邂逅之一
都エルデンゲに、棠梨の使節が来てから七日。クシの民の中に、密やかにささやかれる噂があった。
「思わぬひとに出会えるとか……? 誰なんだろうな」
「オレは、還ってくるのだと聞いたぞ」
「それって、アイシラクトゥのソイラクタ様ではないよな? 後宮にお戻りになるとか?」
「お戻り下されば、あの女が偉そうな顏をすることもなくなろうが……ソイラクタ様がどうして」
「いや、キアシム師の元に戻るとかなんとか」
「待て待て、それは……まさか、正しきアイシラクトゥに王……」
「よせ、めったなことを言うな」
「けどなあ……青い目の御方を見たってやつも……いるんだぜ」
「なんだって? そんな……」
期待と願望とが錯綜し、噂は広がって行く。
いくつかの噂については、止めようと試みた貴族も、真偽を調べようとした貴族もいる。どちらも効果はなく、ただ、ひとびとの口にのぼる言葉が、泡のように消えて行くのを待しかなかった。
貴族たちにとって、気にすべきは別の話題――王宮でにわかに湧いた、次の王の妃に贈られる香という儀式に、対処しなければならなかったのである。
「王妃とはなあ……ピアグダン王は、どうお考えなのであろう」
「おかしいではないか。棠梨が贈るもので、王が決まると言わんばかりだ」
「まあ、それを抜きにしても、娘を王妃にしたい輩は多かろう」
「しかしロホン王子も、セレウ王子も、己の娘をあてがうには……悩む相手だ」
北の大国は、貴賤を問わず、誰もが浮ついていた。
***
「ピアグダン王、棠梨の使者より、香ができあがったとの報告が入りました」
老人は小さな筒を弄びつつ、侍従の足音ができるだけ早く、遠くなることを願った。
貴人は、下の者の言葉に応じてみせる必要はない。そんなクシの儀止を疑うことなく為してきた男も、誰かに問いかけてみたくなることはある。許されない行いをしてしまう前に、ひとりになりたかった。
「我も老いたものよ……」
手にした筒には、コリがもたらした封信が入っている。コリとは、クシの貴人が使う、使い鳥による連絡方法である。
だから、ピアグダンが受け取るものとしては、珍しくない。けれど、封信の紙に透かされた印は、忘れられない者が使う、そして、もういない者に与えられていたものだった。
それがムングルクトゥのコリによって、届けられた。その動かしがたい事実を、ピアグダンは受け入れるべきか、まだ悩んでいた。
「ピアグダン王、アイシラクトゥのソイラクタ様が入城致しました」
「おお、では早速呼んで……いや、疲れているだろう。我が会いに行くとしよう。西の間には……棠梨を迎えておったな。キアシムのところか」
「はい、アーシムジィ・キアシムが、お迎えになっております」
高貴な血を引くといっても、碧眼を生まなかった王女である。王が自ら行くと言うのを不思議に思うものの、侍従は口にしなかった。
ピアグダンは、王だけが使う橋を渡り、王族の住む回廊に入った。
王族は、本来治めるべき領地に居るので、フレイ城に住むといっても仮の間だけになる。
もっとも、キアシムは目が見えないために、成人して後宮を出たのちも、宮城に残っている。彼は生まれてから一度も、エルデンゲを離れたことがない。王族の中では、最も城に長く暮らす人物だろう。
だから、おそらく――
ピアグダンは足を止め、嘆息した。
なにを彼らに問うつもりであったのか。その答えは明らかではないだろうか。もし届けられたものが、真実ならば。
「王よ、どうなさいました」
「フジュニか……」
王太子であり、弟であるフジュニが、碧眼を丸くしてピアグダンを見ていた。
「もしや、ソイラクタに会いに? 私も久しぶりでしたので、会いに行ったのですが、かなり疲れているようなので、出直すことにしましたよ」
「そうか。では、我もまたにせねばな……」
弟には残念そうな顏をしてみせたが、会わずに済む理由を得て、ピアグダンは、ほっとした。
しかし、あっさりと引いたことに対し、フジュニが不審を露わにした。
「なにか話があったのでしょうに」
「いや、急ぐほどのものではない。昔を懐かしむ話なら、いくらでもあるが」
「それなら良いのですが……王がソイラクタに会うのを阻んだようで、気が咎めます」
「阻む、か……昔は、誰もがソイラクタに会いたがったものだなあ。おまえと彼女の話をしていると、年を取ったことが良く分かる。手も顏も皺だらけ、身体も思うようには動かず、腰も膝も痛い。なのに心だけは変わらない」
「全く」
フジュニが弟の顏に戻って笑う。
「兄上は王ですから、大病をしてもらっては困りますが、我らの皺だらけの顏に艶があったなど、信じてくれる者はおりますまい。ソイラクタも、アイシラクトゥからエルデンゲまでを長旅に感じるほどに、老いたのですね」
「ああ……ソイラクタには、辛い旅だったろう。それから、おまえにも。我とは違い、まだ旅は続くのだ」
「そんなことを仰らないで下さい……」
兄は弟を哀しげな目で見つめた。
「フジュニよ。我らから見れば、棠梨の帝も、まだまだ若い。それでも後妃を迎えるとは、驚きであった。おそらく、来るべき騒乱を収める自信があるうちに、為したかったのであろう。我らもまだ動けるうちに、引き渡すべきではないか?」
「あ……兄上、それは棠梨の使者殿の言葉を、真にするというのですか」
「さて、真になれば良いが」
言って、ピアグダンは弟の肩に手を置いた。
「今は戻ろう。そして……先へ行こう」
棠梨との二度目の謁見が決まったのは、そのすぐあとだった。
***
ある意味、韶華には考えが足りなかった。謁見に際して、どんな衣装を着るのか、考えていなかったのである。
はっきり言えば、白壁を黒衣で越える男を笑えない。
後宮に呼ばれた時と同じ、短衣に脛衣で済ませたものの、やはりそれだけではと思い、帯を更紗に変えて華やかにした。
なのに迎えにきたジャイから、思いっきり作法不当を喰らってしまった。
「裙裳……いえ、袍衫で装いましょう。暴れるわけじゃないんですよね? 香試の副手ではありますけども、やはりここは、女官と考えなくては……老師だって、小妹の華飾を見たいでしょう?」
「自尊したい……でも見せたくない……見せてやるものか……お父さんは、そのままで良いと思うよ」
化装のために持ってきていた女官の衫を握り締め、痩せ女が悶える。その横で、ジャイは諦めることなく、そんな勧めて下さいよ老師と叩頭している。
ふたりの隙をついて、韶華はそろりと部屋を抜け出した。
ジャイの言い分も分からないでもない。他国の王の御前に、棠梨の代表として出るのである。正しく装うべきではあるだろう。
しかし、納女考試で沙棠宮に香を持って行った時とは、目的が違う。拐かされた妹を、迎えに行くためなのだ。
(まあでも……ジャイさん、鋭いなっ)
謁見の場で、使者が暴れ出す可能性など、通常ならば考えない。けれどそれは、とても正しい。
拐子魔に向かって、瑠璃はうちの子なので返してもらいます、と言うだけで済むはずがないのである。
韶華とて暴れたくはないが暴れることになるのではないか、と思っているからこそ、ずるずると長い裳を引きずった姿でいようとは思わないのだ、が。
「我らと揃えて下さい」
香にしか興味がないはずの香試らが、韶華に極了作法不当と申し立てた。
「揃えるって、わたし官吏じゃないんですけど。後宮の香とは違って、王先生が渡すんでしょう? 末端に居させてくれるだけで良い……」
「調和が乱れます。我らと同じ、羅綾の衫衣を」
縦に列を作り、順に手をひらひらとさせる香試は、前から見ると、千の手を持つかのように見える。美しい動きかもしれないが、それが香の才能になんの係わりがあるのか。
(まさか、あってもなくても、これに加われと……!)
助けを求め、静影を探すが、武人は武人で準備があるらしく、部屋にはいなかった。どういうわけか重明もおらず、居るのは、隅で語り合う子どもがふたり。
「あの動き、オレたちにもできるかな」
「できる……と思うけど、やってどうするの。それに今考えるべきは、ぼくたちもあれを着れば、ついて行けるかもってことだよ」
結局、韶華は衫衣を身に着けた。残る一件のこれを着なければ、景景か永児が着て謁見に行くと言い出しかねなかったからだ。
副手ということで裲襠と裳は省き、脛衣そのままにした。香試というより、武人に近い扮装である。
「まあ、いいか……ゆるめだから、小筒も隠せるし」
「準備は済ませたな。さあ、行くぞッ」
幹気も甚だしく、重明が入ってきた。迷于香であっても、同事からの信頼はあるようで、香試たちの表情も引き締まった。
「じゃあ、韶姉。瑠璃を無事に連れてきてね」
「必ず」
廊下には、匳を乗せた托盤を掲げ、使丁が待っていた。献上香を持つのはジャイと聞いていたので、韶華は首を傾げた。
「ジャイさんは……口訳は連れて行かないの?」
「老家より口信が入ったとかで、急ぎ戻っている。語言ならば、流利ではないが、私で充分だ。足りぬところは、香試副手ができるであろう」
「そうなんだ。なにがあったんだろう……悪いことじゃないといいけど」
「変事ではないな。嬉しそうだったぞ」
「良かった」
重明に急かされ、韶華は香試たちの列の後ろに並んだ。
やがてクシの侍従が、数人の棠梨の武人とともにやって来た。香試たちを護衛する者以外の武人は、西回廊から城内に渡る橋の前で、待っているという。
静影とは、そこで合流することができたが、晨風はいなかった。禁軍という料を捨てたわけではないので、南衙軍に混じるわけにはいかないのだ。
香試たちが、公事で着る大袖の衫で装っているように、静影も左領左右府将軍としての装いを凝らしていた。
将帥のための飾りを施された袍に、短い袖のついた裲襠を合わせており、どちらも武人らしく、長さはあまりない。下から白練の裙をひらりと覗かせ、華やかさを出すが、脛衣で足さばきは確保されていた。納女考試の場で見た、白い絹甲とは異なる淡雅な姿だ。
烏皮靴ではなく、慣れた靴を履いているのは、静影も、謁見の行き先が不穏なものになるかもしれないと思っているのだろう。
(これで、もう少し数落ばかりの膠固でなければ、吃香だと思うんだけどなあ)
静影の顏の横に、情史で見るような導言を置いてみる。もう、おまえを離しはしない!
武侠雑誌の煽り語句に思えるのは、どういうわけだろうか。
なにを感じ取ったのか、紫石の双眸が、ちらりと韶華を見た。
「棠梨の使者殿が入室してございます」
侍従の声が響くのを幸いに、韶華は慌てて目を逸した。
もう気を散らしてはいけない。後宮の妃たちは韶華の髪を見ても、なにも思わなかったようだが、男たちはどうも、そうではないらしい。必要な時まで、醒目しないようにしなければならない。
まずは重明が広間に入る。それから武人に囲まれた香を持った使丁。韶華は、ぞろぞろと続く香試たちの末、静影ら武人の前に入った。
大きな円形の広間に、扇の形に広がって貴族たちが控えている。韶華たちが入ると同時に、彼らは扇を合上するかの如く、西側に避け、最奥の扇軸にいる王までの間を空けた。
貴族たちの全てが西側に寄ったわけではなく、幾人かの女性が東側に残されている。彼女たちは、奥に座る妃たちのための女官だろう。クシでは、男女の席が東西に分かれているのだ。
妃たち、それから王族が座る中央で、王ピアグダンがどこにいるのかは、一目で分かる。
棠梨の皇帝と違って、階の上にはいないが、王の足許にだけ、敷物があった。
毛足の長い敷物は治世を誇り、宝玉で飾られた椅子は権威を表す。全て白い衣装に身を包むのは、穢すものがないという意味でもある。
クシの貴族たちの視線を受けながら、韶華はクシの王宮というものを、改めて確かめることになった。
それは、父親の語る昔日より鮮やかなもの。書籍で知っただけの遠い世界ではなく、真実、目の前にあるものだ。
広間にいる男の王族のうち、韶華が会ったことのあるのは、セレウとヌクトゥベだけだ。セレウは武人として端に控えており、第一執政官のヌクトゥベは、重明を迎えるために、前に出ている。
王と王太子フジュニを除けば、セレウの父ビアクタと、声だけ聞いたロホン、そして韶華の父親の叔父キアシムが椅子に座っている。
彼らを見分けるのは、たやすい。目の見えない金髪の男は、韶華の父親を思わせずにはいられない。そして、セレウとそう変わらない年齢の男が、ロホンなのは間違いないし、残るはビアクタ――セレウには、あまり似ていなかった。
(あれがロホン……)
髪の色は意外に濃く、琥珀のようだ。しかし目の青さは、今まで見た誰よりも薄い。
容貌の印象は、拐子魔と思っているためか、脳内拍売にて減価されること甚だしい。まあ見られないこともないかなと認めてもいいかもしれない、という辺りで一落限制。値が残っただけ良として欲しいものである。
「……にて申し上げます。改めて、クシの語言で繰り返しますれば……香試副手」
はあ? と、韶華が間の抜けた声を上げずに済んだのは、奇跡に近かった。
使丁が托盤を掲げたまま一歩下がり、重明が振り向くまでの僅かな時が、恍惚としていた韶華の立て直す間となった。
(クシの言? いや、クシのって、わたしが口訳するのっ? 王先生、自身でできるって言……)
できるとまでは言っていない。元より足りないところは、頼る打算でいたのである。
重明がここへ来いと身振りで示す。いかなくてはいけないのか。否、いかなくてはならない。なにやら、女人の席で動きがある。肩を揺らした女官の顏は、忘れもしない、あの後宮の一句話女だ。
(あれにやらせるくらいなら、やるよ!)
韶華は重明の脇に控え、拝礼した。とりあえず、それらしい挨拶を述べるしかなかった。
「北を統べるクシの王に、ご挨拶を申し上げます……」
あらゆる定型文を思い浮かべ、あまりの数に悩む。間を置いてはいけないと思うほどに、重明の圧が高まる。
逃れるように視線を泳がせ、目を伏せた男の唇に、ほんの僅か、動きがあるのに気づいた。トウリノイチジンノケイガニサイシテ。
「……棠梨の一人の慶賀に際して、クシの王より佳き御言葉を頂き、真に喜びにたえません。極上の香を以って礼に伺うも、望外の歓迎を受け、いかなる恩を返さざると、新たに香を調合し……」
満足げな重明を見ると、正しく通訳できているようだ。唇を動かすキアシムに、心の中でありがとうと呟いた。
さらに言えば、キアシムは作弊させてくれているだけでなく、クシの美辞に変えてもいる。でなければ、韶華が字典で見ただけの『過賞の嫌いがある』などという言葉を、発したりはできない。
けれどそれは不自然でもある。使うも初めての言葉を口にしながら、韶華はあることに気づいた。
顏を伏せて聞き入っているけれど、クシの貴族たちは、明らかに焦れている。
つまりキアシムは、韶華に引き延ばしをさせているのだ。
元より長い辞である。それをさらに飾り、ただ聞かせる。謁見の目的を知らされている貴族たちが、静かに待てるはずがなかった。
誰が初めに、それを露わにするのか。おそらく、クシの次の王位に最も興味を示す者となるだろう。
キアシムの狙いは、そこにあるのだ。
韶華は献上する香についての称讃を加え、挨拶をさらに引き延ばし始めた。
そしてそれは、やってきた。全く思わぬ方向から。
「私の……瑠璃を……返せ!」
広間の窓から、痩せ女が降臨した。




