激突討論但除外有
「どうしたんですか、急に冷戦して」
かつての宇下、今は同輩の戴江龍に問われ、静影は端正な貌を歪めた。
背粱を虫が這ったように感じた、と答えるには、兵営にひとが多すぎた。介士の鍛錬の最中だから、聞いている余裕があるのは江龍だけだとしても、言にするのは惑う。
静影は前額にかかった髪を払い、応じる代わりとした。
江龍も察して、それ以上は触れなかった。
「主将、舎弟は中用しておりますか?」
「充分に。だが、本分でもないのに、麻煩をかけたな」
「そうでもないでしょう。宮城の防護ならば、威衛軍の任。陛戟として皇上の許から外れられない左右府よりも、多少は自在ですから。それに……」
「それに?」
江龍の声には、笑いが含まれていた。
「あいつも、大姨子に活躍を示す好機なので」
静影は江龍の弟、江心のぱっと明るくなった顏を思い出した。
あれは、後宮の守りについて、説いてからではなかったか。そう――紅女史からの正式な求めである、と言った瞬刻だった。
「我ら武侯軍は、京城の巡察を加強することにしました。大婚がために、当初から預定されていたことですが……北の使節で、いろいろと路数が増えて、準備が遅れていたもので」
滞っていた準備が進んだにも拘らず、江龍の表情には過意が見えた。
「なにを考えている」
「いえ、それぞれの任の動静が、散りすぎている気がして……」
「左武侯将軍の労心も、もっともだな」
庁堂に慌ただしい矩歩で入って来たのは、棠梨の嗣子、陸隆昌。ところによっては、冬栄という別名のほうが知られている。
東宮の宮――常棣宮にふたりを呼び出しておいて、なかなか現れなかった男は、今は絳紗袍に身を包み、犀の簪で髪を留めて、空子なく東宮を装っている。目の下に隈が残っているのだけは、期日に追われていた冬栄の余りだろう。
「さて、爾らには唐突ではあるが、これより国子学に向かう。同行せよ」
「それは構いませんが……」
江龍が首を傾げた。大学が目的ならば、兵営で見面すれば良かったのだ。専程、常棣宮に呼び出したなら、皇太子の配する場でしかできない話があった、と思うところだ。
疑念に対し、皇太子は大息で応えた。その意思を理解するのは容易である。打算が変わったのだ。
「任が散りすぎていると思うのは、切中している。大婚や後宮での武挙、それから北の大国……徐静影よ、後宮の守りは磐石か」
「それは右威衛将軍に。宮城は武衛軍と、本将が左右府。左右府は、京城においても武侯軍と配合して、防護を重ねます。おそらく、監門軍と武侯軍だけでは、難が起こるでしょうから」
「禁軍が出来して、対手をしてくれても構わないのだがな……こういう時は暗地にいる」
「殿下、言が過ぎます」
静影の紫石に諌められても、皇太子は、ふん、とらしからぬ動作をして横を向いた。
「とにかく……行くぞ」
「急ぐ必要がありますか?」
「ああ。太常寺の者たち……博士らが、何鳳翼と大学に来ると聞いてな」
皇太子と江龍の視線が静影に向いた。
左丞相の補佐人として、誰よりも忠誠なその男は、静影になにを思ってか、常に冷待する。
「彼が来るなら、避けて行かない。などと、本将は言いませんよ」
「好、では急ごう」
「えっ、殿下? どうして深処に向かおうとするんですか?」
皇太子に背方を向けられ、江龍が驚きの声を上げた。
常棣宮から国子学に行くには、東城門を使う。それがどうして、逆に進もうとするのか。
江龍の着慌はもっともだが、静影には明白だった。
棠梨の丕子が冬栄となるために、どのよう路程で宮を抜けてくるのか、よく理解できた。
乗便に、国の主である一人の逃路も知っているので、静影がその気になれば容易に皇族は滅せられるねえ、と天地自在な少女なら言いそうである。
「もう少し説法を学んで欲しい……」
「静影、脚が止まってるぞ」
「ああ、はい……しかし、何鳳翼といえど、太常博士が対手では、なにもできないのでは」
太常博士は、大婚の太占に関して大学の博士と討論を要するから行くのである。専才である彼らの知識を、外行の官人が動かせるとは思えない。
「小王とてそう思っているさ。だが、曲直を変えさせるのに、知識は要らない。ただ左丞相が、と呟けばいいのだからな」
権勢が曲げてきたものを、静影も知っている。にも拘らず、同意できない心境であるのは、どこに根由があるのか。
大学に着くまで、模糊とした考えを捨てることはできなかった。
***
亀と亀に似たなにかと鹿の絵画を掲げた老爺と、四つ足ということしか分からないなにかの絵画を持った老爺とが、互いの鼻先にそれを押し付け合っている。
がっちりと組み合ったようなふたりの姿は、争いは同位でなければ成立しないという真理を顕現させていた。
ふたりの旁で恍惚と佇立する官人から、円形に離れた課室の隅、韶華たち学生は茶を飲んでいた。ほかにすることは、なかったからである。
「どうなっているッ?」
皇太子一行が国子学に着いたのは、そういう刻だった。
「あ、冬……ではなくて、東宮さまではないですか」
韶華の言に誘われ、好好的と学生たちの拱手が一斉に行われた。
不行儀と怒るより先、老爺たちの咆哮が響き、皇太子、もとい冬栄は身を竦ませた。
静影と江龍は課室に入らず、内を覗き込むだけに止めた。おそらく、老爺たちを止められるのは彼らだけだったが、暴れて噛みつかれ、創口でもできたら、そこから珍奇な水恐れの急症を引き起こしそうな気がして不成だった。
「お茶、飲まない?」
韶華は冬栄の張望を李譚と学生に任せ、茶壷と杯子を武人たちに差し出した。
「戴きます。そういえば……小妹でしたよね。以前、中飯で照料になったのは」
場に不一致に思える柔らかな笑みは、韶華に人物をすぐに思い出させた。美貌の没常識男に、戴江龍と介紹されていた武人である。
「静影に求まれて、防護の任に就いたんだっけ?」
「それは舎弟です。今天は、殿下の随伴で……なにがあったんですか、あれ」
「卜に使う骨は、なにが正当かで揉めてるっぽい」
「似的?」
静影の紫石の双眸には、でき得る限りの自制が込められていた。やはり待つのに慣れた武人は違う。
韶華は眼晴搏鬥する博士らを眺め、首を傾げた。実地では、どうしてこんな流れになったのか、解説は難しい。
「開首はちゃんと、大卜の印証について討論してたんだよねえ……でももう、龍だの貝だの言ってるから、骨の話じゃなさそう。それに、端緒はあのひとなんだ」
韶華の視線の先には、立ち尽くす官人がいた。
「……何鳳翼がなにをしたのか知らんが、韶華、おまえが大学に来ているとは、思わなかったぞ」
「うん、わたしも課を受けに来たわけじゃないんだ。進士のひとたちに頼みがあったの。そしたらさあ……」
太常寺から博士が来ているとかで、ほとんどの主修が下課になっており、学生たちは残っていなかった。
幸い、進士たちは読書会を開いていたので、すれ違いにならずに済んだ。
やがて好機だからと、大学の博士たちが進士たちを討論に呼び、それが原由で事は紛糾した。
太常博士に従って来たような様で、しかし、大学に来ても名乗らなかった男が、丸い進士の遠戚であると分かったのだ。
「あの丸いひとはさ、主意においては、脳力を巻子に置いてきてしまった生手なんだけど……大学では優秀だったみたいで、博士に推されてるのね。まあそれも何家の行第二っていうのが、大きかったらしいけど」
「何家。というと、おまえ……司空の郎子を、曳白呼ばわりか!」
「わたしには、官位は単なる文字みたいなものだし? だいたい静影だって、アレをアレ呼ばわ……」
睨まれた。
「そもそも親が高位だからって、情態を変えたりしないよ」
「情態ではなく、礼儀の問題だ。武挙でも貢挙でも投考するなら、その辺りは覚えておけ」
三公のひとつ、司空は名誉だけで実の本分はないと言われるが、皇帝に次ぐ高位と見なされる。
確かに、当代の司空は宮城に来ることがほとんどなく、ほぼ退官しているのと変わらない。だから、敢えて丸い進士の家世について語る者はおらず、韶華も知らなかったのだ。
その何家の分流の末に、何鳳翼はいる。ために丸い進士と何鳳翼の拝礼は、複雑なものとなった。
「長輩でも、一族としては下位。それって、なんか麻煩なことみたいで。だからだろうけど、博士たちが」
生硬な官人を居間するよう、快嘴に努めてくれた。
そうして、やっと緩んだ場が完全改変したのは、討論が始まってすぐだった。
「どこから話がずれたのか……大学の博士が、本宗であれば、左司郎なぞにならなかったものを、とか言っちゃって」
彼は激昂した。表面からは、見えなかったけれど。
(左司郎って悪くないはずなのに、何家としては、足りないものなんだね……)
それはあまりの借口ではないかと思うが、足りないと言われた彼がやったのは、太常博士を後台にして、国子学博士を煽ることだった。同情も、瞬刻で吹き飛ぶというものだ。
「でもー、博士たちが好強すぎて、煽った当人が失落してるってのは、活該?」
「その説法!」
「はいはい……で、静影は、東宮さまとなにしに来たの。これ見に来たわけじゃないよね? 東宮さまは、お茶飲めて、満たされてるようだけど」
静影は江龍と視線を交わし、大息を吐いた。
「ある意思……これを止めに来たと言える、のだが……」
「送料と異なる方向ではありますが、狙い通りですし」
放過しておこうかな、と江龍は考えているらしい。一方、静影の天弓はぐっと寄せられ、同意しがたい形を作っている。
「静影、そんなに認真に考え込まなくても?」
「殿下は関心していたが、俺は……不由得に大学に係わる必要はない、と思っていたんだ。なぜか。ここに来て、そう考えていた理由が、分かった」
「はあ?」
韶華と江龍の声が重なった。
「ここは、俺たちの送料外の理で動く場なんだ」
「えっとー……もしかして静影、博士たちの舌争に将就将就?」
「我には、主将の心境が分かります。宮城のどこよりも、もしかしたら世で最も、権威に流されないひとびとなんですよ。博士というのは……」
韶華はわずかに口許を歪めた。
武人が学究の徒に深遠な志望を持つのは構わないが、彼らは単に、一点しか見ていないだけだ。
(いいけどさ……でも、権威だとか言い出したってことは、静影たちの目的は)
何鳳翼という官人が、博士たちに圧力をかけるのを阻止したかったようだ。
(無用担心……ま、あのひと自身が、失閃を呼び込んじゃったから)
韶華は彼の名を覚えておこうと思った。
面具のように硬く動かない側臉には、まだ後手を取り戻そうとする魄力がある。 這次は白白でも、次は別の策を使って、動かそうとするだろう。
茶も飲み終り、まだ終わりそうにない博士の舌争に飽きて、学生たちは帰ろうとしていた。
韶華の事は為せていないが、何鳳翼がいる場で、話したくはなかった。
(このひとの前では、小聡明な牢騒少女の模擬をしていよう……)
と、決めた韶華の頬に、静影の胡乱な視線が刺さった。
固然、不顧した。




