三日目・水曜日➁
〈三日目・水曜日 接触➁〉
俺はソワソワしながら学校までやって来た。それから、ルーシーと顔を合わせるのは何だか怖いなと思いながら教室に入る。
教室は爽やかな喧騒に包まれていて、クラスメイト達が楽しそうにお喋りをしていた。
大きなグループを作っている男子たちからは馬鹿笑いも聞こえて来たし、女子たちの表情にも普段通りの明るさがあった。
そんな教室の窓の外は今日も綺麗な五月晴れで、空には薄い雲一つないし、爛々と輝く太陽からも柔らかな光が降り注いでいる。
こういう朝は友達との会話も自然と弾んでしまうんだろうな。やっぱり、朝の教室は健全な空気で満たされていなければならないと思える。
でも、それを見ていると、俺は何だが皮肉気な気持ちになった。
ホント、ここにいる連中は呆れるくらい平和だ。こっちは昨日の戦いで負った火傷がまだヒリヒリと痛むのに…。
この町の平和を命懸けで守っている俺の活躍を誰も知らないなんて、少しばかり理不尽に思えてしまう。
もちろん、俺だってそれを承知で退魔師の仕事をしているし、霧崎にも世間からの称賛なんて求めてないと、きっぱりと言った。
でも、たまにはだけど、自分の頑張りを表の世界の人間にも正当に評価してもらいたいという感情は生まれる。
ま、現実に存在する正義のヒーローなんてそんなものなのかもしれないな。
どんなに子供じみたアニメや漫画のヒーローにだって、今の俺と似たような葛藤は付き物なわけだし。
それに、正義のヒーローが世間にその正体を知られる時は大抵、どうにもならないような切羽詰まった時だ。
現実の世界で生きる俺には、そんな時は絶対に訪れてはならないと思える。
俺は大きく息を吸って、ルーシーの席の方を見る。が、幸いにもルーシーはまだ教室には来ていないようだった。
これにはビクビクしていた俺もほっとして、顔の表情を綻ばせた。
でも、それが一時的な逃避に過ぎないことは理解している。
ルーシーが来れば、例え何があろうと彼女とは面と向かって話さなければならなくなるからだ。
そこから逃げるようでは退魔師としては失格だな。
俺がルーシーと上手く話せるだろうかと不安に駆られていると、ちょうど良い感じに慎太郎が俺の席までやって来て、朝の挨拶をする。
「おはよう、圭介」
慎太郎は持ち前の明るさを見せるように挨拶をする。その顔も、普段と何ら変わらないものだったし。
なので、俺の気持ちも、ほんの少しだけ軽くなる。
これで、ルーシーのことを相談できたら言うことはないんだけど。でも、それはできない相談というやつだった。
「おはよう」
俺の声には何かあったと他人に悟られてしまうような響きがあった。でも、一度、出してしまった声を引き戻すわけにもいかない。
「何だかどんよりとした声をしてるが、どうかしたのか?」
案の定、慎太郎は俺の顔を心配そうに覗き込みながら言った。なので、俺は取り繕うような上辺だけの笑みを浮かべて見せる。
まさか、昨日は妖怪と火の粉を巻き散らすような激しい戦いをしていました、などと言うわけにもいかないからな。
言ったところで、それこそ漫画の夢でも見ていたんだろうと馬鹿にされるだけだろう。
漫画のようなバトルに憧れる子供は多い。
でも、実際にはそんなに良いもんじゃないと、俺はこの国の未来を担う子供たちには声を大きくして言いたい。
俺のように戦いに身を置いているような人間は少なくないけれど、結局、俺も含めてみんな平穏な日々が続くのが一番、だという結論に達するのだ。
平穏な日々のありがたみは、みんなも身に染みて理解するべきだな。
「少し考え事をしてたんだよ」
「考え事ねぇ」
さすがの慎太郎も俺の言葉をそのまま信じたわけではなさそうな顔をした。
最近の慎太郎は少し鋭い。なので、今までのような煙に巻くような言い方が通用しなくなってきた。
ここで考えなしの言葉を発したりすれば、場合によっては俺が大きすぎる隠し事をしているのを勘付かれるかもしれないな。
「何か言いたそうだな」
歯に物が挟まったような言い方は慎太郎には似合わないぞ。言いたいことがあるなら、いつものようにはっきりと口にしてくれ。
「確かに、人間は考える生き物だが、あんまり考えてばかりいるのも、心には毒だぞって言いたいのさ」
昨日も似たようなことを言われたが、今日の言葉は更に格言的だった。
「お前にしては何だか含蓄なある言葉だな」
俺は別に馬鹿にするわけでもなく、慎太郎の口から出てきた言葉に心から感心していた。
人間として成長しているのは自分だけではないと思ったし。
そのせいか、慎太郎の言動も昔に比べると少しずつ変わってきた。
でも、俺は成長するのは良いことだけど、それによって性格まで変わってしまうのは駄目だろうと言いたくなる。
人間には絶対に変わってはいけない部分があるのだ。でも、その変わってはいけない部分を守るのはなかなかに難しい。
だからこそ、信念みたいなものを持つのが大切になって来るのかもしれないな。
「だろう。もっとも、俺は良く考えて行動しなさいって親から、しょっちゅう説教されてるからな。だから、お前のことをどうこう言えた身分じゃないが」
慎太郎は磊落な感じで笑った。それを見た俺も心の中に溜まっていたものを抜くように口を開く。
「いや、お前の言う通り、考えてばかりいるのは良くないと俺も思う。大切なのは心の命じるままに動くことだからな」
祖父はいつもそう言っていた。考えより優先すべきは心だと。
心を蔑ろにして、考えていることばかりを優先する人間は、いつか破堤するとも警告していたし。
だから、心による行動と考えによる行動の区別はしっかりと付けておけとも言われていた。
「心の命じるままにか。お前の方こそ、なかなか良いことを言ってくれるじゃないか」
信太郎は笑いながら俺の肩をバシバシと叩いた。
まあ、俺とは違い、慎太郎にとっては、心の命じるままに動くのはさほど難しくないことのように思える。
良くも悪くも慎太郎は自分の心に素直だからな。
考えていることよりも、心から沸き出るものを優先して動くということが、慎太郎にはできるのだ。
俺なんか自分自身の心にさえ捻くれた態度を取ってしまうことがあるし、それが普段の行動にも表れている。
こと心の命じるままに動くという点では俺も慎太郎に白旗を上げるしかないな。
「ああ」
俺は慎太郎と話したことで心が大分、楽になったのを感じる。それから、精神的に余裕がある内に避けることのできない話を持ち出した。
「ところで、お前ってこの学校のことについては、人一倍、詳しいんだよな?」
俺はそのことを思い出しながら、まるで口が勝手に動いたように尋ねていた。それを受け、慎太郎は自分のお鉢が回って来たような顔をする。
「もちろんだし、俺の情報網を舐めてもらっちゃ困るぜ」
慎太郎は自信ありげにグッと親指を突き立てた。
慎太郎の言う情報網については俺も詳しくは知らない。が、それでも、いつも間違いのない情報を掴んでくるので、信頼はできた。
そう思った俺は聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥と思いながら口を開く。
「なら、ちょっと尋ねたいことがある」
引っ込みが付かなくなった俺はそう切り出していた。
「別に構わないぜ」
「あのルーシーのことで何か知っていることはないか?」
俺は誤解されることを覚悟で尋ねていた。
実際、慎太郎が恋愛絡みのことだと捉えてくれるなら、こちらには何の不都合もない。
恥ずかしい思いはするかもしれないが、それは我慢すれば良いことだし。
まあ、変な噂が広がったりするのは嫌だけど、慎太郎は友達である俺のことを面白おかしく吹聴したりはしない。
人を傷つけるような話をしないのも慎太郎の持つ良いところの一つだからな。その辺は何よりも高く評価している。
「お前、ルーシーのことが気になるのか?」
案の定、慎太郎は色恋の話だと勘違いしたのか愉快そうに問いかけてきた。
「ああ」
俺は真剣な顔で頷く。これには慎太郎も茶化したりすることなく、表情を硬く引き締めて応じる姿勢を見せた。
「分かったよ。なら、野暮なことは訊かずに教えてやる」
俺にとって、こういう時の慎太郎は本当に心強い味方だった。いつもこうだったら言うことはないのにと俺も思う。
とはいえ、それでは慎太郎が慎太郎ではなくなってしまう気もするが。
ま、慎太郎はどこか抜けている部分があるくらいの方がちょうど良い。全てに置いて完璧になった慎太郎なんて見たくない。
「頼むよ」
俺は頭が下がる思いで言った。
「おう。…聞いた話だが、何でもルーシーの転入はかなり急な話だったらしい。だから、教師の中にもルーシーが学校に来るまで、そのことを知らない奴がたくさんいたって話だ」
慎太郎の口から出てきたのは、およそ、恋愛には結びつきそうもない情報だった。でも、俺にとってはそういう情報の方が貴重だったりする。
「それは妙だな」
「同感だ。しかも、ルーシーをこのクラスに入れるように強く指示したのは、どういうわけかあの校長らしいぜ」
「校長が?」
闇の世界の臭いなど全く漂わせていなかった校長がなぜそこで出てくると、俺も訝るような顔をする。
でも、話の流れを途切れさせるのは嫌だったので、余計なことは口にしなかった。
「そうだよ。ま、その辺は何か込み入った事情みたいなものがあるのかもしれないな」
俺のことを良く知りたかったから、ルーシーはこのクラスにやって来たのではないだろうか。
昨日のルーシーはこの町で悪霊や妖怪退治をするって言ってたからな。そうなると、俺は商売敵の人間ということになるし。
それなら偵察も必要だ。
そして、そう考えれば、ルーシーが何の自己紹介もしていなかった俺の名前を知っていたのも頷ける。
「他にも何か知ってることはないか?」
「ルーシーが転校して来るまでに通っていた学校のことが全く分からないらしい」
「本当なのか?」
「ああ。しかも、ロンドンに住んでいたっていう話も本当のことだか分からないらしいな。なんせ、ルーシーの経歴を確認できる人間は校長しかいないんだから」
慎太郎は薄気味悪そうに言った。
俺も校長がルーシーの素性を紐解くカギを握っているのは分かった。
でも、今の段階での接触は危険だし、この手の情報収集は俺がやるより霧崎に任せた方が無難だろうな。
一般人が相手じゃ鬼神刀を突き付けるわけにもいかないし、餅は餅屋というやつだ。
「そうか」
おそらく、ルーシーは魔術学校に通っていたに違いない。
ロンドンは魔術の本場だし、一般人には秘匿とされているいような魔術学校も幾つもあるって話だから。
俺も一度は魔術学校を見てみたいと思っているのだが、学校の一部を映した写真すらどこにも出回ってはいないのだ。
完全なる秘密主義…、というのはいかにも西洋の魔術学校らしかった。
「しかも、ルーシーの親御さんとすら連絡が取れていないらしい。でも、そこはルーシーの身元を保証している校長が責任を持つってことで丸く収まったらしいが」
「なるほど」
ルーシーの両親とすら連絡が取れないのは、きな臭さしか感じないな。まあ、その辺の解明を普通の教師たちに求めるのは酷だけど。
でも、仮にもこの学校のトップの座にいる校長をここまで動かせるなんて、ルーシーの影響力は侮れないものがあるな。
彼女の本当の恐ろしさは、実のところ持っている魔力よりも校長のような社会的な地位の高い人間を味方につけられることかもしれない。
「校長とルーシーの関係は、気になるところだよな」
「ああ」
「もっとも、こういうのはいざ蓋を開けて見たら大したことじゃなかったって言うのがほとんどなんだが」
「だと良いんだけど…」
ひょっとしたら、校長はルーシー本人ではなく、何か大きな組織に使われているのかもしれないな。
でも、その組織が祓い屋組合ではないことは間違いないだろう。俺も心当たりのある組織はないし。
あの霧崎なら何か掴んでいるかもしれないが、それなら、朝に会った時点でおしえてくれたはずだ。
隠すようなことでもないからな。
いずれにせよ、この業界のルールを無視し、あまつさえ祓い屋組合に挑戦を叩きつけられるような組織がルーシーのバックにいるとなれば、由々しき事態になる。
ルーシーと話す際にはその点も良く留意しなければならないだろう。
「ま、俺が知っているのはこんなところだ。何だか色恋とは関係ない話ばっかりになっちまったが、参考になったか?」
「十分だ」
慎太郎にしては珍しく役に立ってくれた。この学校の事であれば、これからは心置きなく慎太郎を頼ることができそうだな。
「それは良かった。まあ、俺は応援してるし、せいぜい頑張れよ」
慎太郎が調子の良い声で言うと、図ったようなタイミングでルーシーが教室に入って来た。
ルーシーは俺の顔を見ると一瞬ではあるが、昨日の遺恨を感じさせるようにキッとした顔をする。
が、すぐに無表情を装うと自分の席に着いた。
俺は昨日の出来事を鮮明に思い出し、身の毛がよだつものを感じてしまった。顔を突き合わせた瞬間、何かの魔法をかけて来るなんてことは、ナシにしてくれよ。
一方、ルーシーが現れると途端に教室の空気も重苦しいものになる。ベラベラ喋っていた女子たちもたちまち沈黙したからな。
男子はともかく、女子はみんなルーシーのことを煙たがっているようだった。
俺はルーシーとこれ以上、揉め事を起こしたくないなと思いながらも、昼休みになったら、きちんと話さなければと覚悟していた。