不穏之兆
書肆にしか見えない白果舎に、書肆に事があるとは思えない長躯が入って行く。
その高強な身材と爽利な動作には、一片の迷いもない。
彼を天生の武人と見る者もいるだろう。
けれど戎衣の姿に粗野な印象はなく、端正な身段は、文官にも匹敵する落ち着きを見せていた。
難があるとすれば、男女を問わず、嘆息するほどの美貌――と表すのに相応な顏をしているのに、視線を合わせようとする者がいないところか。
前額の下、清逸な眼神には、狷介さがやけに醒目する鋭い紫石が、親しむことを拒んでいる。
しかしながら、当人に拒んでいる打算はない。
だから、そうと知った藍雪路の流気な者たちは、武人であるにも拘らず、彼を友のように扱う。
膠固な質でも嫌われることはない、それが徐静影という男であった。
「殿……いや、冬栄」
白果舎の隅に座る男に、静影は呼びかけた。ここでは敬称をつけないことになっている。
背影からはすぐに、ひどく焦った声が戻って来た。
「まだ少し待ってくれ! この稿なら、もう終わるから!」
「俺は編纂人じゃないぞ……」
ぴたりと筆を止めて、冬栄が振り向いた。
質朴な襴を洒落に着こなし、やや乱れた髪と、目の下に隈があるものの、高雅な面貌は大家の郎子が、遊びにかまけているかのよう。
冬栄を仮の名とする、真面目は棠梨国の丕子である男は、対手が故人の武官であることに心からほっとしていた。
「静影……おまえだったか」
「来る毎に思うのだが、いつも期日に遅れているように見える」
「これが通常ではないぞッ。宮……では見つかると不成なので、ここでしか書けないだけだ。今は殊に忙しくてな」
誰に見つかるのか、と尋ねることを、静影はしないでおいた。答えを聞いて追悔するのは、自身であるような気がしたからだ。
「それで冬栄……事は? 今天は、韶華は来ないんだろう」
「ああ、呼んでいない。まだ聞かせたくないのでな」
冬栄は頷き、また筆を動かし始めた。
「南衙軍に伝わっているかは分からないが、後宮の武挙が始まるのは、聞いているな?」
「今天、正式に伝わった。だから、あとで韶華に伝えようと思っている。だが……思ったより急に始まったな」
「沈修容が、猛然と認めたのだ」
「左丞相が……」
そういった任を為すべき者として古怪はないが、大婚に関しては、最も動きを鈍らせていた人物だ。急な妥結は、謀略の疑いを抱かせる。
冬栄も同じ思いであるらしく、小さく頷いた。
「どうして、と考えてしまうよな」
如何せん、後宮で起こることに、男子である皇太子も陛衛の将も、係わることはできない。
希望にするのは、武挙の判士である韶華の母親だけだ。
「内側は、内側の者たちに任せるしかないな。静影、外側の防護については、どうなっている」
「皇上からの仰せで、改めて右威衛に任せた。我が左右府軍も、これから増えて行く儀式のために、余裕がないから……宮中では、不審な動きは見られたか」
「不審というなら……まあ、不審だろうか。呂公が、糸事の工匠を呼ぶと言っていた」
「あー……どういう意思だ? 相公が衣を作ってはならない、わけじゃないよな」
恍惚と問う静影に、冬栄は大息で応じた。
顕眼好みで知られる宰相は、あれでなかなか節省な理家である。旧い帛に飾りを重ね、繕っているから花様が多いのだ。
だから宰相、呂宏達が自身の新しい袍を求めるのなら、呼ぶのは繍匠のはずだ。
という解説を冬栄にされても、静影にはよく分からなかった。
「文官の家世なのに、その辺りに鈍すぎるぞ! 自身のものではないってことは、おそらく、下賜する品を作らせる匠を選んでいるんだよ!」
宮城には、皇帝や妃嬪のために、衣や飾物を作る工匠たちが住んでいる。皇帝、あるいは后妃、皇子と、主持する対手は異なるが、たいていは宮城の内側で全てを揃えられた。
貴族たちは、自身で準備する。宮城の工匠に求むことはないし、宮中に己の工匠を呼ぶこともない。
「まあ……呂公の話は、左丞相が武挙を認めた後のことだから、係わりがあるとまでは言い切れない。あったとしても、あれが皇上の意志から外れるようなことは、しないだろう」
心煩するな、と冬栄はつけ加えた。
分からないことだらけなのは同意するが、ある部分で、静影は静淡だった。
戦では待つ刻のほうが長いもの。誘敵は、その大約をいかに動かずにいられるかに費す。
つまり、静影が思い浮かべる少女には、激しく向かない行なのである。
静影の封口が表すものを、冬栄は正しく受け取っていた。
「小王があれを呼ばなかったのはだな……武挙に潜入してくれと言うべきか、迷っているからでな……」
「しかし、令堂だけに任せるのは、どうだろう。本来の判士の行と同時では……仮の投考で潜入し、張望してもらうのは、やむを得ないのでは」
「仮意、であるならな」
返す言もない。それは、韶華に武挙を知らせようと思う静影の、最大の掛念でもあった。
冬栄は書き終えた稿を深切に重ね、旁に置いていた篇子を取った。
渡されるより先、目に入った文字が、紫石の双眸を険しく歪ませた。
「これは……」
「分かるだろうが、正式なものではないぞ。府上では、まだなにも準備されていないのだからな。これも、沈修容の策なのかもしれない……」
「不妙だろう! これでは、女官の召募かと思う者が現れるぞ」
「ねえねえねえねえ冬栄先生っ、篇子見たっ? なんかいろいろ報名できるみたいなんだけどっ」
現れてしまった。
勢いよく書肆に飛び込んで来たのは、等一下のできない、あまり武官に向かなさそうと武人に思われた少女だった。
「あ、静影もいたの。ま、いいや」
焼栗色の結い髪を揺らし、韶華はふたりの鼻先に紙片を突き付けた。
前夕に話題にした、差錯を招く字面がそこにあって、男たちは、なんと否定していいものか分からなかった。
無に近い反応に韶華は首を傾げたが、冬栄の手にも、同じものがあるのに気づいた。
「なんだ、もう知ってたんだね」
「韶華……それは」
「後宮の女兵だけ、増やすんじゃないんだね! 侍侯部門って、わたしが水芳宮でやってたようなことでしょ? 武挙っていうから、花招か搏鬥ばかりが、考試かと思ってたな」
「韶華、可憐だがそれは」
「なんか納女考試の篇子と似てるねえ……って、どうしたの」
韶華の盛り上がりが、ようやく止まる。その間に、無から負の方向に、男たちの反応は落ちていた。
「納女考試か……それを使ったんだな……」
「粗劣な計であるのに、上当する者が痛い痛いぞ停ッ!」
「後言を吐かれた気がして」
冬栄の脚を踏んだまま、韶華が静影を見上げる。
「篇子が、なにか?」
静影は韶華に座るように示して、大息を吐いた。
「韶華、おまえは、どこでそれを手に入れた」
「府上」
「府上っ?」
「……の、当前の大路」
そのはずだ、と棠梨の将がつぶやくのに、韶華も不穏なものを感じ始めた。
「えー……もしかして、偽物?」
「そう思って構わない。まだ、篇子などは作られていないんだ」
ではこれはなんだ、と韶華の視線が空をさ迷う。
それに与えられる答えは、静影にもないが、兵営に来た正式な知らせは、教えることができた。
「なによ……全くとはいわないけど、これって蜚語じゃん! 静影の言うのだったら、送料通りの武挙なのに」
「井然と読んでみろ……あくまでも武官を集めているとしか、書いていない。侍侯という文字を女人に使えば、自ずと女官のようなものと思い込んでしまうだけだ。俺たちにとっては、戎衣を侍従の綵衣に変える、という意思でしかないが」
「ではこれは、故意に差錯を招くよう、準備されたものだね」
「……そうなるな」
「しかも、武官が書いたね」
是と応じるのは、難しかった。ただ考えとしては、静影も正しいと認める。文官が侍侯と言えば、侍る行をする者だから字句通り。認錯させられるのは、武官だけなのだ。
南衙軍に属する武官は、知らせを受けたばかりで、篇子を作るに至らない。
となれば、作った武官は北衙軍。要は、禁軍に幕後がいるのだ。
韶華に伝えていないが、冬栄も静影も篇子は、沈修容が係わっていると考えている。
ゆえに、なおのこと韶華には言えない。
左丞相と禁軍のつながりは、あってはならない。禁軍が皇帝以外とつながることがあり得ては、いけないのだから。




