夜の幻 【月夜譚No.32】
箏の音色に誘われて、その部屋を覗いた。演奏の邪魔をしないようにそっと数センチほど戸を開け、片目で中の様子を窺う。
そこには、着物姿の女性がいた。窓から差し込んだ月の光に照らされたその姿は、まるでこの世のものとは思えなかった。
暗くともよく判る、透き通るような白い肌。対照的に闇色をした真っ直ぐな髪は、直に座り込んだ床に先を広げている。弦を弾く細い指は滑らかに動き、美しい音を生み出す。
天女と見紛うほどの美しさに、男は目を瞠り、暫く動けずにいた。彼女の見目に見入り、箏の音色に耳を奪われる。
その時、男の背後――廊下の窓の向こうを何かが駆け抜ける音がした。驚いた男は肩を跳ね上げ、前傾になった身体を支えるべく戸に手をついた。大きな音が響き、はっと顔を上げると、既に女性の姿は掻き消えていた。まるで最初から誰もいなかったかのように、箏だけが月明かりの下に横たわっている。
残されたのは、一人の男と夜の静けさのみ。あの女性はなんだったのかと考える間もなく、夜の空気に飲み込まれる。
ほんの僅かの間ではあったが、悠久の時が経ったかのような感覚だ。男はただぼんやりと、そこに立ち尽くした。