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各色名堂之三

 ()家の季児(末っ子)奪還に関して、韶華(ショウカ)の唯一の懸念は、瑠璃(ルリ)という子どもを手に入れた者が、クシの(ボアナイ)であるという言い訳を、クシの民(クシネー)が信じてしまうことだ。

 (ちまた)に売られている官能小説を、王宮の醜聞の真実と信じ込むようなひとびとである。いともたやすく、瑠璃の夫こそ、すなわちクシ王、と決めつけそうだ。

 そしてまた、もうひとつ。

「韶華。(かどわ)かした子を表に引っ張り出す理由が必要なのは、俺も認めるが、王位にまで言及するのは……やはり不妙(マズい)だろう。おまえも瑠璃も、棠梨(トウリ)の皇帝の義妹だ。重明(チョウメイ)が、クシの王にあの子の存在を認めさせたら、取り戻すというより、旅游(観光)で来たということにして、回家(きたく)させてもらえ。おまえは……踏み込むな」

 武人の膠固(ガンコ)さが、正当で穏健な策を取らせようと数落(せっきょう)してくる。

 それが、棠梨に仕える官吏としての言葉ではなく、事が上手く行かなかった場合を考えての思いやりなのは、紫石の双眸の中にはっきりと(あらわ)れている。

 静影(セイエイ)は、危ないことをするのは、武人の自分だけで良いと思っているのだ。

 韶華は部屋に誰もいなくなっているのを確かめ、(うれ)う紫石を見上げた。

多半(たぶん)だけど、静影が思うほど、踏み込んだ後果にはならないと思う。わたしの言うクシの王位を決める法子(ほうほう)は、ただの先延ばしだから。瑠璃は、妃にするには幼いすぎる。ロホンとセレウが……別の妃を得た方が早いって、貴族たちだって、分かるはず」

「ああ、そういうことか」

 今のクシの王族に、全ての条件を満たす者はいないかもしれないが、碧眼のふたりの王子が、妃を得、子を得たなら、『碧眼の父親が碧眼の息子が持っている』という条件が成る。

「瑠璃より条件の劣る児女(むすめ)だとしても、あの子を妃にするより、正しく、そして早く碧眼の息子を持てるわけだな」

「ていうか、あのひとたち、酬応し(つきあっ)てる美人(カノジョ)とかいないのかな。あれか、お父さんたちがうるさい?」

「難は、老太婆(祖母)であるスゥグジェン妃と、ギリア王太子妃だろう」

「ああ、そうか……クシの女人なら、自身(じぶん)が苦しんだだけ、息子には正当な妻をと思うよね……」

「おそらくな」

「でもなあ……ロホンもセレウも、わりといい年齢だよね。もっと早くから光棍(ひとりみ)担心(しんぱい)して、さっさと愛人(おくさん)を見つけるべきだったんでは?」

「そうかもな……」

 武人の声が、泥でも混ぜたように濁っているのに、韶華は気づかなかった。

 代わりに、あっと声を上げる。晨風(シンプウ)が、ひどく戸惑った顏をして、戻ってきていた。

晨晨(シンシン)、どうしたの。遅かったね。もしかして、子どもたちが麻雑(めいわく)をかけた?」

「いいえ、景景(ケイケイ)永児(エイジ)も良い子ですよ……そうではなくて、あの……」

「なにかあったのか」

「いえ、あの……アイシラクトゥのシウンがここに来ていることを……知っているひとがいます。それで、会いたいと……だけど」

 韶華と静影の表情に、さっと影が差した。

 韶華の父親、史雲(シウン)が誰かを知っている者は少なくないが、ここに居ることを知っている者は多くないのだ。

「誰なの?」

「それは、会ったら分かると。でも、あの痩せ女を見て、彼らこそ、分かるとは思えないんですけど」

 彼ら。複数の人物という事実に、韶華は黙り込んだ。と同時に、晨風の困った様も理解できた。

 邂逅の場が目に浮かんでしまう。柱に身を寄せる痩せ女の暗い眼底に気圧され、かつての姿を思い比べつつ、震えるひとが。こんなのは違うと叫ぶひとの声が。

「えーっと……それって、わたしが会うのじゃ、不成(だめ)?」

「いいえ。ぼくも訊いたんです。彼に会わせるのは難しいので、その、経管(せわにん)でいいですかって」

「経管……うん、まあ、経管……ここに来て、してることって経管だけど……」

 韶華を娘と明らかにしたくなかった晨風の策であろうが、相手には、なにか違うものを想像させるような気がした。

「まあ、いいや。それで、どこに居るの」

向導(あんない)します」

 待ち人は、エルデンゲの街中にいるということだった。


***



 クシに着いてから、韶華が城の外に出るのは、初めてになる。

 というより、使節として来た者たちは、誰も街に出ていない。外出が禁じられていたわけではないが、間諜(スパイ)を疑われないためにはクシの許可が必要になるので、誰も出られなかったのである。

 とはいえ、探求心に支配された香試(調香師)のうち、幾人かは脱出を試み、静影ら防護の武人たちに阻止されている。

「おまえの城内図があったから、なんとかできたようなものだ」

「そういう中用(おやくだち)を望んでたんじゃないけどね。よその国に居るって、分かっているのかな、あのひとたちは」

「分かっているから、出ようとするのではないでしょうか……」

 ふたりの先頭を行く晨風が、口袋(ポケット)を撫でながら言った。

 そこにしまわれているのは小さな符だ。外濠を通るために、晨風に預けられたものである。

 クシの門番たちは、それを見るなり、驚くほどすんなりと韶華たちを通した。

「それさ……王先生(さん)に見つからないうちに、そのひとたちに返しといてね」

「ええ、そのつもりです。でも、なんの印か気にならないんですか?」

 気にならないといえば嘘になるが、これから会う者に訊けばいいだろうと思っている。

 けれど、予想できないものではない。それは、クシの使節が掲げていた紋章に、良く似ていた。

「誰か分からないけど、貴族でしょ。王先生が、麻煩(めんどう)をかけないようにしないと。それで街に入られたら、なにが起こるか……」

 棠梨では、ちょっとした知名度を持つ変態だが、クシのひとびとにまで迷于香(香オタク)と知らしめるのは、国の名誉にかかわる。

 静影が、諦めたように首を横に振った。

「その符を見せようと見せまいと、あいつの上街(がいしゅつ)は、認めざるを得まい」

「え、なんで。瑠璃を見つけたから?」

「そうだ。便宜な(やすい)願いだと思うぞ……天地の終結(おわり)まで、重明(チョウメイ)に感謝の言を述べたいか?」

「それは……ちょっと……」

 大迷香神廟の中で、王重明の(ひとがた)を拝むひとびとの姿を思い浮かべ、韶華は冷戦(みぶるい)した。おそらく、幼子の唾液を納めれば、家内(いえのなか)の臭気を抜く答応(ごりやく)がある。

「もっと正統な答応が欲しいよ……」

「なにを言っているんだ、韶華」

「あっ、あの(みせ)です。お茶でも飲んで、待っているようにと」

 晨風は、薄い翠色の篇額がある建物を指さした。

 酒楼に見えたが、茶楼らしい。篇額(かんばん)にはクシの言葉で、冬の森(トゥ・プルゥン)と書かれている。

「お茶かあ……クシでも、お茶を飲むんだね。ちょっと楽しみ」

「クシまでの半路(道中)では、急ぐために、あまり水井(みずば)に寄りませんでしたからね」

「ああ、それでかあ……クシに入ってからは、乳酒か、草花の煎じ湯ばかりだったから、お茶はないものと思ってたよ。あれはあれで、良いんだけどさ」

 店頭の訂単(メニュー)をちらりと見たところ、決して安くはないが、高価すぎるということもない。

 韶華は足取りも軽く、中に入った。

「やあ、西の方」

 男が杯を上げて、韶華を呼んだ。

 背筋の伸びた姿勢は、おそらく武人。長い旅をして来たためか、クシの民(クシネー)にしては珍しく、黄砂をまぶしたような銀色の髪を短くしている。

 韶華が晨風を見ると、小さな頷きが返ってきた。会いたいと言った者に間違いはないようだ。

 男に同じ卓子(テーブル)の向かいの席を示され、韶華は誘われるまま座った。

「ここのお勧めは、花茶だよ。慣れていないと、少し苦いかもしれないけどね。私の名は、聞いているかな?」

 そういえば、聞いてない。と、晨風が横で慌てているのが分かった。忘れていた

らしい。

「まあ、改めて名乗るさ。もうひとり、来たらね」

 そう言って、男は笑った。

 小さな笑窩(えくぼ)ができて、とても自然に、するりとひとの緊張を解く顔だった。

 思い出すのは弄月(ロウゲツ)――年齢から言えば、もう少し上といったところだが、優雅な儀止(ふるまい)が、育ちの良さを表している。

 拝礼(あいさつ)も抜いて、韶華は尋ねた。

「わたしの髪、そんなに珍しいですか?」

 男の視線が、ずっと韶華の髪にあった。見知らぬ少女の顏を見るのが、礼を欠くという配慮だったとしても、見つめすぎである。

「西方では、そうでもないよ。ただ、この地で見ると、どうしても懐かしい友を思い出してしまう。なにより声が……とても私の心に響く。あれは男だから、小妹(おじょうさん)のように、軽やかな音ではないけれどね。ああ、来た」

(てんしゅ)、花茶をふたりに。アムタ(お菓子)も添えて。私と彼には、白酒を頼む」

 遅れて来た男が、彼と示したのは静影だった。

 知らぬ者と会うとなれば、なにが起こるか分からない。いざという時のために、静影は、別の客の振りをして離れて座っていたのだ。

 もっとも、クシネーだらけの店の内では、紫石の(するどい)双眸を巡らせる武人は目立つこと、この上ない。無用な努力はしなくていいと韶華も言ったのだが、膠固すぎる(融通のきかない)武人は譲らなかった。

 新たに来た男は、静影の前を己の席と決め、ゆるりと座った。

 扮装(いしょう)だけなら棠梨の者――男たちが斜里(いろざと)に隠れて来る時のように、頭を綵帛(スカーフ)で被い、地味な袗衣(長衣)を着ている。けれど、綵帛からは、クシの男特有の尖った鼻が覗いている。そして。

(このひと……!)

 初めて会う者では、なかった。白英(ハクエイ)の酒楼で、胡椒の包子を勧めた男である。顏を半ば隠しているから分かりにくいが、青い目も、声も変えられない。

 静影も気づき、驚きの目で碧眼の男を見た。

「やあ、まさか……きみが、そうだとはね。懐かしいと思うわけだ」

 あの時、褐色だった髪は、今は明るい麦穂の色をしている。クシネーと思われないように、染めていたのだろう。韶華がかつて感じた不自然は、産毛の髪の色との差だったのだ。

 銀髪の男が、晨風から小さな符を受け取り、微かな笑みを浮かべた。

「あとでキアシムに感謝しなければな。私の符でも良かったのだが、見た者によっては、困るかもしれないと思ってね。ある部分で、正しかったようだ。まさか小妹(きみ)が……あの子の娘とはね」

「あの子……ですか」

 男は符をしまい、韶華を見つめた。

「さて、きみたちはクシの語言(ことば)ができるようだけど、ここでは棠梨の言を使うよ。私は、安打巴(アンダーバー)。まあ、音としてはアンダハかな。彼は」

「天の龍? それとも神奇?」

 ムドゥール。ウルドゥル。

 たとえ音だけでも、クシネーならば分かってしまうから、韶華は、棠梨の言葉で翻訳した。

 男は運ばれてきた白酒を掲げ、少女に微笑みを返した。

「きみのその声で、名を呼ばれてみたかったが……天龍(ティエンロン)という音は美しいね。これからは、そう名乗ろうかな」

 天龍、すなわちムドゥールは、ヌクトゥベの弟で、ロホンの叔父に当たる。獄死と言われていたが、なんらかの手段によって、クシから逃れたらしい。

 韶華の信じがたい心を、ムドゥールは軽い頷きで認めた。

古怪(ふしぎ)だと私も思うよ。だが、死を願うひとと同じくらい、生きることを願ってくれたひとがいた。だから私は、ここには戻れなくとも、係われないとしても、生き延びることを選んだのさ」

「では、どうして杜家の主には、係わろうとするのですか」

 静影が低く尋ねた。

開首(さいしょ)は、そんなこと考えもしなかったよ。あの子がどこに消えたのか、私は知らなかったしね。ただ……北の怪が、碧玉のように愛らしい幼子を攫ったという風聞が流れてきて、まさかと思った」

 碧眼の価値を知る者なら、それがなにを意味するか、分からないはずがない。

「そして白英で、きみに出会った」

「あれからずっと、追ってきてたんですか?」

去路(行きさき)が分かっているから、追う必要はなかったよ。長く離れていても、私はきみたちより、クシに詳しいからね。それと……(みせ)界隈(ちかく)で見かけた時は気にしなかったけれど、私たちと同じ路程(ルート)を使った黒衣の武人……きみは彼を、知っているね」

 きみと呼ばれて怒りもせず、静影は頷いた。

「武人としては能手(うできき)だと思うが、なぜ黒衣で来たのか。醒目(めだつ)だろうに」

「よく言われます……」

 ムドゥールの心底、不思議そうな顔からすると、黒衣が隠密活動に向いていないのは、クシに住む者なら誰でも考えることのようだ。

「静影、黒風(コクフウ)が来てるの、あの時に覚察し(気づい)たんだね。猛然と(いきなり)包子のこと言い出すのは、古怪(へん)だなあと思ったんだけど」

認錯(みまちがい)だと思いたかったんだが」

「どうした、晨晨(シンシン)、ではなくて晨風……」

 アンダハは、お菓子(アムタ)をつまもうとした指を止め、対面に坐す少年を見つめた。

 微かに身体を震わせ、うつむいている。その顏が見えなくても、ひどく思い詰めた様子なのは、明らかだった。

「将軍、黒風が来ているのを、知っていらしたんですね」

 晨風の口から、震える声が微かに洩れた。

「じゃあ、あのひとが禁軍の(しごと)で来ているのは……分かっているんですよね。それが一人(天子)の勅命ではあり得ないことも、瑠璃の存在をクシに知らせたのが、あのひとだということも……」

「ん? 射刃(セレウ)王子に伝えたのが、黒風なのは見たじゃない」

「その王子ではない、王子の……父にも、ですっ」

 つまり、と韶華が考える間に、静影の紫石(するどい目)査牙(けわ)しさが増した。同時にアンダハとムドゥールの表情も消える。

 禁軍という言葉の意味は、クシの者にも理解できる。皇帝の勅命だけを受けて、動く武人だ。

 だが、晨風の言葉は、明らかに禁軍が皇帝に反する動きを為し、クシのために動いていると示している。

(ほう)っておけなくなったな、友よ」

 アンダハは、まるでアムタの味を評価するような言い方をして、笑った。

「おまえが戻ると言った時から、こんなことになる気がしていた。おまえは天龍(ムドゥール)だから……クシを乱す魔物(アンバー)を見逃せないのさ。それが、向こうの火の主(ポジャ)に応じたものであってもな。まして、あの子の父を死なせておいて、その子どもたちを利用するのならば……」

「残り火は、起こした我が手で消さねばなるまい」

 周囲のどの卓子(テーブル)からも、香味(スパイス)()いた茶の匂いがただよう。茶器を囲み、身振り手振りを添えてお喋りに興じる客たちは、心からこの場を楽しんでいる。

 そんな中で深刻な顏をすれば、なにごとかと目を引くに違いない。アンダハの演技に応じて、ムドゥールも、白酒を一気に呑み干し、酔客を装った。

「瑠璃……瑠璃か。愛らしい姿が、思い浮かぶ名だ。あの子は、幺弟(末弟)のようなものだった。クシに居るよりもずっと、()い日を過ごせたのだと知れて、嬉しいよ……きみ、晨風といったね?」

「えっ……はい」

「きみのこちらでの苦しみは、我らが責を取る。だが、あの白い花の名を持つ国での苦しみは」

ふと、青い目が韶華を見、いたずらっぽく笑った。

「この怜悧な小妹(おじょうさん)配合(きょうりょく)があれば、きっと処理できるよ。棠梨に混じり、あのひとの血が、より強くなるなんて、思わなかった。小さな妹のために、殊方にまで来てしまうんだからね。それにしても……経管(おめつけやく)と言われると、あの子がどんな暮らしをしていたのか、目に浮かぶようだよ」

「ええ……まあ、楽しくやってます」

 彼の記憶では、棠梨の痩せ女は少年のままであるらしい。真実を告げる日が、できるだけ先であることを願う。

 アンダハも懐かしむ目をしながら、韶華を見つめた。

「真に、それだけは良かったと思う。シウンが、生きることを楽しいと思っていると知れて。痩せ女っていうのは、よく分からないけどね」

「ああええと……」

 うろたえる棠梨の面々のために、アンダハは話題を変えねばならなかった。

「さて、どうする打算だ、天龍よ」

「まずは小妹の策を聞こう。どんな配合(きょうりょく)を頼まれても、否とは言わぬよ」

「えっ、いいんですか……(やったあ)! このお茶、良い匂い。姜粉(ジンジャー)丁香(クローブ)かな」

認真(ほんき)ですか……?」

 なにをさせるか、思案を始めた韶華の横で、静影がささやく。

「私に失うものはないんだよ。あの澄んだ声がより(あか)らかになって、再び現れたように、(めぐ)し子を救うため、深淵から少しだけ灯りを(とも)してみせても構うまい。私はきっと、そのために生き残ったのだから」

 地に堕ちて、なおも生き延びてしまった天の龍は、静かに青い目を輝かせ、笑ってみせた。


***



 それは実に恐るべき鼻であった。

「匂うぞ、龍眼(リュウガン)が!」

 部屋に入るなり、鼻先を近づけてきた変態から、逃げる間もなく韶華たちの外出は露見した。

 晨風にまとわりつく重明の後ろでは、香試(調香師)たちが鼻先を(くう)に向け、ふんふんと解析を始めていた。

「や、止めて下さい」

「動くな。これは……覚えがあるな。どこでだったか……」

(オウ)香試、主な成分は茶ですね。姜粉(ジンジャー)、それに……相応(それなり)の、よくある香料が占めております」

「お尋ねしますけど、わたしたちが不在の間にあったと思われる謁見は、無事に済ませましたよね?」

「ううむ、丁香(クローブ)は、我が棠梨より良い(もの)を使っているようですな。クシは、西方の良い香商とつながっていると聞きますが、羨ましいことです」

「聞いてます? わたしが頼んだこと、どうなったんですか?」

「ん? 白酒は、おまえか。静影。花生(ピーナツ)を食したようだが、やはり龍眼の香りがする……ああそうか。会った者のものか。おまえの使う香ではないからな」

「重明……」

 げんなりしながら、静影は重明の鼻先が近づくのを阻止した。

 膠固な(おカタい)武人に秘密はないとしても、香試の前では、うっかり密会もできなさそうである。

「とりあえず王先生、晨晨を嗅ぐのはあとにして、報告して下さい」

()かせるばかりの愚人(おろかもの)よ、まずは私の問いに答えよ! 白英にて遭遇した者に、なにを請客し(おごっ)てもらったのだ。狡いではないかッ。城を出られるなら、どうして私を連れて行かぬのだッ」

「だって王先生、謁見の(ようじ)があるし」

 街中でなにをするか、分からないし。

 白英の都で会った者の匂いまで嗅ぎ取れるのが、怖いし。

 直率に(しょうじき)言って、令人不快的(キモい)

 言いたいことも言えず、目を逸す韶華の肩を揺らしつつ、迷于香(香オタク)は狡い狡いと叫び出した。

(よせ)、重明。でないと」

 静影が止めるより先、枯れた枝のような細い指が、重明に取りついた。

「韶華から……手を離せ……離さないと……呪いを増やす……」

「痩せ女が、痩せ女が現れましたぞ、クシにまで! あな恐ろしや……!」

「怯えるでないッ。妖の匂いなど、そうそう嗅げるものではないのだから、遭遇を喜べ! うむ、妖に墨の匂いがするとは驚きだ……呪符を自制(じさく)するのだろうか」

老師(せんせい)は呪符など、書いておりませんよ。ああ、早く続きを」

「もういいから、重明だけここに残れ」

 静影の一喝ののち、ジャイが父親を連れて行き、香試たちが香料を置いた倉庫代わりの部屋に引っ込むと、ようやく静かになった。

 もっとも、静かになると、さらに別のことが気になった。

「景景と永児は、いるよね?」

「ぼくが見てきます」

 よほど重明から離れたかったのか、晨風が、さっと部屋を飛び出す。彼が聞いている必要はないので、静影も韶華も止めなかった。

「というわけで、王先生……奉告(コメント)

「全く……おまえたちは、私を理解しておらぬなッ。私とて、天明(よあけ)を凌ぐ陸離(かがやかし)さを持つ華英なる幼子を、クシの手より取り戻さねばならぬと思っている。我が一人(いちじん)の勅の内にも、それは含まれているはずである。ゆえにッ」

「ゆえに?」

井然(きちん)と為されたぞ、おまえの策は」

 謁見の場に王族として席についたのは、クシ王ピアグタン、王太子フジュニと、その妃ギリア。

 王族ではあっても、侍衛の武人としてセレウが、執政官としてヌクトゥベ、そしてロホンが臣下として並んでいたらしい。

「よく分からないのは、ビアクタという者だ。王族とみなすべきなのか? 王の代わりに、喋っていたが。あとはそうだな……どこぞの領地の次なる主だとかいう、アーシムジィ・キアシムという者もいた。あれは、クシネーにしては驚くほど鼻が利くひとであった。目が見えないからかもしれぬ」

「かなり無状(しつれい)説法(いいかた)だけど、やっぱり廃妃(ブルエクトゥ)はいないんだね。それで?」

「喜べ、次の王妃に随分(そうおう)な香を配方(ちょうごう)し、献上することになった」

 それだけか、という韶華の表情を読んで、迷于香(香オタク)は胸を張った。

「分からぬのか。我らは使節、棠梨の一人(いちじん)のためにクシを訪れた者。やがて戻る者である。つまり、方才(いますぐ)当面(じか)に、香を受け取って頂かなければならぬ」

「ということは……」

「誰が王になろうと、贈呈の儀に際しては、妃にと思う女人を連れて来る必要があるのだ! 拐子魔(ひとさらい)は、天苑に咲く花より(かんば)しき幼子を、我が前に連れて来るしかなくなったぞ!」


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