七日目・日曜日➀
〈七日目・日曜日 あり得ない日常➀〉
俺は意識がぼんやりとしながら、目を覚ました。
何だか嫌な夢を見ていたのか、酷くうなされていたような感じがする。気分もかなり悪いし、頭も鈍器で殴られたようにガンガンと痛む。
こんな目覚めの悪さは、今までに経験したことがない。
まあ、悪魔と激しい戦いを繰り広げた後だからな。このような反動に悩まされるのも仕方がないと言えるだろう。
とはいえ、気分が悪い割には、何だか妙に体が軽いな。
サタナキアと戦った直後は気絶してもおかしくないくらい全身が痛くてしょうがなかったんだけど。
あの時はただでさえ調子が良くなかった体を更に酷使してしまったからな。サタナキアと戦った後に、大霊室まで歩いていけたのが不思議なくらいだ。
まあ、大霊室にまで辿りつけたおかげで、体の疲れはかなり癒すことができたんだけど。
でも、体に負った大きなダメージは回復しきれなかった。
霊気は人の体に影響を与えるけど、傷をあっという間に塞いだりはしてくれないからな。
霊気はあくまでエネルギーに過ぎないのだ。だから、エネルギーの性質を超えたことは絶対にできない。
もちろん、人間が元々、持っている治癒力を高めることはできるけど。でも、その治癒力でも治せるダメージには限界がある。
また、ダメージを治すには相応の時間も必要だ。
もし、本当に体のダメージをできるだけ早く回復させたかったら、やはり霊薬を使うしかないだろう。
霊薬は霊気の力と薬の力が絶妙に混ざり合っていて、それが奇跡のような傷の治りを実現させてくれるから。
もっとも、本当の奇跡のように、一瞬で傷が消えたりはしないけど。
ま、体のダメージを治すには、霊気だけでも駄目だし、薬だけでも駄目ってことだな。
とにかく、そんなことはどうでも良いんだ。
さっきから、やけに懐かしい匂いがするし、背中に当たっている感触もいつものソファーとはかなり違う。
俺はまだ夢でも見ているのだろうか?
でも、この感覚は起きている時のものだし、それなら、さっさと意識をはっきりさせないと。
視界もぼやけているし、疲れ目を改善する目薬でも差したいところだな。
そんな言葉を心の中で零しながら俺はかぶりを振った。
「えっ?」
俺はぼやけていた視界がクリアーになると、自分が寝ていた場所を見て、思わず飛び跳ねてしまった。
そこは事務所のソファーなどではなく、もう何か月も足を踏み入れてなかった自宅の部屋のベッドだったのだ。
幾ら寝ぼけていようと、かつての自分の部屋を見間違えるはずがない。
俺は一体、どういうことなんだと思ったが、ルーシーと共にサタナキアを倒し、大霊室で正体を現したミカエルと話した後の記憶がない。
それは忘れているのとは少し感じが違った。記憶そのものが存在しないのだ。だから、記憶を取り戻せない時に感じられる、もやもや感はない。
とはいえ、どんなに体が酷い状態でも自宅に戻ってくることは絶対にないはずだ。妖怪街からなら、事務所の方が距離的にはずっと近いし。
しかも、今の俺は頭を除けば、体の痛みは全く感じていない。怠さこそあるが、体の状態は至って良好のように思える。
戦いで負った腕の擦り傷なども消えているし。
幾ら霊薬を使っても、一晩、経っただけで、あのダメージをここまで回復させることは不可能だろう。
それとも、ミカエルが奇跡的な力を使って、俺の体を治してくれたとでも言うのか。それならそれで、その記憶があっても良さそうなものだが。
実際、ミカエルの作り出した魔法陣から溢れて来る光に飲み込まれたところまでは憶えているんだし。
とにかく、まるで記憶が繋がっていないし、一体、何が起きたって言うんだ?誰か分かる人間がいたら説明してほしい。
俺が混乱しきりの顔をしていると、いきなり自室のドアが開く。
その瞬間、俺は敵に出くわした時のように身構えてしまったが、現れたのは、やはり見知らぬ誰かではなく、この家にいて当然の母さんだった。
「圭介、そろそろ起きなさい」
そう甲高い声を上げた母さんは料理をしている時に使うエプロンを身に着けていた。
そのエプロンは長い間、母さんが愛用してきたものだったが、一年ぶりに見るとそれも新鮮に感じられる。
俺はエプロン姿の母さんを目にして、夢かどうかはともかく、ここは自宅に間違いないという確信を強めた。
「はあ」
俺はどう反応して良いのか分からず、間の抜けたような返事をしていた。
「鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてどうしたの?」
母さんは目をパチパチさせながら尋ねて来る。
「どうしたって言われても…」
説明しようにも、自分の置かれている状況があまりにも不明瞭すぎる。かといって、母さんがこの状況を説明できるとはとても思えないし。
まあ、もう少し様子を見よう。
「今日は慎太郎君と隣町のイベント会場に行くんでしょ。B級グルメを食べ尽くしてやるって張り切っていたじゃない」
「そうなんだ」
そんな予定は全く知らないが、隣町でB級グルメの屋台がたくさん出るイベントのことは憶えていた。
もっとも、何の関心も持てないB級グルメのイベントに行くつもりなんて全くなかったけど。
でも、そうなると、今日はやっぱり日曜日だ。
枕元にあった色々なものが計れるデジタル時計も見たけど、日付も曜日も狂ってはいなかったし。
つまり、俺はサタナキアを倒して、ちゃんと次の日の朝を迎えたと言うことだ。
が、どうしても自宅に帰って来た時の記憶が思い出せない。誰かに運ばれたとも考えられるけど、それにしてはおかしなことが多すぎる。
もっと、詳しく話を聞けそうな人物を探す必要があるのかもしれない。
「そうなんだって、何、他人事のようなことを言ってるの。とにかく、お腹を空かせるのは良いけど、コーヒーくらいは飲んで行きなさいよ」
俺は母さんの声に促されるように、自室を出る。
それから、階段を下りて、郷愁のような感情を呼び起こされる一階のリビングへとやって来た。
すると、リビングには父さんがいて、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
そこには、俺が退魔師になる前と変わらぬ安らぎに満ちた光景があったし、リビングの窓から差し込む朝日もやけに眩しく見えた。
なので、俺も前に進み出ることができず、その場で動けなくなってしてしまう。
一方、そんな俺の存在に気付いた父さんは、特に慌てる風もなく、ゆっくりと新聞から顔を上げる。
「起きたか、圭介」
父さんは、俺と仲が良かった頃に見せていた顔で笑った。
「う、うん」
俺は父さんの顔を見て、今、持っている疑問をどう切り出したら良いのか分からなくなる。
下手な言葉を口にすれば、父さんを不機嫌にさせてしまうし。
でも、何も確かめないというわけにもいかない。
どうしたものか…。
「そんなに思い詰めたような顔をしてどうした?」
「どうもしないよ」
父さんは退魔師の知識をある程度、持っているし、怖がらずに打ち明けて見れば、何か分かるかもしれない。
…と、思ったものの、今の俺はなぜか曖昧な言葉しか返せなかった。
「なら、良い。それと、今日は月初めではないが、お小遣いをくれてやる。今度の中間テストでは、お前も良い点数を取ったから、そのご褒美だ」
そう言うと、父さんはポケットから黒革の財布を取り出し、五千円札をテーブルの上にそっと置いた。
父さんのこんな優しい声を聞いたのはいつ以来だろうな。少なくとも、俺が退魔師の修行を本格的に始めてからは一度もない。
それだけに、もし、今が普通の状況であったなら、素直に喜ぶことができたんだけど。
「ありがとう」
「でも、無駄遣いをするんじゃないぞ」
「分かってる。だけど、俺は自宅にいるなんて夢でも見ているのかな。いつもは目が覚めれば必ず事務所にいるのに」
夢にしてはあまりにもリアルすぎる。
実際、俺は階段を下りる前に頬を抓ってみたけど、普通に痛かったからな。
もっとも、頬を抓れば夢かどうかが判別できると言うのは馬鹿げた迷信かもしれない。
そもそも、痛みなんてものは起きていようが、眠っていようが、脳が作り出す刺激の一つに過ぎないんだし。
なら、痛みを伴う夢だってあっても良さそうなものだ。
「事務所って何だ?」
父さんは読んでいた新聞のページを捲ると、何とも不思議そうに尋ねてきた。
「退魔師事務所に決まってるだろ」
「退魔師?」
そうオウム返しに言うと、父さんはかけていた眼鏡のフレームを指で摘まんだ。これには俺も頭に血が上るのを感じる。
「何を寝ぼけたことを言ってるんだよ。俺は爺さんから仕事を譲り受けた退魔師じゃないか!」
俺は感情が高ぶるのを抑えきれなくなってしまった。
惚けているとしたら父さんも人が悪い。でも、俺の知っている父さんはそんな冗談じみたことをする人じゃない。
良くも悪くも根っからの堅物なのが父さんなのだ。だからこそ、俺も父さんの言葉を聞いて、焦りが加速するのを感じる。
「寝ぼけているのは、お前の方だろ。お前の爺さんは、生きていた頃は農園で野菜や果物を作っていたんだぞ。退魔師なんていう、わけの分からない仕事をやっているはずがなかろう」
父さんの声には俺をからかっているような響きは全くなかった。その内心までは読み取れないが、たぶん大真面目に言っているのだろう。
だとすると、おかしなことを言っているのは俺の方か。でも、祖父はしっかりと亡くなったことになっているんだな。
「どういうことなんだ?」
俺はミカエルと言葉を交わした時の記憶を思い出す。
その記憶が確かなら、ミカエルは妖怪がいなかったことになっている世界を作るとか言っていた。
だとすると、この状況を鑑みるに、俺は本当にミカエルが自慢げに語っていたような世界に来てしまったと言うことなのか。
だから、俺がやっていた退魔師という仕事もなかったことになっているのか。でも、こんな馬鹿なというか、荒唐無稽なことって、あり得るのか。
「そんな思い違いをするなんて昨日は変な夢でも見たのか?」
父さんは呆れたような顔をして、読んでいた新聞を折り畳んだ。父さんの目は眼鏡のレンズ越しに訝るような光を放っている。
それを見て、俺もこれ以上は何を訊いても無駄だなと察した。
「そんなところだよ」
俺ははぐらかすように言うと、父さんがくれた五千円札を握りしめる。
それから、母さんに慎太郎との待ち合わせ時間を聞くと、居ても立っても居られないといった感じで自宅を出た。




