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一日目・月曜日➄

〈一日目・月曜日 退魔師の日常➄〉


 深夜になると俺は市内の閑静な住宅街にある一軒の家の前に来ていた。

 家は庭付きの一戸建てで、暗くても一目でお金がかかった良い家だということが分かる。

 だが、家のカーテンは全て締め切られていて、明かりもついていない。庭も荒れ果てていて、長い間、手入れがされていないのは容易に見て取れた。

 この家からは人が住んでいる気配が感じられない。

 だが、強い霊気だけは漂って来るし、その霊気に悲しみの味が混じっているような感じがするのは気のせいだろうか。


(この家に問題の悪霊がいるというわけか。我にとってはつまらぬ相手だし、さっさと終わらせてしまうに限るな)


 普通の人間には決して聞こえることのない思念の声を発したのは、俺の腰に下げられている短刀だった。

 この短刀は鬼神刀と言って、鬼の神である羅刹の魂が封じ込められている。鬼神刀で切り付けられれば、実体のない霊ですら殺せるのだ。

 退魔師が扱う武器としては鬼神刀は一級品の代物だし、代々、宮代家に受け継がれてきた宝でもあった。

 もっとも、俺にとって羅刹は単なる武器ではなく、心の通じ合った大切な相棒だ。だからこそ、こうして仕事の方針についても話をする。

 その際、意見を違えることも少なくない。


(そうだな。でも、いつものように悪霊は殺したら駄目だからな、羅刹。勝手に強い妖力を刃に込めたりしてくれるなよ)


 俺は念を押すように言った。すると、溜息が混じったような声が返って来る。


(分かっている。だが、ここまで淀んだ霊気を放つ悪霊だ。殺してしまった方が間違いなく世の中のためになるのだがな)


 羅刹の言い分がもっともなのは俺も理解している。だけど…。


(だとしても駄目だ。俺のスタンスはお前も知っているはずだろ?)


(心ある者は命として扱わなければならない…、であろう?)


(そうだよ。悪霊だって人間とは形は違っても生きているんだ。それを殺しても良いという法はない)


 現役の退魔師だった頃の祖父は「心ある者は命として扱わなければならない…」と何度も繰り返し俺に教えた。

 その言葉は今も俺の心に深く刻み込まれている。

 みんな霊や妖怪と言葉を交わしたことがないから、軽々しく退治してしまえ、などと言うことができるのだ。

 でも、実際に言葉を交わし、彼らが持つ人間と変わらぬ思いや感情を知ればどうだろうか。

 理解し合えた相手をただ人間とは姿かたちが違うからというだけで、殺すことなんて誰にもできやしないんじゃないだろうか。

 人間は物言わぬ動物の死にさえ涙を流せる心を持っている。

 なら、言葉を話し、人間と理解し合える可能性を秘めた霊や妖怪を簡単に退治してしまえ、などと言っては駄目なのではないだろうか。

 俺は霊や妖怪の死に涙してしまう人間だ。でも、その涙を流せる心を愛おしんでいる。

 幾ら努力しようと、俺は霊や妖怪を容赦なく殺すことができるような人間になんてなれやしない。

 どんな霊であれ妖怪であれ、その存在を心から大切に思っている人間が必ずどこかにいることを知っているなら尚更だ。

 だから、殺さない。殺したくない。

 それは甘えなのかもしれない。

 でも、一度、心を触れ合わせてしまえば、そこに人とそうでない者の垣根などありはしないのだ。

 むしろ、人間より霊や妖怪の持つ心の方がよっぽど綺麗に見えることさえある。だからこそ、情も移ってしまうのだ。


(まったく、難儀な考え方だ…。とはいえ、その考え方は六郎から受け継がれたもの。我も長年、その考えに付き合ってきたし、こんなところで異論を唱えるつもりはない)


 羅刹は実直に言った。


 ちなみに、六郎とは俺の祖父のことだ。十二代目の宮代家の退魔師が宮代六郎だった。

 つまり、俺は十三代目ということになる。

 そこには数百年の間、連綿と受け継がれてきた宮代家の歴史と血筋があった。


(羅刹のそういう物分かりの良さには俺もいつも感謝しているよ)


(できることなら、別のところを感謝してもらいたいのだがな。今の我は武器であって、悩み相談の相手ではないのだから)


(そうだな)


 でも、羅刹をただの武器と見なしていたら、俺だっていちいち意見を求めたりはしない。

 こうやって言葉を交わすのも、対等な関係である相棒であればこそだ。


(とにかく、相手は人間に対して害を及ぼしている悪霊だ。甘いことを考えていて、仕事をしくじるなよ)


 俺の甘い考えが、仕事の成否にも影響を及ぼしかねないことを羅刹はいつも懸念しているのだ。

 ただ、今までの俺は仕事をしくじったことは一度もない。だから、羅刹もあまり強い態度には出れないだけで…。


(言われなくたって大丈夫だよ)


(なら、良い。私もお前が戦うべき時はちゃんと戦える人間だということは知っているからな)


 羅刹のその信頼には俺も報いたい。お互いの信頼関係が損なわれたら、この仕事は続けて行けないからな。

 だから、俺も羅刹の意見はできるだけ尊重するようにしているのだ。


(その通りだよ。じゃあ、立ち話はこれくらいにして、そろそろ行こう)


 そう言うと、俺は気合を入れて鬼神刀を鞘から抜き放つ。

 すると、短刀だったはずの刀身は何倍にも長くなって立派な刀になった。しかも、刀身は煌々とした光も放っている。

 そして、刀からは感じ取る力がある者なら眩暈がして倒れてしまうほどの強力な妖気も放たれていた。

 鬼の神の持つ妖力は伊達ではない。

 もっとも、俺は慣れているから平気だけど。


 俺は何が出て来ても良いように神経を研ぎ澄ましながら、家の玄関の扉を開ける。鍵は予め霧崎から渡されていた。

 今日の退魔師としての仕事はこの家に住み着く悪霊を何とかすることだから。

 俺は家の中に入ると廊下を通って、霊気が強く漂って来る方に向かう。背筋が寒くなるような霊気は二階から漂ってきた。

 なので、俺は鬼神刀が照らし出す光を頼りに、二階の部屋へと足を踏み入れた。その瞬間、夜気を切り裂くような声が発せられる。


「誰だ、お前は!」


 叫んだのは人の形を取った青い光だった。青い光にはくっきりと顔の形も刻まれている。

 典型的な人間の霊だった。

 しかも、霊気の淀み具合から羅刹の言った通り、悪霊だということが分かる。こいつを放置することはできそうにないな。


「俺は退魔師だ」


 俺は狼狽えることなく答える。

 数々の悪霊や妖怪が起こす問題を解決して来た俺なら、この程度の悪霊に恐れをなす理由はない。


「退魔師とは一体、何だ?」


「お祓いをする人間だと考えてくれれば良い。とにかく、俺はこの家に取りつく悪霊を何とかしてほしいと頼まれたんだ」


 俺は刀の切っ先を悪霊である青い光に向ける。刀から発せられる強烈な妖気は悪霊を大きく仰け反らせた。


「私はこの家からは出て行かんぞ。ここは私の建てた家なんだ!」


 悪霊は妄執を見せるように言った。


 ちなみに、霊や妖怪が生まれる科学的なメカニズムは未だに良く分かっていない。

 ただ、人間の心というか、精神的なエネルギーによって生み出されるということは判明している。

 だから、強い精神エネルギーを残して死ぬと、その人間は霊になりやすいとも言われているのだ。

 一方、妖怪は人間の持つ強い精神エネルギーによって生み出された存在が変質することで生まれる。

 つまり、初めは霊のような存在であっても、長く存在し続けることにより、様々な外的な刺激を受けて、その性質が変化するのだ。

 そうすると、妖怪になる。

 また、ただの変質に留まらず、自らの存在を昇華させれば、より高次な存在の精霊になることもある。

 ま、精神エネルギーが物体に強く籠ると付喪神なんてものも生まれるからな。付喪神は言うなれば、人間のような心を持ち、意思の疎通ができる物体だ。

 人間の持つ精神エネルギーは、人間が思っている以上に様々なものに命を吹き込んでいるのだ。


「でも、この家はとっくに売りに出されているし、あんたももう死んでいる」


 俺は事実を突きつけるように言った。


「黙れ!誰が何と言おうとこの家は私の物だ!」


 悪霊は強情さを見せるように叫んだ。


「でも、実社会で死んだことになっているあんたが、いつまでもここにいて良いということはないだろう」


「だとしても、私が苦労して建てたこの家は誰にも渡さん!」


 悪霊は自らの態度を崩さず、俺の言葉を突っぱねた。


「困ったな。依頼人はあんたの娘さんなのに」


「娘だと?」


 悪霊の声が上擦った。


「そうだよ。娘さんがあんたを何とかしてほしいって言っているんだよ…」


 俺は頭の後ろを掻く。


 まあ、この程度の悪霊を退治するというか、消滅させるのは鬼神刀にとっては容易いことだ。

 でも、俺は自分の信念にかけて、どうしてもそれをしたくない。だから、納得した上でこの家から出て行ってもらいたい。

 強い気持ちが失われれば、霊は自分を存在させる精神エネルギーを急速に失って自然に消滅するものだから。

 それが霊の寿命でもある。


 ま、それでも生きるか、消えるかはその霊の行動次第だ。

 もし、生き続けたければ、まずは強い気持ち失わないようにする。そして、エネルギーも補充しなければならない。

 そのエネルギーはやはり霊気が一番、良いだろう。霊は吸収した霊気を精神エネルギーを増やす燃料にすることができるからな。

 幸いにも塚本の地は霊気が豊富なので、その霊気を吸収し続ければ、長生きはできる。


「娘まで、私を疎んでいると言うのか…。悪いのは私ではなくバブルだと言うのに…」


 悪霊も自分の娘のことを聞かされると、ショックを受けたような顔をした。


「バブルって、好景気だった頃のことか?」


「そうだ。バブルさえ弾けなければ、私はこの家で、妻と娘と一緒に幸せに暮らすことができたんだ」


「そうは言っても、あんたの娘さんは今もあんたが作った借金に苦しんでるんだぞ」


 霧崎から聞かされたのはそういう情報だった。

 一方、この悪霊の元となった人間は自殺という形で自分の人生をさっさと終わらせてしまったらしい。

 それは俺にとっては卑怯な逃げのようにも思えた。


「そうなのか?」


 悪霊の顔から漲っていたような怒りが消えた。なので、俺も説得するなら今だと思う。


「ああ。でも、あんたがいなくなって、この家が売れれば借金もなくなるんだ。だから、出て行ってくれ」


「嫌だ!ここから出て行くことは、耐えられない!」


 悪霊は癇癪を起したように叫んだ。これには俺も苛立ちを隠せなくなる。


「あんたも生きていた頃は、良い年をした大人だったんだろ。なら、子供みたいな駄々をこねないでくれ」


「お前の方こそ、子供のくせに知った風な口を叩くな!」


「子供にだって理解できる道理はある!」


「ほざけ!」


 そう激昂したように叫ぶと、悪霊は俺に猛然と襲い掛かって来る。俺は悪霊が伸ばしてきた手をサッと避ける。

 この手に触れられるわけにはいかない。

 霊は人間が持つ生命エネルギーを奪うことができるからな。だから、霊に触られたりすると、それだけで生命エネルギーが抜け落ちるのだ。

 生命エネルギーは、霊にとって自らを存在させるために不可欠な精神エネルギーの代用にもなるし。

 そのせいで、霊気などのエネルギーが乏しいところで生きる悪い霊は人間の生命エネルギーを奪ってでも生き延びようとすることがある。

 そして、当たり前のことではあるが生命エネルギーが全てなくなれば、その人間は死ぬことになる。

 実際、悪霊に襲われれば、非力な人間だと死ぬこともあり得るのだ。

 そうすると、連鎖するようにその死んだ人間が悪霊になったりすることがあるのだから、困りものだ。

 あと、人間は主に二つのエネルギーを持っていると言われている。一つが先ほども説明した精神エネルギーで、もう一つが生命エネルギーだ。

 精神エネルギーが人間の心を支えるものなら、生命エネルギーは人間の体を支えているものだと言えよう。


「てや!」


 そう声を上げると、俺は鬼神刀の刃を鋭い太刀筋で悪霊の横腹に叩きつけた。

 その瞬間、スパークするような鮮烈で青白い光が迸る。と、同時に悪霊の体も実像がブレたように見えた。


「ギャー!」


 悪霊は激痛が走ったような叫び声を上げる。

 でも、俺が加えた一撃は十分すぎるほど手加減されたものだ。なので、悪霊も消滅したりはしない。

 この手のやり方には俺も悪い意味で慣れているのだ。


「これ以上、痛い思いをしたくなかったら、この家から出て行くことだな」


 俺は油断なく刀を構えながら言った。


「クッ」


 悪霊は刀の当たった横腹の辺りを手で抑えると悔しそうに呻く。

 その手の隙間からは、噴き出す鮮血のように悪霊の体を構成しているエネルギーが漏れ出していた。

 まあ、致命傷になるような傷ではないから、すぐに塞がるだろう。


「どれだけごねようと俺はあんたを殺しはしない。でも、別の祓い屋が来たら、あんたは間違いなく殺されてしまうぞ。穏便に出て行くなら今の内だ」


 強引に消滅させられる時の苦痛はさっきの一撃の比ではない。肉体のない霊にも耐えられないような痛みはあるのだ。


「あんたもまだ父親だって自覚があるなら、これ以上、娘さんをがっかりさせるような姿は見せないでくれ!」


 俺は悪霊の心を揺さぶるように叫んだ。

 そして、それが通じたのか、悪霊からあからさまな敵意が消えた。張り詰めていたような空気も和らぐ。

 悪霊の持つ心が明らかに変化したのを俺もつぶさに感じ取っていた。


「分かったよ…。私も娘に誇れる父親でありたいし、君の要求を呑もう」


 悪霊は悄然とした声で言った。


「それで良い。どんな存在に身を落とそうと、その誇りだけはなくしちゃいけない」


 俺は自分の居場所を失うことになった悪霊が気の毒に見えてしまった。でも、これが俺の仕事なのだ。

 人間、同情は必要だけど、同情ばかりしていたらこの仕事は務まらない。


「その通りだな。子供にそれを教えられるようでは、生きていた頃の私の人生が上手く行かなかったのも当然か」


「…」


 俺も少し生意気なことを言ってしまったかもしれない。でも、感情が籠った声をぶつけなければ、この悪霊の心は動かせなかっただろう。

 人は心だと言う。

 が、それは何も人間だけには当て嵌まることではない。心の大切さは人間の専売特許ではないのだ。

 だからこそ、俺も人外の存在の心を必死に大切にしようとしている。時には人間の心、以上に…。


「とにかく、私はここから出て行こう。その代わり、娘の顔を一度だけで良いから見させてくれ。あの子の顔を見れば、私も思い残すことなく逝ける」


「そう言うと思っていたから、俺も娘さんの顔が写った物はちゃんと持って来てあるよ。もちろん、写っているのは現在の娘さんの顔だ」


「それはありがたい…」


 霊の要求することは俺も大体、心得ている。家族の顔が見たいというのはもっともスタンダードな要求だし。

 だから、俺はスマホを取り出すと娘さんの顔写真を悪霊に見せてやった。

 すると、スマホの画面を覗き込んだ悪霊は、自らの顔を小刻みに震えさせ始めた。心に何らかの衝撃が走った証拠だろう。

 それから、少し経って顔の震えがピタリと止まると、その唇が小さく弧を描く。


「娘はこんなに立派に成長していたのか。なら、父親である私がいつまでも見苦しくこの家に留まっているわけにはいかんな…」


 悪霊は眩しいものでも見たような顔で苦笑する。

 それは闇の世界の住人になってしまった悪霊の心にも光が差した瞬間だった。こういう瞬間を見る度に、俺も霊だって生きているんだと確信できるのだ。

 死んだ人間から生まれたはずの霊が生きてるだなんて、普通の人には何ともおかしく感じられるんだろうけど。

 でも、退魔師の俺にとってはこれが当たり前の現実だった。


「悲しいことだけど、その通りだと思う」


 俺は自分も悲しみを感じているように口を開く。


「あんたと娘さんの生きる世界はもう分かたれてしまったんだ…。それは、この先も交わることはない…」


 俺は現実を突きつける言葉しか口にできなかった。

 もっとも、人間と霊が必ずしも共に生きることができないわけではない。

 でも、この悪霊と娘さんに関して言えば、やはり、生きる世界は別々になってしまったと言わざるを得なかった。

 今のところ、霊と共に生きられるのは、闇の世界に身を置いている特殊な力を持つ者だけなのだ。


「そうか…。生きる世界はもう分かたれてしまっているか…」


「ああ」


 俺が頷くと、悪霊は遠い空でも見るような目をする。

 その目に映っているのが何なのかは分からないけど、今の悪霊の胸には様々な感情が去来してるに違いない。

 だから、俺もそんな悪霊の様子をそっと見守る。そして、しばらくすると悪霊はゆっくりと口を開いた。


「今更ではあるが、なぜ、私はもっと自分の命を大切にすることができなかったんだろうな…」


 悪霊はそう独白するように言った。


「生きてさえいれば、例えどんなに苦しい状況に陥ろうと、それを乗り越える方法など幾らでもあったはずなのに…」


 この悪霊も生きていた頃は、死ねば楽になれると思ったに違いない。でも、結局は死んでからも、苦しみ続けることになった。

 自殺なんて、死の先に何があるのか知らない人間がやることだと思う。

 もし、死の先に何が待っているのか、その正確な知識があったなら、自殺をしようとする人間も随分と減ることだろう。


「私にとっては、家族こそが生きがいだったはずだ。にもかかわらず、私は大切な家族との絆を自ら断ち切るようなことをしてしまった…」


 悪霊は後悔の念に満ちた言葉を吐き出し続ける。


「私は本当に馬鹿な男だ…。こんな惨めな霊になるまで、自分のやったことの愚かさに気付けなかったなんて…」


 あんたは馬鹿なんかじゃないよ…。

 五体満足で生きていたって、そのことに気付けない馬鹿な人間は大勢いるんだから。霊の中にだって、自分の生前の行いを反省できない者は多い。

 そういう連中に比べれば、あんたは遥かにマシだよ…。


「しかも、私は自分の愚かさのツケを娘にまで背負わせてしまった。まったく、最低の父親だよ…」


 でも、娘さんはそうは思ってなかったみたいだぞ。だから、俺も娘さんには明るい未来を感じることができる。

 少なくとも、写真で見た娘さんの顔に暗い影はなかった。それは、同じように写真を見たあんたも感じ取ってくれたはずだ。


「…留美、不甲斐ない父親だった私を許してくれ。そして、これからは私の分まで幸せに生きてほしい…」


 娘さんはきっと幸せになれる。あんたみたいに、ちゃんと悔い改めができる人間が父親なら、俺もそう信じることができる。


「………私はお前のことを本当に愛していた。それは、何があろうと変わることはない」


 そう吐露すると、悪霊は目を伏せた。


「ううっ…」


 悪霊はあれほど強かった存在感を希薄なものにさせながら、悲しみを堪えきれなくなったようにすすり泣いた。

 その声は薄暗い部屋の中でシンシンと響く。俺もその声を聞いていると、切なくてたまらなくなった。

 そして、悪霊は泣くのを止めると、改まったように俺と向き直った。その顔は憑き物が落ちたように何とも晴れやかだった。

 たぶん、気持ちの整理が付いたのだろう。


「ありがとう、退魔師の少年」


 悪霊の声は誠実な響きに満ちていた。

 目も澄んだ光を放っているように見えるし、もはや、彼は悪霊などと呼んで良いような存在ではないな。

 そう思った俺は人間の大人を相手にするように敬語で言葉を返すことにする。


「お礼なんて良いです。俺はあなたに人間の都合を押し付けてしまっているわけですから…」


 どんな時でも人間の都合を優先しなければならないのが、この仕事の辛いところだ。


「分かってる。だが、君に会えたことが、悪霊になってしまった私の唯一の救いのようにも思えるのだ」


 俺も彼の発した救いという言葉を胸に刻みつける。


「だから、君に会えて本当に良かった…」


 俺もあなたのような霊と心を触れ合わせることができて良かった。また一つ霊に対して大きな確信を持つことができたし。


「そう言ってもらえると、俺も心の荷が下ります。この仕事は感謝されることばかりではありませんし…」


 恨まれることだって少なくないのだ。

 でも、こうして感謝されると、やっぱり嬉しさが込み上げてくる。そして、この嬉しさこそが、この仕事の原動力なのだ。


「そうだったか…。だが、君はこれからも私と同じような霊たちを救い続けるのだろうな。ならば、娘への思いと同じように、私も君の行くべき道に幸があることを祈ってるよ」


 自分に刃を向けた人間の幸せも願えるのだから、やはり、この人は立派だと思う。

 叶うなら、この人にはいつまでも生きていてもらいたかった。娘さんと一緒に幸せに暮らしてもらいたかった。


「最後の頼みになるが、娘と会ったら、その時は私が、すまなかった…、いつまでもお前を愛している…、と言っていたことを伝えてほしい」


 その言葉に俺も微笑しながら頷く。


「分かりました」


 その二つの言葉だけでも、きっとこの人の思いは娘さんの心に届くことだろう。なら、その大切な言葉を伝える役目、他の人間に任せるわけにはいかないな。


「できれば、君とは生きている時に会いたかったよ…。そうすれば、私にももっと別の未来が…」


 最後まで言い切ることなく、娘を思う父親の心を取り戻した霊は「では、さらばだ…」と俺に静かに告げる。

 それから、窓をすり抜けると、スーッと夜の闇に消えて行った。

 俺は彼の心を本当に救ったのは自分ではなく、輝くような笑みを浮かべていた娘さんの写真だと思いながら、熱くなった目頭を指で押さえる。

 伝えなければならない言葉もできたし、俺も今度、依頼人の娘さんと直接、顔を合わせないとな。

 こればっかりは霧崎に任せるわけにもいかない。

 とにかく、あの人は長い間、悪霊として存在し続けていた人だ。だから、ここから去っても、そう簡単には成仏はできないだろう。

 でも、あの様子なら、いずれは、きちんと成仏できると思っている。

 成仏とは霊が自分を存在させられるだけの精神エネルギーを自然な形で失って、消えるということだからな。

 もっとも、成仏の捉え方は地域や祓い屋の流派によって違うけれど。

 だけど、俺としては世間的に言われる思い残すことがなくなって天国に行ったという考え方を強く支持したかった。

 ただ消滅して無に帰るなんていう考え方は、例えそれが事実であったとしても認められるものじゃない。

 酷薄な闇の世界にも希望のようなものは必要なのだ。


 ま、今でこそ、こんな風に考えてる俺だけど昔は違った。

 まだ俺が霊や妖怪に対してあまりにも無知だった頃。祖父や祖父の知り合いの祓い屋たちが正義のヒーローに見えていた頃。

 俺は霊や妖怪の持つ命なんてこれっぽっちも重んじていなかった…。

 悪霊や妖怪が退治されたと聞けば、自分も早く退魔師になって正義のヒーローみたいな活躍をしたいなどと純粋に思っていたからな。

 だけど、ある一匹の妖怪が無残に退治されて、俺は初めて心を持つ者の価値とそれが失われる辛さを知った。

 あんな思いは二度としたくない…。してはいけないのだ。

 だから、俺は今のやり方を貫くことにした。例えかつて憧れていた祓い屋たちから甘いとなじられようと…。


(相変わらず、人の情に訴えて解決するやり方を選ぶのだな。何度も言うようだが、このようなやり方は豪傑である我の肌には合わぬ)


 羅刹は不服そうに言って、鬼神刀の刀身に込められていた妖力を自分の魂の殻の中に引き戻す。

 すると、鬼神刀の刀身から放たれていた光もフッと消えた。今の鬼神刀の刀身はただの刀と変わらない。


(でも、爺さんだって、こういうやり方をしてきたはずだ)


(ああ)


(なら、いい加減、不平を口にするのも飽きて来ただろ?)


 俺は揶揄するように言った。


(その通りだ。が、それでも不平を口にしてしまうのは、お前には幾ばくかの期待をしていたからだ)


(俺は期待を裏切ったと?)


 だとしたら、俺だって羅刹の期待に応えられるように、もっと頑張るつもりだ。もちろん、頑張れない部分があることも理解しているけど。


(そこまでは言わん。だが、若い頃の六郎はどんな霊でも妖怪でも容赦せずに退治したし、そこにまどろっこしい問答などはなかった)


(えっ?)


 俺は羅刹から告げられた言葉に思わずきょとんとしてしまった。

 いつもの愚痴だと思って聞いていたので、うっかり大事な部分を聞き流してしまうところだったし。


(だから、若いお前も我を楽しませてくれるような戦いを積極的にしてくれると、少しは思っていたのだ)


(ちょっと待てよ。爺さんが若い頃にそんなことをしていたなんて初めて聞いたぞ)


 俺はたちまち険のある顔をした。

 あの厳しくも優しい祖父が、霊や妖怪たちを容赦なく殺していたなんて信じられなかったからだ。

 それが若気の至りだったとしても。


(言わなかったからな。その頃の六郎の心中については、我も詳しく語れるような言葉は持たぬし)


 羅刹は取り澄ましたような声で言った。


(じゃあ、何で今になって、そのことを…)


 俺は自分の心臓の音が聞こえると思えるくらい動揺していた。


(六郎が死んでからもう一年になるからだ。だから、お前もいい加減、退魔師としての在り方は自分で決めるべきだと思ったのだよ)


(…)


(六郎の受け売りを無理に守り通す必要はないし、今のままだとお前はいずれ前に進めなくなるぞ)


 羅刹の言葉はいつになく達観したものだった。なので、俺の心も強く打たれる。

 確かに、羅刹の言う通りかもしれない。俺も自分の道は自分で切り開かなければならないと思っていたから。

 もっとも、その言葉も祖父の受け売りなんだけど…。

 でも、俺だって祖父の言葉を単なる受け売りではなく、自分の心の血肉にできているという自信はあった。

 例え、祖父と同じ信念であっても、それはもう借りものではなく自分の信念になっているとも思っていた。

 なのに、羅刹は今のままでは駄目だと俺に言っている。

 まあ、俺が未だに死んだ祖父の残した力や考え方に縋りついている部分があるのは否めないことだからな。

 それでは、本当に前に進めなくなる時が来ても、何らおかしくはない。

 ならば、俺も今一度、自分の方向性をちゃんと吟味するべきなのかも。でなければ、仕事に差し障るような余計な迷いも生まれるだろうし。

 そして、羅刹もこの世界にはどんなに生かそうと足掻いても殺さなければならない悪霊や妖怪がいると俺に言いたいのだろう。

 それくらいは今の俺なら分かっている。分かっているさ…。

 でも、幸か不幸か、そういう悪霊や妖怪を殺さなければならない機会はまだ巡ってきていない。

 だから、今の内にもっと強くなれるよう努力しないと。

 色々と思うところはあるけれど、単純に強くなることが今の俺に求められていることのように思えるし。

 そして、強くなりさえすれば、自分の信念を生涯、貫き通すこともできるかもしれない。

 いや、きっとできるはずだ。

 そう信じなければ、退魔師の仕事など続けられはしない。


 この時の俺はそんな風に、楽観的とも言える考えを抱いていた。目を逸らすことのできない無慈悲な現実がすぐ近くまで迫っていることも知らずに…。


(…羅刹のその言葉は肝に銘じておくよ。退魔師として、これからも前進していくためにも)


 俺は一抹の不安を感じつつも、そう力の籠った声で言った。

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