奇人申申如
降っては止む、また降り出す。連天の零雨が宮都を濡らしている。
棠梨では、新緑を迎えて充分に雨が降れば豊作になる。だから雨は、良い兆として喜ぶべきことだ。
とはいえ今年は珍しく長い雨になった。いつもなら両次、三次と草木を潤せば終いになり、降り続けたりはしないのだ。
稀に半天ほど晴れても、またすぐに降り出されては適わない。誰もが思うように出かけられず、ひどく郁葱としていた。
門口に出た韶華も、天を見て大息を吐いた。
今天も霧のような雨が止みそうもない。雨を待っていたのは確かだが、ここまで雨天の続くことを願ったつもりはなかったのに、と恨みたくなった。
「ねえ、韶華……雨が止んだら、わたしの代わりに医院に行ってくれないかしら」
広げた手巾に目を凝らし、朱蕣が言った。妹の戸を開ける音だけを聞いて、止んだと考えたらしい。
「まだ降ってるよ。お姉ちゃんは、どこに行くの?」
「わたしは魯大娘のところに青菜をいただきに行くから」
「無費? 買いに行くんじゃなくて?」
「この雨で傷んだものを安くしてくれるんですって」
やはり大減価ではないかと思う韶華に、長姉は陸離な黒曜の瞳を向けた。
「売れ残って、もう捨てるものを譲っていただくの。腐ったところを取り除けば、充分に食材となるものがあるはずよ!」
「そうですね……」
この節省を愛する姉を調理有方ととることはできる。できるけれど、このために、香青路の杜家には朱蕣の美しさに惚れ、窮鬼が居ついているとささやかれたりもするのだ。
(お姉ちゃん……とりあえずうちは、そこまで困窮してないんで……)
しかし、いそいそと出かける準備をする姉が楽しそうに見えて、韶華はなにも言えなかった。
「じゃあ、行くわね」
「待ってよ、お姉ちゃん。医院に行くって、なんの事で? 瑠璃の薬?」
「違うわ。ごめんね、言い忘れてたわね。保存してた薬が減ってきたから、あなたに処方を訊いてって頼まれていたの。でも尹大医ったら、なんの薬かを書いた片書をわたしに渡し忘れてるんだもの」
そういう話であれば、朱蕣に頼まれるまでもない。韶華も出かけることにした。雨だからついでにと手巾を渡されたが、傘の代わりであるらしい。使わないかなと思いつつ、受け取った。
急ぐ朱蕣は横道を使って行くというので、韶華は午下の雨天をひとりで報春路に向かった。
続く雨のために、いつも賑わう大路も寂静としている。客引きたちもぼんやりと立っているだけで洩気のようだ。
たとえ雨でも、養花雨であれば酒楼も賑わうものだが、食の忌み日の多さを理由に閉めている店も多かった。
「でも、やっぱりあそこは開けてるね……」
医院に行くには次の角を曲がる、といったところで、韶華の目はひとつの酒楼に引き寄せられた。
通紅な三階建ての楼房も美しい、絳雪酒楼である。今日の報春路では、老牌よりも知名かもしれない。雨にも拘らず、いつもと同じ賑わいに満ちていた。
店頭に立つ面熟の客引きが韶華に気づき、笑いかけた。
「久久だな、小妹。また尹大医のとこかい?」
「そう。薬が足りなくなってるみたいで……ここはいつも盛行だね」
「これでもお客の食気が落ちてるらしくて、てんで菜肴が出ねえな……酒はともかく、ほかは甜食くらいなもんか、売れてるのは」
「菜肴はね……」
香料調味品がない今、どうしようもない。
言うべきか言わざるべきか、悩む韶華に包子が差し出された。
「食べるかい、これは好吃と思うよ」
知らないひとからもらうわけには、と言いかけた口に包子は押し込まれる。返事をする暇もない。
不行儀な男はしかしにこにこと笑っており、坏心はないようだった。
「だけどなあ、客が菜肴を求めないのも、やむを得まい? どれもこれも不成じゃないか……報春路なら絳雪酒楼、と聞いたから来たのに、塩だの甜醤だのが強すぎるだろう」
「弄月大人、そりゃあんまりだ」
「令令、おいしいと思うものがあるなら、いいじゃない。ここでこれなら、ほかは
惨澹たるものよ」
韶華は客引きに同意した。
前に食べた時よりやや味の薄い包子ではあるが、塩と甜醤しか使えない庖丁を思えば、その努力に叫好を上げたくなる。
弄月という男は令令、そうか令令かと呟き、恥ずかしげに項垂れた。
「悪かったよ……酒も下物も特別だったものだから、何故に菜肴はと言いたくなったんだ。ところで、どうして納女敷求が味と係わっているんだい」
「それはだって香料……」
巷の紛事を知らずにいるとは、どこの幽人かと韶華も客引きも驚いた。
確かに男は、市人にしては浮いたところがある。
質朴な綾織でできた交領の上衣をゆるく着て、長い髪は左の肩の下あたりでひとつに結び、軽く輪にしている。
韶華の父親と似た齢であるから、文人かなにかかもしれないが、西方の袍を肩にかけているので、ただの奇人にも思える。
とはいえ、絳雪酒楼で飲み喰いできるくらいには財があって、客引きもすでに名を知る花客である。
「皇上が後妃となるひとに、香りを求めてることを知らないの? それが考試のひとつなんだって」
「それで宮都から香料調味品が消えるのか」
「まあね。作るのに使うこともあるし、人家の妨げに心血を注ぐことも……ある、らしい?」
「詳しいね。きみも投考……って、いきなりだったね。私は弄月というよ」
「わけあって名は伏せさせてもらう。ただし、その送料は正しい! 申請した者がいるとだけ告げておこう!」
「それ望舒党? 望舒党の模倣? 私も望舒党は好きだよ」
「あのう……匪徒が好きって表明は……止めておくべきでは」
「いやいや、私もやってみたいと思うんだよねえ」
弄月の喜びようは、言った韶華さえ引いてしまうほどだった。
親のいないところで軽易に名乗るわけにはいかず、はぐらかそうとしただけなのだが、これなら普通に言えば良かったかもしれない。
その上、韶華の傍らで聞いていた客引きが、全ての努力を無用にした。
「嗚呼……やっぱり朱蕣小姐、申請したんだ……」
「名を言うなー!」
「そうか……すまない。名を聞かせたくなかったんだね? それなら不要担心……酒が忘れさせてくれるよ」
と、弄月は手にしていた注子を持ち上げて見せた。
艾の香りと、古奥な蘭香がふわりと漂う。酒楼で出す艾酒は、なかなかの逸品であるようだ。
「……いい匂い」
「私も香は好きだよ。だけど酒と包子が旨いほうがいいな」
「でも飲みすぎは良くないと……あっ、分かった!」
「え? なに、かな」
「気にしないで、匂いで思い出しただけだから。まだ字でしか覚えてないと、香の配料って当てるの難しいね! 薬だから分かったんだよ。そうだそうだ、胃薬! 飲みすぎの薬だった、この匂い」
ひとり頷く韶華を、弄月は呆然と、客引きはいつもの目で見る。声が大きかったのか、酒楼にいたほかの客までも、なんだなんだと見にきては、ああアレかと戻って行く。
「そういえば、医院に行く中途だった……じゃあね、令令。教えてくれてありがとう。少し分かった気がする」
韶華はそのまま行きかけ、しかしすぐに振り返り、弄月を見た。
「なにかな?」
「言うことがあった……はずなんだけど……」
目の端に入ったものが、韶華の思考を乱した。
「いいよ、思い出してからで。私はしばらく西街にいるつもりだから、また会った時にでも」
西街とは、また広い括りである。それに、また会うつもりもない。
首肯しがたい韶華の心目を読んだかのように、弄月はにやりと笑った。
「すぐに会えるさ」
韶華は微かに頷いた。
困ったことに韶華にも、それに同意するしかないという預感はあったのである。




