表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
87/117

再会杜棠之花

 クシの都エルデンゲの中央、白い宮城の中で、幼子は椅子に座ってひとを待っていた。

 やがてここに、父親の祖母というひとがやってくる。

 瑠璃(ルリ)は、遠戚(しんせき)というものに会うのは初めてで、そわそわする情分(きもち)を、椅子から延びた足を揺らすことで支吾(ごまか)していた。

「ねえ、お父さん。お父さんの老太婆(おばあちゃん)って、どんなひと?」

 もう何次(なんど)も、同じ問いを口にしているが、答えは返ってこない。

 部屋に居るのは、瑠璃と姉の韶華(ショウカ)、そして父親の三人だ。母親は先に挨拶に行くということで、ここにはいない。

 父親は祖母というひとを知っているのだから、話してくれても良さそうなものだが、姉とふたりして黙り込んでいる。

 しかしながら瑠璃も、通常なら決して無視しない父親の無反応に、灰心(しょんぼり)することはなかった。会える楽しみの方が、大きいのである。

「来た?」

 扉の向こうで、誰かが話している声がする。案内の使丁(めしつかい)だろうか、声をかけようかと悩む間もなく、扉が開く。

 長い金髪を緩く編み、目を伏せた――目の見えない壮年の男が立っていた。

 瑠璃は一瞬だけ、祖母とは男子のことを言うのかと悩んだ。

「アーシムジィ・キアシム?」

 韶華の声と同時に、父親の肩が揺れた。

 見えないはずなのに、近しい血がそれを知らせるのか、キアシムは嬉しげな瑠璃と落ち着かない韶華に姉妹に微笑みを向け、正確に甥の方に顏を動かした。

「シウン……挨拶をしてくれないと、きみの子どもの頃の話を始めてしまうよ」

 同じ血を引く者として、これ以上ない証明の言葉であった。

 石臼でも回すような重い動きで、隅の痩せ女と化した男が振り向く。唇に灰色の髪を一束噛みしめ、昏い目をした元美貌が、叔父を見つめる。その貌は、キアシムに見えなくて幸いである。

「シウン、変わらないな」

 えええ、と思う韶華のそばで、瑠璃が首を傾げた。

「あーしむじむ……って?」

「その声は、瑠璃? 私はキアシム。きみのお父さんの叔父だよ」

「アーシムジィっていうのは、クシで師っていう意思(いみ)老師(せんせい)みたいなものかな」

 韶華は、驚いて黙る妹を椅子から下ろし、キアシムの前に連れて行った。

「アーシムジィ・キアシム。広間では、お目に、いえ、居たことは知っていましたが、改めて……初めましてのご挨拶をしたいと思います。わたしが韶華で、この子が瑠璃です」

「クシの習いで返すなら、言葉は必要ないけれど、ここは、きみたちの棠梨に(なら)おうと思う。改めて……会えて嬉しいよ、韶華。そして瑠璃。シウンがきみたちと同じくらいの年齢の時」

「お、ひ、さ、し、ぶ、り、です、キアシム」

 痩せ女の呪言(のろいごと)へ、キアシムは優美な笑みを返した。

「シウン、二度と会えないと思っていたよ……久しぶりのフレイ城は、どうだい。まさか、綺麗なクシの言葉を話す彼方からの声が、ここに再び響くとは思わなかっただろう」

 灰色の目が、己の娘の上に向かうのと同じくして、見えない男の目が、見えない男の貌を、少女の上に重ねる。

「アーシムジィ・キアシム……私は、忘れたかったのですよ」

「そうだろうね」

朱蕣(シュシュン)を得て、忘れられると思った。韶華を得て、許されたと思った。なのに私の呪いは、瑠璃に向かってしまった……私は聞いておくべきだった。あなたの目は、母がやったのだから。あのひとが亡くなった今、誰も本当の色を知らない。あなたがもし碧眼だったのなら、私は子を得てはならなかったのに」

「いや、違うと私は思う。きみの中には、間違いなく西方の血が流れている。韶華が彼に似ているのなら、瑠璃も似たっておかしくない。青い目は、西の血によるもの……シャーンの両親か祖父母から得た色だったのかもしれないよ。瑠璃は、西方の碧玉の名だ。クシのものより色が濃いから、名付けたのだろう?」

 ふと、韶華は瑠璃が生まれたころを思い出した。

 あまりにも弱く生まれ、名前どころではなかった日々。たまたま韶華が見守っていた時、赤子と初めて目が合った。

 潤んだ深い青に、韶華の驚く顔が映る。思い浮かべたのは、殊方(遠い国)の宝玉。父親を呼んで、瑠璃だよと言った時、まだ痩せこけてはいなかった美貌が、ひどく複雑な表情をして綺麗な瑠璃だねと応じた。

 そして瑠璃の名前は瑠璃になったけれど、あの表情がなにを示していたのかは、今でも分からない。

「ねえ、お父さん」

 難しいクシの言葉に焦れて、幼い少女が足を踏みしめた。

令令(おじちゃん)の……きあしむって、どう書くの? お父さんはね、史雲(シウン)だよね。書籍では(イン)うー」

「言わなくていいよ、瑠璃!」

 昔日に浸っていた男は、全て放棄して季児(末っ子)の口を押さえに走った。

 生国を捨てるように離れた者でも、己の所業を昔なじみには知られたくないらしい。遅きに失していると思われるが。

 先にあったムドゥールとジャイの申し出は、理解できているはずである。

「あらあら、シウン。わたくしにも、その子を抱きしめさせて下さらない?」

 老婦人が淑やかに現れた。

 クシにおいて、最も正統な血と言われるアイシラクトゥの王女(ナーネウ)、ソイラクタ。年老いてなお、その名の意味の通り、宝玉のように美しい。

 いきなり瑠璃のもごもごと動かす口が激しくなり、棠梨(トウリ)の女妖、痩せ女にしか見えない元美貌の男は手を離した。

「ままっ……ママーチャーン(おばあちゃん)!」

「まあ……覚えていてくれたの……」

「あれ? もう会ってたの?」

 韶華を見つめ、ソイラクタは淡く微笑んだ。

「ロホンがわたくしの領地を通った際に……見せつけるように、連れて来たのよ。瑠璃色の目を見て、分かったわ。でも、ああ……貴女が韶華。シウンの娘だと……一目で分かる。貴女とは、どこですれ違っても、きっとあのひとを思い出すでしょう。声なんて、イルガの笑った声が甦ったようだわ。貴女の中に、あのふたりは生きているのね……」

 ソイラクタが韶華を抱き締める。すぐに瑠璃も、自分も、とばかりに手を差し出した。

 相手が女性ゆえか、祖母だからか、史雲(ちちおや)は瑠璃がソイラクタに抱き締められるのを阻止しなかった。

 あるいは、キアシムに抱きつかれていたからかもしれない。一瞬、逃げ出しそうな素ぶりは見せたものの、目の見えない男を振り払うようなことは、しなかった。

「シウン……もう、きみから怒りを感じない。棠梨で幸せなのが、よく伝わってくるよ。きみはここに戻りたくはなかったろうが、それを知れただけでも……良かった」

 キアシムは子どもにするように、史雲の背を軽く撫でた。

 懐かしい親族を(いたわ)る姿が、痩せ女を拘束しているようにしか見えないのは、困ったものである。

「そういえば、お母……母はどこに? ここに来るものと思ってましたけど」

 ソイラクタは不可解な笑みを浮かべた。()いて似ているものを言うならば、誰かを氷漬けにして、満足げに振り返る雪精霊(ゆきおんな)であろうか。

淑英(シュクエイ)さんは、スゥグジェンと話をしているはずです」

「ああ……」

 つまり、かの廃妃(ブルエクトゥ)は、瑠璃の拐子(ゆうかい)について激しく叱られているらしい。

「でもね……やり方は悪かったとしか言えませんが、ロホンの選択は、考える余地があると思うのよ」

「あれ、そっちの話? 瑠璃を……迎えるとか、そういう」

 低声(こごえ)で言ったにも(かかわ)らず、灰色の視線が、韶華の頬に突き刺さった。

「誘拐はもちろん、怒られているはずよ。でも、この話も重要よね。だからシウンは、()いひとに選んでもらえたと思うの。あの方なら、信頼できます。瑠璃のために仕える夫を、きちんと鍛えるでしょうから。ロホンがどうするつもりか分かりませんけれど、少しは這いつくばる立場になってみるのも、良い経験でしょう」

「ちょっと怖いです。ひいおばあさま」

 やはり、父親の祖母である。すでに亡くなっているが、母親だというイルガ王女も、王族でありながら反対を押し切って西方の男を夫にしたので、かなりの気の強さがうかがえる。

 もっとも、瑠璃と史雲に微笑みを向けるキアシムからは、優美な柔らかさしか、感じられない。それはロホンやセレウにも通じる、高貴な気配だ。

 そして、王族としては長く認められなかったというが、セレウの父親ビアクタにも、確かに感じられたものだ。いかに見下されようと、彼もまた王族なのだ。

 謁見の場に兵士を呼び込み、混乱させたとしても、クシの国と民を考えての行動だったのだ。

(クシと棠梨につながるもの、かあ……)

 親族との会見の前、ビアクタが話したことを思い出した。

 最初に碧眼の少女の話が伝えられたのは、彼ら、つまりヌクトゥベでもビアクタでもなく、スゥグジェンとギリアだったという。


「話す相手を、よく選んだものだと思う。そんな話、彼女たちでなければ、黙殺されていた。シウンの存在は、誰もが忘れていたし、どこに居るかなど、知らなかったのだから」

「そうなんですか? わたしが聞いた話では、知っていた者もいるけれど、重要ではないから、忘れたのではないかと」

 ビアクタの否定は、はっきりしていた。シウンの父親を犠牲にしたことは、貴族たちの間では、呪いのようにのしかかった。ピアグダン王が言ったように、シウンという王子をいなかったことにすれば、なにもなかったことにできると思ったらしい。

「碧眼の話を聞いて、スゥグジェンは飛びついたようだが、ギリア……王太子妃(ナーエクトゥ)は疑った。当然だろうね。アイシラクトゥに今更、碧眼を持つ子が生まれるなど、信じられない」

「でも、セレウ王子は知っていたのだから……」

 ギリアは伝えたのである。

「あの方は、私を(いと)うておられる。しかし、スゥグジェンにも知らせが行っていると知って……相談に来られた。だから私が、セレウを棠梨に行かせたのだ」

 より信じた方に、多くの情報は行くものであって、セレウ側が遅れを取るのは、やむを得ない。ロホンが瑠璃という碧眼の少女を狙い、攫ったあとで、水芳(スイホウ)宮にいたセレウは、碧眼の存在が真実だと知ったのだ。

「突如、棠梨からもたらされた碧眼の存在で、我々は動転した。誰も上手くことを運べはしなかった。全ては、棠梨の内側に謀った者がいる……と、言いたいところだが」

「後宮から始まったのが、気になりますか?」

 韶華の言葉に、ビアクタは顔を歪めた。いくら出入りが緩いとはいえ、後宮に住む妃に、碧眼の風聞を持ち込める者は限られる。それがクシの者であるのは、間違いないのである。

「しかも……別の者が私に、アイシラクトゥが正しく取り戻そうとしていると伝えてきた。私はつい、あのキアシムが友の……姉の夫の名誉回復のために、王位を求めるのかと考えた。考えてしまった。今回、クシを掻き回した者は、誰がなにを傷にしているか、正確に知っていたわけだよ」

 ビアクタは韶華の考えを察したように、頷いた。

「気をつけるがいい。おそらく、棠梨の者についても同様に、知っているはずだ」


 クシを知る者がクシに、棠梨を知る者が棠梨に。それらがつながり、なにかを為そうとしている。

 それを考えると、ぞわりと背筋に冷たいものが這い上がる。

 棠梨に姉をひとりで残すのではなかった。弄月(ロウゲツ)も女兵もいるけれど、その心の隙につけいる方法を、それは知っている。

(それなら、わたしについては、どう動く……?)

 瞬間、浮かんだのは、(おおよ)(たい)らかな顔が家人(かぞく)と似ていないところ、であった。

(いやいや……そんてことないって。ほら、太父(おじいさん)には似てるらしいしっ)

 西方の()りの深さくらい似ていても良かったのではないかと思うけれど、それが知れただけクシに来て良かった。と思うことにする。

「なにを頷いているんだ、韶華」

「ずっと似てない似てない言われてたのに、ここでは似てる似てる言われ……って静影。いつ来たの」

方才(たったいま)。楽しんでいる正中(なか)、悪いと思ったのだが、ピアグダン王が、当面(じか)におまえを褒めたいと仰っている」

 再会の妨げを悪いと思っているらしく、紫石の(するどい)双眸が、いつもの査牙(とげとげ)しさをなくしていた。

「静影のは、明白だよね……鹿追偵人(ストーカー)

「なにを言っているんだ、おまえは」

 ふたりの会話が分からないながらも、ソイラクタは楽しげに笑った。

(ボアナイ)が呼んでいるのよね、行ってらっしゃい、韶華。きっと褒めて頂けるはずよ。本当に、棠梨には驚かされます。なんですか、あの殺殺がなんとかって……スゥグジェンが、あんなふうに変わるなんて……」

「お願いですから、あれを棠梨の常態(ふつう)と思わないで下さい。あの香試(調香師)、誰から見ても、変態なので!」

 ソイラクタは、信じられないという顏をした。どういう意味での表情かは、次に会った時に訊くしかないだろう。

 瑠璃がソイラクタの裾を小さく引いた。

ママーチャーン(おばあちゃん)、会えて嬉しかったよ。お父さんにね、また来てもいいって聞いたの。まだ小さいから、あんまり長い旅は不妙(だめ)だって。だからね、封信(おてがみ)を書くね」

 幼子の言葉は、ソイラクタには分からない。それでも伝えようとする心の優しさに頷き、抱き締めた。

 キアシムは背後のシウンの視線が気になったか、韶華に、微笑みかけるだけにとどめた。

「いつか、またおいで」

「そうですね。来てもらうより、わたしたちが行った方が、良いですよね……それまでに、瑠璃も言葉が分かるようになるかな」

「アンダハが使うような言葉は、教えなくていいから」

口訳(つうやく)の教えた、ヒカエヨもどうかと思いますが……」

「訊こうと思っていたのだが……口訳(つうやく)の名は、なんというのかな。ロホンが用意したのだろうか」

 キアシムの声音には、疑う気持ちが含まれている。ロホンという王子(ナーニー)は、攫ってきた少女に思いやりをかける者ではないと、考えているらしい。それはある意味、当たっている。

「お考えの通り、ロホン王子ではないそうです。名前は言わなかったなあ……そういえば、静影は見た? わたし、探したんだけど、見つけられなくて……」

「いいや。どこにもいない。そもそも……口訳(つうやく)ができるだけの武人だったかもしれないし、誰か分からないまま探すのは不成(ムリ)だ」

 聞き取れる言葉になって、瑠璃がぱっと顔を輝かせた。

口訳(つうやく)叔叔(おじちゃん)は、ママーチャーンのところで会ったの。ママーチャーンは、優しいひとだから、怖がらなくていいよって。老太婆(おばあちゃん)だよって教えてくれたら、良かったのに」

「では、母上……貴女が口訳(つうやく)を瑠璃につけて下さったのですね」

 ソイラクタが首を傾げた。

「違うわ、キアシム。わたくしはムングルクトゥの王子の一行に、係わることはできないもの」

「瑠璃、口訳の叔叔(おじちゃん)に、ありがとう(ばには)って言いたい」

「どこにいても、分かりそうだけどねえ。あの軽やかにお喋りするひとは……どこかで最愛最愛と嬉しそうに語ってると思う」

「最愛?」

 固い声が、ふたつ重なって差し挟まれた。キアシムとシウンのものだ。

「お父さん、知ってるの?」

「最愛は……あるひとが、いつも使う(ことば)だ……」

「ジャイさんも使ってるよ、銀花(ギンカ)さんのこと最愛って」

「彼は、モリンの者だからね」

 キアシムが呟いた。

「モリン家のひとだけが、最愛って言うの? 口訳(つうやく)は、どうみても西方のひとだったんだけど」

「瑠璃ね、叔叔(おじちゃん)にいっぱい優しくしてもらったの。だからひとりでも、怖くなかったよ」

 瑠璃が大きな青い目を開き、父親を見上げる。

 古いアイシラクトゥの血族は、誰も答えなかった。答える言葉を持っていなかった。

 モリン家の者が、妻となるひとを最愛を呼ぶのは、クシを救った男が強要したからだ。

 アイシラクトゥの王女(ナーネウ)ソイラクタと、モリン家の(あるじ)の婚姻は、政略的なものだった。(まれ)に後宮に向かうだけの夫と妻の間に愛が育まれるのは難しい。だから、ふたりめの子が碧眼でないと分かった時、ごく自然な流れで別れることになった。

 けれど、ふたりの娘の夫は、モリン家に乗り込み、義母である王女の嘆きを伝えた。義父となるはずだった夫は、謝罪とともに、妻に最愛と伝えることを男に誓ったのだ。

 それは、シャーン・アルースという英雄の逸話のひとつ。

 もう失われたひとの物語り。触れることのできない、幻の優しさだ。

「それでも……この子の側には、居たのだね?」

 キアシムのささやきに、(ひそ)やかな笑いが答えた。愛しい子を守るために、私の命はあるのだよ、と。

 愛しいと言われた子はうつむき、痩せた腕で幼子を抱き締めた。

「瑠璃のバニハ(ありがとう)は、伝わっているから」

「そうかなあ、そうだといいなあ?」

 幼い少女が笑みを浮かべる。幻へのものでも、微笑みは確かに()るのだ。

 と、ふたりめの呼び出し人が現れた。モリン家の男、ジャイだった。

小妹(おじょうさん)、ピアグダン王をお待たせしてはいけませんよ。ああ、お尋ねしたいことがありまして……いつもは、どんな筆をお使いですか」

 ジャイの問いは主に、父親に向けられていた。

「書き慣れたものが良いですよね、やはり。おそらく大行列になると思います。私も欲しいです、陰羽(インウ)先生の簽名(オートグラフ)!」

「陰羽? それ、お父さんの、かんおうう」

「瑠璃、俺と天井(なかにわ)を見に行こう!」

 静影の愛児誘拐を、父親は許した。許さなければ、ならなかった。

簽名(オートグラフ)って、なんのことなの、シウン……」

 ソイタクタに答えられる者はいない。(こた)える者もいない。辛うじて韶華が話題を(そら)した。

「じゃあわたし、王さまに会いに行きますね。ジャイさん、向導(あんない)を!」

「そうですね、では失礼致します」

「母上、またのちほど揃って、食事でも……」

 それぞれあからさまな反応で話を(そら)しているが、ソイラクタはそうねと呟いた。

 急がなくても、この先、語り合う時は持てるのだ。そして、長く離れていれば、話しにくいこともあるだろう。したくないことを強要し、再び疎遠になりたくはない――

 彼女の心の中に僅かばかりでも、もしここで受け入れなければ、スゥグジェンを変貌せしめた妖しげな香を吹きかけられるかもしれない、という疑いが湧かなかったかというと、否定できなかったのだが。


***



「お父さんのこと、ママーチャーンに自尊(じまん)したいのに……禁漏出去(言っちゃダメ)?」

「少なくとも成人(おとな)になるまでは、な」

 不満そうな瑠璃を小脇から下ろし、静影はため息を吐いた。

 幼い少女より重いものが、胸の中には、まだ残っている。

 韶華を呼ぶ前に、王から贈物として渡された一套(ひとそろい)の書帙。好在に(つごうよく)も、景景(ケイケイ)らが持ち込んでいた(はこ)の中に、綺麗に収まった。固く紐で結ばれたそれに、収められているのは、誰ぞが書いた官能小説。

 武人であるからには、情形(じょうきょう)から目を逸してはいけないのだが、どうしたって知らぬ振りをしたくなる。

 クシの王族が、自分たちを(ネタ)にした官能小説を、喜々として読んでいることに。

 作家が、まさにクシの王族であることに。

 さらにそれが、棠梨の一人(天子)の妃の父親となる事実に。

「静影哥哥(おにいちゃん)、困ってるの? 瑠璃、悪い子だった?」

「瑠璃は悪くないよ」

 敢えて言うならば、元凶は、官能小説家であることを幼子に隠し通せなかった父親であろう。

 ため息を覆う木の上から、ひらりと晨風(シンプウ)が飛び降りてきた。

醒目だ(めだつ)ぞ、晨風」

「そうなんですけど、その、(ジョ)将軍には、言っておかないと不妙(マズい)だろうと……あ」

 晨風は瑠璃を見て口を閉じた。

 怒ったような幼子の貌は、やがてゆるく(ほど)け、問う視線を向けた。

晨晨(ハヤブサくん)……瑠璃ね、訊こうと思ってたの」

「な、なんでしょう……?」

「どうして……来たの? もしかして……瑠璃を助けに……?」

 青い目に見つめられ、晨風は、え、だの、うん、だのと曖昧な言葉を返した。

 ()家を棠梨で守るまでが彼の任で、クシまで行くのは本来のものではない。来たのは、黒風(コクフウ)に不審を持ってしまったからで、助けにきたと言い切るのは難しい。

 けれど静影は、晨風の迷いを軽く流した。

「そういうことにしておけ」

「そう……ですね」

 小さな手が、晨風の手を握った。

晨晨(ハヤブサくん)を、少し、褒めてもいいよ? あっ、韶姉(ショウねえ)!」

 褒める前に駆け出す瑠璃を見ながら、晨風は静影に素早くささやく。

 ただ言葉はあまりにも短く、かつ不可解で、静影が理解するには及ばなかった。

「あー……静影、話がね、あるんだ」

「話か。なんの」

「いえね、止めたの。止めたんだけど……どうしてもって、押し切られてね。だって表だっては言えないけど、王族の後援(バックアップ)つきなわけよ。用項(よさん)なんかがね。でもね、出すわけにはいかないかなあっていうのは……みな思ってたみたいで。それでさ、ほら、黒衣のひとがいたら、あれにやらせるって法子(ほうほう)もあったけど……いないし。で」

「……で?」

 尋ねたくはないが、言わねばならない。どんな預感(よかん)があったとしても。

 あのね、と一呼吸置き、韶華は両手を合わせ、拝む作勢(しせい)をとった。

「お父さんの代わりに静影が陰羽(インウ)先生として簽名会見(サイン会)をすることになったから!」

 陰羽が誰かを問う必要はない。

 (かた)りを決められた男は、微かな呻きさえも上げられなかった。


***



 天黒(ゆうぐれ)に吹く風が、使節を守る武人たちの(わき)を過ぎて行く。

 それは身の熱を緩やかに冷まし、夏令(きせつ)の移ろいを感じさせた。

 北の果てから白棠(ハクトウ)に近づき、やがて宮都甘棠(カントウ)が見えるという場まで来て、静影は大息(ためいき)を吐いた。

 長い旅ではなかったが、長く感じてしまう旅だった。

 けれどそれもじきに終わる。

 騎馬の列にちらりと視線を走らせ、殊方(異国)の男の姿を認める。

 射刃(セレウ)は甘棠の門が見えてくる辺りを、別れの場とすることを決めている。

 そろそろ、その時が近い。

 次に会うのは、いつになるのか、静影には分からない。(いま)だクシを獣の巣(キュウ)と呼ぶ者がいる棠梨の国に、クシの王族が名を明かして足を踏み入れるのは難しい。

 クシと棠梨の往来が自在となる日は、まだ幻の中にしかない。

(ジョ)将軍、射刃(セレウ)王子がここから戻ると」

 晨風の口信(ことづて)に、静影は低声(こごえ)で分かったと答えた。

「おまえにも、いろいろと麻煩(めんどう)をかけたな」

麻煩(めんどう)だなんて。徐将軍こそ……ぼくを随行させて下さいました。感謝しても、しきれません」

 静影は軽く笑った。よく真卒(まじめ)だと言われるが、晨風もかなり真卒だろう。禁軍に属する武人とは思えないくらい直率(すなお)だ。

 そう言って褒めて、喜ぶかは分からないので黙っているが、代わりに別のものに気づいた。

「花の香りがする」

「え、ああ、瑠璃……妹妹(あの子)車輅(ばしゃ)に呼ばれて行ったら、掛けられました……って、あれじゃないですよ!」

 さっと身を引かせていた武人は、妖香、新殺殺魂魄(ハートにアタック)ではないと知って、ほっと息を吐いた。

「これは棠梨の花ですよ。クシではまだ咲いていたから、スゥグジェン妃が下さったそうです」

「ああ、それで懐かしいと感じたのか」

「香りを覚錯(きにする)なんて、自身(じぶん)香試(調香師)に似てきたのかも、とか思いました?」

「少しな」

 侍衛の将の直率な説法(いいかた)に、晨風も笑った。

「やっぱり香試より、作家の模倣(まね)安楽(きらく)ですか」

「晨風……」

 紫石の(するどい)双眸が、昏い光を(たた)える。

 クシの都エルデンゲでのあの風潮(さわぎ)は、静影にとって、百年(いっしょう)思い出したくないものであった。

「皇上の耳に入ることがあったら、おまえを呪うぞ?」

「ぼくは言いませんよ。でも……露見は、考えておくべきでは? でなかったら、小妹に商量(そうだん)を……ああ、小妹も徐将軍に商量があるので、来て欲しいと言っていました」

「韶華が乗っているのは、瑠璃の車輅(ばしゃ)か?」

「いえ。小妹は、後方の(にぐるま)に乗っています。あの女官(じょかん)のための(くるま)には、詰め込むだけ詰め込んだので……」

 ああ、と静影は頷いた。

 (はこ)に隠れていた景景と永児(エイジ)は、遅れてやってきた女兵の銀花が使った輅に、韶華の使った輅には、瑠璃と父親、そして母親を乗せている。どちらに乗るにしても狭いので、韶華は(にぐるま)に乗ることにしたのだ。

 静影は馬の速さを緩め、いくつかの(くるま)をやり過ごした。

「あっ、静影哥哥(おにいちゃん)!」

 後方の小窓から、瑠璃が顔を覗かせた。と思う間に、白い花のついた枝が差し出される。

「棠梨の花?」

「うん。四谷繭(スウグジェン)太太(おばちゃん)がくれたの。いい匂いだから、あげる」

謝謝(ありがとう)

 とはいうものの、持ったままでは動きにくい。花枝を持った優美な姿で悩んでいると、射刃(セレウ)の笑い声が響いた。

「武人と花。意然(いがい)と、()えるものだな。小妹に贈るのか」

「韶華? ああ、それでもいいのか。俺が吹き晒しで持つより、保重(ながもち)しそうだ」

「そういう話ではないが……まあいいか」

 殊方の王子が長い大息を吐く。なにかひどく呆れられたようだ。

 惑ううちに、韶華の乗る輜がふたりに追い付いてきた。

「良かった静影、話がー……あ、射刃(セレウ)王子、そろそろお別れですか」

「ああ。儀式は必要ないと思うので、このまま行くよ」

「それなら射刃(セレウ)王子に渡しちゃってもいいのかな、不成(だめ)かな」

 静影が、なにをと尋ねる前に、韶華は小さな(香箱)を見せた。新たに作った、クシに献上するはずの香である。

乱子(さわぎ)で忘れられたみたいなんで、拾っておいたんだけど……(オウ)先生(さん)か、香試に返すべきかな?」

「忘れられたものなら、そなたがもらっておけば良かろう」

 射刃(セレウ)に勧められたものの、韶華は(はい)とは言えなかった。王重明(オウ・チョウメイ)の手による配方(ちょうごう)ならば、これが、最新殺殺魂魄(ハイエンドモデルス)であるという可能性も考えられる。

「静影はどう思う?」

「あいつが回収を忘れているなら、おまえがもらっ……ああ、いや。返しておけ。重明に。おまえが持つべきものではない。クシのためという名目で作ったが、香料は皇上のものだ。後果(けっか)として下賜されるかもしれないが、それを決めるのは、おまえではないからな」

「そうだよね……じゃあ、王先生に渡しといてくれる?」

 匳を受け取ってから、静影は輜の中に引こうとする韶華に待てと告げた。

「なにか話し忘れ?」

「そうではなくて……これを」

 白い花の枝が、韶華の前に差し出される。

「瑠璃がスゥグジェン妃に頂いたそうだ」

「やっぱりまだ咲いてたんだね! 良い匂い……瑠璃に綺麗だねって伝えて」

「ではなくて、取れ」

「蟲でもついてるの?」

「ついて……は、いないと思うが、もって行けと言っている」

 なにを。としばらく考え、韶華は手を拍打し(軽くたたい)た。

「ああ、枝! これを取れと言ったわけね、静影は! でもなんで?」

 黙って見ていた射刃(セレウ)が、堪えきれずに笑い出した。

「韶華、香の代わりに、それをやると将軍は言っているのだよ」

「代わりというわけでは……」

 惑う静影に、そういうことにしておけ、と射刃(セレウ)はささやいた。

「棠梨の児女(むすめ)には、棠梨の花が合うということだろう? クシの王妃に贈られる香よりも」

 棠梨の将から返ってくるものを待たず、淡い色をまとう殊方(いこく)の王子は離れて行った。

 棠梨の少女もまた、待たずに花へと手を伸ばした。

「じゃあ、もらうねー。瑠璃にありがとうって言わないと。射刃(セレウ)王子、返路(かえりみち)に気をつけて、再見!」

 白い花が振り回される間に、手を振り返す男は見えなくなった。

 甘い香りを鼻先に置いて、韶華は目を閉じた。

 長く感じる旅だったが、決して長い旅ではなかった。

 けれどそれももう終わる。

 まずは小さな妹が、ささやかな家常(にちじょう)に戻れるよう、強く願った。瑠璃はもう充分に怖い思いをした。全てを忘れて穏やかに楽しむ日を、幼子にだけは、得てもらいたい。

 おそらく、宮城に居る者たちには、望めない穏やかさだから。

 宮城――宮都に戻れば、韶華には再び、平穏から遠い日が始まる。

(でも、なにをするにしたって、ひとりじゃないしね……)

 目を開けると、背粱(せすじ)の伸びた後影(うしろすがた)が見えた。

 静影の助けは、なによりも心強い。同じように、韶華が助けになると思ってくれたら良いなとも思う。

 今はまだ、数落(こごと)ばかりな気もするけれど。

「まあ……鹿追偵人(ストーカー)を見つけ出せば、返せるかな。あっ」

 宮都に向けて、使節の返回(帰京)を伝える銅鑼が鳴らされた。

 もう甘棠のどこにもない匂いを(そば)に、韶華の心は城門が開くよりも早く、戻ってきたことを喜んだ。



              附記


   妖怪大戦争は、棠梨の圧倒的勝利に終わった。

   北の果てにおいて、痩せ女は雪人(イエティ)を下し、雪精霊(ゆきおんな)から攫われた子らを

   取り戻した。


   清楚に(はっきりと)雪恥(せつじょく)を果たしたことを、凱旋と言わずしてなんと言おう。

   もう棠梨の民は、北の陰鬼(ばけもの)に怯える必要はない。

   もういかなる小児(こども)も、凍える地で可憐(あわれ)(しごと)をさせられることはない。

   だが、覚えておくがいい。

   子への情愛に凝り固まった女妖を侮れば、呪われる。その力は、幽明(鬼と人)

   を越えるものなのだ。

   棠梨は、そういった妖怪に守られている。

   坏人(あくにん)は幼き子を狙う前に、後面(はいご)を振り返らねばならぬ。

   狗盗(こそどろ)は侵入する前に、界隈(あたり)を見回さなければならぬ。

   眼底に怒りを(たぎ)らせた痩せ女や、窮鬼(貧乏神)が黒衣を広げ、待っているのが、

   分かるはずだ。

   もし、どのような妖怪が宮都の隅にいるのか知りたければ、以下の書籍

   を参照せよ。


     新版『妖怪大全』棠梨篇

          著冬栄   出版白果舎



第三部了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ