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各色名堂之一

 白い岩の都、エルデンゲの中心に、(ボアナイ)の住まう白い宮殿がある。

 宮殿という言葉から得られる印象ほどには、華やかなものではない。多くの少数部族を戦いによって取り込み、支配してきたクシという一族にとって、住処(すみか)とは、砦と同じ意味を持っている。

 だから、異国の使節を迎え入れるには、充分な準備が必要なのだ。

 ロホンは王の間をめざし、回廊を足早に進んだ。兵士を揃えて待ち構えるくらい当然のことであるのに、まるで客のように迎え入れている事実を、受け入れられなかった。

 王ピアグダンに執務官として、奏上するつもりでいた。謁見など、(もっ)ての(ほか)であると。

 棠梨(トウリ)の使節を連れてきたのは、セレウ王子(ナーニー)――執務官ですらない武人の、祝辞の返礼などという妄言を信じるとは、王も老いたものである。

 しかし、王太子妃(ナーエクトゥ)ギリアの勧めで謁見が成ると聞いて、愚かと言っている場合ではなくなった。

 王太子(ナーアガー)は、(ククウェ)の子しか得られなかった男だ。その妃ごときが、政治に口を出すなどと、クシ貴族の誰も認めるはずがない。ロホンが城に不在の間に、誰かがなにかを図ったとしかいいようがない。

 だが、ロホンが危険を(おか)して、城を出た意味はあった。望むものを手に入れられたから。

 予想外であったのは、あまりに幼かったことくらい。

 もちろん、鮮やかな碧眼とアイシラクトゥの(金でおおわれた)血は、飾りだけの妃だとしても価値がある。

 とはいえ――ため息が出る。

「ロホン、忙しいようだな」

 回廊の影から、男の声がした。

 立ち止まりたくなくても、足を止めざるを得ない。執務官と武人という立場の違いはあっても、彼とロホンの価値は同じだ。

 どちらも、王としての資質が揃っていない者。クシの王と認められるには、難しい王子(ナーニー)。昔であれば、王子の位さえ得られなかった。

 王太子妃ごときが、という言葉は、ロホンにも返ってくる。彼の祖母は、前王の廃された王妃(ブルエクトゥ)スゥグジェン。碧眼の息子を得られなかった女ごときが、と言われても仕方ないのである。

 ロホンは、ひとつ年上の王子に(いど)む目を向けた。

「忙しいと分かっているのなら、話はあとにして欲しい」

「ならば棠梨の青い目の娃娃(にんぎょう)は、誰の土産かと、王に伺うことにしよう」

「耳の早いことだ……」

 誰から聞いたのかと問う言葉は、口に出さなかった。ロホンにシウンの娘の存在を教えた者が、セレウに知らせなかったはずはない。

 さらに、ロホンが棠梨に赴いた時、セレウもそこにいたのである。なにが起こったのか、知るのは易い。

「ロホン、おまえが王になりたいのなら、なればいい。だが、幼い子どもまで巻き込むのはやめろ」

「きれい事を言っている自覚はないのか、セレウ。おまえが王位を諦めると言ったところで、受け入れる者はいないだろう? フジュニ様やピアグダン王は認めるやもしれぬ。あの方々は、もう終わりが見えている。だが、フミエクトゥの血を、王とすることに命をかける者たちはどうだ? 正しき血、ムングルクトゥによる継承を簒奪とまで呼ぶ(やから)は」

 黙ったセレウを、ロホンは勝ち誇った目で見据える。

 先々代の妾妃(ボアククウェ)の血を引くフミエクトゥ(雪におおわれたもの)と、(ウルゥエクトゥ)の血を引くムングルクトゥ(銀におおわれたもの)では、王になれる者は明らかだ。なのに今、フミエクトゥの血であるピアグダンが王になっている。

 手にいれた権力を手放したい者などいない。フミエクトゥの継承を望む一派は、ムングルクトゥを(おとし)め、セレウの意思に係わりなく、彼を王に仕立て上げようとするだろう。

「ロホン……おまえの言うことを否定はしない。いずれギリア様は、私を孫と認めるだろう。大臣たちの思惑を受けて、チャチャカ様への憎しみを……覆い隠す」

「そうなれば、私は圧倒的に不利になる。今さら、前王の廃妃(ブルエクトゥ)の孫を王にするより、王太子(ナーアガー)フジュニの孫の方が、民には通りが良いからな。なにしろ私は、セッカの落とし子だ。忌まれもしよう」

 ロホンは、セレウのきつく結ばれた唇を見て、言いすぎたことに気づいた。自らセッカなどと言うべきではなかったのだ。

「セレウ、私は……」

「おまえは、もっと強く()るための駒が欲しかったんだな。連れ去った子どもが、大事なのではなく」

「大切には、思っているさ……」

 青い目を潤ませている幼子を見ると、心は痛む。泣かせるつもりはなかった、と言っても通じないのが、もどかしい。たどたどしく、苛めたら死刑と言われた時など、愛おしくも思えた。けれど。

 ロホンが王となるための駒であるように、幼子もまた、駒なのだ。

「我らは死してもクシの王族だ。それを拒んだシウンは、もっと遠くに逃げるべきだった。できなかったのなら……結果は決まっていたんだ」

 己の声に僅かな隙を感じ、ロホンはこのまま進むことを諦めた。

 ピアグダンは賢王とはいえないまでも、長く王を務め、ひとを見るのに慣れた男である。揺らいだ心のままで、会うわけにはいかない。弱味を見せるのは、ロホンの最も嫌うところだ。

「出直すのか、ロホン」

「棠梨との謁見は必要なものだ。今、止めたとしても、同じことだろう?」

 銀の刺繍を凝らした裾を翻し、男が戻ってゆく。

 見送る男は壁にもたれ、広い袖を織り込むように腕を組んだ。(うわぎ)の細い糸で編み込まれた氷花(ゆき)文様から、目を逸すかのごとく。

「さて……聞いたか。少なくとも、雑に扱うつもりはないようだ」

 青い目が回廊に置かれた(はこ)に声をかけた。

 精緻な彫りは隠してあるものの、廊下に大きな函がある不自然さにロホンが気づかなかったのは、幸いである。

「いや……だめだろう。やっぱり。あいつ、どこ見てるんだ」

狭小(せま)ッ」

 吐き出された声とともに、焼栗色の髪が函からへろんと垂れ下がった。そしてすぐに、ひどく疲れた顏の少女が出てくる。

「よく耐えたな、あの小児()ら……まあ、学堂に行ってる年齢まででしょう、入れるの。で、なにが不成(だめ)です?」

「それはこちらの話だ。ロホンは見たな?」

「見たっていうか、声だけですけど……」

 函を揺らしながら、韶華は外に出た。

「ええ、とりあえず……セッカがなんなのか、訊いてもいいですか」

「セッカは……忌まわしきこと、という意味だ」

 多くの場合、同じ家門でありながら、違う母親の子ども同士が結婚することを表す。

 つまり、異母兄弟と姉妹の婚姻をセッカというのだ。

「クシの王族は、王の母親の血を重視する。他の王族の母親の血と混じることを、激しく嫌う。だから、どれだけ碧眼を(ほっ)しても、セッカを選ぶ者など……いないのだが」

 噂だけなら無視できるものを、まさかロホンが認めるとは、セレウも思っていなかった。

「セッカの子だったら、碧眼になるの?」

「そんなことはない。必ずそうなるのであれば、王族だけセッカの(くびき)から外すさ。ただ、青い目を持つ王族女性は、青い目の子を生むことが多い、とは……言われている」

瑠璃(ルリ)を狙ったのは、そのため? 賭けがすぎるような気がするけど。でも結局、そのセッカ……になるんじゃないの。瑠璃を高貴な血の者とするなら」

 セレウは説明を迷った。彼が知っているのは、あくまでも噂である。異国の者である韶華に事実として語ってしまえば、嘘を真実にしかねない。

 ただ、韶華もシウンの娘、アイシラクトゥの血を引く者だ。クシの王族の碧眼に対する執着を、知らなくてはならない。

「我が一族は碧眼を(ボアナイ)とするが、それは碧眼がとても少ないからだと、分かっているだろうか」

「それはそうだよね。一族みんなが青い目、翠の目だったら、誰が長になるか別のことで決めなくてはならないし……って、それが母親の出自によるものなんだ」

「そう。王妃(ボアエクトゥ)の血を引く者は、常にほかの王族より上位にある。アイシラクトゥの血に関しては、セッカとは言われないんだ」

 ひどく(いびつ)な決め方に思えるが、王の正妻(バイエクトゥ)には、特別な価値を認められているのである。

「だが考えてみろ。王の寵愛を受け、碧眼の子を生んだにも拘らず、王妃より下に見られる女と、さらにその女たちから生まれた娘のことを。娘たちは、碧眼を持って生まれたとしても、女というだけで王になれず、王妃の娘より上に扱われることもない。クシの歴史でも、その辺りは……いろいろと問題を起こしてきた」

「今はとくに?」

「そう……先々代の王の娘、アモアンドラ王女(ナーネウ)は、自分の扱いに対して激しい憤りと、憎しみを募らせたと聞いている。そうして、いかに王位に近づくかだけを考えていたらしい。だから、ヌクトゥベ殿が妃に迎えたのは、おそらくアモアンドラの娘だ……」

 フミエクトゥの血は、今の王と弟である王太子(ナーアガー)、その妹アモアンドラを碧眼の子として生み出し、さらに王女の娘に碧眼を生んだ。

「しかし……その娘こそ、セッカの落とし子だと……言われている」

 韶華は脳裏の名冊(めいぼ)から、アモアンドラ王女の夫となれる王族を探した。

 父親や叔父、実の兄弟を除くと、ムングルクトゥの前王と弟くらいしかいない。

 少なすぎる――というより、近すぎる。ムングルクトゥ、フミエクトゥと分かたれていようと、父親は同じなのだ。

「アモアンドラは娘の父親が誰か、明かさなかった。私は会ったこともないので知りようもないが、噂では……前王に似ている、と言われている」

「ロホンの父親であるヌクトゥベ様は……前王の息子だよね?」

 あくまでも噂である。ロホンがセッカの生まれで、その母親も、セッカとして生まれているのは。

「噂でしかないけど、どちらもそれで……碧眼を得たことになるんだね」

 韶華の呟きにセレウは頷いた。

「ふたつの禁忌を抱えるあいつが、アイシラクトゥの血の正しさに頼りたくなるのも、理解できる」

「それと、碧眼」

 少女が、指で己の目を差し示した。澄んだ虎目玉のような(ひとみ)が、セレウを見上げている。

「ああ、そうだ。あいつは碧眼の娘から、碧眼の子を得たいんだ。それだけが」

 王となる方法と思い込んでいる。

「うん……少しだけ見えてきた気がする。瑠璃を無事に迎えに行くのに、なにをすればいいのか」

「なにをするつもりだ」

 少女は大きく伸びをして、笑った。雲の間から、青い空が見えるような笑顔だった。

 しかし出てくる言葉は、雷にも等しいものだった。

「クシの王さまを決めよう」


***



 幼い少女は、いつの間にか眠っていたらしい。

 目をこすり、身を起こして辺りを見回すと、卓上の膳食(しょくじ)は下げられていた。使丁(めしつかい)が入ってきたことさえ、気づかなかったようだ。

 少しだけ恥ずかしく思い、瑠璃はうなだれた。

 彼らは喋ろうとしないが、いつも謝謝(ありがとう)、と言うだけは言っていたのである。

 もっとも、聞いているかは、分からない。口訳(つうやく)の男が言うには、クシで偉いひとは、なにかしてもらっても、ありがとうとは言わないものらしい。

 だが、棠梨で育った瑠璃に、その模倣(まね)はできない。偉いひとでもないし、なにかしてくれたひとには、謝謝と言うように教えられている。

 ふわ、とあくびをして寝台に座り直した。

 そういえば、口訳(つうやく)は戻ってきたのだろうか。

 首を傾げた瑠璃の当前(めのまえ)に、なにかを握っている拳が差し出された。

叔叔(おじちゃん)、なにを持ってるの?」

「きみの好きなひとから、渡してって」

 緩く開かれた手には、鮮やかな紅色と琥珀色の飾り結びがある。

 手に取るまでもない。色と形だけで、誰の髪飾りかが、分かった。

「これ、韶姉(ショウねえ)の!」

 つまり、男は韶華と会ったのである。 韶華が来ていると、教えられていたけれど、誰も待てと言うばかりで、姉の気息(けはい)は感じられなかった。

 それが、ようやく形になった。姉の訪れを、初めて受け取ることができたのだ。

「髪飾りだって。つけてみる?」

「うん!」

 クシに来てから瑠璃は髪の毛を結っていない。結ってくれるひとが、いなかったからである。

 思い立って、ひとりでやってみたことはある。だが、留めるものも、技術も足りず、やがて諦めた。

 しかしこれならば、ひとりでできる。懐かしい姉の匂いを確かめてから、瑠璃は髪をまとめた。

「うーん……女人の扮装は、いつみても古怪(ふしぎ)だ……精巧に(うまく)できるもんだねえ」

「これは、そんなに難しくないよ」

「ぼくには不成(ムリ)

 得得(とくいげ)になる瑠璃ではあるが、左右の巻きが(いびつ)なのは、不顧(むし)するしかなかった。

「今はね、韶姉にやってもらうけど、蕣姉(シュンねえ)がお妃さまに決まるまでは、蕣姉にやってもらってたの」

「きっと、能手(じょうず)だったんだろうね」

「うん! 蕣姉は、街でも知名(ゆうめい)天女(びじん)なの。でもね、杜家(うち)がずっと生活刻苦だ(くらしが苦しか)ったのは……蕣姉が美人で、窮鬼(ビンボー神)が好きになっちゃったからって……言われてて」

「窮鬼て、あの?」

 頷いたあと、瑠璃は寝台に、ぱたりと(かお)を伏せた。小さな脚が、じたばたと動いている。

 男は首を傾げた。ひどく恥ずかしがっているような。否、少女のことはよく分からない。

「窮鬼ね……もう白屋(うち)には来ないの。宮城に……行ったから」

「ああ、お姉さんを追って行ったわけか」

「だからもう瑠璃は貧窮(びんぼう)じゃなくなるのかなって……思ったんだけど」

 良かったね、と言うべきか悩みつつ、男は瑠璃の(ことば)を待った。

 姉を后妃に出せば、豊さは得られるだろうが、幼子は、それを言いたいわけではないようだ。

叔叔(おじちゃん)、どうしよう」

 幼い少女が貌を上げた。

「な、なにかな?」

窮鬼(ビンボー神)、ここに居るの。蕣姉がいないのに、居るの。叔叔(おじちゃん)も見たよね? もしかしてもしかして、窮鬼……瑠璃のとこに来てる? 窮鬼、瑠璃に……()いてるのかな? そしたら蕣姉じゃなくて、瑠璃が杜家(おうち)貧窮(びんぼう)にしてたのかもっ」

「うん、まあ……どうかな」

 またぱたりと伏せた幼子の頭を撫で、男は言葉を濁した。

 ここで窮鬼を見た、瑠璃の動揺の意味が分かった。

 黒衣の武人は、あまり喋りたがらない男に見えたが、次に会ったら、窮鬼(貧乏神)扱いを安易に受け入れるなと言うべきかもしれない。幼子に窮鬼(ビンボー神)と言われた時は、充分に打撃(ショック)だったろうが。

 男は大息を吐いて、壁にしか見えない隅を見た。

 そのすぐ裏、小さな部屋には窮鬼とされた黒い影が、いる。彼――彼らがそこでなにを話しているのか、内側からは聞こえない。

 だが、壁の外にいる者は、聞いているだろう。探るに()けた者ならば、聞く方法など、いくらでもあるのだから。


***



 クシの民(クシネー)は、フレイ城を美しさを讃えて、唯一の美を(あらわ)すものと言う。

 けれど、そこで育った男には、古い闇の滞る場にしか思えない。最奥の宮に入る者は、選ばれたる(ボアナイ)ではなく、長く続いた掟の残滓だ。

 それでも、そこに行けば、なにかができると期待してしまう。

 ヌクトゥベは、王として住む者の存在を感じながら、小さな隠し部屋に入った。

 ただ――呼び出したのは彼だが、実は、あまり入りたい部屋ではない。扉の複雑な仕掛けを開ける度、怒りを抑えなくてはいけない。隠された、とは言うものの、そこは、王族なら誰でも知っている部屋である。

 先代の王の息子である彼が、全く隠されていない部屋を使わねばならないとは。

 長男として生まれたのに、王太子(ナーアガー)の位さえ、頂くことはなかった。忌まれると分かっていても、同じ家門の者と婚姻を結び、王たる印を持つ息子を得たのに。

「……居るか」

(ここに)

 隅の暗さから、黒衣の影が現れた。

 扉に鍵はかかっており、窓もない部屋なのだが、ヌクトゥベが入る前から男は居たようだ。

 来いと言ったのは彼である。だが、男がどこから入ったのか、一瞬だけ気になった。

 黒衣はヌクトゥベの愚問に気づいたように、冷然と笑った。

「隠されてもいない部屋だ。どうにでもなる……それで?」

「おまえの伝えた通り、碧眼だった。ただ、あんなに幼いとは……あれではロホンが、次の碧眼をいつ得られるか分からない。その間に、セレウが認められてしまうかもしれん」

「それは、我らに係わりのないことだ」

「話を持ちかけてきたのは、そっちだろう。アイシラクトゥの血に、碧眼の少女が生まれたと!」

 男の冷めた言い方は、ヌクトゥベを苛つかせた。

 ただ、彼らにとって碧眼に意味がないのも事実。ヌクトゥベも、利用されていることを、充分に承知しながら、話に乗ったのだ。

 黒衣の男は、クシの貴人の息が静まるのを待って、口を開いた。

「おまえたちは、次になにを求める」

「さて……必要なことは知った。その上で行為を求めれば、どんな取り引きを持ちかけられるか、分からない」

「待つ余裕はないぞ」

「待たせるつもりはないが、少し考えさせてくれ。あるにはあるのだが、おまえに頼んでも無駄だろう……」

「言い切ったな」

 黒衣の男の声に棘を感じ、ヌクトゥベは薄笑いを浮かべた。

王太子妃(ナーエクトゥ)ギリアの本意を知りたい、と言って、おまえになにができる? あの女が、どこまでセレウを認めているのか……言葉の上でいうなら、もう認めているようなものだ。だが、妾妃(ナーククウェ)に対する嫉妬は、未だ尽きていない。それは、密かに影の中にいるだけでは、知れることではないぞ?」

「王の印より、後宮の女の意向が重要なようだな。だから廃妃(ブルエクトゥ)に従うのか」

「黙れ」

 黒衣へと投げつけた飾りが、壁にぶつかり、大きな音を立てて転がる。

 はっと我に返った時には、影は消えていた。

 誰もいない部屋を見て、ヌクトゥベは、怒りに心を委ねるべきではなかったと知る。

 感情を抑えていれば、男の消える先を見ることができた。男が使った扉の存在を知ることができたはず。

 王族ならば誰でも知っている隠し部屋に、王族さえも知らない扉がある。正しく言えば、特別な王族だけが知る扉がある。

 それを黒衣の男が知っていたのは、すでに使ったことのある者に、教えられていたためだ。

 ヌクトゥベではない、誰かに。

 黒衣に向けたものより、さらに冷めた笑いが口許に浮かぶ。

 笑わねばならない。彼は、(いま)だ動かされるだけの駒らしい。最初から、なにも望まれては、いなかった。母親にも、父親にも。

 同じく母親に利用されるだけの妻が生きていれば、まだ、耐えられただろうか。彼女を連れて、逃げてしまえば良かった。

 怒りを沸らせ、彼を見つめていた幼い少年が、クシの血を捨てたように。


***



 慣れた黒衣を着る。それは、黒風(コクフウ)としては珍しく、あまりに散漫な行為だった。

 辺りは白く、淡い輝きに満ちている。黒衣の影は、どう動こうと目立つものだ。

 だから、窓の飾り柱を足場に、外壁から回廊に入ったものの、声をかけられるまで、それに気づかなかった。

「黒風……今、なにをしていたのですか」

 拳を震わせた晨風(シンプウ)が、黒衣の影を見据えた。

「なにを……話していましたか。あれは、キュウの王族ですよね? こんなの、まるで内奸(スパイ)じゃないですか。貴兄(あなた)は……たとえ皇上のためでなくとも、少なくとも、棠梨の……ためになることで、動いていると思ったのに!」

 禁軍でありながら、今の晨風は黒衣を着ていない。任務とは別に来ているからだが、それは(かえ)って黒風の姿の意味を明らかにしてしまう。

 禁軍としての動きであるのに、棠梨の皇帝の知るところではないという。

「貴兄は、あの子を守れって言ったのに……」

 黒衣は、黙って背を向けた。

「なにも……表白(いいわけ)もないんですか。それとも、貴兄がしていることを、ぼくが誰かに話すはずはないと? ぼくだって、禁軍のなかに、皇上を認めたがらない者がいることくらい、知ってます。誰が誰とつながろうとしているか、調べることだってできるんですよ!」

「話したければ、話すがいい」

 短く言って、影が闇に紛れる。晨風(おまえ)には、できるはずがないと言っているかのように。

 そしてそれは、正しい。

 今はまだ、残された少年にできるのは、拳を握り締めることだけ。影を見つめ、言葉を失い、佇むだけ。

 禁軍の歪みを初めて感じたと、認めることしか、できない。

 暁に吹く風は、やがて黒い大風とは別の沈黙の中に、己を溶け込ませた。



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