クシ閑話
並ぶひとの列は長く、末尾も見通せない。
だが、ひとびとは熱のこもった目を先に向けながら、静かに待っている。己の腕にかかえた冊子に、たったひとつ書き込まれるものを得るために。
それは、娯楽の少ない北の国に生きる者にとって、降って湧いたような幸運の産物だった。
分かっているのか、いないのか――異国で生まれ育った男は黙ったまま手を動かし、求めに応じ続けた。
もっとも、どれほど熱く話しかけられても、顔を上げようとはしない。時折、ああ、だの、そうですか、などと頷きとも返答とも取れない小さな声を出すが、彼はひとびとの視線を頑なに拒んでいた。
常であれば、そんな態度は不快に思われるところだ。とはいえ、ひとびとが気にかける様子はなく、かえって理解を深めているようでもある。
かような人物は気難しくて当然。
まさに思っていた通りの傑物。
軽々しく笑って応えるような物語を、彼は書いていないのだから。
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壁際で静影を見つめていた韶華は、そっと頭を引っ込めると、己の姿がひとの目から隠れたのを確かめたのち、大きく息を吐いた。
困っていると知れば、決して断らないだろう、という実直な質にたのんだこととはいえ、静影の態は異様である。
純黒の前髪の間に覗く紫石の廉利さは、闇に塗りつぶされ一条の光も放っていない。どころか、なにもかも吸い込む穴の如く、昏く澱んでいる。
迷于香から借りた大袖衫をさらりと着流し、韻士の風色も清逸な男の姿は、とても棠梨の皇帝に仕える侍衛の将には思えない。
つまり、真面目の露見を担心しなくても良いわけだが、貧しさから子を置いて逃げた女の情が凝り固まった怪、痩せ女にしか見えない男に代わり、クシの王族の許されざる秘密の恋を書いた官能小説家の振りをして簽名会をするというのは――
(思うところは分かるけど、でもそこまで虚ろにならなくてもっ……)
ひとびと、すなわち愛好家からの狂熱に似た愛着の視線は、本来、彼には係わりのないものだ。今日という日がなければ、おそらく百年、かすりもせずに過ごしただろう。
だからこの遭遇に惑う静影の心境には、韶華も、とある雑誌の作家として覚えがあるだけに、同意しかない。
ただ、この場に父親を出すわけにはいかないので、静影には耐えてもらうしかないのである。
身代りとして。
偽りの官能小説家となって。
以後、どれほどの苦しみが生じるとしても。
「まあ、ここだけの替身だし、棠梨で簽名会やるわけじゃないから……」
「棠梨の都ではやらないのかい。ここでは、こんなに盛況なのに」
柔らかな声に応じて、韶華は振り返った。もう覚えてしまった声なので、誰なのかは分かっている。
微笑みを浮かべ、立っているのは長い逃亡の果てに名誉を取り戻し、クシという国の王太子の座に就くことになった男、ムドゥールである。
異国の庶人である韶華が近づけるはずもない高位の貴人、なのだが、未だ放浪の気質が抜けないのか、濃い栗色の髪の少女を遠戚扱いしているせいか、気安く声をかけてくる。
誰もいなければ韶華も応じる気になったろうが、近くにはクシの民が大勢いる。一国の王太子に馴れ馴れしくするのは、良い客の態度ではない。
韶華は急いで一礼を返そうとして、ムドゥールの手の中にあるものに気づいた。
「ムドゥール様、それは……その手に持っているものは、まさか」
青い目を細め、ムドゥールは笑った。肯定の意、さらには得意気でさえある。艶めかしい題の小説を開き、書き込まれたものを韶華に見せた。
「お父さんの簽名……頂いたのですね……」
「まずは地道をと思ってね。シウンは渋っていたけどね」
「まあ渋るでしょうよ……って、まずは?」
「そう。これからあの陰羽先生の列に並ぼうと思って」
「えええー」
「当然だろう。シウンの書く真実の簽名はどこにも出せない。みなと同じように、この簽名会で彼の簽名をもらわなければ、陰羽先生の簽名を手にしたことにはなるまい」
「それはそうですけど」
「だいたい棠梨で簽名会をやらないというなら、彼の書く陰羽の字こそが、民の知る官能小説家、陰羽の唯一の簽名だよ」
ムドゥールの言葉は、詭弁にも思えるが、ある部分では正しい。
これより先、韶華の父親が簽名会をすることはないだろう。そうしてもし、簽名した書籍が要る状況になれば、また静影に頼むに違いない。
つまり『陰羽』という筆名は、静影の手によってのみ、存るのだ。
「良いのかなあ……まあ筆迹なんか、かえって静影のが整ってますけど」
「なかなか良い字を書くよね、武人なのに……と言ってはいけないかな。棠梨は、クシより書に親しむ国なのだから」
「武人といっても、静影は文官の家の出ですし」
「そうか。きみは、なかなか相応しい家のひとを見つけたわけだ。父に代わって書くという孝行を、できるひとを」
ムドゥールはクシの言葉で話している。ために、微かに込められた意図に韶華が気づかなかったとしても、やむを得ない。
ただし、どちらの言語も使いこなせる痩せ女には、確と伝わっていた。
「孝行など……認めるものか……」
低い呻きが、ムドゥールと少女の横から這い寄ってきた。
かつての美貌を枯れさせた気息のない影、灰色の長い髪を一束、唇で噛みしめ、昏い視線を彼方に向けている女妖、痩せ女に似た男は、ふたりの間に割り込むようにして前に出た。
「お父さん! 出て来たら不成だって、替身の意思ないじゃん!」
「韶華……おまえはもう、瑠璃のそばに……」
「お父さんこそ、瑠璃の」
韶華が止める間もなく、細い灰色の影は、浮つくひとびとに並びを守らせようとする兵の背に、にじり寄った。
幸いにも兵は棠梨の男であり、背面のそれがなんなのか瞬刻にして理解したらしく、揺らぐことなく任務を遂行している。
一方のクシの民はといえば、痩せ女の接近を見ても、慌ても怯えもせず意外に落ち着いていた。
地下界から現れた火の主か、森の闇影に棲む水霊くらいに思っているのかもしれないが、それにしては、意を得たかのように頷き、並ぶ者同士でささやき合うのが奇怪である。
痩せ女だ痩せ女だそうだあれが棠梨に伝わる痩せ女か。
どうしてクシにそんなの決まっているではないか。
ひとの視線は驚嘆と慈愛を持って、ある一点へと向かう。官能小説家を模した、否、騙らなければならなくなった男に。
痩せ女は子への執着がために顕れる怪と聞くああなんということか陰羽先生が遠い国クシに行くのが気になってあれは憑いて来たのだ……!
「ねえ、天龍様……」
「なんだい?」
「わたし、少しばかりクシの民の思想というものを分心するんですけど」
「どうして」
「そういうとこですよ! 怪聞をまるっと呑み込んで真実と考え、全く、一片も、古怪に思わないところ!」
言いながら、それは僅かながら韶華にも当てはまるのだと思い知る。
韶華は北方の民を疑い深い者たちだと思っていた。棠梨で老人たちから聞く古い戦いの話や、書籍を読んで、狡い獣のように考えていたのだ。
(でも……)
実際にクシで出会ったひとびとは、そういった思い込みから少しだけ遠かった。
狡い質の者というなら、棠梨にだって多い。クシも棠梨も、あまり違いはないのである。
(来て良かった、のかもね)
クシという父親の故郷を知ることができた。いつか、シャーン・アルースという名だけしか知らない祖父の西の故郷にも、行ってみたい。そこには韶華の知らないことが、どれだけあるだろうか。
韶華の心の内に湧いたささやかな思いを、深い青い目は見つめていた。
「きみは彼に似ている。でも、逃げるのではなくて……自らの意志で行くのだろうね。その並びに……きみの場合は背後でもいいけど、誰かが居てくれたらと私は思うよ。物語りの中でふたりは死を選んだけれど、本当は、そうではないから」
「わたしって、誰かを後ろに引き連れて歩くようなひとに見えるんですか……」
「いやいや、気づいたら先に行っているから、慌てて追い付かなくてはいけないだけかも」
「なんだか、想定する人物がいるかのような言ですけども」
「その辺りは、シウンには黙っているよ。さて、そろそろ列も短くなってきたし、私も並ぶとしよう」
兵の背後に取り憑いた痩せ女は変わらずだが、残すは十人ほどである。周囲にたかるひとも減り、虚ろな表情の静影が見通せるまでになっていた。
それでも王太子が顔を晒して並ぶには、目立つような気がする。
韶華の憂いを読み取り、ムドゥールは首を横に振った。
「クシネーの目を引くのは王太子より妖女の方だから、心配ない」
「そりゃ、痩せ女は珍しいでしょうが……お父さんが来たのは、さっきですよ」
「シウンは中午から居たよ」
「最初からですかあ! 気づいてたなら、止めて下さい!」
「作家が代理人を気にするのは、当然だと思って……」
と言って、灰色の影と同じくらい気息のない遠戚の王太子は、照れた笑みを浮かべつつ列に並んだ。
韶華は、やがてクシに広がる風聞を思いながら、それが耳に届く前にクシを出ていることを祈るしかなかった。
***
その日、クシの都エルデンゲのとある場には、数千のひとが集まったと言われている。
そうして陰羽――愛欲を格調高く謳いあげた比類なき官能小説をもたらした傑人の姿は、彼らの目に長く焼きけられた。
紫石も狷介な、武人の如き好男子。その大きく壮実な手は不料にも流麗な筆迹を顕し、玉にも等しい簽をひとびとに与えた。
彼が棠梨の国でいかなる暮らしをしているのか、クシの民は知るよしもない。
しかし痩せ女が憑いている限り、なんの不安もないだろう。再び会うことはなくとも、官能の文藻は留まるところを知らず、やがて北方に辿りつく。
あるいは、いつの日か棠梨の国に行ける時が来ればまた、会えるかもしれない。
クシネーは思いを込めて、華やかな楼閣の涼台で、微笑むかのひとを心に浮かべる。
うっとりとした彼らの妄想は、祈りの通り、韶華の知るところにはなかった。
ゆえに、帰途につく陛衛の将の背粱が、厭な悪寒に脅かされていることを知る者は、誰ひとりとしていなかったのである。
第四部へ続く