三日目・水曜日➀
〈三日目・水曜日 接触➀〉
俺が朝の事務所で眠っていると、ドアを何度もノックする音が聞こえてきた。その音はかなり無遠慮な響きを感じさせる。
まるで、ノックする人間の心の内を反映しているかのようだ。だから、ノックをする音が余計にうるさく聞こえてしまう。
俺は煩わしそうに寝返りを打つ。
春眠暁を覚えずではないけれど、どうにも起きる気がしない。五月の陽気は暑くもなければ寒くもないので、寝るのが気持ち良くて仕方がないのだ。
もちろん、目覚まし時計が鳴ればちゃんと起きることはできるけど。でも、今はその時間ではないので、体も睡眠を欲している。
それなのに、ドアをノックする音は一向に鳴り止む気配がない。これには、俺もとうとう耐え切れなくなくって目を開けた。
と、同時に大きく欠伸もしたし、視界もまだぼやけている。
俺はしつこいなと苛立ち混じりに呟くと、上半身を起こす。それから、眠そうな目を擦り、意識をはっきりさせるように頭を振る。
でも、纏わりつくような眠気はなかなか取れなかった。
なので、朝くらいゆっくりと寝かせてくれよ、と不平を口にしながら、俺は気怠そうに立ち上がる。
ソファーの端から落っこちそうになっていた目覚まし時計を見ると、時刻はまだ朝の六時半だった。
起きる時間帯としては少し早いし、いつもは大体、七時きっかりまで寝ている。
三十分の睡眠で何が変わると思われるかもしれないが、七時に起きるのとその前に起きるのとでは目覚めた時の爽快感がまるで違うからな。
こればかりは、生命エネルギーを上手く活用してもあまり変わりがなかった。
とにかく、十分単位の睡眠でも馬鹿にできないのが、朝という時間帯なのだ。ま、そこら辺の感覚は俺と同じ学生なら分かってくれることだろう。
俺の知っている学校の男連中も十分どころか三分の睡眠にもしがみ付くと言うし。
あの慎太郎も親の手を借りなければ、絶対に時間通りには起きれないと言っていたからな。
朝起きるのが、しんどいのは俺だけじゃない。
いずれにせよ、こんな時間に事務所の入り口をしつこくノックする人間は限られているというか、一人しかいない。
だからこそ、俺も何があろうと起きないわけにはいかなかったのだ。この時間帯じゃ居留守も使えないからな。
俺は安眠妨害にも等しいノックの音を聞きながら、事務所の入り口のドアを少々、乱暴に開けた。
すると、そこにはいつになく厳しい顔をし、目にクマも作っていた霧崎がいた。それを見たら俺の意識も一気に覚醒する。
今日の霧崎はあまり機嫌が良くなさそうだ。
なので、俺も寝ぼけ半分の状態で、うっかり霧崎を怒らせるようなことを言わないように気を引き締める。
すると、霧崎は自らのコンディションの悪さを隠すような笑みを拵えて見せた。
「おはよう、圭介君」
霧崎は首にかかる髪を撫でつけながら朝の挨拶をした。
今日の霧崎の髪形は少し乱れているな。いつもキッチリとした身だしなみをしている彼女には珍しいことだ。
やっぱり、あまり寝てないせいだろうか。
そう思った俺は、口にこそ出さないものの、心の中で霧崎に詫びた。彼女が寝られない原因を作ったのは何を隠そうこの俺だからな。
「おはようございます」
霧崎が朝来るのは珍しくないので、俺も変に緊張したりはしない。
でも、いつもは例え朝でも俺が起きている時間を見計らって来てくれるんだけどな。それだけに、俺も深刻な話の気配を感じた。
「その顔を見るに、寝ているところを起こしてしまったようだな。こんな朝早くに来て、すまなかった」
「気にしないでください。それだけ大事な話があるということですから」
「その通りだ。とにかく、昨日は色々と辛い思いをしたようだが、心の方は大丈夫かい?」
霧崎には昨日のことは全て包み隠さず伝えてあった。
なので、霧崎も日付が変わってしまった深夜にもかかわらず、すぐにルーシーとその周囲のことを調べてみると言ってくれた。
それについては俺も多大な感謝をしているし、自分だけが暢気に寝ていたことには気が咎めるようなものを感じてしまうな。
「一晩、経ったら心も楽になりましたよ」
昨日のことは夢か幻だったかのようにも思える。
でも、妖怪が俺の目の前で無残に殺されたのは紛れもない現実だ。俺もその現実から目を逸らすつもりはない。
「それは良かった。だが、今回のようなことはまたあるかもしれないし、君もいつまでも引きずってくれるなよ?」
「はい」
俺もそこまで惰弱な人間ではないし、気持ちの方も切り替えることができたつもりだ。
「よし。どうやら、君も退魔師として順調に成長しているようだな。私も君の将来が楽しみで仕方がないよ」
俺は自分の将来が不安だけどな。立派な退魔師になれるかどうかは、その時が来てみなければ分からないし。
ま、今は精進あるのみだ。
「なら、霧崎さんをがっかりさせないためにも、頑張ります」
「その意気だし、こういう時の君の顔はやはり六郎さんに良く似ているよ。血は争えないというのは本当だな」
「そう言ってもらえると嬉しいですね」
俺は少しは祖父に近づけたのだろうかと思いながら首の後ろを掻く。
それを見た霧崎もいつもの調子を取り戻したように悠々と笑ったが、すぐに自らの表情を殊更、真剣なものに変えて口を開く。
「では、本題に入ろう。私が急遽、調べてみたところ、やはり、建設中のビルで悪さをする妖怪を何とかするよう、祓い屋組合に頼んだのは現場監督だった。だが、妖怪を殺すように異国の魔術師に頼んだのは建設会社の社長だ」
この塚本市で起こった霊や妖怪絡みのことは、祓い屋組合を通す決まりになっている。
俺は祓い屋とは少し違う退魔師だけど、一応、祓い屋組合の一員だし。
生きていた頃の祖父も祓い屋組合では幹部の地位にいた。
ちなみに、祓い屋とは違い、退魔師には組合のようなものはない。
退魔師は祓い屋よりも世間的な認知度が低く、高い能力を要求されることもあるので、成り手が少ないのだ。
だから、組織的な援助を受けたければ、退魔師とは同業者と言っても良い祓い屋の組合に入る必要がある。
実際、退魔師と祓い屋の間にはっきりとした垣根のようなものはなく、やっていることもそれほど変わるわけではなかった。
「現場監督より、上の人間が動いていたということですか…」
「そういうことだ。だが、この地の霊的な管理人である宮代家や祓い屋組合を通さず、異国の魔術師に妖怪を退治させるのは私たちに対する挑戦だな」
「挑戦ですか」
「そうだよ。こんなことが続くようなら祓い屋組合も黙ってはいないだろう」
祓い屋組合を通さずに、この手の仕事をやる人間には警告があり、それを無視すれば物理的な排除もあり得るのだ。
組合はこの業界の警察のような役割を果たしている。実際、組合と本物の警察はかなり深く癒着しているし。
だから、何かあってもよほどのことがない限り、霊や妖怪が起こしたことは警察が揉み消してくれる。
まあ、それは決して褒められたことではない。
だが、相手が普通の人間ではどうにもできない霊や妖怪ならそれも致し方ないことだった。
「ですよね。組合はこういうことにはうるさいですから」
組合の制裁は馬鹿にできない。
組合のやり方は、時に警察とは正反対の組織であるヤクザのやり方のように見える時もあるから。
ま、そこは闇の世界に生きる人間たちのやることだからな。
暴力は付きものだし、それによって被害を受けても相手が妖怪を使役しているような人間だったら警察だってお手上げた。
それだけに、組合も自分たちの構成員には厳しいルールを課しているし、そうでない人間にも厳正な対応を心掛けるようにしている。
「ああ。事実、昨日のことを重大視している組合の幹部もいるからな。異国の魔術師を野放しにするつもりは組合にもないよ」
「物騒なことにならなければ良いんですが…」
でも、異国の魔術師にこの町の妖怪が殺されたのだ。既に物騒なことにはなっているし、今の俺には危機意識が必要だ。
「そうだな。だが、私は異国の魔術師が現れたことには大きな陰謀の臭いを感じている」
霧崎の黒光りする目に冗談の色は全くなかった。事実、彼女はくだらない冗談を好むような人間ではない。
つまり、普通の人間には一笑に付されるような話も、この時ばかりは本気で口にしていると言うことだ。
だから、俺も不吉な足音が、自分の近くに忍び寄って来るようなものを感じていた。
「陰謀ですか」
その言葉には俺もゴクンと唾を飲み込む。
改めて意識してみると、陰謀という言葉には何とも不気味で嫌な響きがある。この感覚が杞憂でなければ良いのだが。
「ああ。だから、異国の魔術師については、もっと入念に調べた方が良いと思ってるよ」
「そうですか…」
こんな田舎町で陰謀を企んでも大きな益が得られるとは思えない。けれど、そこが狙い目になるということもある。
誰もが思いもしないところで企てられるのが真の陰謀だからな。
ま、田舎の町で起こったことがやがて世界をも変える…、なんてことは、ハリウッドの映画じゃあるまいし、普通ではあり得ないことだとは思うけど。
もっとも、俺がいるのは普通の人間にとっては十分、常軌を逸した世界だ。
実際、普通の人間にとって、俺のいる世界はフィクションに過ぎないと思われている世界の地続きにあると言っても良い。
何せ、神話で語られているような神や悪魔が本当に登場してしまう世界だから。
そして、そんな世界で生きているのであれば、何も分からない状況で固定観念を持つのは危険だと悟るべきだろう。
でないと命取りにもなりかねない。
「ま、君に伝えたい話はこんなところだし、昨日は徹夜で調査をしたから眠気覚ましにコーヒーの一杯でも入れてくれないか?」
霧崎はスーツの襟元を緩めると、目にできたクマを触りながら言った。
なので、俺も霧崎には迷惑をかけてしまったことだし、お中元でもらった高いコーヒーパックを使ってあげようかなと思った。