士修道会」とやらが怖かったから、彼らの前で訊くのは憚られたのだ。
「あのさ、イノ……騎士修道会って、『神以外の奇蹟を許さない、それを駆逐する』団体なんだろ? なんで警察みたいな真似もしてるんだ?」
「ああ、言ってなかったね」
言いながら、イノセントは盆を指でくるくると回した。銀色の縁が陽光に照らされて鈍く光る。
「ボトム教は国教。即ち国民は皆教徒。教徒の安全を守るのも、騎士修道会の役目ってわけ。ほら、『騎士』ってつくでしょ」
「ああ……ところでイノ、この店がひょっとして……」
「おーい、2人とも。店に入ってくれ」
青年が手招きする。店に入ると、小粋なレコードが流れている。コーヒーの苦く豊潤な香りと、菓子の甘い香りがした。客は今のところいない。恐らく先程の食い逃げ犯が「客」だったのだろう。その中で、青年は名乗った。
「俺はクロキ・アガツマ。この喫茶店のウェイターだ。お兄さん……トモヤっつったっけ。1日手伝ってくれるってな。宜しく」
「……? アキツシマネの人ですか?」
名前の響きが日本人のそれだ。なのでこの世界での日本に相当するのだろうアキツシマネとやらの出身だろうか。クロキは俺の問いに首を曖昧に振った。
「移民だな。2世だか3世だか……詳しいことは俺は知らないな。姉貴なら何か知ってるかも知れないが」
「知らない?」
自分の家庭事情について曖昧だということがあるだろうか。思わずまだ並んで立っていたイノセントを見遣るが、彼は小さく頭を振るばかりだ。囁いてくる。
『色々あるんだよ』
「イノさんは適当な席についてください。それで、トモヤ。喫茶店の経験はあるか?」
これには頭を振らざるを得ない。大学生時代、1度などは某スターでバックスな店に憧れたこともあるが、俺にはあの呪文のような注文を捌ききれないしそもそも憶えられない。あとカップにこじゃれたサインやメッセージとかもできない。要は自分は陽キャではないのだ。辛うじてそれ程陰キャでもない、という点において自分は元の世界で社会生活をそこそこ送れていた。それも限界が近かったが。
それに「それならかえって好都合」とクロキは息を吐いた。
「俺の本業はウェイターと言うより料理スタッフなんだよ。マスターもいるけどマスターはコーヒー担当だし。軽食を作ってコーヒーと一緒にお客様に運ぶのが俺の仕事。本当は軽食作るのに専念したいから、今日は本来の意味でのウェイター役はトモヤに任せた」
「はぁ……」
「何、そう難しい仕事じゃないから。見ての通り規模も小さめだし」
言われて店内を見渡す。バーカウンターの周りにテーブル席がいくつか。イノセントはテーブル席のひとつでのんびりと寛いでいた。
確かにいけそうだ。今までに比べれば楽そうな仕事ではないか。俺は心密かに(ここにしようかなぁ)と思ったものだった。
現実は非情である。
「ウェイターさーん、アイスコーヒーまだー?」
「こっちのフラッペと抹茶クッキーは?」
「カフェオレ随分待ってるんだけど」
「はいはいただいまただいま」
そのテーブル席にも、イノセントの退出後、昼にはぎっちりと人が詰まった。どうやら人気店らしい。バーカウンターも埋まっている。あれ、この展開酒処ミシュレでもあったな……そう思いながらもきびきびとコーヒーと軽食を給仕していく。スキルを使うほどの重量ではなかったがそこそこ疲労は蓄積されていく。
昼時を過ぎて客の流れが落ち着いた頃、椅子に腰掛けた俺にクロキが「お疲れ」と何かを差し出してくる。それを受け取って、しげしげと眺めた。包み紙で包まれたそれは――
「飴ですか」
「のど飴だな。ハーブののど飴。声を張り上げて疲れただろ。それ舐めて、夕方までもう一踏ん張りしてくれ」
「はぁ……」
言われるまま口に含む。ハーブ、と言っていたがはちみつの味もした。それをころころと舌で転がしながら、「これも商品なんです?」と尋ねる。クロキはなぜか視線を逸らした。
「あー、まぁ商品と言えば商品だな。裏メニューと言うか」
「まぁコーヒーに飴は合わないでしょうが……これ美味しいですよ。単品で売ったらどうです」
「まぁそれもありかな……」
「……なんかあったんです」
「別に」
クロキは目線を逸らしたままだ。
「ただ、その飴は、あの色ボケお人好し馬鹿が変声期のときに作ってやったやつだから。なんとなく商品にはしづらいというか」
「色ボケお人好し馬鹿……?」
言われて目を瞬く。色ボケはともかく、お人好し、というのには心当たりがある。
イノセントだ。
あいつのお人好しぶりは、「異世界から来た」などという妄言としか捉えられないだろう言葉を吐いた身元不明の男に衣食住を提供し、こうして職場体験までさせてくれる。生粋のお人好しだ。金持ちゆえの余裕、と言えばそこまでだが。
思えば盆の縁を顔面に強打した辺りのやり取りで、2人の遠慮のなさが窺えた。どういう付き合いなのだろう。あと色ボケってどういうことだ。今は彼女がいるとかみたいなことを言っていたはずだが。気になることは色々あったが。
「少なくとも俺は、その『お人好し』に助けられてますよ」
「それが問題なんだよ。あいつは人を助けることに躊躇を覚えない。それが問題なんだ……」
クロキの声は真剣で、深刻で。俺が何かを答えようとする前に、店の扉が開いた。気が付くと夕暮れだ。
そして、見た。右が青、左が緑のヘテロクロミア。長い黒髪の、美しく淑やかな印象の女性。けれど肉付きのためか、ひどく蠱惑的な印象を受けた。否、それよりも気になるのは。思わず顔を向けた。向けた先はクロキ。
左右が違うと言えど、同じ青と緑のヘテロクロミア。同じ黒髪。何より顔がそっくりだ。俺が思わず見比べていると、女性の方が艶やかに微笑んでこちらに歩み寄ってきた。そして、俺の顎に人差し指を添える。
「あなた、新人さん? 助かるわ、ウチは人手不足だからね。ところで、夜手伝ってくれる気ない?」
「よ、夜……?」
「言ってなかったか。ウチの喫茶店、夜にはバーになるんだ」
クロキは言う。
「昼間は喫茶店で、マスターがコーヒー、俺が調理兼ウェイター。夜はバーで、マスターがバーテンダー、こいつ――姉貴がウェイトレスになるんだ。どちらかというと『ママ』と言った方が近いな」
「夜は夜でお酒の提供が忙しいのよ。あなた、かわいいしあたし好みね。どう? 夜働かない?」
言いながら、彼女は椅子に座る俺の太股に手を乗せる。顎には指を添えたまま、キスできそうなほどに顔が近い。吐息は蠱惑的なほどに甘かった。
しかし俺は、かなしいかな女性への免疫がなかった。つまり、童貞である。
「す、すすいません。俺、そう言うの駄目で――」
「新しい道を切り開くのも乙なものよ。見たところお酒は飲める年でしょう? 一緒に仕事を――」
「そこまでだ姉貴。無理強いするな」
そこでクロキが、俺を椅子から立ち上がらせて背後に庇ってくれる。身長180cm越えの男に庇われると、こういうとき心強さを感じる。悔しさも感じるが。彼女は「そう? 残念」と大してショックを受けた様子もなく店の奥へと去っていった。
それを見送った俺は、その時点で決意を固めていた。多分、クロキも一緒だったと思う。
「……クロキさん」
「なんだ。多分俺と言いたいことは一緒だろうが」
「この店でお勤めしている限り、彼女の誘惑は続きますね……?」
「続くな。お前は気に入られたみたいだ」
「…………今日限りでお暇させてもらいます」
「残念だよ」
そう答えるクロキの声は、本当に落胆していた。
いい加減道は憶えた。夕暮れ、喫茶店の店終いののち。ジェマーケット邸へと帰る前に、店の前で頭を下げた。
「今日はお世話になりました」
「あぁ、こっちこそ助かった。できればまた、手伝いに来て欲しい。……姉貴のいないときに」
「はは」
「あぁそうそう」
「?」
クロキが思い出したように、俺に近付いてくる。顔が近付いてきて――耳打ちされた。
「『奇蹟』を起こすときは、次はもう少しばれないようにやれよ」
「!」
「俺からの忠告はそれだけだ。それじゃ、イノさんに宜しくな」
俺は返事もできず、ただ再び会釈をして店を立ち去った。
スキルを使うのにもタイミングと、ばれないようにする小細工が必要なようだ。俺はそう学習しながら、丁度迎えに来たらしいイノセントに遭遇した。
「なんだ、待っててくれてよかったのに」
「そう世話にもなってられないだろ」
そう言って笑うイノセントはいつも通りだったので、俺は「色ボケ」という点について指摘し損ねた。
そしてこの日は体も慣れたのか、筋肉痛を起こさずに済んだのが最大の幸福だったと記しておく。
Next......