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蛇足たる解説

蛇足たる解説

 古典芸能には解説が付き物。

 完全に蛇足ですので、読む必要はございません。お好きな方のみどうぞ。


 始めに申しておきますが、私は能楽に詳しい人でもなく全くのド素人です。

 ですから能楽の伝統とか口伝とかは、全くわかりません。なので、かなり頓珍漢な解説であることを宣言しておきます。

 しかし、全く解説しないのも不親切極まりないので、不肖ではありますが私が解説いたします。ご笑覧くださいませ。


 さて今回は時代小説。

 なので歴史解説から始めましょう。

 かなり細かく、長く、そしてマニアックなので、興味のない人はおススメしません。


 拙作は当然ながらフィクションですが、天正八年(1580年) 三月辺りの羽柴軍及び黒田家周辺の事情を可能な限り盛り込みました。

 英賀城の合戦も実際に起こっております。まあ、そこに福島正則や黒田家中が参加したかどうかは分かりません。しかし、参加していてもおかしくはない。そんな感じです。

 この英賀城の合戦は黒田官兵衛が活躍した天正五年(1577年)五月の英賀合戦とは違うので注意してください。

 また福島正則に関してですが、拙作の時点で彼は秀吉の小姓でした。

 だから秀吉のいる所にはいるであろうとの事で今回、登場してもらいました。



 では理解を助けるために、拙作に関わる歴史的事件を年表にしてみましょう。


天正六年(1578年) 三月  別所長治が織田家に反旗を翻し、三木合戦が開始

             これに毛利氏が呼応する

         七月  羽柴軍に所属して三木合戦に従軍していた荒木村重が、居城である有岡

             城に突然の帰城

             有岡城の戦いの前段階が開始

             また詳細な時期は不明だが、これ以降に当時の黒田考高の主君である、

             小寺政職が有岡城の戦いに呼応。織田に反旗を翻す

         十月  黒田考高が有岡城に単身乗り込み荒木村重を説得するも失敗

             土牢に幽閉される。織田軍は黒田考高の謀反を疑う

         十一月 有岡城を織田軍が包囲。有岡城の戦いの開始

天正七年(1579年) 六月  竹中重治 死去

         十月  有岡城にて黒田考高が土牢から救出される

             黒田考高の疑惑が晴れる

         十一月 有岡城が開城。有岡城の戦いが終結

天正八年(1580年) 一月  三木城が開城。三木合戦が終結

         二月  一連の三木合戦や有岡城の戦いに呼応していた英賀城が織田軍の猛攻を

             受け落城

             拙作における英賀城の合戦とは、この時の猛攻の事

             天正五年(1577年)五月の英賀合戦とは違うので注意

         三月  拙作はここ

         四月  この頃に姫路城の改修が始まる

         七月  黒田考高が羽柴秀吉より姫路城の普請を命じられる


 私が知っている年表はこんな感じですかね。

 資料によって時期は前後しますし、そもそも間違っている可能性もあります。

 新資料の発見等により将来的に間違うかもしれません。


 さて、ここで注意事項を。

 『ここからの歴史解説は筆者の私見の塊』です。

 だから異論、反論または筆者の勘違いは大いにあるはずです。

 しかし、まあ、笑って許してください。

 

 また羽柴秀吉や黒田考高、福島正則、また三木合戦や有岡城の戦いについての詳細は、某有名な電子百科事典や専門の解説書でご確認ください。


 ここで解説するのは、三木合戦や有岡城の戦いが終わって、小寺家を脱し、織田の家臣である黒田家として再出発した黒田官兵衛考高を取り巻く、天正八年(1580年)頃の状況の解説です。


 知らない人もいらっしゃるとは思いますが、天正八年(1580年)以前の黒田官兵衛の正式な名乗りは――『小寺官兵衛 孝隆』でした。

 彼は小寺家の血筋ではありませんが、自らの主家である小寺家から姓を拝領しています。

 ただし作中でこの名乗りだと、『誰だお前?』と、なりますよね。

 だから作中では黒田官兵衛考高とするしかありません。

 まったく上杉謙信と一緒で困ったものです。


 ただし、諱の方を変えたのは後年ですが、この時点における黒田姓に関しては一応の根拠があります。

 歴史における彼の黒田姓の初出は、年表中にある天正八年(1580年)七月の秀吉が姫路城普請を命じた文書です。そこに彼を指して『黒官兵』と記されているようです。

 よってこれ以前に、彼は小寺姓を捨てる事を決定しているはずです。

 ただし、天正十一年(1583年)頃までは小寺姓をそのまま併用していたようです。


 この辺りの黒田官兵衛の姓事情、苗字事情は非常に複雑です。列挙してみます。


一、黒田姓と小寺姓の苗字としての格式の問題

 これを重視する場合は、『小寺』を名乗るべきです。

 はっきり言って黒田姓には威厳も由緒もありません。系図をはっきり辿れるのは黒田官兵衛の祖父までです。よって、黒田姓を名乗るのは自分が何処かの馬の骨でしかないことを公言するようなものです

  それに対してそれに対して小寺姓及び小寺家は名家です。何故なら小寺家は侍所所司となれる四職の一角であり室町幕府の播磨守護である赤松氏の流れを汲み、その重臣でもある家柄なのです。三管領の斯波家の重臣である織田家のさらに家臣たる分家の家である織田弾正忠家(織田信長の家)と、その家格は甲乙つけ難いくらいの名家です。

 もしかしたら守護の親戚である小寺家の方が、守護代の親戚である織田弾正忠家よりも家格が高いかも知れません。ただこの時の織田信長は織田の宗家と見られている可能性もあり守護代格の家となっているかもしれません。

 まあ黒田官兵衛の家はそんな名家から小寺姓を貰っているだけなのですが、それでも黒田とは比べ物になりません。

よって苗字としての格式の問題を重視する場合、小寺を名乗るべきです。

 

二、織田家との関係

 これを重視する場合は、『黒田』を名乗るべきです。

 実際問題として小寺家は全体として織田信長に反旗を翻しています。

 黒田官兵衛の行動、つまり彼が小寺家全体の意思に反して織田の側に残ろうとしたことは彼の独断です。

 よって、織田家にとって小寺の姓は裏切り者の姓です。黒田官兵衛が従前の通り小寺を名乗り続ける事は、裏切り者に対して忠義立てしていることになります。

 これは織田家中に対し、余り聞こえのいい話ではありません。


 そもそも三木合戦開始時点での黒田官兵衛の主君は、小寺家の小寺政職です。

 そして小寺氏は別所氏や荒木氏それの背後にいる毛利氏になびきます。

 織田信長が、黒田官兵衛も主家と共に裏切ったと考えるのは極めて自然な話です。


 何故なら黒田官兵衛の家は、小寺家の親戚ではないのに特別に小寺姓を許された準一門なのですから。

 このような他氏でありながら主家の姓を許されたタイプの準一門は、一門並の待遇と引き換えに主家と最後まで命運を共にすることを期待されています。

 それに輪をかけて黒田官兵衛の母と妻は、両方とも小寺政職の養女です。

 これくらい小寺家の宗家と密接な関係の黒田官兵衛が、主家である小寺家を見限るとはちょっと考えにくい。

 人質となっていた将来の黒田長政を、信長が殺せと命令したのも当たり前のことです。

 この時の黒田長政は小寺家としての人質であって黒田家の人質ではありませんからね。


 そんな黒田官兵衛が敢えて織田家に残る以上、主家を変えることになります。

 かつての主家である小寺の姓を捨てるのは必要な事でしょう。

 よって織田家との関係を重視する場合、黒田を名乗るべきです。


三、交渉相手である中国地方の諸勢力との関係

 ここが難しい所ですがこれを重視する場合は『小寺』を名乗るほうがいいと思います。


主な理由は以下の二つ。

1、黒田姓だと誰か分からない。

 当時の交渉の始めは手紙です。当然ながら相手の顔は見えません。

 これまでの小寺姓の手紙に代わって、突然に黒田姓の手紙が来た場合、相手はこれが誰だか分からない可能性があります。偽情報を疑われるかも知れません。

 現在でも結婚等で姓が変わった場合、仕事上は従前の姓を名乗り続ける事は良くある事です。利便性の為ですね。


2、黒田姓だと侮られる。なめられる。

 先ほど述べた通り、黒田姓には威厳がありません。小寺であれば話ができた人物に相手にされなくなり、小寺であれば対等に口が効けた相手に下に見られ、小寺であれば上に見てくれていた相手にも下に見られます。

 それ位、当時の武士の姓や苗字に対する意地やプライドと言うものは、とてつもなく高く厄介です。

 そうでなければ秀吉が豊臣の氏をわざわざ正親町天皇より賜ったりはしませんし、武田信玄が上杉謙信を長尾性で呼び続けたりもしません。

 特に対毛利を考えた場合、小寺姓であれば国人層出身の毛利より格上の姓ですが、黒田姓ではかなり格下の姓となってしまいます。


 そして交渉ごとにおいて相手に侮られる事は、最も避けるべき事。

 何故なら交渉における譲歩の幅が広がってしまうからです。

 相手に侮られると、こちらがより多く譲歩しなければ相手が納得しません。

 これは交渉ごとに置いて大変不利な事です。


 以上の理由により、交渉相手である中国地方の諸勢力との関係を重視する場合、小寺の方が有利だと思います。


 どうですか。黒田官兵衛の苗字事情。複雑ではありませんか? 

 彼が姓を併用するのも仕方がない話だと筆者は考えています

 まあ、まだこの問題については他にも論点はあるのですが、これ以上は素人が手出しするのを差し控えたいと思います。


 以上の根拠により、天正八年(1580年)三月時点における黒田官兵衛は、小寺の姓を捨てる事を決定していて、それを羽柴秀吉や織田信長に表明していたが、実務上は黒田姓と小寺姓を併用していたと、拙作ではしています。


【戦国時代の苗字事情】

 ここまで黒田官兵衛の苗字事情を解説しました。

 しかし、実は苗字を変える事、つまり改姓自体は余り珍しくはありません。

 後北条氏が伊勢から北条に改姓したことや、長尾が上杉に改姓したこと、また黒田官兵衛の上司であり未来の主君である秀吉の例があります。他にもまだまだ。

 しかし彼らの場合は、凄くシンプルに大きな問題もなく改姓しました。

 黒田官兵衛と彼らは何が違うのでしょうか?


 一般に戦国大名が姓を変える場合、今までの姓よりも格上の姓を名乗ります。

 後北条氏が伊勢から北条に改姓したのも、長尾が上杉に改姓したのも、今までより格上の姓を名乗ったのです。

 秀吉の場合の『豊臣』氏は、天皇陛下から氏を賜ると言う最高の栄誉となっております。

 この場合、交渉相手に侮られると言った事態が発生しません。


 少し特殊なのは徳川家康ですね。

 彼の元々の苗字である松平は、三河一円に一族が広がっていました。その名も十八松平。

 よって松平一族は大変多く、苗字のレアリティが低かったのです。

 それ故に彼は徳川の苗字を創り出し、それを自分の子供であっても簡単には名乗らせない、このような形で苗字のレアリティ保持戦略を展開しました。

 これらはいずれもアップグレードの改姓です。


 それに対して黒田官兵衛の場合は苗字事情が何故、複雑なのか?

 それは戦国時代でも比較的珍しいダウングレードの改姓だからです。


 当たり前ですが苗字の格を下げようだなんて普通はしません。

 上記の様にデメリットが多すぎます。

 それをあえてするなんて、余程の事情が必要です。

 他の一例を挙げるとすれば、戦国大名としての越前朝倉氏が滅びた後に、生き残った朝倉一族である朝倉景健が、安居景健に改姓した場合。

 こちらも織田家との関係性を考えて改姓しているようですね。


 あぁ、ややこしや。ややこしや。


【狂言『口真似(くちまね)』の沿革】

 今回の『口真似(くちまね)』。

 出典は前回と同じく、国立国会図書館デジタルコレクションの『和泉流狂言大成 山脇和泉 著 (わんや江島伊兵衛, 1919) 』全4巻です。


 登場人物は三人、シテが太郎冠者、アトが主、小アトが何某となっております。

 ざっくり言えば、シテは主人公、アトは脇役、小アトは脇役その二と言った意味です。


 西暦1593年(文禄二年)の「禁中御能」に置いて、豊臣秀吉公、徳川家康公、前田利家公によって演じられた『耳引き』。

 『口真似(くちまね)』は、前回の『居杭』と並んで豊臣秀吉が宮中で演じたと言う『耳引き』ではないかと言われている狂言です。『口真似(くちまね)』にも耳を引く描写がありますからね。

 ただし筆者は違うと思っています。

 『口真似(くちまね)』を太閤殿下がやったとは思えません。


 理由は、いくら演技とは言え主人公である太郎冠者が投げられたり、実際に床に腹ばいになったりします。暴力表現が『居杭』より強めです。

 対する『居杭』は暴力表現があるとはいえ、あくまでも表現だけです。

主人公である居杭に対する他の演者からの身体的接触はありません。

 秀吉が死ぬまで後、五年程。

果たして自らが投げられ腹ばいになるような表現を、彼が自分に許すのでしょうか。


 この辺の違いに興味のある方は、是非、本物の狂言を鑑賞して比較してみてください。






【登場人物の設定】

 この『口真似(くちまね)』。

 太郎冠者が読んできた客である大酔狂の何某を、主があしらおうとする話です。

 主人公であるシテは、太郎冠者。何処にでもいるおっちょこちょいのナイスガイ。

 狂言を代表するアイコン的キャラクターなので、使用人の立場の役として、かなりの数の狂言作品に登場します。

 その名前の意味は、どっかの太郎さん位の意味です。つまりは使用人の太郎さんです。



 続いて脇役その一、アトである「主」、太郎冠者の主人です。

 拙作では黒田家の家臣の設定です。

 しかし母里太兵衛ではありません。それ以外の家臣の誰かです。

 それ以上は決めていません。

 もし母里太兵衛であれば、官兵衛が秀吉に紹介する時に「黒田家中一の大酒飲みでござる」と紹介されるはずです。そうしないと母里太兵衛が怒ると思います。


 最後に脇役その二、小アトである「何某(なにがし)」、拙作では福島正則。

 筆者が最初に考えた事は、この小アトの何某を福島正則にしようと思い立ちました。

 何せ、日本を代表する酔っ払いですからね。

 『黒田節』に謡われる通り、酒の失敗の場面を歌い継がれている男なんて世界史的にも珍しいと思いますよ。

 え、黒田節に福島正則は出てこないって?

 出てきているじゃないですか。

 母里太兵衛に酒を呑まれて日ノ本一の槍を持っていかれた人ですよ。

 因みに日ノ本一の槍『日本号』は、現在、本物が福岡市博物館に収蔵されております。


 それで黒田節のエピソードより前、福島正則が若い頃、どこかで黒田家とのいざこざを設定できないかと考え拙作の様になりました。

 なぜアトの「主」が、母里太兵衛ではないのかと言うと、黒田節のエピソードと矛盾が発生するかもしれないと案じたからです。


 今回の解説は歴史解説が多くなりすぎて、すいません。

でも前回の『稚児』みたいなネタが、口真似(くちまね)にはないんだよなぁ。

 人間関係が真っ当だ。


以上でござる。ここまでお付き合いくださりましたこと恐悦至極にござりまする。



ご機嫌が斜めでければ高評価、ブックマークをよろしくお願いいたしまする。

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