再会杜棠之花
クシの都エルデンゲの中央、白い宮城の中で、幼子は椅子に座ってひとを待っていた。
やがてここに、父親の祖母というひとがやってくる。
瑠璃は、遠戚というものに会うのは初めてで、そわそわする情分を、椅子から延びた足を揺らすことで支吾していた。
「ねえ、お父さん。お父さんの老太婆って、どんなひと?」
もう何次も、同じ問いを口にしているが、答えは返ってこない。
部屋に居るのは、瑠璃と姉の韶華、そして父親の三人だ。母親は先に挨拶に行くということで、ここにはいない。
父親は祖母というひとを知っているのだから、話してくれても良さそうなものだが、姉とふたりして黙り込んでいる。
しかしながら瑠璃も、通常なら決して無視しない父親の無反応に、灰心することはなかった。会える楽しみの方が、大きいのである。
「来た?」
扉の向こうで、誰かが話している声がする。案内の使丁だろうか、声をかけようかと悩む間もなく、扉が開く。
長い金髪を緩く編み、目を伏せた――目の見えない壮年の男が立っていた。
瑠璃は一瞬だけ、祖母とは男子のことを言うのかと悩んだ。
「アーシムジィ・キアシム?」
韶華の声と同時に、父親の肩が揺れた。
見えないはずなのに、近しい血がそれを知らせるのか、キアシムは嬉しげな瑠璃と落ち着かない韶華に姉妹に微笑みを向け、正確に甥の方に顏を動かした。
「シウン……挨拶をしてくれないと、きみの子どもの頃の話を始めてしまうよ」
同じ血を引く者として、これ以上ない証明の言葉であった。
石臼でも回すような重い動きで、隅の痩せ女と化した男が振り向く。唇に灰色の髪を一束噛みしめ、昏い目をした元美貌が、叔父を見つめる。その貌は、キアシムに見えなくて幸いである。
「シウン、変わらないな」
えええ、と思う韶華のそばで、瑠璃が首を傾げた。
「あーしむじむ……って?」
「その声は、瑠璃? 私はキアシム。きみのお父さんの叔父だよ」
「アーシムジィっていうのは、クシで師っていう意思。老師みたいなものかな」
韶華は、驚いて黙る妹を椅子から下ろし、キアシムの前に連れて行った。
「アーシムジィ・キアシム。広間では、お目に、いえ、居たことは知っていましたが、改めて……初めましてのご挨拶をしたいと思います。わたしが韶華で、この子が瑠璃です」
「クシの習いで返すなら、言葉は必要ないけれど、ここは、きみたちの棠梨に倣おうと思う。改めて……会えて嬉しいよ、韶華。そして瑠璃。シウンがきみたちと同じくらいの年齢の時」
「お、ひ、さ、し、ぶ、り、です、キアシム」
痩せ女の呪言へ、キアシムは優美な笑みを返した。
「シウン、二度と会えないと思っていたよ……久しぶりのフレイ城は、どうだい。まさか、綺麗なクシの言葉を話す彼方からの声が、ここに再び響くとは思わなかっただろう」
灰色の目が、己の娘の上に向かうのと同じくして、見えない男の目が、見えない男の貌を、少女の上に重ねる。
「アーシムジィ・キアシム……私は、忘れたかったのですよ」
「そうだろうね」
「朱蕣を得て、忘れられると思った。韶華を得て、許されたと思った。なのに私の呪いは、瑠璃に向かってしまった……私は聞いておくべきだった。あなたの目は、母がやったのだから。あのひとが亡くなった今、誰も本当の色を知らない。あなたがもし碧眼だったのなら、私は子を得てはならなかったのに」
「いや、違うと私は思う。きみの中には、間違いなく西方の血が流れている。韶華が彼に似ているのなら、瑠璃も似たっておかしくない。青い目は、西の血によるもの……シャーンの両親か祖父母から得た色だったのかもしれないよ。瑠璃は、西方の碧玉の名だ。クシのものより色が濃いから、名付けたのだろう?」
ふと、韶華は瑠璃が生まれたころを思い出した。
あまりにも弱く生まれ、名前どころではなかった日々。たまたま韶華が見守っていた時、赤子と初めて目が合った。
潤んだ深い青に、韶華の驚く顔が映る。思い浮かべたのは、殊方の宝玉。父親を呼んで、瑠璃だよと言った時、まだ痩せこけてはいなかった美貌が、ひどく複雑な表情をして綺麗な瑠璃だねと応じた。
そして瑠璃の名前は瑠璃になったけれど、あの表情がなにを示していたのかは、今でも分からない。
「ねえ、お父さん」
難しいクシの言葉に焦れて、幼い少女が足を踏みしめた。
「令令の……きあしむって、どう書くの? お父さんはね、史雲だよね。書籍では陰うー」
「言わなくていいよ、瑠璃!」
昔日に浸っていた男は、全て放棄して季児の口を押さえに走った。
生国を捨てるように離れた者でも、己の所業を昔なじみには知られたくないらしい。遅きに失していると思われるが。
先にあったムドゥールとジャイの申し出は、理解できているはずである。
「あらあら、シウン。わたくしにも、その子を抱きしめさせて下さらない?」
老婦人が淑やかに現れた。
クシにおいて、最も正統な血と言われるアイシラクトゥの王女、ソイラクタ。年老いてなお、その名の意味の通り、宝玉のように美しい。
いきなり瑠璃のもごもごと動かす口が激しくなり、棠梨の女妖、痩せ女にしか見えない元美貌の男は手を離した。
「ままっ……ママーチャーン!」
「まあ……覚えていてくれたの……」
「あれ? もう会ってたの?」
韶華を見つめ、ソイラクタは淡く微笑んだ。
「ロホンがわたくしの領地を通った際に……見せつけるように、連れて来たのよ。瑠璃色の目を見て、分かったわ。でも、ああ……貴女が韶華。シウンの娘だと……一目で分かる。貴女とは、どこですれ違っても、きっとあのひとを思い出すでしょう。声なんて、イルガの笑った声が甦ったようだわ。貴女の中に、あのふたりは生きているのね……」
ソイラクタが韶華を抱き締める。すぐに瑠璃も、自分も、とばかりに手を差し出した。
相手が女性ゆえか、祖母だからか、史雲は瑠璃がソイラクタに抱き締められるのを阻止しなかった。
あるいは、キアシムに抱きつかれていたからかもしれない。一瞬、逃げ出しそうな素ぶりは見せたものの、目の見えない男を振り払うようなことは、しなかった。
「シウン……もう、きみから怒りを感じない。棠梨で幸せなのが、よく伝わってくるよ。きみはここに戻りたくはなかったろうが、それを知れただけでも……良かった」
キアシムは子どもにするように、史雲の背を軽く撫でた。
懐かしい親族を労る姿が、痩せ女を拘束しているようにしか見えないのは、困ったものである。
「そういえば、お母……母はどこに? ここに来るものと思ってましたけど」
ソイラクタは不可解な笑みを浮かべた。強いて似ているものを言うならば、誰かを氷漬けにして、満足げに振り返る雪精霊であろうか。
「淑英さんは、スゥグジェンと話をしているはずです」
「ああ……」
つまり、かの廃妃は、瑠璃の拐子について激しく叱られているらしい。
「でもね……やり方は悪かったとしか言えませんが、ロホンの選択は、考える余地があると思うのよ」
「あれ、そっちの話? 瑠璃を……迎えるとか、そういう」
低声で言ったにも拘らず、灰色の視線が、韶華の頬に突き刺さった。
「誘拐はもちろん、怒られているはずよ。でも、この話も重要よね。だからシウンは、佳いひとに選んでもらえたと思うの。あの方なら、信頼できます。瑠璃のために仕える夫を、きちんと鍛えるでしょうから。ロホンがどうするつもりか分かりませんけれど、少しは這いつくばる立場になってみるのも、良い経験でしょう」
「ちょっと怖いです。ひいおばあさま」
やはり、父親の祖母である。すでに亡くなっているが、母親だというイルガ王女も、王族でありながら反対を押し切って西方の男を夫にしたので、かなりの気の強さがうかがえる。
もっとも、瑠璃と史雲に微笑みを向けるキアシムからは、優美な柔らかさしか、感じられない。それはロホンやセレウにも通じる、高貴な気配だ。
そして、王族としては長く認められなかったというが、セレウの父親ビアクタにも、確かに感じられたものだ。いかに見下されようと、彼もまた王族なのだ。
謁見の場に兵士を呼び込み、混乱させたとしても、クシの国と民を考えての行動だったのだ。
(クシと棠梨につながるもの、かあ……)
親族との会見の前、ビアクタが話したことを思い出した。
最初に碧眼の少女の話が伝えられたのは、彼ら、つまりヌクトゥベでもビアクタでもなく、スゥグジェンとギリアだったという。
「話す相手を、よく選んだものだと思う。そんな話、彼女たちでなければ、黙殺されていた。シウンの存在は、誰もが忘れていたし、どこに居るかなど、知らなかったのだから」
「そうなんですか? わたしが聞いた話では、知っていた者もいるけれど、重要ではないから、忘れたのではないかと」
ビアクタの否定は、はっきりしていた。シウンの父親を犠牲にしたことは、貴族たちの間では、呪いのようにのしかかった。ピアグダン王が言ったように、シウンという王子をいなかったことにすれば、なにもなかったことにできると思ったらしい。
「碧眼の話を聞いて、スゥグジェンは飛びついたようだが、ギリア……王太子妃は疑った。当然だろうね。アイシラクトゥに今更、碧眼を持つ子が生まれるなど、信じられない」
「でも、セレウ王子は知っていたのだから……」
ギリアは伝えたのである。
「あの方は、私を厭うておられる。しかし、スゥグジェンにも知らせが行っていると知って……相談に来られた。だから私が、セレウを棠梨に行かせたのだ」
より信じた方に、多くの情報は行くものであって、セレウ側が遅れを取るのは、やむを得ない。ロホンが瑠璃という碧眼の少女を狙い、攫ったあとで、水芳宮にいたセレウは、碧眼の存在が真実だと知ったのだ。
「突如、棠梨からもたらされた碧眼の存在で、我々は動転した。誰も上手くことを運べはしなかった。全ては、棠梨の内側に謀った者がいる……と、言いたいところだが」
「後宮から始まったのが、気になりますか?」
韶華の言葉に、ビアクタは顔を歪めた。いくら出入りが緩いとはいえ、後宮に住む妃に、碧眼の風聞を持ち込める者は限られる。それがクシの者であるのは、間違いないのである。
「しかも……別の者が私に、アイシラクトゥが正しく取り戻そうとしていると伝えてきた。私はつい、あのキアシムが友の……姉の夫の名誉回復のために、王位を求めるのかと考えた。考えてしまった。今回、クシを掻き回した者は、誰がなにを傷にしているか、正確に知っていたわけだよ」
ビアクタは韶華の考えを察したように、頷いた。
「気をつけるがいい。おそらく、棠梨の者についても同様に、知っているはずだ」
クシを知る者がクシに、棠梨を知る者が棠梨に。それらがつながり、なにかを為そうとしている。
それを考えると、ぞわりと背筋に冷たいものが這い上がる。
棠梨に姉をひとりで残すのではなかった。弄月も女兵もいるけれど、その心の隙につけいる方法を、それは知っている。
(それなら、わたしについては、どう動く……?)
瞬間、浮かんだのは、凡そ平らかな顔が家人と似ていないところ、であった。
(いやいや……そんてことないって。ほら、太父には似てるらしいしっ)
西方の彫りの深さくらい似ていても良かったのではないかと思うけれど、それが知れただけクシに来て良かった。と思うことにする。
「なにを頷いているんだ、韶華」
「ずっと似てない似てない言われてたのに、ここでは似てる似てる言われ……って静影。いつ来たの」
「方才。楽しんでいる正中、悪いと思ったのだが、ピアグダン王が、当面におまえを褒めたいと仰っている」
再会の妨げを悪いと思っているらしく、紫石の双眸が、いつもの査牙しさをなくしていた。
「静影のは、明白だよね……鹿追偵人」
「なにを言っているんだ、おまえは」
ふたりの会話が分からないながらも、ソイラクタは楽しげに笑った。
「王が呼んでいるのよね、行ってらっしゃい、韶華。きっと褒めて頂けるはずよ。本当に、棠梨には驚かされます。なんですか、あの殺殺がなんとかって……スゥグジェンが、あんなふうに変わるなんて……」
「お願いですから、あれを棠梨の常態と思わないで下さい。あの香試、誰から見ても、変態なので!」
ソイラクタは、信じられないという顏をした。どういう意味での表情かは、次に会った時に訊くしかないだろう。
瑠璃がソイラクタの裾を小さく引いた。
「ママーチャーン、会えて嬉しかったよ。お父さんにね、また来てもいいって聞いたの。まだ小さいから、あんまり長い旅は不妙だって。だからね、封信を書くね」
幼子の言葉は、ソイラクタには分からない。それでも伝えようとする心の優しさに頷き、抱き締めた。
キアシムは背後のシウンの視線が気になったか、韶華に、微笑みかけるだけにとどめた。
「いつか、またおいで」
「そうですね。来てもらうより、わたしたちが行った方が、良いですよね……それまでに、瑠璃も言葉が分かるようになるかな」
「アンダハが使うような言葉は、教えなくていいから」
「口訳の教えた、ヒカエヨもどうかと思いますが……」
「訊こうと思っていたのだが……口訳の名は、なんというのかな。ロホンが用意したのだろうか」
キアシムの声音には、疑う気持ちが含まれている。ロホンという王子は、攫ってきた少女に思いやりをかける者ではないと、考えているらしい。それはある意味、当たっている。
「お考えの通り、ロホン王子ではないそうです。名前は言わなかったなあ……そういえば、静影は見た? わたし、探したんだけど、見つけられなくて……」
「いいや。どこにもいない。そもそも……口訳ができるだけの武人だったかもしれないし、誰か分からないまま探すのは不成だ」
聞き取れる言葉になって、瑠璃がぱっと顔を輝かせた。
「口訳の叔叔は、ママーチャーンのところで会ったの。ママーチャーンは、優しいひとだから、怖がらなくていいよって。老太婆だよって教えてくれたら、良かったのに」
「では、母上……貴女が口訳を瑠璃につけて下さったのですね」
ソイラクタが首を傾げた。
「違うわ、キアシム。わたくしはムングルクトゥの王子の一行に、係わることはできないもの」
「瑠璃、口訳の叔叔に、ありがとうって言いたい」
「どこにいても、分かりそうだけどねえ。あの軽やかにお喋りするひとは……どこかで最愛最愛と嬉しそうに語ってると思う」
「最愛?」
固い声が、ふたつ重なって差し挟まれた。キアシムとシウンのものだ。
「お父さん、知ってるの?」
「最愛は……あるひとが、いつも使う言だ……」
「ジャイさんも使ってるよ、銀花さんのこと最愛って」
「彼は、モリンの者だからね」
キアシムが呟いた。
「モリン家のひとだけが、最愛って言うの? 口訳は、どうみても西方のひとだったんだけど」
「瑠璃ね、叔叔にいっぱい優しくしてもらったの。だからひとりでも、怖くなかったよ」
瑠璃が大きな青い目を開き、父親を見上げる。
古いアイシラクトゥの血族は、誰も答えなかった。答える言葉を持っていなかった。
モリン家の者が、妻となるひとを最愛を呼ぶのは、クシを救った男が強要したからだ。
アイシラクトゥの王女ソイラクタと、モリン家の主の婚姻は、政略的なものだった。稀に後宮に向かうだけの夫と妻の間に愛が育まれるのは難しい。だから、ふたりめの子が碧眼でないと分かった時、ごく自然な流れで別れることになった。
けれど、ふたりの娘の夫は、モリン家に乗り込み、義母である王女の嘆きを伝えた。義父となるはずだった夫は、謝罪とともに、妻に最愛と伝えることを男に誓ったのだ。
それは、シャーン・アルースという英雄の逸話のひとつ。
もう失われたひとの物語り。触れることのできない、幻の優しさだ。
「それでも……この子の側には、居たのだね?」
キアシムのささやきに、密やかな笑いが答えた。愛しい子を守るために、私の命はあるのだよ、と。
愛しいと言われた子はうつむき、痩せた腕で幼子を抱き締めた。
「瑠璃のバニハは、伝わっているから」
「そうかなあ、そうだといいなあ?」
幼い少女が笑みを浮かべる。幻へのものでも、微笑みは確かに在るのだ。
と、ふたりめの呼び出し人が現れた。モリン家の男、ジャイだった。
「小妹、ピアグダン王をお待たせしてはいけませんよ。ああ、お尋ねしたいことがありまして……いつもは、どんな筆をお使いですか」
ジャイの問いは主に、父親に向けられていた。
「書き慣れたものが良いですよね、やはり。おそらく大行列になると思います。私も欲しいです、陰羽先生の簽名!」
「陰羽? それ、お父さんの、かんおうう」
「瑠璃、俺と天井を見に行こう!」
静影の愛児誘拐を、父親は許した。許さなければ、ならなかった。
「簽名って、なんのことなの、シウン……」
ソイタクタに答えられる者はいない。応える者もいない。辛うじて韶華が話題を逸した。
「じゃあわたし、王さまに会いに行きますね。ジャイさん、向導を!」
「そうですね、では失礼致します」
「母上、またのちほど揃って、食事でも……」
それぞれあからさまな反応で話を逸しているが、ソイラクタはそうねと呟いた。
急がなくても、この先、語り合う時は持てるのだ。そして、長く離れていれば、話しにくいこともあるだろう。したくないことを強要し、再び疎遠になりたくはない――
彼女の心の中に僅かばかりでも、もしここで受け入れなければ、スゥグジェンを変貌せしめた妖しげな香を吹きかけられるかもしれない、という疑いが湧かなかったかというと、否定できなかったのだが。
***
「お父さんのこと、ママーチャーンに自尊したいのに……禁漏出去?」
「少なくとも成人になるまでは、な」
不満そうな瑠璃を小脇から下ろし、静影はため息を吐いた。
幼い少女より重いものが、胸の中には、まだ残っている。
韶華を呼ぶ前に、王から贈物として渡された一套の書帙。好在にも、景景らが持ち込んでいた函の中に、綺麗に収まった。固く紐で結ばれたそれに、収められているのは、誰ぞが書いた官能小説。
武人であるからには、情形から目を逸してはいけないのだが、どうしたって知らぬ振りをしたくなる。
クシの王族が、自分たちを種にした官能小説を、喜々として読んでいることに。
作家が、まさにクシの王族であることに。
さらにそれが、棠梨の一人の妃の父親となる事実に。
「静影哥哥、困ってるの? 瑠璃、悪い子だった?」
「瑠璃は悪くないよ」
敢えて言うならば、元凶は、官能小説家であることを幼子に隠し通せなかった父親であろう。
ため息を覆う木の上から、ひらりと晨風が飛び降りてきた。
「醒目だぞ、晨風」
「そうなんですけど、その、徐将軍には、言っておかないと不妙だろうと……あ」
晨風は瑠璃を見て口を閉じた。
怒ったような幼子の貌は、やがてゆるく解け、問う視線を向けた。
「晨晨……瑠璃ね、訊こうと思ってたの」
「な、なんでしょう……?」
「どうして……来たの? もしかして……瑠璃を助けに……?」
青い目に見つめられ、晨風は、え、だの、うん、だのと曖昧な言葉を返した。
杜家を棠梨で守るまでが彼の任で、クシまで行くのは本来のものではない。来たのは、黒風に不審を持ってしまったからで、助けにきたと言い切るのは難しい。
けれど静影は、晨風の迷いを軽く流した。
「そういうことにしておけ」
「そう……ですね」
小さな手が、晨風の手を握った。
「晨晨を、少し、褒めてもいいよ? あっ、韶姉!」
褒める前に駆け出す瑠璃を見ながら、晨風は静影に素早くささやく。
ただ言葉はあまりにも短く、かつ不可解で、静影が理解するには及ばなかった。
「あー……静影、話がね、あるんだ」
「話か。なんの」
「いえね、止めたの。止めたんだけど……どうしてもって、押し切られてね。だって表だっては言えないけど、王族の後援つきなわけよ。用項なんかがね。でもね、出すわけにはいかないかなあっていうのは……みな思ってたみたいで。それでさ、ほら、黒衣のひとがいたら、あれにやらせるって法子もあったけど……いないし。で」
「……で?」
尋ねたくはないが、言わねばならない。どんな預感があったとしても。
あのね、と一呼吸置き、韶華は両手を合わせ、拝む作勢をとった。
「お父さんの代わりに静影が陰羽先生として簽名会見をすることになったから!」
陰羽が誰かを問う必要はない。
騙りを決められた男は、微かな呻きさえも上げられなかった。
***
天黒に吹く風が、使節を守る武人たちの旁を過ぎて行く。
それは身の熱を緩やかに冷まし、夏令の移ろいを感じさせた。
北の果てから白棠に近づき、やがて宮都甘棠が見えるという場まで来て、静影は大息を吐いた。
長い旅ではなかったが、長く感じてしまう旅だった。
けれどそれもじきに終わる。
騎馬の列にちらりと視線を走らせ、殊方の男の姿を認める。
射刃は甘棠の門が見えてくる辺りを、別れの場とすることを決めている。
そろそろ、その時が近い。
次に会うのは、いつになるのか、静影には分からない。未だクシを獣の巣と呼ぶ者がいる棠梨の国に、クシの王族が名を明かして足を踏み入れるのは難しい。
クシと棠梨の往来が自在となる日は、まだ幻の中にしかない。
「徐将軍、射刃王子がここから戻ると」
晨風の口信に、静影は低声で分かったと答えた。
「おまえにも、いろいろと麻煩をかけたな」
「麻煩だなんて。徐将軍こそ……ぼくを随行させて下さいました。感謝しても、しきれません」
静影は軽く笑った。よく真卒だと言われるが、晨風もかなり真卒だろう。禁軍に属する武人とは思えないくらい直率だ。
そう言って褒めて、喜ぶかは分からないので黙っているが、代わりに別のものに気づいた。
「花の香りがする」
「え、ああ、瑠璃……妹妹の車輅に呼ばれて行ったら、掛けられました……って、あれじゃないですよ!」
さっと身を引かせていた武人は、妖香、新殺殺魂魄ではないと知って、ほっと息を吐いた。
「これは棠梨の花ですよ。クシではまだ咲いていたから、スゥグジェン妃が下さったそうです」
「ああ、それで懐かしいと感じたのか」
「香りを覚錯なんて、自身が香試に似てきたのかも、とか思いました?」
「少しな」
侍衛の将の直率な説法に、晨風も笑った。
「やっぱり香試より、作家の模倣が安楽ですか」
「晨風……」
紫石の双眸が、昏い光を湛える。
クシの都エルデンゲでのあの風潮は、静影にとって、百年思い出したくないものであった。
「皇上の耳に入ることがあったら、おまえを呪うぞ?」
「ぼくは言いませんよ。でも……露見は、考えておくべきでは? でなかったら、小妹に商量を……ああ、小妹も徐将軍に商量があるので、来て欲しいと言っていました」
「韶華が乗っているのは、瑠璃の車輅か?」
「いえ。小妹は、後方の輜に乗っています。あの女官のための輅には、詰め込むだけ詰め込んだので……」
ああ、と静影は頷いた。
函に隠れていた景景と永児は、遅れてやってきた女兵の銀花が使った輅に、韶華の使った輅には、瑠璃と父親、そして母親を乗せている。どちらに乗るにしても狭いので、韶華は輜に乗ることにしたのだ。
静影は馬の速さを緩め、いくつかの輅をやり過ごした。
「あっ、静影哥哥!」
後方の小窓から、瑠璃が顔を覗かせた。と思う間に、白い花のついた枝が差し出される。
「棠梨の花?」
「うん。四谷繭太太がくれたの。いい匂いだから、あげる」
「謝謝」
とはいうものの、持ったままでは動きにくい。花枝を持った優美な姿で悩んでいると、射刃の笑い声が響いた。
「武人と花。意然と、映えるものだな。小妹に贈るのか」
「韶華? ああ、それでもいいのか。俺が吹き晒しで持つより、保重しそうだ」
「そういう話ではないが……まあいいか」
殊方の王子が長い大息を吐く。なにかひどく呆れられたようだ。
惑ううちに、韶華の乗る輜がふたりに追い付いてきた。
「良かった静影、話がー……あ、射刃王子、そろそろお別れですか」
「ああ。儀式は必要ないと思うので、このまま行くよ」
「それなら射刃王子に渡しちゃってもいいのかな、不成かな」
静影が、なにをと尋ねる前に、韶華は小さな匳を見せた。新たに作った、クシに献上するはずの香である。
「乱子で忘れられたみたいなんで、拾っておいたんだけど……王先生か、香試に返すべきかな?」
「忘れられたものなら、そなたがもらっておけば良かろう」
射刃に勧められたものの、韶華は是とは言えなかった。王重明の手による配方ならば、これが、最新殺殺魂魄であるという可能性も考えられる。
「静影はどう思う?」
「あいつが回収を忘れているなら、おまえがもらっ……ああ、いや。返しておけ。重明に。おまえが持つべきものではない。クシのためという名目で作ったが、香料は皇上のものだ。後果として下賜されるかもしれないが、それを決めるのは、おまえではないからな」
「そうだよね……じゃあ、王先生に渡しといてくれる?」
匳を受け取ってから、静影は輜の中に引こうとする韶華に待てと告げた。
「なにか話し忘れ?」
「そうではなくて……これを」
白い花の枝が、韶華の前に差し出される。
「瑠璃がスゥグジェン妃に頂いたそうだ」
「やっぱりまだ咲いてたんだね! 良い匂い……瑠璃に綺麗だねって伝えて」
「ではなくて、取れ」
「蟲でもついてるの?」
「ついて……は、いないと思うが、もって行けと言っている」
なにを。としばらく考え、韶華は手を拍打した。
「ああ、枝! これを取れと言ったわけね、静影は! でもなんで?」
黙って見ていた射刃が、堪えきれずに笑い出した。
「韶華、香の代わりに、それをやると将軍は言っているのだよ」
「代わりというわけでは……」
惑う静影に、そういうことにしておけ、と射刃はささやいた。
「棠梨の児女には、棠梨の花が合うということだろう? クシの王妃に贈られる香よりも」
棠梨の将から返ってくるものを待たず、淡い色をまとう殊方の王子は離れて行った。
棠梨の少女もまた、待たずに花へと手を伸ばした。
「じゃあ、もらうねー。瑠璃にありがとうって言わないと。射刃王子、返路に気をつけて、再見!」
白い花が振り回される間に、手を振り返す男は見えなくなった。
甘い香りを鼻先に置いて、韶華は目を閉じた。
長く感じる旅だったが、決して長い旅ではなかった。
けれどそれももう終わる。
まずは小さな妹が、ささやかな家常に戻れるよう、強く願った。瑠璃はもう充分に怖い思いをした。全てを忘れて穏やかに楽しむ日を、幼子にだけは、得てもらいたい。
おそらく、宮城に居る者たちには、望めない穏やかさだから。
宮城――宮都に戻れば、韶華には再び、平穏から遠い日が始まる。
(でも、なにをするにしたって、ひとりじゃないしね……)
目を開けると、背粱の伸びた後影が見えた。
静影の助けは、なによりも心強い。同じように、韶華が助けになると思ってくれたら良いなとも思う。
今はまだ、数落ばかりな気もするけれど。
「まあ……鹿追偵人を見つけ出せば、返せるかな。あっ」
宮都に向けて、使節の返回を伝える銅鑼が鳴らされた。
もう甘棠のどこにもない匂いを旁に、韶華の心は城門が開くよりも早く、戻ってきたことを喜んだ。
附記
妖怪大戦争は、棠梨の圧倒的勝利に終わった。
北の果てにおいて、痩せ女は雪人を下し、雪精霊から攫われた子らを
取り戻した。
清楚に雪恥を果たしたことを、凱旋と言わずしてなんと言おう。
もう棠梨の民は、北の陰鬼に怯える必要はない。
もういかなる小児も、凍える地で可憐な行をさせられることはない。
だが、覚えておくがいい。
子への情愛に凝り固まった女妖を侮れば、呪われる。その力は、幽明
を越えるものなのだ。
棠梨は、そういった妖怪に守られている。
坏人は幼き子を狙う前に、後面を振り返らねばならぬ。
狗盗は侵入する前に、界隈を見回さなければならぬ。
眼底に怒りを滾らせた痩せ女や、窮鬼が黒衣を広げ、待っているのが、
分かるはずだ。
もし、どのような妖怪が宮都の隅にいるのか知りたければ、以下の書籍
を参照せよ。
新版『妖怪大全』棠梨篇
著冬栄 出版白果舎
第三部了




