二日目・火曜日➅
〈二日目・火曜日 謎の転校生➅〉
俺は深夜になると問題のビルへと来ていた。
建設途中のビルは鉄骨が剥き出しになっていて、その周りを作業員が歩くための仮組の足場が取り囲んでいる。
悪霊や妖怪がいなくても、怪我人が出そうな危なさを感じるな。実際、作業中に足を踏み外したりしたら、命を落としかねない。
危険な場所で起きていることだけに、俺も今回の仕事は早めに解決しなければならないと思った。
俺は強い妖気を感じながら、ビルを見上げる。間違いなくこのビルがある場所には妖怪が潜んでいる。
それもかなりの力を持った奴だ。昨日の悪霊とはわけが違うし、こいつは甘く見てると痛い目に遭いそうだな。
(今日の妖怪はなかなか手強いぞ。妖気だけでなく神気も混じっているからな。ひょっとしたら、名のある土地神かもしれん)
羅刹の言葉に俺は背筋がヒヤッとするのを感じた。
長い年月を生きてきた妖怪の中には、神気を帯びて神のような存在になる者もいる。
そういう存在は人間からも崇められるし、人間の信仰心から生まれる精神エネルギーを糧として益々、強くなる。
土地神はその土地で信仰されてきた列記とした神様なのだ。
(土地神か。そいつは厄介だな)
俺も神のような存在と戦ったことがないわけではなかった。
でも、神のような存在を打ち負かした時は、こういう奴とは二度と戦いたくないなと思わされてしまった。
それくらい、神のような存在を相手にするのは、戦々恐々とさせられるものがあるのだ。
(ああ。お前も気を引き締めてかかることだな。幾ら我でも、お前の代わりに戦ってやることはできん)
羅刹もまた神なので、神のような存在に対する侮りはない。もちろん、いたずらな恐れもないが。
(分かってる)
俺は鬼神刀を鞘から抜き放つと、放れている妖気を辿るようにして歩いていく。妖気の発生源に近づく度に肌がザワザワと異質な成分が混じった夜気に撫でられる。
こんな肌がざわめくような夜気を体に浴びるのは久しぶりだ。
なので、この先に神のような存在が待ち構えていると思うと、俺も引き返したくなるような気持ちにさせられる。
大きな仕事をしたいという強い思いを胸にここに来た俺だが、そんな思いは夜の風と共にどこかへと運び去られてしまった。
残ったのは、隠し切れない緊張と恐れ。だが、不思議なことに、その二つがなぜか心地良く感じられる。
それは、ちょうど怖がりな人間が自ら進んでお化け屋敷に入ろうとする感覚と似ているかもしれない。
自ら恐れを求め、それを克服しようとする。その繰り返しこそが、人間をより強くするというのは分からない話ではない。
であれば、大切なのは、恐れつつも前に進もうとする勇気なのかもしれないな。ちょうど、今の俺みたいに…。
そんなことを考えながら俺はビルの裏側にあった広い場所に辿り着く。すると、そこには人の形をした者がいた。
そいつは時代錯誤な和服を着ていて、頭は狐の顔をしていた。お尻からは何本もの尻尾が生えている。
どう見ても人間ではなかった。
明らかに人外の存在としての特徴を備えたそいつは紛れもなく妖怪。それも格の高い妖怪だった。
でも、神と呼ばれるほどの存在ではない。まだ、妖怪というカテゴリーからは抜け出せていない奴だ。
だからと言って油断できる相手ではないが。
「お前が作業員たちに怪我をさせている妖怪か」
俺は刀を握る手が汗ばむのを感じながら問いかける。すると、妖怪は優雅とも言える動作で俺と向き合った。
「その通りだが、お前は何者だ?」
狐の妖怪は月の光を浴びながら言った。
その横顔は何とも神秘的に見える。なので、俺も心が惹きつけられるものを感じてしまった。
「俺は退魔師だ。どういう事情があるのかは知らないが、作業員に怪我をさせるのは止めてくれないか?」
「断る。お前のような子供の指図を受けるつもりはない」
妖怪はにべもなく言った。
俺も子供、扱いされたことには、少しムカッとしてしまった。子供だから力がないとは限らないのが、退魔師や祓い屋の世界だ。
実際、何人もの大人の祓い屋が束になっても太刀打ちできない力を持つ子供もいるからな。
特殊な力を操るのに、年齢や体格、性別はさほど関係ない。
結局、退魔師や祓い屋の強さは生まれ持った個人の資質によるところが大きいのだ。
もちろん、生きている年月が長ければ、それだけ力も強くなるという理屈は覆されるものではないが。
「なら、痛い目に遭ってもらうぞ」
俺は凄味を利かせるように言うと、正中線を意識しながら刀を構える。だが、妖怪の方は気圧されるわけでもなく、悠然と前に進み出た。
「面白い。たかが、妖刀を持った程度で、このワシと渡り合えるつもりか」
妖怪はクックと喉を震わせながら笑う。それを見た俺はすぐに笑えなくしてやると血気に逸った。
「俺を甘く見ると、後悔することになるぞ。もう一度、言うが、痛い目に遭いたくなかったら、このビルから去れ!」
そう恫喝すると、俺は刀の切っ先を妖怪に突き付けた。
かなり強い力を持つ相手なので、これ以上、下手に出ると本当に舐められてしまう。
だから、俺もここは心の内はどうであれ、退くことなく強気の姿勢を見せるしかない。
その証拠に、妖怪の方は動じる様子もなく、何とも飄々とした顔をしているからな。俺としてもこの態度に呑まれるわけにはいかない。
「幾ら脅されても、それはできぬ相談よ」
「何か理由でもあるのか?」
「理由も何も、この土地はワシの物なのでな。自分の土地から出て行かなければならない理由がどこにある」
そう言って、妖怪は顎をしゃくった。
「この土地は建設会社の物だ。お前の物じゃない」
「それはこの土地に後からやって来た人間が勝手に決めたことよ。ワシは何百年も前からこの土地にあった社で奉られていたのだからな」
「そうなのか?」
だから、神気を帯びているのか。長年、人間の信仰心を食らって生きてきた奴は確かに手強いぞ。
「そうだ。なのに、人間はワシの小さくはあるが尊い社を壊して、こんな無骨なものを建てようとする。それは到底、許せるものではない」
確かに、そういうことならこの妖怪が憤慨するのも当然のことだ。
まあ、俺が解決する仕事では、妖怪の方が一方的に悪いということはあまりない。大抵、人間の方にも非があることが多いのだ。
それは俺も経験上、知っている。
そして、悪霊や妖怪の中には話し合いが通じない者もたくさんいる。昨日の悪霊のような情に脆い者ばかりではないのだ。
「だからって、何も知らない人間に怪我をさせて良いということはないだろう」
俺の言葉に妖怪は鼻で笑った。
「お前のような子供には分からぬさ。とにかく、ワシはここから去るわけにはいかぬし、人間を懲らしめるのを止めるつもりもない」
妖怪は全く退く気のない態度を見せる。
どうやら、戦いは避けられそうにないみたいだな。ま、この妖怪の持つ大きな力を感じた時から予想していたことだ。
当たり前だが、力のある妖怪ほど話し合いには応じてくれないことが多い。
「そうか。なら、本当に力づくで、追い出すまでだ」
もちろん、昨日の悪霊と同じように殺しはしない。だが、昨日の悪霊よりは痛い目に遭ってもらうことになるだろう。
痛い思いをしないと分からないのは人間も妖怪も同じだ。
「やってみろ」
妖怪はそう嘲弄するように言うと、もう話すことはないと言わんばかりに掌から大きな紫色の炎の球を放ってきた。
色からして普通の炎ではないし、たぶん妖力で作られた特別な炎だろう。
それだけに、炎にどんな能力が宿っているのかは慎重に見定めた上で気を付ける必要がある。
俺はそんな炎の球を機敏に避ける。
だが、妖怪は絶え間なく炎の球を放ってきた。
俺は必死に炎の球を避け続けるが、肩を掠めた炎の球は俺の服を焦がして、その下にある肌にも軽い火傷を負わせてくれた。
すぐに水に濡らして手当をすれば問題のないような火傷だが、今は戦いの最中なのでそうもいかない。
だから、ヒリヒリとした痛みにも耐えなければならない。
とにかく、相手は何が何でも俺を近づけさせない気だ。大方、剣の間合いに入らなければ問題ないと思っているのだろう。
なら、その目論見が甘いことを教えてやる。
俺はまだ斬りかかれる間合いには入っていないにもかかわらず鬼神刀を弧を描くように振り下ろした。
その瞬間、鬼神刀から鮮烈な光の刃が飛び出す。それは、目にも留まらぬ速さで、妖怪の方に飛来した。
が、妖怪も間一髪のところで光の刃を避ける。その際、服の一部が削り取られて、妖怪もウグッと唸る。
もし、当たっていたら、妖怪の体は大きく切り裂かれていたはずだ。鋼鉄の壁すら切断できる光の刃の威力は折り紙付きだし。
だが、それも確実に当たらなければ何の意味もない。こちらの力が無駄に削ぎ落とされるだけだ。
それに、光の刃は便利な攻撃の手段だが、その分、かなりの力を消耗させられるのだ。
調子に乗って使い過ぎれば、鬼神刀に蓄えられている妖力が底を尽いてしまう。
そうなれば、羅刹の魂も消滅しかねないし、鬼神刀も普通の刀と何も変わらなくなる。
そのことを理解しつつも、まだまだ余裕のある俺は今度は避けられないように連続して光の刃を放った。
だが、その全てが舞い踊るような動きをする妖怪にかわされてしまった。
実に良い身のこなしをしているな、と俺も敵のことではあるが感心する。
一方、妖怪も遠距離からの攻撃もできる俺のことを侮れる相手ではないと理解したのか、炎の球を更に激しく大量に放って来る。
地面に衝突した炎の球は紫色の火の粉を盛大にまき散らした。それから、炎はまるで生き物のように、周囲へと燃え広がる。
しかも、俺の動ける場所も着実に奪いながら。
そして、炎の熱は火に直接、触れていなくても俺の体に伝わって来た。その熱は俺の体から、体力を失わせるような汗を噴き出させる。
俺は普通の炎とは違い、妖力で作られた炎は厄介、極まりないなと思った。この炎はそう簡単には消えないぞ。
その上、炎はまるで意志を持ったように、その触手を伸ばして俺に襲いかかって来るし。
だから、俺も絶えず避ける動きを続けなければならない。
俺は四方から迫る炎の触手に追い回される。
もちろん、俺も光の刃で応戦しようとしたが、炎の触手の追跡は執拗で、こちらの態勢も崩されがちだ。
正直、ここまで苛烈な攻撃を繰り広げられる妖怪だったとは思わなかった。やはり神気を帯び始めた妖怪の力は違うな。
もっとも、これしきのことで負ける俺ではないが。
俺は押し寄せてくる弾幕のような炎の球を掻い潜りながら、反撃を試みるように光の刃を矢継ぎ早に放った。
だが、向こうも身のこなしはやはり俊敏で光の刃はなかなか当たらない。
しかも、俺に襲い掛かる炎の触手は増える一方だし、このままだと体を動かすスペースすら失われる。
どうにかして、今の状況を打開しないと。
それから、お互いに有効なダメージを与えられない時間が続く。
もし、鬼神刀の刃を直接、叩きつけることができれば、一撃で決まる勝負なのに。でも、向こうもそれは理解しているのか、俺の接近を絶対に許そうとしない。
このままでは消耗戦になってしまうぞ。明日は学校もあるし、回復できないほど疲れるのは嫌なんだが…。
そして、気が付けば俺の周りの地面は逃げ回る場所などどこにもない文字通りの火の海になっていた。
これでは迂闊に動けないし、鬼神刀の力を利用した妖力のバリアを張っていなければ、俺の体は焼け爛れていたはずだ。
実際、普通の人間だったら大火傷を負って死にかねない。
俺はバリア越しに火に炙られるような熱を感じつつも、炎がビルに燃え移るのはマズいと思い、危険を承知で接近戦を試みる。
まずは鬼神刀の妖力を自分の足に流し込んで身体能力をアップさせる。
それから、足の筋肉がバネのようにしなるのを感じると俺は弾丸のように妖怪の方へと疾駆した。
妖怪は近づけさせまいと、炎の球を放って来たが、俺は構わず正面から突っ込む。
大きく力を消耗することを覚悟で更に厚いバリアを張ったのだ。これなら、少々の攻撃ではびくともしない。
俺は炎の球を何度も突き破る。
炎の球にぶつかる度にバリアが薄くなっていくが、恐怖に負けて足を止めるわけにはいかない。
俺は妖怪へと果敢に肉薄した。
それを受け、明らかに焦ったような表情を見せた妖怪は迎撃するように自分の真正面に特大の炎の球を作り出した。
あれを食らったら幾ら俺でもヤバイが、ここで退いてしまっては相手の思う壺だ。
なので、俺は極限まで瞬発力を高めて跳躍すると、神速の勢いで妖怪に斬りかかった。
俺と妖怪の体が際どいタイミングで交錯する。
結果、鬼神刀は練り上げられていた特大の炎の球を真っ二つに断ち割り、更には妖怪の体もそのまま袈裟懸けに切り裂いた。
これには妖怪も苦しそうに呻いて膝を突く。
妖怪の集中力が乱れたのか、散々、俺を追いかけ回してくれた炎の触手も溶けるようにして、霧散した。
俺は勝負あったなと思いフーッと息を吐いた。
「ここまでだな」
俺は妖怪の傷口から煙のように噴き出す妖気を見て言った。
でも、その顔に勝利の喜びはない。あるのは妖怪を殺すことなく切り抜けることができた安堵感だけだ。
「クッ、人間のくせにここまで妖力を自在に操るとは…」
妖怪は悔しそうに、顔の表情を歪める。
この妖怪も自分が妖力の扱い方で人間に負けたことには、屈辱のようなものを感じているようだった。
「言っておくが、俺はまだ本気を出していないし、今の内に降参した方が身のためだぞ」
あれほどの戦いを繰り広げた俺ではあるが、その言葉はハッタリではない。俺はまだ余力を残しているのだ。
「誰が降参などするものか…」
妖怪は何とかして立ち上がろうとするが、傷が深いせいかそれができない。
俺も妖怪の痛々しい様子を見て、安易な同情をしてしまうのを堪えるように奥歯をギュッと噛んだ。
「だが、勝負はもう付いている。俺としてはこれ以上、戦いたくないし、どうすれば戦いを止めてくれるんだ?」
これ以上、傷つければこの妖怪は死んでしまう。それは俺の信念にかけてできない。
もし、先ほどまでの戦いの最中に妖怪を死なせても構わないと少しでも思っていたなら、もっと違った戦法を選んでいただろうからな。
だからこそ、ここでこの妖怪に死なれては、俺の砕いた心が無駄になる。
「…壊した社を立て直せ。そして、人間たちがまた私を奉れるようにしろ。それがワシからの要求だ」
妖怪は苦痛を感じさせながら言った。
「そうか。なら、社は別の場所に立ててもらうように頼んでやる。そうすれば、お前も人間に危害を加えるのを止めてくれるんだろ?」
小さい社なら立て直すこともできるはずだ。もちろん、建設会社は渋い顔をするかもしれないが。
でも、こういった交渉は霧崎ならお手のものだし、彼女ならいつものように何とかしてくれるだろう。
「ああ。ワシとて好きで人間を傷つけてきたわけではない。あくまで、懲らしめのつもりだったのだ」
妖怪が戦意を喪失したように言うと、たちまち地面を焦がしていた妖力で作られた炎は消失した。
肌が焼けるような熱さも消える。
これには、俺もまるで幻を見ていたようだと思った。
「分かってるよ。悪意で人間に危害を加えるような妖怪が、こんな力を持てるようになるまで崇められるわけがないからな」
妖怪の放つ妖気に悪意はなかったし、無理に語らずとも、戦うことで相手の心が推し量れることもあるのだ。
「ふっ、そこまで悟られていたか…。さすが、本気も出さずにワシを負かしただけのことはある。まだ子供なのに大したものだ」
妖怪は心の底から感服したように言った。
「でも、あんたの方こそ、俺を殺す気で戦ってはいなかっただろ。もし、俺を容赦なく殺そうしていたなら、俺もこんな言葉は吐けなかったかもしれないぞ」
その場合、下手したら負けていたのは俺の方だったという可能性も否定しきれるものではない。
力を抑えていたとは言え、かなり苦戦したのも事実だからな。久しぶりに緊張感、溢れる戦いを強いられた。
「…かもしれんな。だが、どのみち、ワシにはお前のような良い目をした若者を殺すことなどできなかっただろうよ」
妖怪は苦笑しながら言葉を続ける。
「ワシもまた人間という生き物を心底、愛しているのだ…」
だからこそ、人間からの信仰を得たいと思う。それはもう妖怪ではなく立派な神様としての性なのではないだろうか。
神様としての役割をちゃんと果たしてくれるなら、それは決して悪いことではない。
「できることなら、これから先もこの場所で人間の営みを静かに見守り続けたかったよ」
そう言って、妖怪は慈愛を感じさせるような顔をした。
「…」
俺も妖怪の募る思いが込められた言葉には、黙するしかなかった。
「とにかく、怪我をした人間たちには悪いことをした。ワシもこの償いは必ずしよう…」
妖怪は深い反省の念を滲ませつつ言った。
これには俺もほっと笑う。やっぱり、どんな相手でも親身になって話せば分かり合えるものだな。
大切なのは相手との意思の疎通を試みるのを止めないことだ。そうすれば、きっと思いは通じる。
とにかく、危ない場面はあったが、また一つ妖怪の起こしていることを無事に解決することができた。
この調子でこれからも退魔師としての仕事を頑張っていこう。
が、俺がそんな風に自己完結して気を緩めた瞬間、いきなり妖怪の体にどこからともなく飛来した光の球が命中する。
すると、妖怪の体は内側から膨れ上がるようにして弾け飛んだ。そして、大量の妖気を空中に放出させる。
「な、何だ!」
俺は思わず目を白黒させる。
すぐには目の前にいた妖怪が死んだことを理解できなかった。
それから、妖気が何かに吸い寄せられるようにして、ある方向へと流れて行く。反射的にその方向に視線をやると、そこにはいつの間にか人間が立っていた。
人間は月明りを浴びた金髪を幻想的に輝かせていた。宝石のような青い瞳も何とも美しい光を放っている。
俺の目が確かなら、その人物は今朝、俺のクラスにやって来たあの転校生の少女、ルーシーだった。
しかも、彼女の横にはまるでアナコンダのような巨大な蛇がいた。それもただの蛇ではなく、背中から禍々しい翼を生やしている。
その蛇からは身も凍り付くような恐ろしい魔力を感じた。
その上、蛇は空中に放出されていた妖気を口から吸い込んでいた。まるで屍を食らうように。
「ルーシーなのか?」
俺は恐る恐る尋ねる。
ルーシーは学校のセーラー服に、黒いマントを羽織っていた。手には水晶玉が付いた杖も握られている。
その出で立ちはまるでファンタジーの世界に出てくる魔法使いだ。慎太郎が好きなアニメの魔法少女も彷彿とさせるな。
なので、ルーシーの姿はどうにも現実感が乏しかった。
「そうです。こんばんは、お優しい退魔師さん」
ルーシーは粘りつくような言葉を、相反するような凛とした声で言った。
「何で妖怪を殺したんだ…。もう戦う力は残ってなかったのに………」
俺はショックが大きくて、そう声を絞り出すのがやっとだった。
妖怪が死んだところなんて、正式な退魔師になってからは一度も見たことがなかったし。
だからか、感情が追い付いてこない。
「戦う力があるかどうかは関係ありません。妖怪ならどんな状態でも殺して然るべきです」
ルーシーは淡々と言った。
その冷徹極まりない言葉は、俺の心に深々と突き刺さる。なので、俺の心の導火線にも火が点いた。
「ふざけるな!」
俺は怒りが爆発したように叫んでいた。
殺して然るべきだと?そんな身勝手な理屈、誰が決めた!幾らよそからやって来た外国人でも言って良いことと悪いことがあるぞ!
だが、ルーシーは俺の怒りにも全く動じないし、氷のような冷ややかな表情も少しも変えることはなかった。
「ふざけているのはそっちです。人に危害を加えていた妖怪を逃がそうとするなんて」
ルーシーの発した言葉に、俺も冷や水を浴びせられたような顔をする。でも、俺の怒りは鎮火することなくすぐに燃え上がった。
「だけど、殺すことはないだろうが!あの妖怪は自分のやったことをちゃんと反省していたんだぞ!」
償いすらしてくれると言ってくれたのに!それをっ!
「反省した様子を見せれば、逃がして良いんですか?その考え方は危険ですよ?」
ルーシーの言葉は衝動的な怒りに駆られていた俺の心の奥へと入り込む。これには、俺も思わず言葉に詰まってしまう。
「…危険なのはそっちだ。何でそんな平然とした顔をして殺せるんだよ…」
俺は萎れたような声で言った。
ルーシーは自分のやったこととの大きさに全く気付いていない。害虫を駆除した程度にしか思っていないのだ。
それは悪霊や妖怪と聞けば、さっさと退治してくれと宣う普通の人間たちと同じだった。
俺もこの少女とはなにを言い合っても平行線になるだけだと悟っていたし。
もちろん、相手が外国人だから無駄なのだ、とか言うつもりはない。彼女とはもっと隔絶した価値観の差のようなものがある気がしてならないのだ。
これが宗教だったら、お前の神はインチキだと言って聞かせるようなものだ。そう言われて、自分の宗教を捨てられた人間を俺は見たことがない。
とにかく、彼女とはそれくらいの考え方の溝を感じていた。
そして、今度は羽の生えた蛇が大きく口を開く。
「貴様は人外の存在に心を奪われてしまっているようだな。確かにそれは危険な兆候だ」
蛇の声はとんでもない威圧感を持って俺の腹腔にのしかかる。
この蛇は先ほどの妖怪などとは桁が違う存在だ。この力の大きさは羅刹以上に感じられるからな。
なので、俺は自分に叩きつけられる不可視のエネルギーに眩暈すらした。
「お前は?」
俺も蛇からは日本の妖怪とは性質の違う力、つまり、魔力を感じていた。こいつは妖怪なんかじゃない。
もっと、大きな存在だ。
「私は悪魔サタナキア」
蛇の発した名前を聞いて、俺は全身に悪寒が走った。
「サタナキアって、あのヨーロッパのオカルトに出てくる大悪魔か?」
俺もサタナキアの名前は聞いたことがあったので、大きく目を見開く。
確か、サタナキアはあの大魔王ルシファーの配下で、数十人もの悪魔の軍団を従えている魔将の一人だったはずだ。
サタナキアの上には、ルシファーだけではなくベルゼブブやアスタロトと言った、誰もが知っている大悪魔もいるらしいからな。
俺が少し齧ったことがあるヨーロッパの魔導書にはそう書いてあった。
とにかく、サタナキアが話に聞いていた通りの悪魔なら、例え万全の状態で戦ったとしても勝てる可能性は低いと言わざるを得ない。
まったく、とんでもない奴が現れてくれたものだ。
「その通り。今は訳あって、ルーシーの使い魔として働いているが」
サタナキアは苦い声で言った。
古代のイスラエルの王様じゃあるまいし、こんな大悪魔を従えられるなんて、ルーシーは一体、何者なんだ?
「なんで、お前のような大悪魔が人間なんかに使われているんだよ。ルーシーの寿命でも貰ったのか?」
「それは貴様の知るところではない」
「そうだけど…」
「とにかく、妖怪など人間の心から生まれたゴミのようなものだ。それを殺したからと言って、そう目くじらを立てることはなかろう」
サタナキアは蛇の顔でニヤリと嗤う。
ゴミという言葉は冷たい刃となって俺の心を抉る。なので、そのあまりの言い草には俺も目を剥いた。
「ゴミだって?」
「ああ」
「良くもそんなことが言えるな!妖怪だってちゃんと心を持って生きているんだぞ!」
俺は猛るように叫んだ。
妖怪を蔑む者は決して珍しくはない。が、それでも、その存在をゴミだなんて言った奴は初めてだった。
だから、噴き上がる感情も抑えきれなくなる。
「それがどうした。心を持っていれば、人間と同じだとでも言いたいのか?」
サタナキアは嘲るような顔をする。まさに悪魔にしかできない顔だ。
「人間と同じだとまでは言わない。でも、心ある者は命として扱うべきなんだ。それを殺すのは人殺しと変わりない」
「そんな説教は数多くの人間を殺してきた私には通じんぞ」
確かに悪魔に人の命の重みについて語っても無駄なことだ。
ヨーロッパにいる悪魔がどれほど多くの犯罪や戦争を作り出し、それによって人間を殺してきたかは、過去の歴史を見れば良く分かる。
悪魔にとっては人間ですら虫けらに過ぎないのだ。なら、妖怪の命などいかほどの重みもないに違いない。
俺も人の心から生まれたのではなく、この世界の創造主によって生み出された者たちの傲慢さは祖父から聞いている。
このサタナキアはまさにその傲慢さを形にしたような存在だった。
「それくらい分かってる」
悪魔に自分の説教が通じると思うほど、俺は甘くもなければ馬鹿でもない。
もし、言葉で悪魔をどうにかできるなら、先ほどの妖怪だって戦うことなく説得できていたはずだからな。
言葉の無力さを痛感している部分があるからこそ、俺も悪霊や妖怪を殺したくないと思いつつも鬼神刀を手にしているのだ。
「なら、安っぽい正義感は悪魔の前では口にしないことだな。私も貴様のような善人気取りの小僧を見ていると捻り潰したくてたまらなくなる」
サタナキアの体から殺意のようなものが膨れ上がった。
しかも、ただの殺意ではなく、まるで猛獣のような殺意だし、これには俺の肌もビリビリと電気でも流れたように震える。
気を抜けば、膝が笑い出して尻もちを付いてしまいそうだ。
「そうかい。でも、そんな考え方をしているから、お前みたいな奴は悪魔として地上に落とされるんだよ」
俺は当て擦るように言ってやった。だが、サタナキアの顔はどこ吹く風と言った感じだ。
ちなみに、悪魔はもう創造主のいる天的な場所には戻れないと言われている。だから、生きていくためには地的であるこの世界にしがみつくしかない。
そして、悪魔はいずれは創造主の手で滅ぼされることになってるし、それから逃げる術はないと言われていた。
「悪魔に喧嘩を売るつもりか。その度胸は褒めてやりたいところだが、手足をもぎ取られても同じ言葉がほざけるかな」
サタナキアは嗜虐的な笑みを浮かべながら言った。
「やってみろ」
俺は挑戦的に言うと、サタナキアにギラリと光る刀の切っ先を向けた。
確かにサタナキアは怖い。
だけど、今の俺は無謀にも程があるが悪魔に自分の力がどこまで通じるか試したいとも思っていた。
やはり俺は武闘派。
だから、何だかんだ言って、強い奴と戦うのは嫌いではないのだ。それが悪魔だったら、相手にとって不足はない。
「小生意気な奴め。ならば、本当に腕の一本でも引き千切ってくれるわ!」
サタナキアは口から生える鋭い牙を剥き出しにして吠えた。俺も鬼神刀を握る手に更なる力を籠める。
しかし、俺とサタナキアの力が衝突することはなかった。
「二人とも、そこまでです!」
火花を散らす俺とサタナキアの間に割って入ったのはルーシーだった。
「ルーシー…」
そう彼女の名前を口にすると、俺は思わず頬を平手打ちされたような顔をする。それだけ、ルーシーの声には緊迫した場を収めるような力が籠っていた。
「頭を冷やしなさい、サタナキア。相手は、たかが人間の子供です」
ルーシーはサタナキアを叱責するように言った。
「…」
ルーシーの言葉には逆らえないのか、サタナキアは押し黙る。戦意を削がれてしまった俺も刀の切っ先を地面に下ろした。
一触即発だった空気も沈静化していく。
それを受け、ルーシーは改まったような顔で俺の方に向き直る。
「宮代君、人に仇を成す妖怪を殺すことがそんなに悪いことなんですか?」
ルーシーは俺の目を真っ直ぐ見ながら、そう問いかけてきた。
その顔は嵩高さこそあるものの、邪気の類は全くない。むしろ、瞳なんて清らかさすら感じさせる。
とても心ある妖怪を無慈悲に殺した人物とは思えない。でも、彼女は俺の名前を知っていたのか?
「悪いね。殺さなくても、妖怪の起こしたことは解決はできる。実際、俺は解決してきた」
俺にも積み重ねてきた自負があった。その自負は簡単には崩れたりはしない。
「宮代君は甘すぎます。はっきり言って、そのような考え方は足を救われる元ですよ」
ルーシーは俺の身を案じているようなことを言った。
もちろん、言葉の響きは揶揄に近いが、その声があまりにも透き通っていたので、俺も毒気を抜かれてしまった。
「分かってる。でも、俺は自分の考え方を変えるつもりはない」
甘いと言われるのは別にルーシーが初めてというわけではない。だが、ルーシーの口から発せられた言葉が一番、心に堪えた。
何だかんだ言って、俺以外の祓い屋たちも妖怪には甘いからな。悪霊ならともかく、妖怪を殺すのにはみんな忌避感を持っているのだ。
「そうですか。では、ここで幾ら問答を重ねても無駄ですね」
「ああ」
俺は話し合いの余地があるなら、それは別の機会にしたいと思いながら頷く。今の俺は感情が高ぶり過ぎていて、冷静な言葉を紡げない。
「分かりました。ですが、私もしばらくはこの町で悪霊や妖怪退治をすることになっていますし、もしも、その邪魔をしたらただでは済ましませんよ」
それは明確な脅しだった。
完全に意見を違えたルーシーの目には殺気のようなものも宿っているし、それを見ると俺も身が竦みそうになる。
こんな少女に怯えてしまうなんて俺の度胸はこけおどしに過ぎないのか。
「…」
俺は微動だにできずに口を閉ざす。
妖怪を殺された怒りはあったが、さすがに退こうとする態度を見せたルーシーやサタナキアと戦う気にはなれなかった。
それに、どちらか一方ならともかく、心身ともに疲弊した状態でこの二人を相手にしては、万に一つの勝ち目もないだろう。
いや、相手がサタナキアではなく、ルーシー、一人だったとしても打ち負かせるかどうかは微妙だ。
なら、ここは苦い思いを飲み下しても、余計なことは言わないようにするしかない。
「さようなら。また学校で会いましょう」
そう涼やかに告げると、ルーシーは肩にかけていた黒いマントを翻して去って行った。
サタナキアも夜の闇に溶け込むようにして姿を消す。
すると、その場が水を打ったように静まり返った。
何だか耳が痛いし、すぐには動かせない体はまるでセメントで固められたかのようだった。
(命拾いしたな、圭介)
羅刹の言葉を聞いた俺は我に返る。と、同時に止まっていた自分の心の秒針が動き出すのを感じた。
(ああ…)
俺は肺の奥から声を絞り出すようにして返事をした。
(例え我の力を持ってしても、あのサタナキアを打ち倒すのは容易なことではない。ましてや、相手を殺したくないなどという甘さを持つお前では、逆に殺されるのが関の山だったはずだ)
事実を突きつける羅刹の声にはどこか憐憫のような感情が混じっていた。
(そんなことは分かってるよ…)
正直、力で勝てないと思わされる敵に出会ったのは初めてだ。
ま、相手が悪魔であればそれも仕方がない。むしろ、あそこまでの虚勢が張れただけでも、人間の俺にとっては上出来だ。
でも、一歩間違えばサタナキアとは策もなく、真っ向から戦うことになっていたかもしれないのだ。
もしも、ルーシーが間に入ってくれなければ、今頃、どうなっていたか…。
九死に一生を得たというのはこういう時に使うべき言葉だろう。
(なら、今日のことは良い教訓とすることだな。ああいう輩はまだお前の前に現れていないだけで他にもいるぞ)
それが現実か。
でも、ルーシーのやり方は認めたくない。いや、認めちゃいけない。
これからも正しい心を持ってこの仕事を続けていくのなら…。
そして、それが退魔師としての責任でもある。その責任が全うできないようなら、退魔師なんて仕事は今すぐ辞めた方が良い。
そうすれば、こんな辛さはもう味あわなくて済む。
逃げるのはいつだって簡単だからな。
実際、退魔師としての重圧に耐えられなくなり、逃げ出すように退魔師を辞めていった人間は少なくないし。
でも、それを責めるような人間はいない。闇の世界の仕事から逃げ出す人間は珍しくも何ともないから。
俺だって退魔師を辞めたいと思ったことが一度もないと言ったら嘘になる。でも、そういう感情に流されることがないよう、絶えず踏み止まっていた。
俺は様々な思いが頭の中で渦を巻くのを感じながら、ルーシーが消えた夜の闇をじっと睨みつける。
その間、肩の火傷が思い出したかのようにヒリヒリしたが、そんなのは心の痛みに比べれば大したことはなかった。
だからこそ、俺が気を緩めたりしなければ、あの妖怪は死なずに済んだかもしれないと思うと胸が痛みを伴う感情でいっぱいになる。
実際、悔やんでも悔やみきれない結果だし、もし、時間を巻き戻せるものなら、どんな手を使ってでも戻したかった。
こんなにも、やるせない気持ちになったのは本当に久しぶりだ…。
俺がまるで救いを求めるように天を仰いだその瞬間、どこからともなく掠れたような声が聞こえてくる。
(ワシのことなら気にしなくて良い…。心優しき、少年よ…)
何とも穏やかな声が俺の頭に響く。
今まで話していた羅刹の硬質を帯びた声とは明らかに違っていたので、俺も咄嗟に自分の耳を疑ってしまった。
だが、俺の戸惑いを他所に、声は頭の中で響き続ける。
(この土地から追い出されると決まった時点で、ワシの命も消えゆく運命だったのかもしれんからな…)
それは死んで消えてなくなったはずの妖怪の声だった。でも、この声は肉声ではなく、羅刹と同じ思念だ。
俺は妖怪の残した妖力の残滓と会話しているのだ。死者の声に等しい残滓との会話は滅多に経験できることではない。
(だけど…)
あんたは俺のせいで死んだようなものだ…。俺があんたと戦ったりしなければ、こんなことにはならなかった…。
俺がもっと上手く立ち回っていれば…。もっと、周囲に気を配っていれば…。
もっと、もっと、俺が………。
(お前からは、この時代を生きる人間もまだまだ捨てたものではないということを教えられた…。だから、ワシも自らの過ちを素直に認めることができた…)
なら、人間の方も過ちを認め、それを正さなければならないだろう。でなければ、公平とは言えないはずだ…。
でも、人間たちはそんな理屈などお構いなしに、これからも妖怪たちの心を踏みにじり続ける…。
当の俺も妖怪は止められても、人間を止めることはできない…。それが退魔師のしがらみでもある…。
…ちくしょう…。
何で、いつも妖怪ばっかりが割を食う羽目になるんだよ…。人間の方がよっぽど悪いことだってあるだろうが…。
なのに、どうして、それが責められないんだよ…。こんなのおかしいだろ…。
俺は一体、いつまで胸糞が悪くなるような理不尽さや不条理さを堪えながら、人間の味方を続けなきゃならないんだ?
答えろよ、妖怪が死んで笑ってる人間ども!
そんな慟哭にも似た俺の心の声を聞いたのか、妖怪の声は安寧すら感じさせるものになる。
(お前のような人間だけではなく、妖怪の心すら大切にできる者がいてくれて本当に良かったよ…)
でも、心を大切にするだけでは、どうにもならないこともある。その現実を思い知ってしまった。
もちろん、その現実に押し潰されるつもりはない…。
こうして、最後の力を振り絞って俺に話しかけてくれているあんたのためにも、ここで心を折るわけにはいかないと強く思うことができる。
(…これからも、その心を忘れることなく、ワシのような道を踏み外してしまった妖怪たちを導いて欲しい…)
妖怪の声は儚げな思いやりに満ちていた。だから、俺もその儚さを優しく包み込むように言葉を発する。
(大丈夫だよ。それが退魔師としての俺の仕事なんだから…)
俺は温かな心が通った声で言った。
ただ、力で屈服させるのではなく、その妖怪がちゃんと正しい方向に歩めるよう導く。
それが退魔師の真の役目なのかもしれない。
であれば、その役目、どんなに辛いことがあろうと投げ出すわけにはいかない。
(…お前なら、そう言ってくれると思っていた……)
妖怪の声にほっとした感情が混じる。が、すぐにそれは悲哀に取って代わる。
(…ならば、自分のしたことの償いもできずに死ぬワシのこともどうか許しておくれ…)
妖怪は今にも消え入りそうな声で言った。
これには、俺もどんな言葉を返したら良いのか分からなくなってしまう。
でも、償いは生きてするものだし、死んで果たされるものではない。
そう思っていたからこそ、例え何があろうと、この妖怪には生き続けてもらいたかった。
愛しているとまで言ってくれた人間たちを見守り続けてほしかった。
(………)
俺は悲しみに喉が詰まりそうになりながらも、必死にかけるべき言葉を探した。
早くしないと、この妖怪は何も届かないところに行ってしまう…。
だから、早く…。早く、この妖怪に救いを感じてもらえるような言葉をかけさせてくれ!
お願いだ…。
(…あと、こんなことは頼めた義理ではないが、あのような輩から、この町の妖怪たちを守ってやってくれ…)
妖怪は懇願するように続ける。
(それは…お前にしか…できないことだ…。様々な…人間を見てきた、ワシには…分かる…。だから…こそ、この役目は…お前に…託すしか………)
妖怪の言葉はついに途切れ始めてしまったが、それでも、その意味はちゃんと俺に伝わっていた。
なので、俺もこれ以上、妖怪に無理をさせないように声を張り上げる。
(分かったよ!この命に代えても、妖怪たちは必ず守ってやる!あんたの死は絶対に無駄にしない!)
俺は妖怪の消えゆく思いを真正面から受け止めるように言った。そして、その声には自分でも驚くくらいの揺るぎない力が宿っていた。
すると、立ち込めていた重い空気も和らぐ。それは妖怪の心にようやく救いが訪れた瞬間のように思えた。
(そう…か…。なら、ワシも…安心…して、逝け…るな…。あ…り…がと…う…)
妖怪はこの上なく満足げな声で、そう別れを告げるように言った。それから、妖力の残滓も消失させる。
すると、俺の方も妖怪の気配のようなものを感じることができなくなってしまった。
(ま、待ってくれ!あんたには、まだ言いたいことが………)
俺は両目から涙を溢れさせながらも、反射的に闇の奥に向かって手を伸ばしていた。もちろん、その手は空を切るだけで何も掴むことはできなかったが。
それでも、俺は精一杯、自分の感覚を鋭敏化させる。が、妖怪の妖力はもう少しも感じ取ることはできなかった。
幾ら待っても闇の中から声が聞こえてくることはなかったし。ただ、空しさを感じさせる夜の冷たい風だけが首筋を通り抜けていく。
俺は握り拳を作りながら、その場にひたすら立ち尽くす。はっきり言って、自分の無力さをここまで痛感したのは初めてだった。
だから、俺は心にかかった靄を晴らすように、自分の握り拳を思いっきり地面に叩きつける。
擦り剥けた指からは血が滲み出たけど、痛みなんて微々たるものだ。
体の痛みは耐えられるけど、心の痛みは耐えられないと言うのは本当だったな。もう少し、早く気付きたかったよ…。
そして、しばらく経つと、俺は悲しみに胸を締め付けられながらも、ふと、顔を上げて夜空に輝く無数の星の光を見る。
例え、この地上でどんなに悲しいことが起ころうと、あの天にある星々はいつもと変わらぬ光を恒久的に放ち続けるに違いない。
そう思うと、綺麗なはずの星の光さえ残酷に見えてしまう。でも、そんな残酷さとは戦わなければならないだろう。
人間はあらゆる残酷さに打ち勝たなければ、真っ当に生きられない生き物だから…。
俺は死んだ妖怪のためにも絶対に負けるわけにはいかないなと思い、踵を返しながら弱くなっていた自分の心に活を入れた。