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邂逅之三

「お……お母さん、まで、来ちゃったの?」

「だって、韶華(ショウカ)……お母さん、もう焦慮(ふあん)で待ってられなくて。それで、銀花(ギンカ)さんに頼んで、向導(あんない)してもらったのよ」

 淑英(シュクエイ)が頬に手を当て、ため息を吐く間際、長棒が下から()を描いて、近づいてきた兵士を失神させた。

 翠玉の簪をひとつ挿しただけの美しい女が、右、左、と短い突きを繰り返すだけで、兵士たちが次々とふたつの山に分けられている。

 ()家の女主が現れてから数瞬、何人の兵士が倒れたか知れない。兵士たちはなにが起こっているのか、理解できないまま、昏倒しているに違いない。見ている者とて、理解しているとは言いがたい。

 ひとびとが呆然とする広間で、淑英は夫を見てぱっと顏を輝かせた。

郎君(あなた)! 創傷(けが)はない? 担心(しんぱい)してたのよ」

 心配するような男か、というのが、剣ならぬ杖を交えた者の言い分だろう。

 広間でぴくりとも動かない兵は、痩せ女の襲撃の結果だ。静影(セイエイ)ら、棠梨(トウリ)の武人はそこそこ用度(てかげん)して、呻く身体を転すだけに(とど)めている。

「どうやってここに?」

 静影の問いの答えは、扉から返ってきた。

 銀花がにこにこしながら、ジャイとともに立っていた。片手に白目を剥いた兵士を引きずっていなければ、仲睦まじい恋人たちの姿である。

「ジャイから封信(てがみ)をもらったら、会いたくなってしまったので……それに、令媛(おじょうさん)がクシにいると分かったら、杜監(師匠)だって、待てませんもの」

「しかし、クシまではともかく宮城に入……ジャイか?」

「そうです、(ジョ)将軍。これでも私は、モリン家の者ですから」

 クシの男は、愛しい棠梨の娘の(そば)で、小さな符を取り出した。

 モリン家といえば、クシでは知らぬ者のいない名門である。モリン家となんらかの係わりを持たない貴族は、いないとまで言われている。

 そして先代当主は、アイシラクトゥの王女ソイラクタの夫でもあった。

(そうか……だいぶ離れてるけど、ジャイさんは、わたしの親戚になるんだ)

「敬愛する老師(せんせい)と一門であるのは、この上もない誇りです!」

「老師?」

「その話はのちほど」

 紫石の双眸を苦心で満たし、静影が淑英の疑問を遮った。

「そうよね。とにかく、瑠璃(ルリ)を返して下さい」

 淑英は、スゥグジェンをまっすぐに見つめた。母親として長棒を振るい、幼子を取り戻しても良かった。けれど、それをしないのは、かつては王妃(ボアエクトゥ)と呼ばれた者の誇りのため、無用な争いをしないという理性を信じてのことだ。

「そなたがシウンの……妻。この碧眼を生んだ女か……」

老太婆(おばあちゃん)、離して。瑠璃、お母さんのところに帰るっ」

()めて、暴れないで! 貴女は、わたくしとともに居るのよ。帰しはしない!」

「ババアテヲハナセ」

「誰、そんな口を()くのはッ」

オサー(知らない)

 知ってるだろう、という突込みをすべきか迷うものの、韶華にその義務はない。予定とは違うが、やっと来たと、ほっとする。

 とはいえ、こんな形で介入するひととは思わなかった。ついでに、静影の疑わしげな視線が韶華に向けられているのも、認めがたい。

(わたしじゃないし! 作り声にしたって、父爺(オヤジ)すぎるでしょうが!)

 事情を知っている者以外のひとびとの目が、声のした方へ向く。

 そこにはキアシムがいる。けれど、彼のものでないのは明らかで。

 キアシムを支えていた兵士が、兜を取った。

「アンダハ!」

 スゥグジェンの叫びに、ピアグダン王の叫びが重なる。もっと小さな、洩れるような声も兵士のうちにあった。

「アンダハ様……なのですか」

 その名は、兵士たちを一瞬にして静めた。セレウの従う者であろうとビアクタの配下であろうと、彼らにとって、それは理不尽に失われた(おさ)の、盟友だった武人の名だ。

 クシの軍の英雄、シャーン・アルースに厚く信頼され、王族とは認められなかったが、王の(ククウェ)の血を引くプルフェの名誉を頂くことが許された男。

 彼は、二度目の理不尽――兄弟のようにして育ったムドゥールとウルドゥルの死ののち、姿を消していた。

「アンダハ様……貴方様は、もう、お戻りにはならないものと」

 老齢の武将が跪いた。

「久しぶりだな、ムル・アガ……おまえの考える通り、生涯、戻るはずではなかった。それでも……故郷が、我らの時以上に行き詰まっているとなれば、(ほう)っておけなくてな」

「アンダハ……! おまえはプルフェではないか。行き詰まるなどと、偉そうに」

「ビアクタ」

 アンダハの鹿の毛色の目が、碧眼ではない男の目を見据えた。

「おまえも変わらないな……クシの掟に振り回され、憎んでいるのに、離れられない。おれをプルフェと呼んで(さげす)めば、それはそのまま、おまえの母親の血を(おとし)めることになるのに」

 激しく動揺するビアクタから目を逸し、アンダハは王に視線を移した。

(ボアナイ)よ、愚かなる身の長き不在をお許し下さい。その上で、僭越ながら申し上げます。クシには、王の証を身に顕す者は、残り少ない。それは、苦しまなければならなかった者も、少ないという意味になります。棠梨の者が献上する香の意味を、分からない王ではないでしょう。王の証に(こだわ)り続けるのならば、待たねばならない。けれど、拘りを捨てる時としては、今が最適ではないかと思うのですが」

「捨てる……ですって? 碧眼という王の証を捨てる? そんなこと、許されないわ!」

「誰に許されないというのです、ギリア様」

 答えられない王太子妃(ナーエクトゥ)を見ながら、韶華も、誰が許さないのだろうと考える。

 クシで(エジェン)といわれる神か。

 碧眼を王に相応しいと信じる民か。

(それとも……碧眼というだけで、王になれなかったひと?)

 ビアクタとヌクトゥベを見、ロホンとセレウを見た。

 碧眼の息子たちは、掟に縛られ苦しむ母親や父親の願いを、呪いとみている。

 碧眼を持たなかった父親たちは、呪われつつも呪っている。

 呪いは続く。けれど碧眼がもたらすものを呪いと気づけたなら、解くことも――できる。

 やがて、枯れた声で、フジュニが呟いた。

「捨てるべき時が来ているのかもしれぬ」

「なんですって?」

「ああ、ギリア……我はおまえにこそ、許して欲しい。(ボアナイ)の証を持ったからといって、良き王となるのは難しい。先代が亡くなり、兄上が王になったのは、最も年上だったから。私が王太子(ナーアガー)になったのは、弟だったから。誰もが、オクトワの方が良い王となると思っていただろうに……そうしてなにもできない男が、王太子の位に就いたばかりに、おまえもチャチャカも傷つけた」

「そんな……こと、仰らないで……」

「ギリア、私が王太子であるのは、誰にも喜ばれなかった。おまえを除いてな……もちろん、おまえの父親たちも、喜んだかもしれない。だが、私は……碧眼の子を得られなかった女という名を、おまえに与えたかったわけではないのだ」

「止めて、あなた……わたくしは」

王太子(ナーアガー)という位を返上すると言ったら、おまえはまた苦しむか?」

 ギリアは答えられなかった。ただ、泣きくずれた。

「アンダハ……分かるだろう。(こだわ)りを捨てるのは、とても難しいのだよ。それに、もしここで掟を捨てると兄上が決めても、結局はロホンかセレウのどちらかを選ばなくてはならない」

「ええ、よく分かります、フジュニ。ですから、(ボアナイ)よ」

 ピアグダンは、アンダハに初めて気づいたかのように、顏を上げた。

 それは話す許可、下の者からの言葉を受けるための、クシの動きだ。

「いま少し、時を待つために、最も正統な継承者を仮の王太子(ナーアガー)に就けてはいかがでしょう」

「最も正統な継承者……?」

 一瞬、ピアグダンの目は幼い碧眼の少女に向いた。

 アイシラクトゥの血を引く美姫と、異国の者でありながらクシの英雄となった男の息子シウン、その碧眼の娘。見ればきっと、クシの民(クシネー)も受け入れられる。愛らしさは、目も眩むほどだ。

 ピアグダンの気の迷いを、アンダハは笑わなかった。

「貴方の考えも分かりますが、あの子は棠梨の民です。帰さなければなりません。そうでないと、貴族たちが、シウンに新しい妻をあてがいかねない……」

 貴族たちが、一斉に首を横に振った。女妖にしかみえない男に、娘をやりたい者はいない。そも、兵士を沈黙の山に変えた女に対抗できる娘などいない。

「では、誰がいるというのだ」

「僅かひと月ほどですが、王太子(ナーアガー)であった元王太子(アーグ)がおりますよ?」

「私のことを、呼んだかい?」

「ムドゥール!」

 ヌクトゥベが信じられないといった声を上げた。

 明るい金髪を持つ男が、壊れた窓を越える。鮮やかな碧眼を見せて笑い、誰であるかを示した。

 若い貴族と兵士は戸惑うだけだが、多くの者は、その顏を忘れていなかった。

 驚きを表さなかった王族は、キアシムのみ。シウンさえも、激しく動揺した。

「アーグ……生きて、いたのですか」

「うん? きみの聡明な令媛(むすめさん)は、教えてくれなかったのかい」

 韶華は肩を竦め、答えの代わりにした。教えたところで、父親は聞いていなかっただろう。

「それにしても、元王太子(アーグ)って……?」

 棠梨で読んだ名冊(めいぼ)には、ムドゥールはあくまで王子(ナーニー)で、ウルドゥルだけが王太子(ナーアガー)と書かれていたはずだ。

「私が生まれ、父は王位に就いた。だからひと月ばかりは、私が王太子と呼ばれていたよ。生き延びるか分からない赤子にそれは、ということで……ウルドゥルに位が譲られた。だから私は、元王太子(アーグ)。そう呼ぶのは……あの頃、後宮にいた子どもだけだろうが」

 ああ、とヌクトゥベが嘆息した。

「覚えているよ、アーグ。小さいのに兄貴(アーグ)だなんて、とイルガが笑っていた。だが誰よりも、アーグだった……やはりきみを殺せる者は、いなかったのか」

「ウルドゥルを殺したのなら、私も殺して欲しかったよ」

 貴族たちの視線を浴びて、微かにスゥグジェンの肩が揺れる。ムドゥールの刑死を最も望んでいたのは、彼女だった。言葉にしたのは、別の王女(ナーネウ)だったとしても、廃妃(ブルエクトゥ)とされた女の憎しみを知らない者はいない。

「死んだと聞いたわ……どうして生きているの」

 スゥグジェンの震える疑問に、ムドゥールは淡く微笑みを返した。

「どうしてか、私もずっと考えていた。だが、この日のためだったのかと思うと、死を願ったことを、オクトワ様に謝らなくてはならない」

「おまえを逃したのは、オクトワ……?」

「オクトワ様は、忌み病で亡くなった。それが移されたとして、私の死体に触れる者はいなかった。実際には……」

 オクトワは病ではなく、自死した。ムドゥールを逃すための口実を作るために、彼に息子の死に殉ずるより、生きて欲しいと願って、アンダハに病死の話を持ちかけたのだ。

「アンダハ、おまえのことも、ずいぶんと恨んだ」

「恨まれるだけのことは、したよ。ウルドゥルを殺したのは、我が軍だ」

 武人ゆえに、ウルドゥルとムドゥールの間を、忌まわしいと思う者は多かった。

 それでも王太子を切って捨てた者は、心を病み、長くは生きられなかった。禁忌をおかしたのは、許されぬ者を愛した男ではなく、言われるまま殺した方だったのだ。

「ああ、()めて、ヌクトゥベ……おまえは、これを認めるつもりなの? ロホンに王位を与えたいでしょう? ピアグダン王に申し上げて、ロホンが碧眼の子を得るまで、待ってと!」

「いいえ、母上……貴女は、私にもロホンにも、なにも望んでいない。貴女はただ取り戻したいだけ。廃妃の不名誉を、王の祖母という位で、補えると思っているだけだ」

「聞きたくない! どうして分かってくれないの、あなたのためを思って、碧眼の娘を見つけたのに! チャーグシャーンは、ロホンを生んだじゃない! あなたの名誉は充分に取り戻せたのよ、ならば次は、わたくしのために、言うことを聞いてくれてもいいでしょう!」

「止めて下さい。碧眼に(こだわ)る貴女たちが、私とチャーグシャーンを傷つけた。それを、ロホンにも繰り返そうというのか……! 必要なのは、ロホンとセレウが、王に相応しい質であるかどうか、ではないのですか」

「あなたは、そう……思うのね」

 スゥグジェンは、抱え込んだ幼い少女を見た。

 美しい青い目、これを持つ子どもを、どれほど望んだことだろう。この正しさだけが救いだったのに、正しさはスゥグジェンの思うそれではない、と言うのであれば、もう『これ』はいらないのだ。

 哀しみに濁るスゥグジェンの考えを最も早く読んだのは、同じものに因われていたギリアだった。

「スゥグジェン! その子を傷つけないで!」

 老女を見上げる大きな青い目の中に、白い刃が映り込んだ。


***


 幼い少女は、耳を塞いで丸くなっていたかった。

 大人たちの声は大きく、荒々しく、それでいてとても哀しそうで、聞いているのが怖かったから。

 誰かが叫ぶたび、大好きな姉が迎えに来てくれただけでなく、父親も母親も来てくれた嬉しさが、見えなくなってしまう。

 スゥグジェンという老太婆(ろうふじん)からは、とくに暗い霧が吐き出されているようで、どうしたらいいのか、分からなくなる。

 父親の知り合いらしき令令(おじさん)たちが現れた時は、不意に辺りが明るくなった気がしたのに、スゥグジェンの哀しみが、全てを塗り替えてしまった。

 けれど、怒る気にはならなかった。

 瑠璃にも、そんな時があった。

 攫われて、車輅(ばしゃ)にひとりでいた時、闇の中で迷っているような気になった。誰かが慰めてくれていたはずなのに、瑠璃には届かなかった。

 そういう時も、ある。

 だから、待っている。

 哀しくて動けなくても、誰の声も聞こえなくても、いつか、終わるから。

 その時は、瑠璃が頭を撫でてもいいよ、と言ってあげる。

 でも。

 間に合わないこともあるんだよ、と口訳(つうやく)の男に言われたような気がして、瑠璃は抱える力を緩めたスゥグジェンを見上げた。

 閃閃(きらきら)とした白い輝きに目が吸い寄せられる。それがなにか、瑠璃には理解できていない。

 ただ、すぐに同じ白い(ひらめ)きが、髪から落ちて来るのに気づく。

 甘い香りの棠梨の花だ。柔らかな匂いが、誰かの言葉を思い出させる。

 そして指先が、口袋(ポケット)の中の(香袋)に触れる。粉がこぼれ出していた。


***


 母親は長棒を投げようとした。老女の小刃を持つ手に、当てる自信はあった。

 男は祖母を止めようとした。幼子と祖母の間に、身を割り込ませるつもりで。

 ほかにも、なにかしようとした者は多かった。けれど、誰も、なにもできなかった。

 ただ幼い少女が、己を害しようという老女に丸く頬をふくらませ、愛らしく怒ってみせるのを、見つめていた。

 もっとも、幼子は怒っていたのではなく、手の平に息を吹きかけようとしただけだった。

 丹花(くちびる)からの吐息が、薄い(もや)を巻き上げ、スゥグジェンを包み込む。動きを止めた老女の側で、幼い少女も軽く()いた。

「うー……ごめんね、老太婆(おばあちゃん)。瑠璃、吹きかけすぎちゃった?」

「あ……」

 老女は咳込む幼子と、掲げた小刃を交互に見た。

「あ……ああ、わたくしは……!」

 突如、スゥグジェンは瑠璃を抱き締めた。取り落とした小刃が床の上をすべり、敷物の端で止まる。そんな固い音を立てるものが、己の手から落ちたと思っていないかのように、老女は(いと)しげに語りかけ始めた。

「なんて愛らしいの。こんな愛らしい子が、この世にいるなんて! ああ、この愛らしさは、わたくしの言葉では表せない……! 嗚呼、なんなの、みな黙って見ていないで褒めなさい。ねえ、あなたの輝きは(エジェン)の光輪のようだわ。もしかして天の使いなのかしら。神々しさに、わたくしの目は耐えられそうもないの。いいえ、見えなくとも分かるわ、あなたの愛らしさは……!」

 息継ぎはしているのかと心配になるほど、あふれんばかりの賛辞がこぼれ出る。いきなりのスゥグジェンの変容は、迷于香(香オタク)が乗り移ったかと思うくらい。

 なにがあったのか、まさか瑠璃が吹きかけたあれのせいか、と、韶華が考える横で、当の香試(調香師)が叫んだ。

「おお、我が才能に(かな)うものなし! 今や芳香要術の秘方を越えん! 見よ、あれが我が改良せし殺殺(ナーバス)魂魄(ブレイクダウン)! 噴出(プシュッと)一口(ひとふき)、さすればいかなる者をも(とりこ)にする! その名も、新殺殺魂魄(ハートアタック)!」

「嗚呼、王香試……これが新殺殺魂魄(ハートアタック)!」

新殺殺魂魄(ハートにアタック)!」

魂魄(たましい)殺殺(めろめろ)に!」

 クシの貴族の(あいだ)から香試たちが飛び出し、幼子に向けて手を差し伸べる。片手は高く、残る手は胸元で構え、新殺殺魂魄(ハートがめろめろ)と唱えながら、右に、左に身体を()する。

 同事(どうりょう)たちの(ことほ)ぎを受け、王重明(オウ・チョウメイ)は困惑する幼い少女を見つめ、大きく頷いた。

「これほど効いたのは、貴女さまの魅力ゆえでございます」

「瑠……瑠璃のせいっ?」

「香というものは、こうでなくてはなりません。新たに配方しました殺殺魂魄(ニューめろ略)は、(かぐわ)しき魂を清楚にす(ひきたて)るもの! 香魂を持つ使用者の(つば)と混ぜることによって、吹きかけられた者に新たな神経(ニューロン)構筑す(つくりあげ)る! それは、いかなる坏心(あくい)をも融化(とろけ)させて、香魂に従わせる者に変えるのですッ!」

「ああ、なんと精彩な(すばらしき)効果!」

秘方之最(さいこうのかおり)と申せましょう!」

 涙を流す男の群に、幼子を褒めちぎる老女。香試らの(せいしつ)に慣れてきたとはいえ、棠梨の武人たちは、黙って見ているだけで、止めようとはしなかった。

 クシの者はもう、怪しき香を噴出一口(ワンプッシュ)されてもいないのに、動けずにいる。おそらく、思考が停止しているのだ。

(分かるけど……どうにかならなかったのかねえ、あの名付けは……)

 韶華は瑠璃の脚許を見た。小さな(香袋)が、粉をこぼして落ちている。あれがひとを惑わす新殺殺魂魄、と思うため息は、結局、呑み込まれた。

 なにげなく見た敷物の端に、なにかを感じた。

 それは、感じるはずのものがない、ということ。

 あの近くには、小刃があった――はず。

「静影っ!」

 棠梨の将も気づいていた。

 (ボアナイ)か、王太子(ナーアガー)かに飛んだ一閃に、衣を叩きつける。

 ばさり、と(おおとり)の羽ばたきに似た音で、羅綾(らりょう)の衫衣が刃を絡め取った。

「アンダハ!」

 ムドゥールの声が飛ぶより先、クシの鋭将の手は動いていた。小刃の投げられた方角を指さす。

 壊れた窓に、兵士たちが駆け寄る。残りは、王族を守るように控え、ついでに、まだ踊っている香試たちを庇う。

 慣れた動きに、感嘆を禁じ得ない。たった今、戻ってきたばかりの将の動きに、これだけの反応があるのだ。アンダハという男が、兵たちに、いかに敬愛されていたかが分かる。

 だからこそ、静影は祈った。見つけられないことを。黒い風を追うのは、静影でなければならない。

「誰もおりません」

 覗き込んだ兵の報告を聞き、アンダハは手を払うような仕草をした。と同時に、兵士たちは、一斉に己の武器を収める。

 扉の外を確認した兵だけが、なんとも言えない顏で振り返った。

「あのう……回廊が……」

「あっ、ごめんなさい。それはその、わたくしたちが……だって、ジャイが言ったのに、広間には向導(あんない)できないって言うものだから……」

 銀花のうつむく姿は美しい。しかし、言う内容は恐ろしい。分けられた山になってしまった仲間を見ながら、兵士たちは外がどうなっているかを理解した。

「スゥグジェン、さあ……その愛らしい子を、母の元に帰してやりなさい」

 静まりかえった広間の中で、ピアグダンは微笑み、幼子を抱えて離さない老女の肩に手を置いた。

 はらはらと涙を流して惜しみつつも、スゥグジェンは、瑠璃からその母親に目を向けた。

 しかし、隙を見て奪い取ったのは、棠梨の怪、痩せ女の如き父親だった。

「瑠璃……瑠璃、瑠璃、会いたかったよ、瑠璃」

「お父さん、瑠璃もだよ。ずっと、会いたかった。でもね、でも来てくれるって、思ってたよ」

「ああ、このままクシを、地下界(ドルキンバ)に落とすまで呪ってやろうかと思っていたよ!」

 幼子の慕う様はともかく、痩せ女のせいで感動は半減である。

「シウン」

 聞かせるためでは、なかったのだろう。ピアグダンの声は呟きに近かった。

「おまえが良き伴侶と良き娘を得て、幸せになったことを喜ぶ……信じてくれないだろうが、我らの誰も、シャーン・アルースを罪人と考えたことはないのだ。だから、おまえがクシを捨てた時、最初からシウンという王子(ナーニー)など、いなかったことにすると決めた。忘れてやった方が良いと、我の権限でそうした。今、戻してやることもできるが……おまえは望むまい」

 (かたく)なに振り返らない父親に代わり、大きな青い目の少女が王を見上げる。

「美しい色だ……愛らしい姿に似合っている。だがこの色が、クシの女たちを不幸にした。もう、この色に因われるのは、止めよう」

(ボアナイ)? なにを考えているのですか!」

 ビアクタが悲鳴に似た叫びを上げた。

「まさか、ムドゥールを王太子(ナーアガー)に戻すのですか。彼には」

「継嗣を望めないのに、か? ビアクタよ……良いではないか。王は、王に生まれるのではなく、成るのだ。ロホンとセレウ、どちらかが相応しく成るまで、最も正しき後継であったムドゥールに、つないでもらおう。我らの年では、見守るだけで精いっぱいだ」

 王は王太子である弟を見て、頷いた。

クシの民(クシネー)に、ムドゥールの帰還を知らせよう。それから、王太子の譲位を行う。改めてアンダハの任命も必要だな。ロホン、セレウ、おまえたちも忙しくなるから覚悟しておけ」

 クシの習いの通り、ふたりの王子の返事は待たずに、ピアグダンはムドゥールを呼んだ。

「我らの愚かさを許してくれ、ムドゥール。ウルドゥルを殺し、オクトワも死なせてしまった」

「私はとうに許しているよ。叔父上は……オクトワ様は、結局、ウルドゥルを認めた。そして、彼を弔いなき魂(アレンキ)にしないために、私に生きてくれと仰った。それだけで、もう」

「そうか……そういうことか。あれほどおまえたちを()んだ男がな……ならば、我らも動かねばならぬ。この愚かさはおまえが、そしてその次の者たちが、薄めてくれると信じよう」

 大きくため息を吐いて、ピアグダンは軽く椅子を叩いた。

 謁見の終わりの合図であった。


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