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残余暗区

 あの場において、小刃を気にした者はいなかった。多くは妖しき香にのみ、惑わされていた。

 もちろん彼も、それが取れるとは思わなかった。

 だが、取れた。

 だから、誰も知らない依頼を遂行しようとした。

 決められた任ではなくとも、為すことが望まれる。そんな依頼だったから、この結果を失敗とまでは言わないが、濃い焼栗色の髪の娘が気づかなければ、王太子(ナーアガー)は刃に倒れたはずだ。

「そうかなあ?」

 気配もなく、顏のすぐ側で男がささやく。

夢幻(まぼろし)を追ってばかりいるから、失敗するんだよ」

 驚きを表すのを辛うじて堪え、梯視(よこめ)で声のした方を見ると、黒玉によく似た黒炭色の目を持つ男が、彼を覗き込んでいた。

 誰かと問うようなことはしない。それでも足を止めたのは、男の声が、青冥(あおぞら)に響く少女の声のように、黒風(コクフウ)の心に一条の亀裂を入れたからだ。

「夢幻?」

「もう形を失ったものだから、夢幻」

 褐色の髪を揺らし、西方の男は笑った。

「きみは、答えが欲しいようだけど、一片(かけら)も形あるものは残っていないよ。あるのは、生き残ったものが語る一面だけ。それで満たされることはないだろう」

「満たされたいと、願ったことはない」

「心の底が抜けてるって、自身(じぶん)で言っちゃうのかい。それはなあ……窮鬼(ビンボー神)って呼ばれるわけだ」

 苛烈さを増した目で睨まれ、男は肩を竦めた。

「怖いなあ。小さな子は、睨まないのに。まあ、きみが坏人(あくにん)だとは、ぼくは考えてないよ。きみは……あの子が泣いていたから来たんだよね? 醒目な(めだつ)のに、早く戻らねばならなかったのに……ただ泣かなくていいと言うために、成心で(わざわざ)。そんなことをする(せいかく)には見えなかったけど」

「あの姐妹には、返すものがある」

「姐妹……」

 黒風の低声(こごえ)は、男の動きを止めるには充分だった。

 その隙を使い、身を翻し、闇に紛れる。今度こそ、黒衣が役に立ったはず。もう誰の目にも黒風の姿は見えない。

 なのに、ささやきが耳許に届く。

「取り戻せない夢幻(まぼろし)を追っても、なにも覆せないよ」

 誰かにも、似たようなことを言われた覚えがある。

「それでも……どうしても知りたいのなら」

 黒風は思わず足を止めた。けれど、続く言葉は返ってこない。

 知りたいのなら――なんだというのか。なにを知っているというのか。

 やがて、当然のことに気づいて黒風は(わら)った。

 男こそ、形を失った夢幻(まぼろし)なのだ。

 ありもしないものを求める愚かさが、初めて理解できたような気がした。


***



 小刃が投げられたこと自体は、行刺(あんさつ)とはみなされなかった。

 棠梨(トウリ)の使節との謁見の場に、クシの(ボアナイ)、あるいは王太子(ナーアガー)を害する者がいたとすれば、まさに大事。どこまで波及するか分からない難事にするよりも、と、ささいな事故として、処理されたのである。

 さらに言えば、小刃が、どこから投げられたものか、はっきりしなかったせいでもある。

 スゥグジェンが持ち込んだ小刃は、広間にあった。だがアンダハが見たのは、同じものが、壊れた窓の外から投げ入れられるところだ。けれどそれは、条理が合わない。

 誰かが拾う機会はあったのか。それは是であり、非でもある。

 拾った者がいたとして、外にいる刺客にそれを渡す機会はあったのか。是とも非とも言いがたい。

 アンダハが見た窓の外から、王と王太子に向かって投げることは可能なのか。

 これに答えられる者は、いなかった。

 誰かがいたにせよ、窓から、王たちが見えたはずはないのだ。

 結局、偶然で済ませるのが最も楽な方法であり、騒乱の中、『蹴飛ばされたらしい』小刃に気づいた韶華(ショウカ)と、止めた静影(セイエイ)とが、褒められることになった。

 もっとも、刺客となり損ねた黒衣の影の存在は、誰にも知られなかったわけではない。

 静影はこういった、一見、答えられる者のいない做法(やりくち)が、黒衣の男のものであると知っている。そして外で控えていた同事(どうりょう)の武人も、見ていたのである。

 しかし、黒衣を追った晨風(シンプウ)は、肩を落とし、部屋に戻ってきた。

「見失いました……」

「そうか。だが……絶不(にどと)会えないわけではないしな」

 迎える者たちは、若い武人ほどには洩気(がっかり)しなかった。同じ禁軍でも、力量に差がある相手を追うのだ。たやすく見つけられるとは、思っていない。

 だが韶華には、晨風を(ねぎら)う静影が、どこかほっとしているように見えて、衫衣をしまう手を止めた。

 真卒(まじめ)膠固な(おカタい)将兵である。少しくらい、任を果たせなかったことについて、数落(こごと)があってもいいのではないか。

(だってさあ……わたしには言うよね? いつも言うよね? ねえ?)

 紫石の(するどい)双眸が、なにを感じたのか振り向く。のびやかな天弓(まゆ)が、ひどく(こわ)い形を作り上げていた。

「なにか言いたそうだな、韶華」

「えっ? いえ、不在乎ですよ(お気になさらずに)? あれが、あのひとがしたことだって考えるのも古怪(ふしぎ)だとか、向こうで会えるなら、そもそも追わなくたって良かったんじゃないかなあとか、思ってないですよ?」

「その辺りは、またあとで解説(せつめい)すると言ったろうが」

「うん、それは分かってるけど……」

 真に言いたいのは、そこではない。

 が、黒風と係わりのないことを察しろというのも不成(ムダ)なので諦める。ここはとりあえず、クシの側が行刺(あんさつ)という事実を含糊(うやむや)にしてくれて、幸いだったと言うべきなのだ。

「それにしても、お母さんまで来ちゃうって……お姉ちゃん、ひとりになるのに」

「皇上がおられる。それに、杜娘君(あねうえ)瑠璃(ルリ)焦慮(しんぱい)だったのだろう」

 静影は、ちらりと隔壁(となりのへや)に目をやった。

 そこでは幼い少女を囲んで、双親(りょうしん)が再会を喜んでいるはずだ。

「あれっ、でもお父さん、ジャイさんと(へや)に戻ってたよ」

「だとすると今、隔壁(となり)に居るのは誰だ?」

「お母さんと瑠璃……お父さんがいないなら、多半(たぶん)銀花(ギンカ)さんが、景景(ケイケイ)永児(エイジ)を連れて来てるんじゃないかな。迷于香(香オタク)は」

「俺が見た時は、重明(チョウメイ)たちは天井(なかにわ)にいた」

「除草してるの?」

不然(ちがう)! ……と思う」

「あの、ピアグダン王が、こちらに来られるというので、香試人士(調香師の方々)には、出て頂いたんですよ」

「そうなんだ……って晨晨(ハヤブサくん)、そんな淡泊に(あっさり)言わないでよっ。いつ決まったの、それ」

 僅かな間を置いて、晨風が天を仰いだ。香試たちを部屋から出した際、彼らが伝えてくれるものと思ったらしい。

「つまり、もう来るわけね? 別に準備はいらない……」

「烏黒! その匪賊の扮装をどうにかしろ。なんで衫衣の下にそれを着ていた」

「だって便宜(べんり)だし」

 クシの者は、日来(ちかごろ)、宮都甘棠(カントウ)を騒がせた賊、望舒(ボウジョ)党など知るまいが、広間にいた棠梨の武人たちの容光(かおいろ)は、冴えなかった。

 静影が衫衣を韶華に被せるのと時を同じくして、扉を叩く音がした。

「話があるのだが、いいかな?」

 返事を待たないクシらしく、ムドゥールとヌクトゥベ、そしてピアグダンが入ってきた。

「……出直そうか」

 ムドゥールが(きびす)を返した。

「えっ、なんでですか。いいですよ、いろいろ話はあるでしょう?」

「そうなんだがね……」

 老境に入った三人のクシの貴人は、そろって同じ表情をして、互いに顏を見合わせた。

 疲れた顏の静影に、草率(ぞんざい)衫衣うわぎを着る韶華の姿は、莫大な差錯(ごかい)をもたらしたわけだが、気づいた者はいなかった。

「まあ、若いっていいよね」

「シウンはなんと言うかね……」

「あの幼子はだから、最後の砦かもしれませんね。ああ、ロホンの蛮行は、シウン生涯許してもらえないでしょう」

 言ってヌクトゥベは、大きく肩を竦めた。

 迎える棠梨側には、三貴人の含めるものはよく分からないが、とにかく席に着いてもらう。すでに決めていたのか、ヌクトゥベから話し始めた。

「私は棠梨の言葉を使えないので、クシの言葉を使う無礼を許して頂きたい。そしてまた改めて伝えようと思うが、まずは、そなたに謝りたい。碧眼の娘を(ほっ)するあまり、そなたの小さな妹を攫った。許されるとは思わぬが、言わずに済ませることもできぬ」

「わたしは瑠璃を連れて帰れるなら、それで構いません。でも、母と父には怒られて下さい。父なんか、呪うと思いますが、たぶん死にはしない……でしょう」

 自信がないので、韶華の声も小さくなった。

「呪われたとしても、仕方あるまい。我が曾祖父、アズムーン王の御代に生まれ、碧眼に振り回されなかった王族はいないが、シウンは……その結果を全て見たようなものだ」

 内容を語るかどうか迷うヌクトゥベを見て、韶華は否定の動作をした。

 父親にしてみれば、捨てて終わりにしたかった過去である。詳しく聞いても、なにも変わらない。聞かないことにする方が、限りなく消極的な許しになるような気がした。

 ピアグダンは微かに笑った。

「因われてはならぬ、ということだな。真にそなたは……シャーン・アルースの血を引いている。ショウカ……韶華と呼ばれていたか。聡い姉と、愛らしい妹と……良き妻を持って、シウンも幸せだ」

「あ、わたしの上にもうひとり、姉がいます」

「おや、三姉妹か! それならロホンもセレウも、姉上に求婚すれは良かろうに。年回りも似合いであろうよ」

「それについて、少々、お話が。姉は朱蕣(シュシュン)と言いますが、えー……このたび、棠梨の一人(天子)後妃(のちぞい)となります」

 それは(よろこ)ばしきこと。と、返ってはこないだろうなと思ったが、不出所料(あんのじょう)

 動かなくなった三貴人のうち、固い微笑みのまま、ムドゥールが聞いてないよ、と呟いた。

「軽々しく言えませんてば。けど、どうも、執政官のひとも聞いてないみたいですね。クシ側には……伏せられたのかな。故意に」

 韶華が静影を見上げると、代わりに晨風が応じた。

「碧眼を洩らしたのが、棠梨側であれば、言わないと思います。貴女が、彼に伏せように……」

「それもそうか。クシの王族の娘が、棠梨の皇帝の妃になるって、より棠梨の側に問題が生じるしね」

「いや、クシとしても相当に……では私は、シウンの娘の祝いを見に行こうとしていたのか。見たら、分かるだろうか……?」

 ムドゥールの疑問には、答えにくい。父親と長姉は美貌という意味でしか似ていないが、韶華の姿が顏も知らない祖父を彼らに思い出させたように、朱蕣の姿に、見たこともない祖母を、思い出させるかもしれないのだ。

 迷う韶華の横から、静影が(おそ)れながら、と口を挟んだ。

実地(じっさい)に似てるかどうかは、考えなくても良いでしょう。棠梨の后妃の(かお)を、当面(じか)に拝する者はおりません。これはこれで、当人であるかどうか分からない、という難を呼びはしますが……クシに及ぶものではないと思われます。ただし」

「アイシラクトゥの娘として公表したなら、話は変わるな」

「はい。ですから、ピアグダン王から我が一人(いちじん)親筆信(親書)を頂きたい。クシにおける杜朱蕣(ト・シュシュン)(みぶん)は、知っている者が限られているという」

 静影の言葉に一瞬の間を置いて、ムドゥールはにやりと笑った。

「愉快なり。それを口にすればすなわち、キュウに通じる者ということだな」

(そうです)。あの太君(ちちぎみ)が認めるかはともかく、アイシラクトゥの公主(ひめ)との大婚(こんれい)は、クシとの友好が成るともいえるので、本来知られるのは願ったり。しかし、それを不穏に使わせるわけにはいかない。知っていても、言ってはならない、という情形(じょうきょう)を作りたいのです。少なくとも、クシ側では利用できないように」

「我らについては、気遣いは無用であるよ、将軍」

 ピアグダンは微笑んだ。

「クシも、決して安定してるとは言えぬが、今は碧眼の呪いを解くのに、集中しよう。ただ、できれば……大婚に、ソイラクタを(つか)わせたい。体力的に可能かどうかは、分からないとしても」

「皇上は、ソイラクタ様を喜んで迎えましょう」

「そうか! ありがたい。シウンの反応は気になるが……」

 全員が黙り込んだ。

 とはいえ、祖母の祝いまでは拒否しないだろう、という風色(ふんいき)はあった。あくまでもそれは、希望的観測であるが。

「ええと、それでですね……わたしたちがしたかった話は、お姉ちゃんのことですけど、王さまたちがしたかった話は、なんでしょう?」

「いや、それはいいんだ。もう分かったから」

 ヌクトゥベが慌てて手を振った。照れているのか、焦っているのか分かりにくい動きだった。

「割り込むほど、愚かなことはない。それに、ロホンに無用な押し付けをするところだった」

白英(ハクエイ)で会った時は、そこまで思わなかったから、つい、それも良いかと考えてしまったんだよ。悪かった」

「はあ……まあ……ないなら、いいんですけど……も」

 なにを言っているのか分からない。背筋がぞわぞわと落ち着かない。どうやら、静影も同じ心境にいるらしい。問い返すべきか、悩む顏をしていた。

 ただ、触れてはいけないと、韶華の頭が警報を発している。こういったものは、信じておくのが(良いの)である。

 薄ら寒い笑顔の中で、韶華はひとつだけ思い出した言葉を付け加えた。

「あとで瑠璃と挨拶に伺います。その前に、お父さんと昔の話をしたい方は、いますか?」

「それは……」

 答えは分かりきっていた。否である。満面の笑顔で拒否されたが、

「私は、お願いしたいな」

 ムドゥールは嬉しそうに応じた。

 痩せ女に会いたいとは、豪胆な男は、いるところにはいるものである。

「ずっと、まさかと思っていたんだよ。知っている者は限られているし。でも棠梨の者だから、ないだろうと……シウンが棠梨にいたのなら、間違いないね。実は、簽名(サイン)が欲しいんだなあ」

「簽ッ……!」

 豪胆にもほどがある。自身(じぶん)(モデルに)した官能小説を読むとは。

 もっとも、ムドゥールが生きていたなら、気づかないはずはない。

 無意味に驚きの作勢(ポーズ)を取りつつ、睇視(よこめ)(ボアナイ)とヌクトゥベを見ると、そっと目を逸された。

「知ッ……!」

 知っている。クシの王族は、知っているのだ。誰かが書いた官能小説を。

 なによりも知りたくないことを知ってしまった者に、救いはなかった。


***



 隔壁(となり)の衝撃は遠く、韶華の驚愕が伝わることはない。

 しかしこちらも、別の騒ぎに満ちていた。全ては、幼い少女を中心としたものである。

(オウ)香試、新殺殺魂魄(ハートアタック)は、そこにおわす仙女の如き天生(うまれつき)の芳香を持つ者にしか、使えないものでしょうか」

「否、効果に差はでようが、誰にでも使える。天より与えられし魂魄の(かんば)しさは、本来、全ての者にある。だが嘆かわしくも、ひとというものは皮相のみに(とら)われ、香魂を感じることができぬ。だが、新殺殺魂魄(ニューめろ略)は予め備わっている嗅覚を高め、隠された心里(こころ)を明らかにさせる。使う者ではなく、使われる者にこそ、効果がでるのだ! 見よ、幼女の美徳に悪女が喜ばしむる姿を! あれが香魂に魅せられた者、全てに現れるものなのだ!」

 重明がびしり、と指さした先には、幼子につきまとうスゥグジェンがいた。

 他国の妃を悪女と言ってしまう無礼はともかく、幼子を溺愛する姿が、彼女に対する評価を一変させたのは間違いない。

 ひとが変わったように、というよりは、ヌクトゥベが碧眼を持って生まれていれば、このような態度になっていたであろう、という溺愛ぶりである。

アムタ(お菓子)はどう? ああ、お母様に訊かないといけないかしら。ねえ、食べて頂けるかしら。本当に愛らしくて、羨ましいですわ」

「瑠璃、頂いたのなら、ちゃんと御礼を言って?」

「うん、謝謝……えっと……ばに、ばには(アリガトウ)?」

「まああ、賢いのねえ!」

「ええもう、瑠璃は真的(ホントに)宝貝(たからもの)で」

 言葉は通じていないはずだが、会話は通じていた。よく分からないまま、微笑み合う女たちの間で、瑠璃も餠乾(ビスケット)を持ってにこにこしている。

「ほら、ロホン、次を出して」

 少し離れて立っていたロホンが、祖母に言われるまま、虚無の表情で盤托(トレイ)を差し出す。上には、色とりどりのアンタカ(木の実)を乗せた小さなエプーム(パン)が並んでいる。

 スゥグジェンは、それをひとつ取って、瑠璃に渡した。

「とても美味しいのよ……ねえ、そちらのヌージィ(坊っちゃん)もいらっしゃい。いろいろ(ゴイ・ゴイ)あるわよ」

「ご……ごいごいってなに。誰かの名?」

「招いてる……ように見えるよ。どうする、景景」

甜食(デザート)があるから、どうぞって仰っているのよ」

 老女の情熱に押され、近づけずにいた幼い少年たちだったが、銀花の言葉で心を決める。

 瑠璃と話す機会は、痩せ女の防護がない間だけである。けれど、黙って立つ身高(せたけ)のある男が、どうしても気に入らなかった。

「どうぞ」

「謝……謝謝」

 受け取った餠乾らしきものを、景景が頬張る。目の丸くなるのを見て、永児も口に入れた。

 幼い少年の天真(すなお)な喜びを見て、スゥグジェンは微笑んだ。

「ああ……ロホンの幼い頃を思い出すわ。ヌクトゥベにも……こうしてあげれば良かった。まあ、どうしたの。おいしくない?」

 瑠璃の目が少年たちを睨んでいた。

「景景も永児も……どうしてここにいるの」

 甘さを呑み込んでいた景景が、びくりと震えた。全く歓迎されていないことを、改めて突き付けられていた。

「オレら、助けに来たんだよ……瑠璃が攫われたから……」

不然(うそ)、なにもしてないよね。瑠璃のとこに来たのは、韶姉(ショウねえ)だし、お母さんとお父さんだもん。景景、ここで一点(おやつ)食べてるだけだよね」

「そ、そうだけど……だけど、その」

「瑠璃のこと、欺負(いじ)めに来たんでしょう」

「しないよ、そんなこと!」

 いきなり始まった幼い少女の糾弾を、止める者はいなかった。当人らは必死かもしれないが、幼さが心をうまく伝えられない姿は、年を経た者には微笑ましく見えてしまう。

 止めてやれと思ったのは、おそらくロホンだけであったろうが、口を出す処境(たちば)にはなかった。部屋の隅で笑いを噛み殺しているセレウも同様――とはいうものの、隣から韶華を呼ぶだけの労心(きづかい)はあった。

「どうした、その疲れた顔は?」

「ああ、まあ……いろいろありまして……って、あのひと」

 韶華の表情が、スゥグジェンを見て歪む。さらにロホンまでもが居ると知って、固まった。

 香試の妖しき香、新殺殺魂魄(めろアタック)やらで変貌を遂げたのはスゥグジェンだけであり、ロホンは、瑠璃を攫うという考えを持った危険人物なのである。今のところは。

「悪かった」

  疑念を察したロホンが頭を下げた。

「心から言ってます? わたしに、王子(ナーニー)に刃を向けるのかとかなんとか言っておいて?」

「それこそ、悪かった」

 言葉に偽りは感じられない。誠実さの一片はあると信じて、幼い妹に新殺殺魂魄(あやしいかおり)を吹きかけさせるのは、止めることにする。

 その瑠璃は、静影の後ろに隠れ、少年たちを冷待(そでに)していた。回撃(はんげき)が少々過ぎてきているのか、景景も永児も涙眼(なみだぐん)でいる。

「瑠璃のためなんて信じないもん」

「まあ、そう言ってやるな。瑠璃を思っているのは、真実だから」

「そんなの……」

 頬をふくらます幼子の頭を大きな手が撫でる。

「俺が、ここではなにもするなと言ったんだ。瑠璃を迎えに行くのは、俺たちがやるべきことで、景景も永児も、危険に晒したくなかった。瑠璃を担心(しんぱい)したように、あの子たちの双親(りょうしん)担心(しんぱい)しているだろう。なにしろ、黙って出てきたんだからな」

太太(おばちゃん)たちに……黙って?」

「そうだ。俺たちの車輅(ばしゃ)に黙って入り込んでいた。使節には、皇上が決めたひとしか入れない。見つかったら、罪人になるかもしれないのに、瑠璃を助けようという情分(きもち)だけでそんなことをした。もう瑠璃を欺負(いじ)める者は、ここにはいないよ」

 瑠璃は静影と、彼を潤んだ目で縋るように見上げる少年たちを見比べ、大きく息を吐いた。

「静影哥哥(おにいちゃん)が、言うなら……信じる」

 そしてロホンに目を向けた。

「ヒカエヨッ」

 ひとびとの驚嘆の中で、ロホンが控える姿勢を取った。

「瑠璃を欺負(いじ)めたのは許してあげるけど、お父さんを欺負(いじ)めちゃ不成(ダメ)っ。えっと、ええっと……瑠璃ヲイジメタラ。タラ……とにかく、ヒカエヨッ」

「謹んで承ります」

 ロホンの側で、セレウも笑いながら拝礼した。

 やがて王となる得るふたりがこの態度であれば、これより先、クシで瑠璃が傷つけられることはなさそうである。

「瑠璃、それって、口訳(つうやく)のひとが教えてくれたの?」

「うん。韶姉も会ったよね? 口訳(つうやく)叔叔(おじちゃん)に」

 髪飾りを(いじ)り、瑠璃は姉を見上げた。

「ずっと瑠璃についててくれたんだよ」

「あら、では感謝を伝えなくては。ジャイさんは、どちらにいらっしゃるの」

 母親の言葉に、韶華は違うと答えた。

「ジャイさんは、使節の口訳(つうやく)。お母さんと銀花さんを連れて来てくれたんだから、感謝はしなくちゃいけないけど、瑠璃についててくれたのは、別のひと」

 そうだよと頷く幼い少女を見ながら、ロホンが首を傾げた。

口訳(つうやく)?」

「ロホン王子が、つけてくれたでしょう。楽しいひとを選んでくれたのは、そこだけは、褒めないといけないよね」

「そんなものを……配した覚えはない」

「じゃあ……誰かが、気を利かせてくれたんでしょう」

 冷たく言い放つつもりだったが、出た声音は穏やかだった。褒めてもらえそうな部分を、自ら捨ててしまうのは、誠実といえなくもない。

「口訳のひとは、どこかにいると思うから、わたしが探してくる。その間に、お母さんと瑠璃は、お父さんと……」

 曾祖母に会いに、と言いかけたところで、晨風が伝言を持ってきた。

「ソイラクタ様との会見ですが、今天(きょう)はもう休んで下さいとのことです。久しぶりだから……家人(かぞく)だけで過ごしてはと」

「そっか。そうだね。瑠璃も、面生な(見知らぬ)ひとと会うばかりじゃ、疲れるだろうし」

 少し間を置いた方が、父親も故郷に戻ったという自覚ができるだろう。

「それから」

 晨風は低声(こごえ)で付け加えた。

明天(あす)、改めて回路(帰途)のための謁見が行われますが、ビアクタ様が、その前に話したいことがあるそうです。ただ、痩せ……シウン、様に聞かせるかどうかは、小妹(あなた)(ジョ)将軍に任せるとも、仰いました」

「分かった。伝えてくれて、ありがとう」

 なにもなかった振りで、韶華は微笑んだ。

 クシで瑠璃は取り戻した。けれど、まだクシで、知らなければならないことがある。

 おそらくそれが、ビアクタのしたい話なのだと、ほとんど神来(カン)に近いもので、感じ取っていた。


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