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七日目・日曜日➁

〈七日目・日曜日 あり得ない日常➁〉


 どうも、俺は十時半に駅で慎太郎と待ち合わせをしているらしい。でも、電車に乗ってどこかに出かけるのは久しぶりだ。

 もっとも、隣町と言っても、塚本市の外にある町ではないけれど。


 俺は確かめたいこともあるので、早めに家を出ると久しぶりに自転車に乗って町を走る。

 風を切るようにして進む自転車の乗り心地は悪くなかった。

 なので、グングンとスピードを上げて町の中を滑走する。

 一方、町の様子は一見するだけでは、何も変わっていないように思えた。全ての建物が正しい位置に収まっているのは確認したし。

 でも、自宅から駅に向かう途中にあった大霊石は、テレビで見た映像のように粉々にされてはいなかった。

 大霊石が破壊された事件もなかったことになっているようだ。

 しかも、大霊石からは、あるはずの霊気が全く感じられない。まるで、ただの石の塊になってしまったかのように。

 更に、いつもなら空気中に漂っているはずの霊気すら、感じ取ることができないのだ。

 まるで、塚本の地にあった霊気が全て消えてなくなってしまったみたいだ。でなければ、俺の霊気を感じ取る力が失われたのか。

 でも、体の生命エネルギーは操れるので、可能性としては前者かもしれない。もちろん、両者の可能性もあるが。


 俺は薄ら寒いものを感じながら、再び自転車を漕ぐ足に力を入れる。

 それから、駅前に来ると、俺は退魔師事務所がある雑居ビルにまでやって来る。雑居ビルの一階は前と変わらぬ貴金属の買取り店だった。

 雀荘やマッサージ店の看板もそのままだったし。

 でも、退魔師事務所は看板などは出してないので、ビルの中に入ってみないことには何も分からない。

 俺は動悸が早くなるのを感じながら、ビルの階段を上って行く。この階段をこんなに緊張しながら上らなければならなくなる日が来るなんて…。

 そして、三階にまで辿り着くと、事務所の入り口があったところまでやって来た。

 だが、そこにはあるはずの年季の入った金型のネームプレートはなかった。

 代わりにあったのはプラスチックのネームプレートで、そこには前川弁護士事務所と書いてあった。

 それを見ると、俺も思わず嘘だろと声を漏らしそうになる。

 幾ら妖怪がいなかったことになっている世界とはいえ、動かしようがないと思われた退魔師事務所が消えてしまったと言うのか。

 これには、悪夢だとしか言いようがなくなる。

 俺は手が汗ばむのを感じながらも、恐る恐る入り口のドアを開ける。すると、そこには綺麗で清涼感の漂う事務所があった。

 タバコの煙で黄ばんだ天井などありはしなかったし、おかしな骨董品なども置かれてはいなかった。

 裏の社会の臭いなど全くしない、テレビに出て来るような普通の弁護士事務所だ。

 それを見た俺も心臓の音が止まりそうになりながら、自分の目を疑う。


「当、事務所に何か御用ですか?」


 受付をやっているような若い女性が俺の姿を見ると話しかけて来る。その目にあるのは不審者を見つけたかのような当惑だ。

 なので、俺は小さくなりながら口を開く。


「ここは宮代退魔師事務所だったはずですよね?」


 俺は夢なら、一刻も早く覚めてくれと思いながら尋ねる。でも、女性から発せられた言葉は俺に更なる現実との剥離を感じさせる。


「違いますよ。ここはこのビルが建てられた当初から当、弁護士事務所でした」


 女性の声は事務的だったが、嘘は全く感じられなかった。なので、俺も異を唱えることができず、心の方もすごすごと引き下がってしまう。

 目で見たものが現実だという理屈を適応するなら、この女性の言葉も受け入れるしかなかった。


「そうですか…」


 退魔師事務所までが影も形もなかったことになっているのは、驚天動地だとしか言いようがないな。

 でも、こんな風に大切にしていた居場所が奪われると、驚きを通り越して、悲しさや空しさを感じてしまう。

 まるで、風が吹きすさぶ荒野の真ん中に立たされているみたいだ。


「どこか別の場所と間違えているんじゃないんですか?」


 一年間も住んでいた事務所の場所を間違えるはずがないだろう。もっとも、この女性にそんなことを言っても、筋違いな八つ当たりにしかならない。

 女性は俺を見てあからさまに不可解そうな顔をしたので、俺もあまり長居するのはマズいと思った。


「かもしれません…」


 そう消沈したように言うと、俺はここで確認できることはもうないと思い弁護士事務所を後にする。

 それから、途方に暮れたような顔をしながら出てきた雑居ビルを一瞥すると、慎太郎との待ち合わせ場所である駅へと向かった。

 そして、駅までやって来ると、そこには慎太郎がいて俺を見ると大きく手を振って来た。


「よっ、圭介。時間通りに来てくれたか」


 慎太郎はいつも通りの様子を見せていた。

 俺も慎太郎との関係が何も変わっていないことを実感すると、涙すら出そうになる。やっぱり、こいつの顔を見ると安心するな。

 例え天地がひっくり返っても、こいつの人としての在り方だけは決して変わることがないと思える。

 打ち叩かれたような俺の心もそこに救われた。


「ああ」


 そう返事をする俺の顔はまるで幽霊にでも見えてしまったかもしれない。だから、慎太郎の顔もたちまち気遣うようなものになったし。


「そんなに暗い顔をしてどうしたんだ。今日はB級グルメを食べ尽くさなきゃいけないんだから、もっと気合を入れろよ」


 そうは言っても、今の俺は何も喉が通る気がしない。


「分かってるよ。腹いっぱい食べられるようにお金もたくさん持ってきたし」


「なら良いんだ。でも、やっぱり、今日の目玉はラーメンバーガーだな。油で揚げた麺に具材を挟み込むなんて画期的な料理だぜ」


 慎太郎は意気揚々とした声で言った。


「普通のラーメンを食った方が良くないか?」


 キレの良いツッコミとは言い難かったが、それでも、その言葉を聞いた慎太郎は調子良く笑ってくれた。


「それは言ってくれるな。今日の俺たちの目的は、美味しものを食べることじゃない。B級グルメを楽しむことだ」


 慎太郎は講釈でもするように言葉を続ける。


「ただ、旨いものが食いたければ、そこらの店に行った方が良いからな」


「そりゃそうだ」


 まあ、正論ではあるな。そういうのはワインの味をその時代の背景と照らし合わせて楽しむのと同じだし。

 食通は食べ物に対しても、そういう楽しみ方をすると聞いていた。


「だろ。料理は旨さだけが全てじゃないってことだよ。例え旨くなくても、変わった味ならそれを食べる価値はある」


 慎太郎は自らの持論に説得力を与えるように言った。


 こいつにしては、いつになく理の通った言葉だな。でも、美味しくもない食べ物にお金を払うのは、正直、気が進まない。

 今のような気分の時は尚更だ。

 もっとも、今いるのが精巧に作られたら夢の世界だったら、せっかくもらった五千円も夢から覚める前に使わなければ無駄になる。

 なら、お金は惜しまない方が良いかもしれない。


「かもな。じゃあ、俺もお小遣いとしてもらった五千円分くらいは食べさせてもらうかな」


 こうなったら、俺も自棄食いでもしてやるか。今のところ、それくらいしか溜まった鬱憤を晴らす方法はないし。

 せいぜい普段では味わえないような料理に舌鼓を打ってやるさ。


「その意気だし、食べる量なら俺も負けやしないぜ」


 慎太郎は白い歯を見せながらニカッと笑った。


「そっか。それと、ちょっと話は変わるが、お前に訊いておきたいたいことがある」


 俺はここで躊躇っていても得るものはないと思い、そう切り出した。


「言ってみろ」


 慎太郎も只ならぬものを感じたのか、真剣に取り合うような顔をしてくれた。


「お前、ウチのクラスに転入してきたルーシーって女の子のことは知ってるか?」


 俺はルーシーもまた変わらぬままでいてほしいと願いながら尋ねた。


「ルーシーなんて知らんよ。しかも、転入生なんて、ウチのクラスには来てないだろ」


「そうか…」


 やっぱり、ルーシーは転入してきてないことになってるか。でも、ルーシーの存在そのものが消えたわけじゃないよな。

 彼女は自分の国にちゃんといると思いたい。できることなら、ルーシーの傍にはあのサタナキアもいてほしかった。


「おかしなことを訊く奴だな」


「我ながらそう思うよ」


 もうルーシーの顔が見られないのかと思うと、俺も自分の心がしょげるのを感じた。

 彼女との心の距離を必死に縮めようとした努力が、全て無駄になってしまったようにも感じられたからな。

 この一週間、本当に彼女には手を焼かされた。

 その苦労がなかったことのようになっているこの世界にいると、俺もやりきれない気持ちになる。


「ま、別に構わないし、さっさと改札口を潜っちまおうぜ。っと、その前に俺はトイレに行って来るから、ちょっと待っててくれ」


 慎太郎は張り切り過ぎているような様子を見せると、駅の隅の方にあるトイレの方へと駆けて行った。

 その後姿を見ながら、俺は何もかもが変わってしまったことをつぶさに理解し、黄昏にも似た思いでその場に立ち尽くす。

 もはや、この世界を夢だ、などとは思わない。幾ら心の中で悪あがきをしても、この世界の在り様は否定できない現実だ。

 それは逃げずに受け入れるしかない。でなければ、前には進めない気がするし。

 もっとも、どういう行動を取れば、自分は前に進んでいると言えるような状態になれるのかは全く分からないが。


 俺は言葉などでは表現できない喪失感を胸に、駅の改札口に入って行く人たちをぼんやりと眺める。

 晴れやかな日曜日ということもあってか、俺の前を通り過ぎる人たちは、皆、明るい顔をしている。

 でも、それとは反対に俺は鏡がなくても分かるような暗い顔をしていた。その暗さはまるでこの世の終わりでも来たかのようだ。

 事実、俺が今までいた世界は終わってしまったように思える。

 そして、その終わりは、いかに妖怪とそれに関わる者たちが、俺の心の中の大きな部分を占めていたかを、突き付ける結果になった。

 失ってみなければ価値が計れないものもあると祖父は言ったけど、その言葉が今ほど身に染みて理解できる時もないだろう。

 もう、世界は元には戻らないと言うのか?安穏と引き換えに失われた様々な人との絆はもう取り返せないのか?

 こんな締め括り方は到底、納得できないし、やはり、俺は誰が何と言おうと、妖怪のいない世界を認めることなんてできない。

 だから、元の世界に帰りたい。いや、帰してくれ!


 俺がやり場のない憤りを何かに叩きつけたい衝動に駆られていると、突然、背後から子供の良く通る声が発せられる。

 その声は俺の心を氷漬けにせるには十分だった。


「記憶が消えてなかったんだね。こいつは驚きだ」


 その声を聞き、俺が心の氷を溶かしてゆっくりと後ろを振り返ると、そこには悠然と佇む白いスーツを着た外国人の男の子がいた。

 それは間違いなくミカエルだった。

 いつの間に俺の背後に立ったのかは分からないが、その神出鬼没さは本物の天使なら何もおかしくはない。


「お前はっ!」


 俺は怒りの感情が出口を求めるように一気に噴き上がるのを感じていた。

 こいつのせいで、俺がどれだけ不安な思いに苛まれたか。この状況を説明してもらうまでは逃がしはしないぞ。


「そう怒らないでよ。君が今の状況を快く思っていないのは分かってるんだからさ。だからこそ、会わせたい人がいる」


 ミカエルは掴みどころのない笑顔で言った。


「会わせたい人だと?」


 この期に及んで、誰と会えと言うのか。


「そうだよ。君も良く知ってる人物だし、彼と話せば今の世界のことも受け入れられるようになるんじゃないかな」


 まさか、その人物は俺の祖父じゃないよな。でも、この世界でも祖父は死んだことになっている。

 では、一体、誰だ?


「なら、会わせてもらおうか」


 もう何が起きようと絶対に驚かないし、こいつが現れたからにはB級グルメのイベント会場になど行ってはいられない。

 慎太郎には悪いけどな。

 そう思った瞬間、周囲の景色が塗り替わるようにして変化した。それは手品でも見せられているような、あっという間の出来事だった。

 それから、目を瞬かせた時には、俺の前から駅は忽然と消えていた。代わりに目に飛び込んできたのは、あの妖怪街と似たような場所だ。

 でも、そこは地下街ではなく、しっかりとした町になっていた。抜けるような青空も見えるからな。

 ただ、漢字で書かれた無数の看板が建物の至るところから突き出ていたり、歓楽街にあるような店がずらりと並んでいるところは、やはりあの妖怪街に通じるものがある。

 なので、まるで香港を彷彿させるような町だなと思った。

 でも、建物の形はビルとは少し違うし、アジアンテイストではあるが、どことなく人間の文化とは異なる匂いがする。

 それは一種の調和のようなものも感じさせた。

 妖怪街にいた時は、あまりの刺激の強さに噎せ返ってしまいそうになったし、あのけばけばしさが抑えられているのは雰囲気としては悪くない。

 そして、そんな町の通りを歩いているのは、みな人ならざる顔をした妖怪たちだ。

 妖怪たちが歩行者天国のように車の全くない通り歩いているのだ。妖怪街と違うのは、その中に人間が一人もいないことか。

 まさに、妖怪だけの町だな。


「ここは?」


 俺は独特の活気に満ちた町を見ながら言った。


「新たに作られた、妖怪の住む世界だよ。塚本の町から妖怪が存在していた痕跡が消えたように、妖怪たちが住む場所からも人間は消えた」


 ミカエルは偉大なことでもやったと言わんばかりに言葉を続ける。


「世界は実に綺麗な形で、二つに分かたれたんだ。塚本の町に限ってはだけど、もう人間と妖怪が同じ世界で交わることはない」


 究極の魔法とやらを行使した成果がこれか。確かに大したものだと言えるが、俺は褒めてなんかやらないぞ。

 俺は自分の本来いるべき場所を失ってしまったんだ。それを良しとすることなんて、絶対にできない。


「これがお前の理想か」


 妖怪たちにとっては、この世界は悪くない場所なのだろう。もう、人間たちに住んでいる場所を奪われずに済むわけだからな。

 もちろん、俺のいた世界だって妖怪たちがいなくなったのなら、人間にとってはより安全な世界になったと言えるだろう。

 でも、何か気に食わない。


「僕ではなく、僕の父さんの理想だ。言わなくても分かってると思うけど、僕の父さんはあの創造神だよ」


 つまり、キリストの神が、この世界の創造主だったわけだな。

 ま、大魔王ルシファーやあのサタナキアもキリスト教世界の悪魔だから、前々からそうだとは思っていたけど。

 でも、改めてその事実を知らされると、やはり、創造主には苦い思いを抱かせられる。


「最初から完璧に世界を作ってくれていたなら、後になってからわざわざ世界を分けなくても済んだはずだ」


 俺の義憤を感じさせる言葉に、さすがのミカエルも痛いところを突かれたような顔をする。


「それは耳が痛い言葉だね。でも、僕たちだって完璧じゃないんだ。時には失敗だってするさ」


「全知全能の創造神でもか」


 俺はミカエルからもっと色んな反応を引き出したくて、発破をかけるような口調で言った。


「聖書を読めば、父さんのやることがいつも人間に受け入れられず、失敗ばかりしていたことが分かるはずだよ」


 ミカエルは遥か古の時代のことを想起しているのか、その宝石のような目は俺を見ていなかった。


「それもそうだな」


 もし、聖書の神のやることが完璧だったら今頃この世界はキリストが言うような楽園になっていたはずだ。

 でも、実際には聖書の神はイスラエルという一つの国民すら満足に導けなかった。

 その上、現在だって、俺の世界にある国々は神の存在している息吹を感じられないような状態に陥っている。

 かくいう俺もサタナキアとの戦いでは神も仏もいないと、どん底のような気分で思わされたからな。

 創造神が遠い存在だと言うのは今も変わってはいない。


「とにかく、こんなところで立ち話をしていてもしょうがないし、君が来るのを待っている人のところに行こう」


 そう言うと、ミカエルはピクニックにでも行くかのような軽い足取りで俺の前を歩き出す。

 俺はこんな時に鬼神刀があれば、心細い思いをしなくて済んだのにと思った。でも、鬼神刀の存在もなくなっていることだろう。

 もし、ミカエルのいない状態で、力の強い妖怪に襲われでもしたら、なす術がないかもしれない。

 であれば、鬼神刀に頼らない強さも身に着ける必要があるのかもな。

 もっとも、妖怪がいなくなった世界で暮らしていくことになれば、そんな強さも必要のないものなのかもしれないが。

 それから、俺たちは大きな寺の山門の前に来た。山門には今にも動き出しそうな巨大な阿修羅像が二体、立っている。

 その雰囲気は妖怪街の入り口にあった集会場に良く似ていた。

 俺は本当に動き出すんじゃないかと思える阿修羅像に挟まれた門を潜る。

 そして、広々とした石畳の境内を通ると、普通の寺とは異なる趣きを感じさせる本殿の中に入った。

 すると、そこには驚くべきことに三メートルはあろうかという巨躯を誇る鬼が木の床の上に鎮座していた。

 頭に立派な角を生やし、飾り気のある布だけを身に着けている鬼は恐ろしいほどの力を感じさせた。

 が、そんな外見と相反するように、鬼から放たれている雰囲気はまるで清流のように澄み切っている。

 俺もこの鬼を見てすぐに悪い奴じゃないなとも思ったし、まだ一言も言葉を交わしてないのになぜか親しみも感じられた。


「良く来たな、圭介」


 鬼が発した傲然とした声が俺の腹腔に響いた。


「お前は?」


 こんな鬼と会ったのは初めてのはずだ。でも、鬼はその顔に似合わない何とも温和な笑みを浮かべている。

 少なくとも、初対面の人間を相手に浮かべるような笑みには見えなかった。


「我を見てもまだ分からぬか。我はお前の相棒だった羅刹だ」


 鬼は悦を感じさせる声で言った。


「お前が羅刹だって!」


 俺は思わず素っ頓狂な声を上げていた。もっとも、この鬼に妙な親しみを持てたのはそのためかとすぐに納得する。

 今の俺は妖気を感じ取ることができないけど、それでも、この鬼からは忘れられない気を感じたのだ。


「ああ。今はこの妖怪たちが住む世界の神をやらせてもらっている。サタナキアを倒したという功績でな」


 そう言うと、羅刹は隆々とした筋肉を見せる腕を組んだ。そんな羅刹から放たれている迫力はかなりのものだ。

 これで羅刹に敵意があったら震え上がっていたことだろう。


「そりゃ凄いな」


 俺は自分の顔をアンバランスに引き攣らせながら、ははっと笑った。


「そうでもない。毎日が退屈でうんざりしていたところだ。お前や六郎と共に退魔師の仕事をしていた頃は、年中、戦っていたからな。あの頃の方が、よほど充実していたよ」


 羅刹は強面で苦笑いをしながら言葉を続ける。


「まあ、今の我は鬼神刀という依り代からは解放されているし、一人で自由に動き回れるのは嬉しいところだが」


 羅刹がどうして肉体を失ったのかは俺も知らない。

 過去にそのことについて何度も尋ねてみたけど、羅刹は頑として教えてはくれなかったし。

 でも、自分の肉体を取り戻すのは羅刹の悲願だったし、それが叶ったのなら、嬉しくないはずがない。


「ちなみに、我が記憶を取り戻し、本来の意識を覚醒させたのは、今日よりずっと前のことだ」


 羅刹も自宅で目を覚ました俺と似たようなことを体験したのか。


「そうだったのか。じゃあ、この世界での生活は十分、満喫できたんだな」


 今の羅刹は逞しい筋肉と相まって、とても生き生きしているように見えた。

 やっぱり、体があると言うのは、長年、刀に封じ込められていた羅刹にとって、この上なく上等なことなのだろう。

 俺もそれにケチをつけるつもりはない。


「ああ。だが、ここに来たと言うことは、お前もまた世界の辻褄を合わせる力に打ち勝ったと言うことだ。まあ、いつの日かここに来ることは分かっていたが、お前は大した奴だよ」


「そうかな」


 世界に打ち勝ったなんていう大層な自覚は俺にはない。現に、俺が意識を取り戻すために頑張ったと思えるようなことは何もないし。

 もし、打ち勝てた要因があるとすれば、それは日頃の心の持ち方だろうか。


「そうだ。世界の意志に打ち勝てる者などそうはいないからな。さすが我の相棒だ」


 羅刹はそう称賛したが、俺はどうしても心が晴れないので暗澹とした顔をする。


「俺はこれからどうすれば良いんだ?」


 俺は路頭に迷ったような声で言った。


「普通の生活を謳歌すれば良かろう」


 羅刹は厚い板のような顎をしゃくりながら言った。


「でも…」


 俺は逡巡してしまう。そんな俺の気持ちを察したのか、羅刹はするりと心の隙間に入り込むような言葉を発する。


「やはり、お前はかつての世界の方が良いか」


「ああ」


 こういう世界も悪くはないと思える。

 退魔師なんていう危険な仕事はしないで、家族や友達と一緒に何とも平和で、愛すべき退屈さがある日常を送る。

 それを夢見なかったと言ったら嘘になるだろう。

 でも、実際にそれが現実になってみると、心に空洞が開いたような気持ちにしかならなかったのだ。

 もちろん、戦いのある日々の方が刺激的で好きだとかは言わないけど。


「ミカエルはお前が望むなら、お前を元に世界に帰しても良いと言っている。本物の世界はまだ何も変わってはいないのだよ」


「どういうことだ?」


 俺もすぐに羅刹の言葉の意味を理解しようと頭をフル回転させる。


「お前が今いるのは例えるなら可能性の世界だ。世界をいきなり大きく変えれば、必ずどこかに綻びが生まれてしまう。だから、とりあえず小規模な形で、予行練習のようなことをやってみる必要があるのだ」


 テレビゲームで言うなら、体験版をプレイさせられているようなものか。


「つまり、俺は夢の世界にいるのか?」


「似てはいるが、違う。この世界もお前がいた世界も列記とした現実だよ。ただ、現実ではあるが、やはり小規模なのだ。だから、お前がいた世界は一部しか作成されていない」


「塚本市しか存在してなかったと言うことか」


 俺が答えを導き出したように言うと、羅刹もさすがに理解が早いなと切り返すように言って笑った。


「そういうことだ。とりあえず塚本市だけを変えた世界を作ってみて、それが上手く行ったなら、本物の世界を大規模に改変すると言うことだ」


 本物の世界がまだ何も変わっていないなら、俺は元の生活を取り戻すことができるんだな。

 なら、俺の口にするべき言葉はもう決まっている。


「良く分かったよ。なら、俺を元の世界に戻してくれ」


 俺は一切の迷いを断ち切ったような顔で言った。


「戻すと言っても、単純に意識を移すだけだよ。この世界の君と、まだ何も変わっていない世界の君は別人なんだから」


 ミカエルの説明は俺の理解の範疇だった。


「分かっている」


 本物の世界では、こうしている今も変わらぬ時間が流れているのだろう。

 俺も何も変わっていない世界の人物と同化することには怖さを感じるが、それでも退くわけにはいかない。


「そっか。この予行練習の世界はお気に召さなかったわけだね。せっかく、大量のエネルギーを使って、小規模とはいえ平和な世界を作ってあげたのに」


 その力は素晴らしいと思うが、どこか力の使い方を間違えている気がしてならない。


「自分の体を持った羅刹と会えば、君も新しい世界を受け入れてくれると思った僕はやっぱり浅はかだったのかな」


 羅刹のことを思って俺が今の状況をなし崩し的に受け入れると考えていたなら、それは侮りというものだ。

 俺は確かに流されやすい人間だけど、ここぞという時はちゃんと踏ん張れる自信がある。

 そして、その強さは妖怪が存在する世界にいる時に培ったものだ。

 それは俺が俺である限り消えはしない。



「ああ」


 もっとも、俺も予行練習の世界の良さを否定するつもりはない。自宅のリビングで感じたあの安らぎは本物だったからな。

 それでも心置きなく留まりたい世界だとは思えなかったのだ。

 こういうのは理屈で考えても意味はないし、それなら、自分の素直な感情に従った方が良い結果に繋がるはずだ。

 何が自分にとって最善なのか、それを決めるのは、やはり自分の感情だと俺は考えているし。


「なら、我の今の意識も、まだ何も変わっていない世界にある鬼神刀に移してくれ。やはり、我もこの世界は肌に合わん」


 羅刹の言葉に、俺は感涙しそうになった。

 だって、羅刹はせっかく自由の利く体を得たのに、それでも身動きが取れないような俺との生活を再開したいと言っているんだから。

 これには、さすが相棒だなと喜びたくなる。


「ふーん。なら、本物の世界も改変するわけにはいかないね」


 ミカエルは眉間に小皺を寄せたような顔をすると、不満そうに続ける。


「父さんも君が世界を変えることも望まなければ、それに従えって僕に言ったし。ま、サタナキアを倒した勇者の意志は尊重するってことさ」


 ミカエルは悪戯坊主のような顔で舌打ちした。


「もし、俺が辻褄を合わせる力に負けていたら、本物の世界も変わってしまっていたのか?」


 それはぞっとしないな。


「そうだよ。でも、羅刹は辻褄を合わせる力に打ち勝っていたから、ひょっとしたら、君もそうなるんじゃないかとは思っていたよ」


 負けていたら羅刹もこの世界の神として生き続けたのだろう。その方が幸せな気もするけど、それは俺が言えた義理じゃないな。

 自分の生き方を決めるのは、他の誰かであってはならない。それは人間も妖怪も同じだ。


「これは二人の友情が世界の意志にすら打ち勝ったと考えていのかな」


 ミカエルの言葉は陳腐に聞こえたが、他に理由らしきものが見当たらないのも事実だった。


「嫌味はもう良いから、全てを戻してくれ」


 俺は早く元の世界に帰りたいんだ。そこには会いたくてたまらない人たちがたくさんいるし。


「分かったよ。でも、もし人間と妖怪が今までと同じように塚本の地に住んだら、必ず苦しむ者が出て来るよ。人間の側にも妖怪の側も。それは重々、理解しているんだろうね」


 ミカエルの声は透徹していた。

 その言葉は、俺の胸にグサッと突き刺さる。でも、それに押し負けることなく、俺は力強い言葉を言い放つ。


「理解しているし、俺はその程度のことなら乗り越えられると信じている。いや、乗り越えなきゃ、いずれやって来るもっと大きな問題には対処できない」


「もっと大きな問題?」


 解せない顔をするミカエルの問いかけに、俺はコクリと頷いた。


「お前ら天使や創造神はやるつもりなんだろ、ハルマゲドンを」


 ハルマゲドン…、つまり天使と悪魔の人間を巻き込んだ最終戦争のことだ。

 俺もサタナキアやミカエルが現れなきゃ到底、信じる気にはなれなかったけど、今ならハルマゲドンは必ず起きると言い切ることができる。

 あの祖父も強い確信を持って起きると言っていたしな。

 ひょっとしたら、祖父も世界の管理者とは直に会って話したことがあるのかもしれない。

 だから、世界の管理者たちについては、まるで自分の目で見てきたかのような言葉で苦言を呈していたし。


「へぇー。人間のくせに、そこまで先を見越していたのか」


 ミカエルは蛇のように目を細めて言葉を続ける。


「君の言う通り、僕たちはそう遠くない日にやるよ。創造神に従う者は生かし、そうでない者は全て断ち滅ぼす、ハルマゲドンを。それから逃げることは誰もできない」


 ミカエルは凄んできたが、その視線は真っ向から受け止めてやった。

 この箱庭のような世界にいれば、ハルマゲドンが起きるのも怖くはないもしれない。でも、本当の世界で生きる人たちを見捨てるわけにはいかない。

 ハルマゲドンが起きるのが避けられない宿命なら、俺も本当の世界と、そこに生きる人たちのためにできることを探さないと。

 それ以上に強い義務なんて俺の中にはありはしない。


「なら、今は余計なことは言わずに、俺を元の世界に戻してくれ。人間も妖怪も悪魔も、苦しんだり、傷ついたりしなきゃ、学べない存在なんだ」


 死ぬ間際のサタナキアがそれを教えてくれた。だから、その機会を奪わないでくれ。


「そうかい。そこまで言うなら、君を元の世界に戻してあげるよ。せいぜい、ハルマゲドンを乗り越えられるような強さを身に着けるんだね」


 そんなこと、言われるまでもない。


「君なら、例え創造神に従わずとも、ハルマゲドンを乗り越えられるかもしれないし」


 ミカエルはあくまで俺に創造神の意向に従ってもらいたいと思っているのか、どこか寂寥感のある声で言った。


「どうかな」


 そこまでの過大な自信は俺にはない。

 幾ら修練を積んでも創造神が下す最後の審判のような試練に打ち勝てるとは思えないからな。

 だからこそ、あのサタナキアのような強大な悪魔の力を借りることにもなるかもしれない。

 そんなことを考えていると、ミカエルは俺の二の腕にそっと触れた。


「君は自分に期待を寄せている存在が、思いの他、多いことを知るべきだね。かくいう僕もその一人だ。だから、頑張ってよ」


 頑張ってよ、という言葉を強調するように言うと、ミカエルは薄く微笑んだ。

 その微笑は今までのような嘘を感じさせるものではなく、ミカエルが初めて心の底から浮かべたいと思っている微笑に見えた。

 何だかんだ言って、ミカエルも悪い奴ではないのかもしれない。天使だけあって、どうすれば人間が良い方向に進めるかはちゃんと考えているし。

 ただ、それが人間の持つ感情からは乖離しているだけだ。


 俺がミカエルの顔を一心に見詰めていると、いきなり俺の足元に魔法陣が現れて光が膨れ上がる。

 その光の眩しさに俺も目を瞬かせた。でも、前の時とは違って、安心感に包まれていた俺は変に動じたりはしなかった。

 そして、そんな光に飲み込まれた俺の意識はスーッと薄れていった。



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