三日目・水曜日➄
〈三日目・水曜日 接触➄〉
俺は事務所に帰って来ると出前で取った醤油ラーメンを食べていた。
メールによると霧崎は今日の夜も来るらしいし、一日に二回も彼女の顔を見るのは何だか慌ただしいな。
もっとも、全く音沙汰ないというのも、それはそれで不気味に思えてならなくなるけど。
俺は店屋物ばかりだといけないなと思いながらも、額から玉のような汗が流れ落ちるのを感じながら麺をすする。
それから、一滴残らずスープを飲み干してどんぶりを空にすると、ぼんやりと事務所の黄ばんだ天井を眺めた。
呆けたような時間がしばしの間、続く。
…さて、これから来る霧崎はどんな情報を携えて来るか。俺としては吉報であって欲しいけど、そう都合良くはいかないだろう。
焦りを感じている時の物事というのは得てして悪い方向にしか転がらないものだ。だからこそ、どんな悪いことにも対応できるように平常心を保つ必要がある。
俺が物思いに耽りながら点けていたテレビに視線を向けていると、三つ目の大霊石が壊されたというニュースが報道された。
このニュースには俺も両眼を大きくさせる。
それもそのはず、テレビに映された大霊石は粉々に砕け散っていて、小さな石の塊になっていたのだ。
あの大きな石をここまで粉々に砕くのは、並大抵のことではない。
例え重機のようなものを使っても無理だろう。しかも、重機なんかが大霊石のあるところまで運ばれれば、絶対に目立つ。
となると、ダイナマイトやプラスチック爆弾を使ったと考えるのが妥当になる。でも、こんな平和な町で、爆弾を使ったりする人間がいるだろうか。
その上、ニュースによると大霊石が砕かれたのは人目に付く真昼間だと言うし、やはり人間の仕業じゃないと思えるな。
でも、妖怪の仕業とも思えない。
前にも言った通り、霊気をエネルギーにできる妖怪が大霊石を破壊しても、全く特にはならないからだ。
つまるところ、人間にとっても妖怪にとっても霊気の通り道が消えて良いことは何もないということになる。
逆説的に言うと、人間でもなければ、妖怪でもない存在が大霊石を破壊しているということになるのだが。
ひょっとして、これをやったのは非人間じみた魔力を持つルーシーだろうか?
彼女なら、大霊石を壊しても、それほどおかしくないように思える。でも、石が壊されたと推定される時間、彼女は確かに学校にいた。
つまりアリバイがあるのだ。
だとすると、サタナキアの犯行だろうか。西洋の悪魔は霊気を嫌っている奴が多いし。
悪魔は魔力や妖力などは大好物だが、神気や霊気は苦手らしい。もっとも、神気や霊気を吸収し、エネルギーに変えることができないわけではないが。
でも、長い間、魔力や妖力などのエネルギーばかりを吸収していた悪魔はその作られた体質ゆえに、霊気などを吸収すると拒否反応を起こすことがあるらしい。
人間で言うならアレルギーのようなものだ。
だから、悪魔は霊気に満ちた教会を嫌うって聞いてるし。あと、霊気が液体になった聖水なんかも。
霊気を嫌う悪魔が大霊石を壊したというのは十分、あり得る話だった。
俺が色々と考えを巡らせていると、時間通りに霧崎がやって来る。もちろん、紅茶とお菓子は用意済みだ。
「待たせたな」
霧崎は目のクマをすっかりと消した顔で俺の前に現れた。たぶん、昼間の内に仮眠でも取ったのだろう。
霧崎の仕事はいつもハードだし、それだけに寝不足くらいで体調を崩すようなヘマをするわけにはいかない。
「そんなことはありませんよ。時間、ピッタリです」
「そうか。だが、今夜は忙しいから、重要な話だけをするぞ」
霧崎はソファーに座ると味わう風でもなく、用意されていた紅茶を喉に流し込む。
でも、その紅茶は桜井を見習って、いつも以上に丁寧に入れてみたものなんだけどな…。
ま、紅茶にうるさい霧崎にとっては、今の俺の技術で入れた紅茶の味などじっくり楽しむまでもないのだろう。
俺も本格的に紅茶の入れ方を勉強してみようかな。
「はい」
俺もいつも以上に集中して話を聞くような表情へと変える。
「単刀直入に言うが、君や他の祓い屋に回すはずだった仕事の一部が、話に聞いていた異国の魔術師の方に流れた」
「本当なんですか?」
「ああ。おかげで組合の方も相当、カッカしてたよ」
霧崎はまるで他人事のように笑った。そのおかげで、俺も深刻ぶるような顔をしなくて済んだんだけど。
でも、剣呑な事態であることは間違いないし、俺も謹厳な態度で口を開く。
「無理もないですね。組合のルールを無視されただけでなく、仕事まで横取りされたわけですから」
下手したらルーシーは組合の制裁を受けかねないぞ。ルーシーは例え人間が相手でも容赦なく殺すつもりなのだろうか。
もし、ルーシーが人間すらも傷つけるようなら、俺もそれ相応の対応をしなければならなくなる。
最悪、鬼神刀の刃が彼女の肌に食い込むことにもなりかねないな。
「式の報告によると、君は異国の魔術師と接触を持ったらしいな」
霧崎も祓い屋の一人なので、あまり力のない妖怪ではあるが式として使っている。特に霧崎は情報を命とした仕事をしているから、様々な場所に式を飛ばしているのだ。
当然、ルーシーの同行も式に見張らせていたに違いない。でも、俺は式の気配には全く気付けなかった。
これは霧崎の式が気配を隠すのに長けていたことと、俺自身の気配を探る力が未熟だったことによるものだろう。
ひょっとしたら、ルーシーは俺には何も言わなかったが、式の存在には気付いていたのかもしれないな。
気付いていて、俺と話す時は素知らぬ顔をしていたというなら、大したタマだ。
ちなみに、式とは退魔師や祓い屋が用いる使い魔のようなものだ。その使い魔は何も妖怪だけに限らない。
精霊や悪魔などの高次な存在も従えられる力さえあれば、式にはできるのだ。
「ええ。彼女とは色々と話しました」
「何を聞いた?」
「ルーシーは俺や他の祓い屋たちのやり方が甘いから、自分がこの町に来ることになったと言っていました」
「そうか」
霧崎は難しい顔で頷くと、胸のポケットからタバコの箱を取り出した。が、俺の顔を見てすぐにハッとして箱を戻す。
霧崎は祖父と同じようにヘビースモーカーなのだ。
でも、俺がタバコを嫌っているのを知っているので、この事務所では極力、吸わないようにしている。
もっとも、反射的にタバコの箱を取り出してしまったのを見るに、今日の霧崎は相当、ストレスが溜まっているのかもしれない。
「この地に住む人が悪霊や妖怪をしっかりと退治するルーシーのやり方を求めているとも言われましたね」
「…」
「何も言い返せませんでしたよ、その言葉には」
今でもルーシーの言葉は苦い感情として胸の中で蟠っている。俺の話を聞いた霧崎も痛いところを突かれたような顔をしているし。
この地にいる退魔師や祓い屋の中に、ルーシーの言葉に筋の通った反論ができる人間がどれだけいるか。
だからこそ、ルーシーの提起した問題は俺だけでなく、この塚本の地にいる全ての人間に当て嵌まることのような気がした。
「ま、理解できる言葉ではあるな。確かにこの地にいる祓い屋たちのやり方は甘いと言わざるを得ない部分があるし」
「ですよね」
「それが異国の地に住んでいた人間なら尚更なのかもしれん。私も悪魔たちが跳梁跋扈している英国育ちだから、その辺のことは推し量れる」
つまり、イギリスではあのサタナキアみたいな悪魔がゴロゴロしてるということだ。イギリスの闇世界の物騒さは日本の比じゃないな。
だけど、ルーシーはそんな世界で生きてきたのかもしれないのだ。なら、人としての情が欠けていても、責めることはできないのかもしれない。
「でも、ルーシーのやり方を認めるわけにはいかないんでしょ?」
それを認めたら、長年、積み上げてきたこの町の祓い屋たちの努力が無駄になる。それだけは絶対にできないことだろう。
「当然だ。だが、ルーシーの背後に大きな組織があるのは間違いないだろう。それを突き止める前に迂闊に手を出すのは避けた方が良いだろうな」
祓い屋組合と同じような組織が異国の魔術師たちの間にもあるのだ。
俺も一通りの知識しか持ってないけど。
でも、その組織の後ろ盾を得ることなく、悪霊や妖怪を退治するような仕事をするというのは考えづらい。
それが自国でないのなら尚更だろう。
ヨーロッパの闇世界は今でもギルド的な体質を持つと言うし、そういう世界ではモグリで活動をする人間が一番、嫌われるとも聞いている。
その辺は祓い屋組合の体質と何ら変わらない。
もっとも、ルーシーからはモグリの人間が持つ特有の卑しさのようなものは微塵も感じなかったけど。
「そうですか…。でも、やっぱり、人間と霊や妖怪は相容れないものなんでしょうか?」
俺は霧崎の見解を求めるように問いかける。
俺よりもずっと長くこの業界で働いてきた彼女なら、納得できるような言葉を口にしてくれると信じながら。
「私はそうは思わない。今までだって、この地では人間と霊や妖怪が共に暮らしてきたわけだし、危ないことは多々あったが、それでも何とかやって来た」
霧崎は慎重に言葉を選ぶように続ける。
「だが、それはあくまで祓い屋としての意見だ。普通に暮らしている一般人にそんな理屈は通用しないだろうな。一般人にとっては悪霊や妖怪など犯罪者と同じだ」
現実問題、悪霊や妖怪の被害に遭うのはいつも力のない一般人だ。
中には殺された人もいるし、ルーシーの被害者の感情を無視しているという言葉は痛いほど的を得ているのだ。
「なら、一般人にはルーシーの言葉の方が正しく聞こえてしまうんでしょうね」
俺もルーシーの言葉に対して、自分がいかに苦しい理屈を口にしているかは理解してたし。
だからこそ、寝覚めの悪さのようなものが、いつまでも消えないでいる。
「そうだろうな。だが、いずれは、どんな人間であっても霊や妖怪と共存できる日が来る。少なくとも我々はそう信じなければならない。でなければ、この業界で身を削るように働くことなどできないよ」
「ええ」
確かにルーシーの言うことは心に堪えけど、でも、それで膝を突いてはいけない。だからこそ、俺は俺にできることをしていこう。
そうすれば、ルーシーにも憚りのない言葉を返せるようになるかもしれない。全てはこれからだと思う。
「それと、こんなことを頼むのは気が引けるんだが、君には引き続きルーシーから色んな情報を引き出してもらいたい」
そう頼む霧崎は彼女にしては珍しく決まり悪そうな顔をしていた。
「ルーシーの背後にいる組織の尻尾を掴むために俺を利用するんですか?」
「その通りだし、これは君にしかできないことだ」
霧崎は揺るぎない声で言った。
「…分かりました」
俺だって一応、この業界のプロだ。時と場合によっては、捨て石のように利用されることがあることくらい覚悟している。
もし、その覚悟がないなら、この業界にはいちゃいけない。退魔師や祓い屋の世界は時にヤクザの世界よりシビアになることがあるからだ。
幾らヤクザだって、銃器では歯が立たず、簡単に人間を焼き殺せるような炎の球を投げつけてくる敵と戦うことはないだろうからな。
厳しさと甘さの両方を兼ね備えたような心を持たなければ、この業界の仕事は務まらない。
「彼女が我々のやり方が甘いと言うなら、その認識を改めさせてやるようなやり方を見せてやろうじゃないか。もちろん、この業界のルールはちゃんと守りながらだがね」
霧崎はいつもの心の余裕を取り戻したように言った。
「そうですね。どのみち行動で示さなければ、彼女は止められないでしょう」
行動の伴わない言葉は誰の心にも響きはしない。それは、どの国の人間が相手でも同じことだろう。
むろん、俺は言葉よりも行動を重んじるタイプの人間だし、ルーシーが何か仕掛けて来るというなら悠長に構えているつもりはない。
もちろん、どんな事情があろうと、彼女と分かり合おうとする努力を諦めるつもりはないが。
「ああ」
霧崎が力強く頷くと、俺は何だか光が見えてきたような顔で笑った。