表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
84/117

邂逅之二

 それを何者か、と問う者はいなかった。見れば分かる。激しい怒りに満ちた棠梨(トウリ)の女怪、痩せ女である。

 痩せ女を知らないクシの者は、悪い魂を持った霊(アンバーニ)と思ったに違いない。多くの者が、胸元で小さな守護聖像(スゥン)を握り締め、祈りを捧げている。

 唯一、痩せ女を見たことのあるロホンさえ、呆然としている。まして、他の者ともなれば。

(情分(きもち)は分かるわー……)

 あれが父親と分かっている韶華(ショウカ)でさえ、恐怖に似た驚きで、見つめることになっている。

 窓を開け放ち、枯れた両の手が突き出す痩身。吹き込む風に煽られ、灰色の長い髪は乱れに乱れて、憎しみを(たぎ)らせた片目しか見せることはない。(サル)ではないが、もし視線を合わせれば、百年(しょうがい)呪われることだろう。

 誰も動けない。なにをして良いのか、分からない。あれがなにを返して欲しいのか、ほとんどの者は知らないのだから。

(お父さん、来るの早すぎるよ!)

 攫った瑠璃(ルリ)を、クシの者自らが連れて来なければ、存在を認めさせることはできない。だから、それまでは待てと、決して動くなと言ったのだが。

 だが、この事態は考えて(しか)るべきだった。

 父親の張望(みはり)を任とするジャイが家に戻っているのである。残る子どもらに、止められるはずがなかったのだ。

「と、捕えよ……」

 声を絞り出したのは、ビアクタだった。誰に言ったのかはともかく、息子であるセレウが、動くことを期待したように聞こえた。

 武人が闖入者を捕えるのは当然。

 ではあるが、セレウは痩せ女が誰か理解できている。韶華をちらりと見て、アレかと問うていた。

(ええ、アレなんですよ……だけど、誰も分かんないのかな)

 史雲(シウン)が、シウンであることに。痩せ女にしか見えない怪しい男が、かつて、最も高貴なアイシラクトゥの血を引く王族であるという事実に。韶華の髪の色は、すぐに、あるひとを思い出させたというのに。

「捕えよと言っている、セレウ……! 王の御前であるぞ」

 セレウは、わざとためらう顏をしてみせた。悪いもの(オルチン)を、見なかった振りで厄払いするように。部下たちは祈るまではしなくても、すでに怯えきっている。動かない言い訳は、易しかった。

「瑠璃……瑠璃を……返せ、アンバー(あくま)!」

 痩せ女は、骨ばった指先をひとりに合わせた。

 ひとの視線が、ロホンに向く。

 それが父親の意図したものだったのか、韶華には分からない。愛しい季児(末っ子)を攫った男を、罵っただけかもしれない。

 けれど、ロホンがアンバーと呼ばれる理由は、見つめるひとびとの中に幾つも隠されていた。禁断の婚姻(セッカ)の結果、生まれた王子。母親さえも、セッカによって生まれたかもしれず、父親は碧眼でないばかりに、蔑ろにされた。

 悪い魂(アンバー)は悪いものに()く。侮った覚えのある者は、恨まれる覚えもあったのだ。

「アンバー……!」

「やはり、あれは呪われておるのだ……! ならば、どうして」

 ロホンを王位に()けられようか。

 伏せられて聞こえないはずの言葉が、韶華の耳に聞こえた。ロホンの苛立ちも、ビアクタの嘲笑、王太子(ナーアガー)の困惑と王太子妃(ナーエクトゥ)の震えも見えた。

 ヌクトゥベは痩せ女を見ながら、なんの反応も表さない。キアシムはといえば、

(あれ、いない……)

「恐れてはならぬ。あれは、アンバーではない」

 ピアグダンが、(ボアナイ)らしくひとびとを諌めた。

「なにか……宝玉かなにかを、取りに来たようだが……」

「王よ、きっとあれは、棠梨が招いたのです! あの香りで悪しき魂に憑かれた者(アンバーニ)を呼び出したに違いない。そんな招魂の術があると、聞いておりますぞ」

「我が香は、天の神が如き(かぐわ)しさを持つ幼い……ころより美しき女人に捧げられるもの! そのような術を仕込む工具(どうぐ)ではないのですッ! 陪席にありながら、礼を欠くような言は慎んで頂きたいッ」

 香を(けな)され、黙っている重明(チョウメイ)ではなかった。指先をビアクタに向け、クシの言葉で応酬した。悪口なら流利に(すらすらと)使えるようだ。

 韶華の背後で、静影(セイエイ)がいつ飛び出して迷于香(香オタク)を押さえるべきか、悩んでいるのが伝わる。その間にも、痩せ女はロホンだけを見つめ、じりじりと中央に近づいている。

(ええ、もう、どうにでもなれ)

 韶華は怯える使丁(めしつかい)から(香箱)を奪い、王に掲げて見せた。

「これは、棠梨の名望ある香試(調香師)が智慧を尽くし、作り上げた()き香です。クシを治める貴い御方が、最愛と思う御方に贈って頂ければ、我が一人(天子)(よろこ)びにも、通じましょう」

 アレは見なかったことにして、初めからやり直しましょう。

 韶華の渾身の重置(リセット)は、ピアグダンには通じた。王は貴族たちを目で制し、動けないヌクトゥベに、大仰に頷きかけた。執政官として儀を続けるのだ、と。

 だがヌクトゥベは、「シウン」と呟くだけだった、

「シウン? いや、まさか」

 ピアグダンの目が痩せ女に向こうとした瞬間、女の声が響いた。

「どうしてその香を受け取らないのですか、ロホン」

 側面の女たちが通る扉から、華やかに装った女がひとり、入ってきた。長い白髪に白玉を飾り、白い長衣もまた玉で飾りつけてある。王ピアグダンほどの真白さはないが、身に着けた薄い色は、高位にあることを誇るかのようだ。

 東側の最も上座にいた王太子妃(ナーエクトゥ)が息を呑んだ。

「スゥグジェン……!」

 韶華も息を呑み、同じように叫びたかった。

 老女は、片手に幼い少女を連れていた。


***



 韶華たち、棠梨の使節が謁見の間に入る頃、青い目をした幼い少女は、白い花の香りを楽しんでいた。

「瑠璃、知ってる。これ、棠梨の花だよ! 叔叔(おじちゃん)が咲かせたの?」

 (とき)は夏の盛りである。春の終わりに咲く花が、瑞々しい香りを放っているはずがないのは、子どもだって知っている。

 白い花卉(はなびら)をひらひらと幼子の上に捲きながら、男は笑った。

「ここは寒い国だからね。きみの知ってる(きせつ)より、少し遅れて咲くんだよ」

「そうなんだ。良い匂い……」

 懐かしさがあふれ、泣きそうになるが、幼子は匂いを吸い込み、我慢した。もう泣かないと決めているのだ。

 男はそれを知っているかのように、瑠璃の頭を撫でた。

「瑠璃、よく聞いて。これから、ぼくでは助けられないことがある。でも、担心(しんぱい)はしないでいいよ。みんな、きみの(そば)にいるから」

「う、ん……?」

 男は、幼子の鼻の上の花卉(はなびら)をつまみ、軽い息で吹き飛ばした。

 それが一瞬、消えたように見えて、瑠璃は目を(またた)かせた。

「さあ、もう迎えがくる。どうしても怖かったら、(こた)えなくていい。けれど忘れないで。きみは、ひとりではないから」

 頷くより先、いきなり大きな音がして扉が開いた。

 青い目の男かと身をこわばらせた瑠璃が見たのは、白で着飾った老女だった。

 いつかの地で会った老太婆(おばあさん)ではない。少し似ていると思ったのは、衣装が同じ形だったからだ。

 老女は目が悪いのか、忙しく部屋の中を見回している。

 椅子にぶつかりながらも、誰かを探す老女の姿を、瑠璃は言葉もなく見ていた。

 だが、老女の震える手の細さと、潤んだ目があまりに哀しそうで、瑠璃(じぶん)が姉を探す姿に重なった。

老大婆(おばあちゃん)、どうしたの?」

 小さく呼びかけると、老女ははっとして瑠璃を認めた。

「嗚呼、青い……目だわ。青い目をしている! 貴女が……貴女こそ……」

 老女が幼子の頬を両手で抱え込み、(くう)と、碧眼とを幾度も見返す。

 瑠璃は彼女の名を知らない。どんな刻を生きてきたかも知らない。生むことを望まれながら、叶わなかった碧眼の幼子を手にした女が、なにを恨んで、こんなことをしているのかも知らない。

 背後で男が、憐れなひとだと呟く。

 けれどそれは、違うような気がした。

「老大婆は、きっと……」

「さあ、来るのよ。わたくしのあの子が、全てを手にするために!」

 老いた女は幼い少女が痛がるのも構わず、腕を掴み、歩き出した。


***



「スゥグジェン……! そなたは廃妃(ブルエクトゥ)。座るべき椅子など、ここにはない! なにゆえ現れた」

 突如、広間に入ってきた老女に、真っ先に応じたのは王太子妃(ナーエクトゥ)ギリアだった。

 スゥグジェンは叫ぶギリアにちらりと視線を走らせ、(あざけ)る笑みを浮かべた。死せる女とも言われる廃妃と見なされようと、本来なら、王太子妃より高位にあるのだという笑いだ。

 ギリアを黙り込ませてから、スゥグジェンは、(かたわ)らの瑠璃に目を向けた。

(瑠璃……!)

 叫び出したくなるのを、韶華は必死に耐えた。

 久しぶりに見る幼い妹は、鮮やかなクシの子ども用の長衣を着て、頬の色艶も良く、痩せてもいない。

 小さな子がひとりでできると言い張って、結ったような髪には、韶華が渡してと頼んだ髪飾りがついている。通訳の男は、きちんと約束を果たしてくれたのだ。

 青い目を丸くしているのは怯えているというより、スゥグジェンとともに、注目を浴びるのに、驚いているだけのようだ。

 老女は(ボアナイ)に向かって微笑み、ゆったりとした一礼をすると、幼い少女の顏を上げさせた。

「見て下さいな、美しい碧眼でしょう。これこそ、高貴な血が為した宝よ」

「スゥグジェン……」

「ピアグダン。この場に、わたくしを呼ぶべきでしたわ。そうなれば、王太子妃(ナーエクトゥ)を慌てさせることもなかったのですもの。遠い国の帝が、わざわざ、わたくしたちに用意して下さった香……それは、いずれクシの王の妃(ボアエクトゥ)となる娘に、与えられるものでしょう。つまり、わたくしの血に連なる子の妃となる娘が、受け取るべきなんですから」

「妃……」

 誰もが黙る中、ロホンが祖母であるスウグジェンに寄り添った。碧眼の王子(ナーニー)が、青い目を持つ少女を妃に迎える意味は重い。

 貴族たちは、互いの様子を確かめるように目配せをした。誰がこれを知っていたか、誰がこれに(くみ)するか、見極めるために。

 ギリアには、貴族たちの姿がよく見えた。意外に多くの臣が、心を動かされている。碧眼の娘の存在は、それだけ大きな影響を及ぼすのだ。

「お……お待ちなさい! その少女が碧眼だとて、高貴な血が為したものとは、言えないのではなくて?」

「あら、この子が、アイシラクトゥの血を引く娘であることを疑うの。(ボアナイ)の印を持つ御子を持てなかったにも(かかわ)らず、王太子妃(ナーエクトゥ)に居座る方は、言うことが違うわね。フジュニ様は、そこに別の女を座らせるべきではないかしら。前王が、わたくしにしたように。もしそうなっていれば、ええ、正しく王の印を持つ御子が、得られたでしょうにねえ……!」

「黙りなさい! ロホンに王子(ナーニー)の位が与えられたのは、フジュニの許しがあってこそ。ロホンが誰を妃にしようと、次の王太子(ナーアガー)は……ムングルクトゥの血ではなく、フミエクトゥから選ばれなくてはならないのよ!」

「それは、セレウを認めるということ? ギリア、妾妃(ナーククウェ)の血による男を、孫と認めるのね?」

 妃たちの怒りは根深く、激しい。韶華たちが口を挟む隙もない。

 瑠璃を表に出すという策が成立したのだから、早く次の策に移らなければならないのに、激昂する女たちの間に入ることが、これほど難しいとは予想外であった。

 かつて棠梨の後宮でも、似たようなことはあったに違いない。しかし。

(なんか見てると心が傷む……! いっそ、搏鬥(とっくみあい)で決めて……!)

 その間に、さっさと瑠璃を抱えて逃げるから。もしくは、棠梨から闘士代表として淑英(ははおや)を推そう。

 いずれにせよ、瑠璃に触れるには、スゥグジェンが障害となっている。王からも近すぎて、突撃すれば即、クシへの攻撃と取られかねない。静影が動かないのも、セレウが動かないのも同じ理由だ。

(でもとりあえず、喋るだけなら……)

 かつん、と音を立てて、(香箱)を床に置く。音に誘われるように、困惑していた瑠璃が、ようやく韶華に目を止めた。

韶姉(ショウねえ)……っ!」

 韶華の元に声は届かなかったが、側に立つロホンには、聞こえたらしい。瑠璃の声と視線の向きを辿(たど)り、韶華に目を止める。

 碧眼の王族の幼子が姉と呼ぶ、艶のある焼栗色の髪をした少女。

 誰かと尋ねるまでもない。

「そうか……あれと同じく、取り返しに来たのか」

「待ちなさい」

 瑠璃に触れようとしたロホンの手を、細い杖が払った。

「キアシム! 王子である私に……武器を向けるか」

「アーシムジィをつけて頂きたいな、ロホン。それにこれは、目の見えない私には手のようなもの。王ピアグダンからも、携行を許されているよ」

 だが、韶華は覚えている。キアシムが広間から消える前は、杖など、持っていなかったことを。ひとの注意が外れた隙に、取りに戻ったのである。

「きみとスゥグジェンがなにを決めたにしても、まだ婚約も認められていない少女に、触れる無礼は許さない。彼には認めなかったとしても、私にはそれを言う権利があるのだよ」

 アイシラクトゥの正統な後継者は、アイシラクトゥの血を引く娘の保護者でもある。(あるじ)が認めなければ、婚約さえも成り立たない。クシの婚姻の習わしを引き合いに出すまでもない。

「キアシムよ……その碧眼の子は、真実、おまえの……」

「私のだ、ピアグダン!」

「お父さん!」

 父親に応え、瑠璃が叫ぶ。スゥグジェンに手を掴まれ、動けなくても声だけは届く。

 幼い少女が必死に手を延ばす先を見て、ひとの間に困惑を表すざわめきが、波のように広がった。たとえシウンという名を覚えていても、灰色の男の姿に、存在を消された王族を重ねた者はいなかった。

 怒りを滾らせた灰色の目、痩躯ばかりが目立つ、元美貌の闖入者。女官(じょかん)扮装(いしょう)が無用に似合うために、クシネーたちを混乱に陥れている。棠梨の民ならば、ああ痩せ女が出たなあ、と思うところである。

 スウグジェンなどは、瑠璃がお父さんと繰り返し呼ぶ声を聞いても、理解しがたい顏をしていた。

 ピアグダンは、痩せた女の如き男と、キアシムを見比べた。

「父……? この子がアイシラクトゥの血を持つなら、あれは……あれはシウン、なのか」

「娘を攫っておいて、妃だの勝手なことを言うな、下衆どもが! 暗い穴(キュウ)で互いに身を()み、呪われるがいい」

等一下(待って)猛然と(いきなり)息事寧人(おんびん)的解決を捨てないでー!」

 ひとりだけ全てを振り切った父親に対して、韶華のできることは、あまり残されていない。

 騒ぎを覚悟することと、ため息を吐くこと。クシの言葉で為される聞くに耐えない悪罵は、とりあえず瑠璃に意味が分からなければ良いという判断だろうが、止めて欲しいものである。

「シウン……なの?」

 小さな呻きが、王太子妃の口から洩れた。

 応じたのは、杖を収めたキアシムだった。

「ええ、ギリア。彼こそ我が姉イルガの息子……もうクシを祖国とはしない、あの娘たちの父親です」

「娘……たち、ですって?」

 ギリアとスウグジェンの驚きが重なる。この場には、瑠璃のほかに娘はひとりしかいない。

 視線を集めるのも構わず、韶華は次の動きのために、長い上衣を投げ捨てた。

 しなやかな少女の肢体と、濃い栗色の結い髪が軽やかに跳ねる。剣舞のよう動きが、ある遠いひとの面影を写し出した。

「私には見えませんが、王よ、見覚えがあるのではありませんか」

「ああ……そうだ。シャーン・アルース……!」

 感嘆と同時に、糾弾が起こった。

「王、それは罪人です! 王位簒奪を謀った大罪人。ために、息子であるシウンはクシから逃げたのだ! キアシム、あれを呼んだのは、おまえか。今度こそ王位を奪うつもりでいるのか!」

「ビアクタ、控えよ」

 王太子が慌てて止めるが、ギリアは夫を遮った。

「フジュニ様、これは陰謀です。王の血をフミエクトゥ(わたくしたち)から奪い、ムングルクトゥへ移すつもりなのです。そしてアイシラクトゥは……キアシムはロホンに碧眼の娘を妃として与え、堕ちた名誉を、なかったことにする気です! これが叛意でなくて、なんだというの」

 ギリアの後押しを待って、ビアクタはわざと大きく腕を振った。広間に、セレウの率いる将兵ではなく、兵士たちが駆け込んできた。

「シウンとキアシムを捕えよ!」

「ええっ? ちょっとロホンはいいの、ロホンは(ほう)っといて? ギリア様のお言葉によれば、直に王位を取ろうと思ってるのは、そこのムングルクトゥの王子(ナーニー)のようですけど!」

 韶華の指摘に、ビアクタは敵意を持って応じた。

「あれも捕えろ。この謀略に、棠梨の皇帝も加担している可能性がある」

「ビアクタ殿、なんという誤解を!」

 静影の鋭い声が飛ぶ。

「言っても無用(むだ)だよ、静影。これがきっと、そのひとの打算(よてい)だったんだね」

 動き出す兵たちから間を取り、韶華は走り出した。

「俺が行くまで待て、韶華!」

 静影の悲痛な声が響いた。近づこうにも、悲鳴を上げる香試たちに(たか)られ、動くことができないでいた。

不要担心(だいじょうぶ)! とりあえず瑠璃を返してもらうから! そうすれば、もう棠梨は係わらないって言えるしね」

「韶華、伏せなさい!」

 屈んだ韶華の上に、一閃がある。真横から殴られた兵士が、昏倒した。

 呪いでこんなことが、とちらりと横を見ると、父親の手には杖があった。どうやらキアシムから、投げてもらったらしい。

 唇が小さく動いている。キミノチチノモノダカラナレテイルダロウ。

「韶華、瑠璃を……」

「分かってる! 瑠璃、引くんじゃないの、押すの!」

 はっとした瑠璃は、スゥグジェンから引き離そうとしていた腕を押し返した。

 体勢を崩し、倒れる老女。幼子は、ごめんなさいと泣きそうな顏をするが、帰りたいという気持ちが勝った。

「連れて行くのは許さん」

 ロホンが長剣を抜く。王のために置かれた飾りに近い細さでも、姉に駆け寄ろう

とする瑠璃の足を止めるには充分だった。

 韶華は少し考え、爪杵的木棒(バールのようなもの)を構えた。どうしてそんなものを持っているのだ、という静影の視線を感じるが、準備というものである。

「連れては行かないですよ。迎えに来ただけなので」

「憎まれ口を叩く……しかも棠梨の民であるおまえが、異国の王子(ナーニー)に刃向かうというのか」

「刃じゃないんだけどね、これ。ってまあ、怒らせてもなんだから、率直に(さくっと)言うけど、わたしが誰か分かってないのは、王子でしょう。瑠璃を正統なアイシラクトゥの血と言うなら、忘れないで欲しいなあ? ふたりいる姉も、間違いなくお父さんと、正妃(バイエクトゥ)であるお母さんの子だってこと」

 正妃の言葉を聞いて、ロホンの顔色が変わった。言わなければ良かったと思っても、もう遅い。

 廃妃(ブルエクトゥ)となった祖母の恨みは、彼にも深く根付いている。傷つけるつもりはなかったが、韶華も苛立っていたのだ。

 ロホンの持つ細い光が、韶華に向かう。

 長剣(レイピア)、対するは爪杵的木棒(バールのようなもの)。質量としては、韶華に()があるはずなのだが。

 一閃、そして木棒の削れる音がした。

「韶姉!」

「だよねー。木じゃあ、不成(ダメ)かなーって思ってたんだけど」

 少なくとも、不意打ちであるべきだ。韶華は匪賊を模倣したことはあるが、武人ではない。

 剣先は鋭く、避けるだけで必死。ロホンの武人としての腕前は、悪くない。場所の狭さと、剣の長さの不調和に、助けられているだけだ。

 爪杵的木棒(バールのようなもの)を捨てて、速さを選ぶこともできるが、防御を手放すわけにはいかなかった。瑠璃を怯えさせないために、一滴の血さえ流してはならない。

(それに……このひとは)

 韶華の目にあるのは、静影の花招(もぎせん)撲面(まっこう)から受けた時のこと。それに比べると、なにかが緩い。

 ロホンは王子(ナーニー)らしい、礼に(のっと)った正しい武術を使う。戦いを重ね、練り上げられた武術とは違う。だから。

「ほらね」

 木棒を足許に投げ込む。武人が倒れまいとする。

 それは体幹の強さにだけ頼る、鍛えられた者の習い。その(あいだ)は決して、攻撃されないという驕り。(つか)を握る集中が、一瞬だけ途切れた。

 剣と幼子と、どちらかなら、取れる。

「おまえは子どもを助けろ」

「セレウ! なにを考えている!」

 ロホンの怒声の横をすり抜け、韶華は瑠璃を抱え、兵士に向かって飛んだ。

「さあ、瑠璃。家に帰ろうね」

「待ていがはッ」

 少女とはいえ、ふたりの勢いを腹に受けて、兵士が転がる。失われる意識が最後に聞いたのは、謝る気のないごめんなさあいという声だった。

「待て……」

 背後からロホンの声が韶華を追う。けれど、本体まではついてこない。

 ちらりと振り返ると、ふたつの冷たい刃の輝きが、ぶつかり合っていた。

「ロホン、諦めろ。碧眼の娘は、おまえが真実、得たいものじゃない。分かっているだろう!」

「分かりたくもない! おまえも考えたはずだ、揃ってさえいれば、こうも(さげす)まれずに済んだのに、母親の呪いを受けることもなかったと!」

 クシの継承問題は、さまざまひとを傷つけている。

 だが、韶華に彼らを止める方法はない。彼らの取り決めは、彼らにしか、変えられないのだ。

「韶華!」

 静影の声が、韶華を(うつつ)に引き戻した。騒ぎになったら収拾は静影に任せ、韶華たちは、晨風(シンプウ)の待つ場まで逃げる歩繁(てはず)になっている。

「瑠璃、走れるね?」

 幼い妹を下ろした韶華に、誰かが体当りした。

「この子は渡さないわ!」

「韶姉!」

 逆さになった世界を韶華の目が映す。スゥグジェンに抱えられ、遠くなる瑠璃の姿と、槍を構える兵士。

 韶華は起き上がろうとした。

 間に合うか分からない。けれど、もう一度世界を逆転させなければ、なにも為せない。

 飛び込んでくる灰色の影より先、兵士が韶華の前から真横に飛んで行った。

「あ?」

「ごめん下さい、わたしの愛児を返してもらいに来ました」

 兵士が左右に弾かれた間、ひとりの女が恥ずかしそうに言葉を発した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ