三日目・水曜日➂
〈三日目・水曜日 接触➂〉
昼休みになった。
さすがに昼休みにもなると重苦しい空気は消えてなくなり、楽しそうな声が教室のあちこちで発せられるようになった。
でも、ルーシーは昨日と同じように一人でポツンとしているし、薄情にも手を差し伸べるような生徒は誰もいなかった。
彼女の周りだけ、氷点下に達した真冬のような空気が漂っているし。事実、ルーシーの傍に行けば肌が凍傷にかかってしまいそうだ。
だから、彼女の半径三メートル以内には誰も近づかない。みんなルーシーと同じ空気を吸うことさえ拒んでいるように見える。
転校してきたばかりの女の子にこんな仕打ちをして、みんなは心が痛まないのだろうか。
まったく、世知辛い人間関係もあったもんだな…。
俺はこれは退魔師としての義務なんだと自分に言い聞かせながら、なけなしの勇気を振り絞ってルーシーの席に歩み寄ろうとする。
でも、動かしている足は鉛でもぶら下がっているかのように重たかったし、何度も引き返したいという気持ちにもさせられた。
それでも、何とかルーシーの席にまで辿り着くと、俺は舌が縺れるのを感じながら口を開く。
「少し話したいんだけど」
俺がそう言葉を発すると、教室にいた生徒たちが一斉にこっちを振り向いた。まるで時が止まったかと錯覚するくらい周囲が静かになったからな。
これには俺も体がガチガチになるのを感じる。やっぱり、俺は小心者だ。
「話?」
ルーシーは胡乱な目をしている。でも、俺と違って、その顔に動揺の色はない。まるで、精巧な仮面でも被っているようだ。
「ああ。だから、場所を変えたいし、ちょっと付いてきてくれないか?」
俺は緊張で声が震えそうになったが、何とか堪えて見せる。
ここで臆したら負けだし、今なら一生分の勇気を使い切っても構わない。だから、退いちゃ駄目だ。
退いたら二度とルーシーとはまともな会話ができなくなる気がする。
「分かりました。その代わり、購買に連れてってください」
ルーシーは意外な言葉を口にした。
「購買?」
「今は昼休みでしょ?だから、お腹が減ってるんです」
「そうなのか?」
俺はルーシーが非人間的なロボットのように見えていたので、その言葉には少し意表を突かれてしまった。
まあ、ロボットって言うのは、ちょっと酷い言い方かもしれない。
どんなに可愛い女の子だって、三度三度、食事はするだろうし、トイレにだって行くはずだからな。
それをやらないのは慎太郎の好きな漫画やアニメの女の子だけだ。
ちなみに、俺は昼休みになると、いつも慎太郎と一緒に食堂に行っている。ま、たまには購買を利用する時もあるけど、慎太郎と一緒というのは変わらない。
でも、今日は慎太郎も気を利かせて、一人で食堂に行くと言ってくれた。慎太郎には昼休みになったらルーシーと腹を割って話すことを打ち明けていたし。
「そんな嫌そうな顔はしないでください。たかが、購買じゃないですか」
ルーシーは憮然とした。
でも、俺は外国人の女の子と話したことなんて、ほとんどというより一度もないし、あまり大きなことは求めないで欲しい。
「だけど、昨日は…」
「昨日はただ我慢していただけです。私だって人間なんですから、お昼時になればお腹も減ります」
もっともな言葉だった。なので、俺もその言葉に押されて、視線を泳がせる。でも、心の中ではルーシーって意外と話せる人間なんだと呟いていた。
正直、話しかける前は邪険にあしらわれるだけだと思っていたけど。
「それもそうだな。じゃあ、購買には寄って行くよ」
「ありがとうございます。…エスコート、お願いしますね」
ルーシーはまるで見る者の心を洗うような微笑を浮かべた。
それを受け、俺も何だか胸が高鳴るのを感じる。
昨日はあんな酷いことをした女の子だと言うのに、不覚にもそのことを忘れてしまいそうになった。
だから、俺は敢えて心の中で、昨日、抱いた憎しみを思い出そうとする。
が、上手くはいかなかったし、今のところは彼女を無理に嫌うことはできそうになかった。
「そんな風に笑えるんだな」
俺はボソリと言葉を漏らす。すると、ルーシーはこちらが予想していなかったような反応を見せた。
「えっ…」
ルーシーの顔の表情が一瞬、大きく崩れた。その崩れた表情の隙間から垣間見えたのは、普通の年頃の女の子としての顔だ。
それはルーシーの虚飾のない素顔と言っても良いかもしれなかった。
そう、彼女は決してロボットなどではない。
たぶん、無理をしていただけで、本当は年頃の女の子としての顔を幾つも持っているはずなのだ。
それを表に出さず、逆に覆い隠すような顔をしているのは、俺はともかく他の男子にとっては残念としか言いようがないだろう。
でも、言い換えれば自分に無理をしてでも、彼女はこの学校に通いに来ているということだし、その理由は突き止めなければならないと思える。
「いや、何でもない」
俺は慌てて言ったが、ルーシーはムッとした顔をする。話せば話すほど、色んな表情を見せてくれそうだな。
彼女の持つ魔力の大きさも今なら気にならない。
「私は仕事とプライベートの時間は完全に分けて考えています。だから、昨日の夜のことをいつまでも引きずる必要はありません」
ルーシーはまるでやり手のビジネスマンのような理屈を口にした。
でも、その言葉に嘘はないのか、今のルーシーからは昨日の夜に見せたような冷徹さは感じ取れなかった。
なので、俺も心の中で燻っていた怒りが燃え上がらずに済んだ。
「そっか」
少なくとも、今のルーシーは敵ではないということだ。それならこっちも安心できるし、喧嘩腰な態度は取らないようにしよう。
彼女が戦わなければならない敵になるとまだ決まったわけではないし、もしも、話し合いでお互いの溝を埋められるのならそれが一番、良い。
こういう時こそ、分かり合おうとする努力を最大限、するべきだ。
俺は自分とルーシーのやり取りをじっと窺っているクラスメイト達の視線に耐えかねて、廊下に出る。
すると、ルーシーも金髪のツインテールを揺らしながらトテトテと付いてくる。
俺は廊下にいる生徒たちの視線も自分とルーシーに集まるのを感じていた。だから、そんな視線を振り切るように歩を進める。
そして、道を間違えることなく購買の前にやって来た。
購買は駅のホームにある売店のような形になっていて、その前には生徒たちの人だかりができている。
まるで、デパートのバーゲンセールの品に群がるおばさん状態だ。
特に男子は色気より食い気なのか、パンを買うのに忙しくてルーシーの方を注視したりはしなかった。
俺は購買に殺到する男子生徒たちの浅ましさにげんなりする。でも、グズグズしていると人気のあるパンはあっという間に売り切れだ。
ここは俺たちも彼らの浅ましさを見習って、強引にでも割って入るしかない。
そう思った俺は生徒たちを掻き分けて、前の方にまで来た。
その隣にルーシーも並ぶ。
さすがの男子たちもルーシーを無理に押し退けてまで、パンの売り箱に詰め寄るようなことはしなかった。
「俺はカレーパンとコロッケパンとジュースを買うけど、ルーシーは?」
「…何がお勧めですか?」
ルーシーは売り箱に並べられた様々なパンを見ると、少し恥ずかしそうに言った。
「やっぱり、王道のカレーパンだろうな」
「じゃあ、それで良いです。王道から逸れても良いことはありませんから」
「でも、ルーシーは何か自分で食べたいと思うものはないのか?」
あるなら隠さずに言って欲しい。好きな食べ物を知るのも、相手との距離を縮めるコツだから。
「焼きそばパンが食べたいです。日本の漫画にとっても美味しいって書いてありましたから」
ルーシーも漫画を読むのか。
まあ、まだ高校生の女の子だからな。漫画を読んでいても何の不思議もない。でも、漫画の知識を現実の世界に持ち込み過ぎるのは考え物だぞ。
漫画と同じものを求めて、幻滅する人間は少なくないからな。
「確かに焼きそばパンは美味しいけど、外国人の口に合うかどうかは分からないぞ」
「そうなんですか?」
「うん。口に青海苔も付くし」
だから、焼きそばパンは美味しいけど女子には敬遠される。もっとも、そのおかげで、カレーパンよりは競争率も低いんだけど。
「青海苔は知っていますし、それが付くのはちょっと恥ずかしいですね…。でも、挑戦してみます」
そう言うと、ルーシーは人混みに怯むことなく、焼きそばパンを自分の手でしっかりと掴んで買った。
あと、俺が勧めたコーヒー牛乳も買うと、購買から離れる。
俺は今度は落ち着いて話せる場所を求めて、屋上に向かって歩いて行く。階段を上り、踊り場を通ると、一際、真新しく感じられるアルミ製のドアを開けた。
すると、眩しくて目を細めたくなるような強い日の光が押し寄せてくる。
辿り着いた屋上はとても広くて、真っ白なコンクリートの板がまるで石畳のように床に敷き詰められていた。
それが整然とした雰囲気を作り出している。
塗りたてのペンキのような輝きを放つ群青色のベンチなども設置されていたし、屋上にあるベンチの数はかなり多かった。
他にも屋上には色んな花が植えられた花壇もある。花壇は何ともモダンな形をしていて、花も美しく咲き誇っていた。
聞くに、花壇の花の種類は六十種を超えると言うし、外国の珍しくて貴重な花も咲いていると言う。
でも、繊細な花も多いだけに花壇の手入れはとても大変らしいが。
一方、緑の樹木などもコンクリートの隙間から生えるようにして植えられている。それも、この屋上の良いアクセントになっていた。
そして、高さを抑えられた柵の向こう側には、俺の住んでいる町の景色が広がっている。
ここからなら、どんな場所だって見渡すことができた。
もし、緑の山がなければ、地平線だって見えたかもしれない。
この景色を見る度に、塚本市は田舎だと思い知らされるし、山の向こう側にある都会に行ってみたいなとも思えるのだ。
俺は退魔師事務所がある雑居ビルを眺めて笑う。いつもは大きく思えていたビルも、ここから眺めると何と小さいことか。
視点を変えると、同じものでも大分、印象が変わって見えるな。やはり、物事を把握する上では視点を変えてみるというのは大事なことだ。
とにかく、本来なら無機質なイメージで固められているはずの屋上だが、この塚本学園の屋上は幾つもの鮮やかな色彩が互いを引き立てるようにして存在している。
こんなまるで空の上に作られた公園のような場所だからこそ、ここでお昼を食べる者も多いのだろう。
きっと、ここで食べるパンは美味しさの方も三割増しくらいになっているに違いない。
俺は何とも言えない解放感を感じながら、抜けるような青空を見る。久しぶりに来たけど、やっぱり屋上は良い場所だ。
「素敵な場所ですね。まるで、物語に出て来る空中庭園みたい…」
ルーシーは宝石のような瞳を瞬かせながら言った。それを聞いた俺も空中庭園とは良い表現だなと思う。
俺は空中庭園なんて、オカルトの雑誌に載っていた古代バビロンのイラストでしか見たことがないけど。
「そうだな。でも、ここで昼食を食べるのは、女子のグループやカップルばっかりなんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。だから、男がここで一人で昼食を食べるのは抵抗がある」
事実、ベンチを使っているのは女子のグループや仲睦まじそうなカップルだけだ。一人でベンチを占拠しているような男子はどこを見渡してもいない。
だからこそ、俺も良い場所なのに残念だなと思うのだ。
「なるほど。それは、何だか勿体ないですね。高校生のカップルなんて、みんな死ねば良いのに…」
ルーシーはクスッと笑った。
何だか、サラリと怖い言葉も口にしたが、それでも彼女の笑い方は他の女子には到底、真似できない魅力があった。
「あ、ああ。とにかく、あそこのベンチが空いてるから座ろう」
俺は錆一つないピカピカの貯水塔の近くにあるベンチを指さした。
「はい」
ルーシーがそう返事をすると、俺たちは光沢のある群青色のベンチに腰を下ろす。そして、買ったばかりのパンを食べ始めた。
「焼きそばパンは口に合うかな?」
「………美味しいです。これ、美味しいですよ!」
ルーシーは女の子の小さな口ではちょっと食べるのが大変に感じられる焼きそばパンを齧りながら言った。
その目は新鮮さを感じさせる驚きで、大きく見開かれている。
「落ち着いてよ」
まさか焼きそばパンを食べたくらいで、ここまでオーバーなリアクションをしてくれるとは思わなかった。
なので、ルーシーは他の女子よりよっぽど感情表現が豊かなのでは、とも思えてきた。
たぶん、教室にいる時の彼女は相当、窮屈な思いをしているに違いない。
彼女のこんな様子は、クラスメイトにも見せてやりたかったな。そうすれば、近寄りがたいという誤解も解けるかもしれない。
「でも、様々な具材が良い感じに絡み合って、まるで味のハーモニーを奏ででいるみたいです」
「テレビに出てくる食通みたいなことを言うんだな」
「だけど、想像していたよりずっと美味しいから…。こんなパンを毎日、食べられるなんて日本の方は恵まれていますね」
「そうかもしれないな」
俺はルーシーの反応を見て、心の中にあった苦い気持ちが、氷が溶けるように消えていくのを感じていた。
「初めて、日本に来て良かったと思いました」
ルーシーはホロリとした顔で零した。
「焼きそばパン一つでそう思えるなんて、ルーシーは安上がりなんだな」
でなければ、焼きそばパン以外には日本に来て良かったと思えることが何一つなかったかだろう。
もし、そうだったら日本に住む者としては、寂しいとしか言いようがない。
ま、それなら、日本に来て良かったと思えるようなことを、もっと提供してあげるだけだ。
それが彼女の心をほぐすことにも繋がると思えるし。
「でも、本当です…。こういうのは高いとか、安いではなく気持ちですから…」
「気持ち、ね」
「…そうです。人間にとって一番、大事なのはやっぱり気持ちだと思います。気持ちが籠っていれば、それが例えどんな物であったとしても喜ばれると思いますし…」
ルーシーは恥じらうような顔で持論のような言葉を口にする。
「もっとも、この言葉は日本の漫画の受け売りですけどね」
ルーシーは一転して茶にするように笑った。こういう爛漫な顔はもう普通の女の子にしか見えないな。
俺ならともかく、他の男子が今のルーシーの輝くような笑顔を見たら、きっと心をノックアウトさせられてしまうだろう。
だからこそ、教室にいる時も今、持っている雰囲気を保ち続けてほしかった。
「例え受け売りでも、気持ちの大切さが分かっているなら良いんだ。とにかく、食べながらで悪いんだけど、幾つか尋ねたいことがある」
昼休みの時間は限られているし、俺は躊躇うことなくそう言った。
「………言ってください」
ルーシーは何を尋ねられるのか知悉しているのか、たちまち曇った顔をした。これには俺も心がアイスピックで突き刺されたように痛くなる。
でも、俺はルーシーとただ仲良くなるためにここに来たわけではない。だから、無粋な話もしなければならなかった。
「君はどうしてこの町に来た?」
俺は回りくどい言い方はせず、ストレートに尋ねた。
「悪霊や妖怪を退治するためです」
それはもう知っている。
「でも、君は異国の魔術師だろ。わざわざこんな田舎に来てまで、悪霊や妖怪退治をする必要はないと思うんだけど」
「この町に住む人から頼まれたんです。悪霊や妖怪を退治して欲しいと」
「それは誰なんだ?」
「言えません。依頼人のプライバシーは守らなければなりませんから」
まあ、簡単には教えてもらえないとは思っていたけど、やっぱり、その辺のことはガードが堅いな。
このガードを緩ませるには、もう少し仲良くならなければ駄目だろう。でも、下心を持ちながら、彼女と仲良くなろうとするのは気が引ける。
というか、俺はそういう卑怯なことをしたくない。
であれば、例え痛い思いをしても、正面から彼女の心に体当たりしていくしかないのかもしれない。
「そっか。じゃあ、ウチのクラスに転入してきたのは偶然?」
「違います。失礼だとは思いますが、あなたの顔を見て、その力の程を確認するためです」
「やっぱり、そうなのか…」
ルーシーは俺と戦うことも覚悟の上でこの町にいるのだろう。下手をしたら、本当に彼女とは命のやり取すらすることになるかもしれない。
次にルーシーと衝突した時は、俺も甘ったれた言葉は口にしないようにしないとな。でないと、またあの憎たらしいサタナキアに嘲られる。
「はい。この町で悪霊や妖怪退治をすれば、宮代家の人間とは必ずぶつかることになると先方から言われてましたから」
その先方とやらは、この業界のルールをちゃんと知っている。
知っていながら、そのルールを破るようにルーシーに悪霊や妖怪退治をやらせているのだ。
なら、よほどの事情があるのだろう。
霧崎が言っていた大きな陰謀という言葉もあながち外れてはいないのかもしれない。
「なるほどね。偵察みたいなものか」
「はい。でも、私がこの町に来た背景なら、少しだけ明かしてあげられます」
ルーシーは譲歩するように言った。
「じゃあ、聞かせてくれ」
今はどんな情報でも欲しいし、ルーシーがうっかり口を滑らしてくれれば、こちらとしては儲けたものだ。
「失礼な言い方になりますが、この地を霊的に管理している宮代家や祓い屋組合が甘いやり方をしているから、私のような人間が呼ばれたんです」
ルーシーの忌憚のない言葉を聞いて俺は思わず黙り込んでしまった。
「…」
「先方からも色々と話を聞きましたが、宮代君はなぜ人に危害を加えている悪霊や妖怪をちゃんと退治しないんですか?」
ルーシーは義憤を感じているような顔で問いかける。なので、俺も自分の信念を語らないわけにはいかないなと思った。
「心を持っている者は命として扱わなければいけないし、それを殺すなんて俺にはできないよ」
俺は自分が貫いてきた信念だというのに、弱々しい声で言ってしまった。
たぶん、自分の信念の欠点のようなものを指摘されるのが怖かったのだろう。相手が自分の言葉を聞いて、どこを突いてくるかは熟知していたし。
「殺すのが、辛いのは私だって分かります。でも、やっぱり、それは甘いと思います…」
その言葉から察するに、昨日のルーシーも平然と妖怪を殺したわけではなかったと言うことか。
だとしたら、やはり、ルーシーにも妖怪に対する情があると言うことだ。その情がどの程度のものなのかは分からないけど。
「…」
俺は再び黙り込んでしまった。
もし、ルーシーが昨日の夜と同じ態度で甘いという言葉を口にしていたら、俺も勢いで何かを言い返すことくらいはできたはずだ。
でも、今の彼女は普通の人間と変わらぬ心で、俺の言葉を噛み砕いているのだ。だから、俺も雄弁には語れず言葉に詰まってしまった。
そして、そんな俺の様子を見たルーシーは更に切り込んでくる。
「もしも、逃がした悪霊や妖怪がまた悪さをしたらどうするんですか?」
それを言われるのが俺にとっては一番、苦しいことなのだ。もっとも、例えルーシーでなくとも、その点については尋ねてきたことだろう。
なのに、俺は明確な答えを用意していなかった。いや、用意しようとしても、用意できなかったのだ。
それが、俺の持つ心の弱みだった。
「そしたら、また懲らしめるだけだよ…」
「そんなの甘すぎますよ」
ルーシーは唇を噛みながら言った。
その顔は、なぜ、そこまで悪さをする悪霊や妖怪に優しくなれるのか理解できないといった感じだ。
でも、悪霊や妖怪たちが悪さをする時には、ちゃんと事情があることも分かってほしい。
その事情の中には、人間の悪さが原因になっていることもたくさんあるのだ。
悪いのは妖怪だけじゃない。
なのに、人間の方には何のお咎めもないことがあまりにも多すぎる。それも、俺が妖怪に甘くなってしまう大きな理由の一つだ。
「かもしれない。でも、それは人間の社会だって同じだろ?」
俺は反駁するように言った。
「どういう意味ですか?」
ルーシーは眉を持ち上げる。それを見て、俺は巻き舌で言葉を発する。
「一度、犯罪を犯した人間はまた犯罪を犯す可能性が高い。下手したら、もっと大きな犯罪を犯す可能性すらある。でも、だからといって、その人間を今の内に殺してしまおうという理屈にはならないだろ?」
「そうですけど…」
「どんなに悪いことをした人間にも更生と社会復帰のチャンスは与えられるんだ。なら、その理屈は心を持つ悪霊や妖怪にも当てはめたい」
もちろん、当てはめられないケースが多々あるのは俺も理解しているけど。
「でも、それは屁理屈も良いところですし、悪霊や妖怪に苦しめられている人たちの感情も無視しています」
「それは俺だって分かってるよ」
分かっていて、それでも尚、俺は自分のやり方を貫き通しているのだ。なら、そこについては下手な言い訳をするわけにはいかない。
相手が自分と同じ世界で生きている人間なら特にそうだ。
「じゃあ、もしも逃がした悪霊や妖怪が人を殺したりしたら、どう責任を取るんですか?」
実際、自分が逃がしてやった悪霊や妖怪が他の場所で悪さをしたこともあるし。だけど、それでも俺はその悪霊や妖怪を殺すことができなかったのだ。
だからこそ、俺のやり方を甘いと非難する祓い屋たちはいる。でも、その祓い屋たちも全くの無理解ではない。
妖怪を使役しているような連中だからこそ、俺の心中も痛いほどよく理解しているのだ。
中には妖怪と確かな友情を築いている者もいるし。
いずれにせよ、悪霊はともかく、妖怪は無闇やたらに退治してはいけないというのが昔からの祓い屋組合の方針だった。
「責任なんて取れないかもしれない…。でも、それが昔から続いてきたこの地のやり方なんだよ」
それが嫌だったら、他所の町に移るしかない。
「…」
今度はルーシーが黙る番だった。
「どんなことでも、国や地域が違えばやり方は大きく変わる。なら、自分のやり方がどの場所でも通じるなんて思わない方が良いよ」
俺はそう諭すように言ったが、ルーシーはどうしても納得できないような顔をする。理屈としては分かっても、感情としては受け入れ難いものがあるのだろう。
でも、それはお互い様だ。
俺だってルーシーの言うことがどんなに正しく聞こえても、そのやり方に倣うことは絶対にできないだろうから。
「なら、宮代君も私のやり方に文句は付けないでください…」
「でも、それは…」
「この地に住む人が私のやり方を求めているんです。その現実はしっかりと受け止めてください!」
そう叩きつけるように言うと、ルーシーは残っていた焼きそばパンを一気に口の中へと放り込みベンチから立ち上がる。
それから、怒りの表情を浮かべながらも、目だけは悲痛そうな光を湛えて俺の前から去って行く。
その後姿を視線で追いながらも、情けないことに俺はその場から一歩も動くことができなかった…。