求香料之一
后妃の考試はひとつひとつの歩を経て候選人を減らし、皇帝と見える一場、すなわち面試に至るまでには、数人に絞ることになっている。
その面試において納めた『香』が判じられ、受かれば、皇帝が決を下すために行う、廷試になる――らしい。
姉の朱蕣がもらった、あのぶあつい手柵を読んだ限りでは。
「お姉ちゃんの香は、わたしが作るけど……ほかのひとは、誰かに頼むことになるよね。当人の才貌だけでは、妃になれないってこと? いや、香りを自作するひとがいたら別か。そうすると分かんないな。配方くらい誰でもできるし? いやいやいけない……今はそれを考える時じゃないって」
韶華はひとりごとを止め、手元に目を落とした。気を散らしたせいで、よれた筆の跡が図を不成にしてしまっていた。
「やりなおし……」
新しい宮都甘棠の地形図を引っ張り出し、几案に広げる。
狙う植物はじきに咲いてしまう。早く香料の材となる植物の在処を図に書き込まないと、間に合わない。白果舎に誰もいないので気は楽だが、京城内の植生地図を作るついでに西苑もと欲張って、思わぬ時を取られていた。
「もっと軽易にできると思ってたな……」
韶華が見たものを覚えているといっても、実のところ、理解しているかはまた別の話なのである。
必要な文章を必要と断じて抜き出すのは、分かっていなければできないこと。分かるためには、また覚えたものを思い出し突き合わせ正す――偏偏進みは遅くなるのだった。
後果、老早から始めて下午も遅くなったころ、ようやく地図はできた。
「ちょっと含糊だけどね……」
白果舎を出ると雨は止んでいた。
(これなら明天あたり行けるかな……でも瑠璃が少し熱っぽいんだよね……)
このところ、打手の母親は言うに及ばず、無業の父親もよく出かける。明天、もし姉に出かける打算があるのなら、妹ひとりを家に残すのは気がかりだった。
(草の採取は、少しくらいあとにしてもいいかな……)
韶華も作坊か白果舎に入り浸り、あまり構ってやれていない。寂しそうにしている妹の姿を思うと、採取を延ばして悪いことはない。
考えを決めると歩みも速まった。いつもより早く香青路に着いて、韶華は騒ぐ声に気づいた。岐路の辺りに子どもたちが集まっていた。
「瑠璃……いるの?」
「うわあっ、凶狼姉だ! 逃げろ!」
わっと走り出した童子の輪の中心、身体を縮めて座り込む妹の姿があった。なぜと問うより先、韶華は牙を剥いた。
「小鬼ども! 許さないからッ!」
狙うは首謀。風より速く走り、衣領を掴む。
窮まった悪童は顔を赤くして喚き出すが、韶華は構わず手を振り上げた。
「この小子……」
「止せ! そんなだから凶狼と言われるんだ」
腕が動かない、動かせないのを見て、韶華は止めた男に怒りを投げつけた。
「言われたところで痛くも痒くもないわ、離してよ! 妹を欺負たのよ、ぶたれて当然でしょう!」
逃げる悪童と止める男と、どちらも考死に値する。
だが。
「いいから……妹を見てやれ」
紫石の双眸が韶華を見下ろしている。曇天を背にして端整な顔もまた陰を含み、心情の悪さが露わになっていた。
どうしてここにアレ、いや静影がいるのか。
激昂する韶華を正気に戻したのは、瑠璃のか細い声だった。
「韶姉……」
「瑠璃! どうして外にいるの、熱は下がったの? お姉ちゃんは?」
「黙って出てきたの……熱、ないし、韶姉をお迎えに、行きたくて……でもみんなが遊ぼ……景景が」
涙があふれてきたのか、滲んだ声は続かない。韶華は妹の小さな身躯をぎゅっと抱き締め、まずは熱のないことに小さく息を吐いた。
「やっぱりあの小鬼、叩いとけば良かった……」
「それで、傷はないか?」
静影の問いかけは突如な上に、時を尋ねるような硬いものであったが、気遣われたのは幼い少女でも分かる。瑠璃はふるふると首を横に振った。
「良かった。もしあったら、刺行ですけどもねっ」
「姉妹だろうに、なんでそんなに反応が違うのか……」
「悪かったわね」
天を仰ぐ静影の動きだけ感じながら、韶華は低く呟いた。
「でも姉妹には見えるんだ?」
一瞥しただけで、ひれ伏したくなるような佳人の長姉とともに歩く。もしくは、幼弱な瑠璃のそばにいると、韶華はたいてい弄児に間違われた。
似ていないのは確かなので怒る気にもなれないが、家族からの賛辞を除けば、髪が焼栗みたいで美味しそう、と言われたのが褒められた――らしき唯一の思い出である。
「初見で姉妹だって言い当てるひとは、珍しいんだよ……」
言いながら、静影の今の判断に関しては当てはまらないかな、とも思う。これだけ凶狼姉だ妹だと大騒ぎしていれば、似ていなくても姉妹と分かるだろう。
しかし膠固で悩む男はやはり一品違った。
「同じ髪飾りをしているから、姉妹だろうと思ったんだが」
「そこで料想するのッ?」
「違うのか」
「流行ってるとは、考えないんだ?」
「いや……あまりそんな飾りを見たことがない、から」
静影の言に誘われるように、瑠璃が結った髪に手を当てた。髪飾りは組紐を花結びにしたもので、作ったのが朱蕣、作り方を覚えてきたのは韶華である。
「珍しさでは特別だけど……そっか。この良さが分かるんなら、もう貢ぎ物で悩まなくて済むね」
「なにが悩むって?」
「うっ。いえいえ不在乎、不在乎ですからお気遣いなくッ!」
「よく分からんが……まあ、可愛いと思うよ。その髪飾り」
「そこはひとを褒めるんだってば!」
静影のもてない理由が、少しだけ明らかになったような気がした。
「ところで、なにか落としたぞ」
指さす先には、しわしわになった紙片が落ちていた。白果舎で韶華が作り上げた地図である。騒ぎの正中、逃げる子どもたちに踏まれてしまったようだ。
韶華は慌てて拾い上げた。
「破れてはいないね、良かったー……」
「それ、なあに?」
瑠璃が顔色を好奇でいっぱいにして覗き込んだ。
「西! ……?」
「西苑、ね」
いつものように答えてやり、姉が妹に微笑む。
美しき家族の情愛を見つめる男も一瞬、微笑みを浮かべた。あってはならないものが、そこにあると覚察までは。
「おまえ……それはなんの地図だ?」