遼遠一想
香を妃たちに渡したのち、韶華は部屋を出された。
役目を無事に果たしたといえるのかどうか――ピアグダン王への取り次ぎを頼むどころか、ろくに言葉も交わせなかったのだ。
やはり、言葉が分からない振りは、止めた方が良かったかもしれない。
少なくとも、次にあの女官が通訳をしようとしたら、ジャイに女官の扮装をさせてでも、任せようと心に決める。
もしくは、父親を連れて行こう。後宮に男を入れることになるが、露見を恐れる必要はないはずだ。
誰が見ても父親は、棠梨に伝わる子への情が凝り固まった怪、痩せ女である。たとえクシの者が女妖を知らないとしても、男とだけは思うまい。
「あっ……」
先導する女官が小さな声を上げ、顏を袖で隠した。
理由は韶華にも、聞き取れている。回廊の奥から聞こえる怒声は、男のものだ。
クシの女性は、男に姿を見せたがらない。もっと正しく言えば、顏を見せないようにするのが、女性としての美、慎ましさとされている。
ただし、今となっては単なる様式美でしかないようで、しきたりにうるさい後宮でさえも、女官はすぐに袖の下から顏をのぞかせ、番兵らを咎め出した。
「あなた方、ここは後宮ですっ。なにを騒いでいるのですか」
「申し訳ございません……ええ、その……妙な……者が、入り込んでおりまして」
「む、それは後言だなッ。私には分かるぞ! おお、そこに居るは杜副手ではないかッ。この者らに手を離すよう、言うのだッ」
棠梨に並ぶ者なき迷于香の叫びが、韶華に向いているのは明らかで、クシネーの視線が少女に集まる。
知らないひとです、と言えたなら良かったのに。
「王先生、結舌して下さいね。わたし、あんまり言ができないので、そんな難しいこと言えないです」
「はあっ? なにをい痛いいないあなをうまうなあなをっ」
王重明はジャイと違って、察するという能力はなかった。せめて鼻の痛みで、どこで話を聞いている者がいるか分からないと、学んでくれればと思う。
韶華は嫌な顏をしている兵士に告げた。
「ええと……カイシュウヨロッ」
さらに嫌な顏をされた。
ついでに韶華の評価も激しく下がったらしく、重明とまとめて、扉の外に押し出された。
「失礼なのではっ?」
「全くだ。袖が、しわになってしまったではないか」
合わないふたりが心をひとつにして、クシの番兵を罵り合う。
クシの宮城で、棠梨の使節のやってはいけないこと筆頭を止めたのは、冷たさが九泉まで凍らせそうな紫石の双眸だった。
「あ、静影」
「おお、静影。ここは実に痛痛痛い」
重明の耳から手を離すことなく、棠梨の将は歩き始めた。
「えーっと……静影大兄ってば、怒ってます?」
「怒られる事由が、あると思っているわけだ」
「いえ、あんまり……あっ、迷于香がうろついてることは、怒ってもいいと思う」
査牙しさも過ぎると、情分が消えて見えるものらしい。
立ち止まった武人の視線は、函が転がっている、くらいの感慨で、重明と韶華の上を行き来した。
ため息とともに、紫石が韶華の上で止まる。
「……ジャイがついて行くというから、送り出したんだ。断られたのなら、戻って来い。それで王との謁見が遅れるとしても、彼らも会わずに帰すわけには、いかないのだから。クシの条理にだけ、合わせる必要はない」
「うむ、合わせるだけが条理ではないな!」
「おまえは、不顧しすぎだ! ここでは香試の頭等というより、棠梨の一人に代わり、クシに拝礼をする者なんだぞ」
「そこはよく理解している。我らは一人の威信を預る者、クシの王の御前においてのみ、礼を尽くす。私を使者と呼ぶ者に、易易と叩頭はせぬ」
耳を掴まれたままの姿では、威信の一片も顕されていない。
だが、皇帝の使いを任じられた武官と文官の違いは、明らかだった。
韶華としては、どちらの言も正しいと思う。けれど、あの場で副手の韶華ができるのは、ひとりで入り込むことだけだった。難をつけて戻れば、後宮に入る機会は失われただろう。
しかし結局のところ、役目も、瑠璃を見つけるために後宮を見るという目的も、達せられていないのだが。
「それにしても……王先生、どうやって後宮に入り込んだの」
「韶華! それをここで聞くな」
慌てる静影の横で、重明は独笑を浮かべ、目を伏せた。いつものことながら、やたらに自信に満ちている。
「路程はよく分からぬ。あちこち回ったのでな。ただ、匂いを……」
「静影、そろそろ戻ろうか。お妃さまについて、ジャイさんに訊きたいこともできたし」
「等等」
歩き出す韶華の腕を、静影が掴んだ。誰かが来る、とささやく前に、すぐ先にある階段から、ひとの足音が響いた。
クシの者であるのは、間違いない。自陣を行くおおらかさが足音に表れている。
ために、そこに誰かが居るとは思わなかったようで、男は身構えた武人の前に出て、驚きに目を見開いた。
「おお……棠梨の方々、ここで会うとは丁度良かった。これから知らせようと思っておりました」
男は途中で棠梨の言葉に切り替え、静影に徐将軍と呼びかけた。
韶華は静影の背後で、そのまま隠れていることにした。誰かは知らない。ただ、彼の言葉の意味するところは、男がそれなりの地位にあるということだ。
今のクシで、静影の役職を知るのは、会見の場にいた者たちだけである。王太子とは年齢が合わないので、裲襠のような韋巾の銀の飾りからすると、
(ムングルクトゥの血を引くひと……ヌクトゥベ王子、かな)
碧眼を持たず生まれたゆえに、母である王妃を廃されたひと。そして彼の碧眼の息子は、杜家の季児を攫ったロホン王子だ。
眼差しは意外にも穏やかで、誘拐犯の父親であれば、もっと狡そうな男を想像してしまう。
彼は王太子の次に当たる位、第一執政官――棠梨でいえば、左丞相を務めていたはずだ。前の王の息子であるから、重んじられるのは分かるのだが、王太子の息子ビアクタより高位にあるのを、少しだけ古怪に思った。
「我が王、ピアグダンの意向を、早くお伝えしなければと思いましてね」
「執政官自身が知らせて下さるとは……善き言を、期望しております」
相手が棠梨の言葉を使うので、静影もそれで応じる。
ほっとしているように見えるのは、膠固で真卒な将にとって、当然のように受諾するクシの儀止は、やはり慣れないのだろう
「おお……謁見が叶いますか、ヌクトゥベ殿!」
「はい。香りを作る方……クシにとって、香は重要。殊に、王太子妃が気に入りまして」
とりあえず、香による妃の討好は成ったと知り、韶華は胸をなでおろした。
「そちらの……児女が、香を届けて下さったのですね。ああ、失礼。女人を、どうお呼びすれば良いか、分からないもので」
「かの者は香試の副手にて、そう呼ぶとよろしい」
なぜか自慢気に重明が答える。おそらく、棠梨で最もクシの儀止を自然にできる男だろう。
ヌクトゥベは軽く笑い、許しを得るように紫石の双眸へ視線を送ってから、韶華の前に立った。
韶華は一瞬、顏を上げるのを迷った。セレウやロホンと違い、彼はここでシウンと呼ばれていた父親を知っている。
(まあいっか。似てないし、よその国の平凡な貌なんて分からないよね……)
凡そ平らかな顏であることを喜んだのは、初めてである。
だが、男を見上げ、韶華は間違いに気づいた。ヌクトゥベが見ているのは、顔ではなく、焼栗の色をした結い髪だった。
「懐かしい色だ」
「そ、ソウデスカっ? 西方にはよくある髪色だと思いますがっ」
「西方人も、エルデンゲでは、もうあまり見なくなった。それに香試副手、この色には思い入れがあるのだよ」
触れるまではせずとも、髪から視線を外さない。女人に対して無礼だと言うこともできるが、誰もしなかった。
彼が見ているのは韶華ではなく、もっと遠くだ。だから口からこぼれる言葉も、クシのものになっている。
「始めは静かな男だと思った。戦いにだけ、生きる男だと。単に、言葉を覚えきっていなかっただけで……あのひとを笑わせているのを見た時、そういう男だと知った。だから、嫌いだったよ。話しかけられても、答えるものかと。それでいて、あれが肩を落とすと、自分が悪いことをしたように思ってしまう」
ヌクトゥベの口許に笑みが浮かぶ。嫌いとは言いながら、嫌ってはいなかったのだろう。
「私も若かった。あれが西方を離れたように、クシを離れ、誰も知らぬ場所で生きてみたいと思ったくらいには。だが、クシの王族の血は古く、北の主に守りを頼むことしかできない。私も、あのひとも、誰もここから出ようとはしなかった。あれもだから、逃げなかったのだろう……」
「貴公の思い出すものは、とても楽しそうに聞こえます。逃げないことにも、正しさはあったのでは」
静影が使う拙いクシの言葉は、ヌクトゥベに注意を喚起するものだ。聞いている者がいるのだから、あまり思いに耽りすぎるな、と。
誰であれ、気遣うことを忘れない誠実さはいいけれど、韶華としては、もう少し聞いていたかった。ヌクトゥベの語る男は、おそらく、韶華の祖父のことだろうから。
(逃げなかったって、どういうことかな……)
訊いてみたいが、答えるとも思えない。
さらに、言葉の分からない重明が、退屈を極めて歩き出そうとしており、話を終わりにするしかなかった。
「失礼、私も昔語りしすぎましたな。のちほど、正式な知らせを遣わせます。謁見には、香試副手、あなたも来られると良い」
「ハイゼヒー」
韶華の怪しげな言葉にも、ヌクトゥベは笑みを返す。形だけの笑顔だったとしても、良くできたひとである。
去る背中を見送り、心の中で謝りつつ武人を見上げると、紫石の双眸が、もう少しましな返事をしろと告げていた。
「そんなに怒らないでよ。あれ……成心じゃないんで。なんか冒失してて。で、あのフレイ城の図片、中用だった?」
「怒っているわけじゃないが、言うだけは言っておくぞ。もう、語言の分からない模擬は止めろ。それから、あまり……クシの王族に近づくな。おまえの髪の色は、どうやら彼らには特別のようだ……太君は、元は褐色の髪の毛だったのか?」
「似てるのは、太父らしいよ? でも、謁見は考え直すべきかもね。ロホン王子が瑠璃だけでなく、韶華の名も知っていたら、聞いただけで露見す……って王先生、どこ行くの!」
「もう一次、確かめてみるのだ!」
なにを、と問う声は届かない。香を求める官吏の姿は、階段の下方へと消えかけている。
しかし重明は、より下からの揉める声とともに、すぐに戻された。景景と永児が両の袖に取り付き、晨風が退路を塞ぐ形で、彷徨する変態を封じ込めていた。
「侍童として、褒めたいところだけど……もしかして、みんな出歩いてる? 残る香試のひとたちも……」
「いえ、この子らと、このひとだけです。ほかのひとは閉じこもってますけど……ジャイに張望を頼みました」
晨風が疲れた顏で答えた。
「彼らも天井で迷っていたので、ぼくが回収しました。あの図、便宜ですね」
「図ってなに。韶姉が描いた図絵? それがあれば、オレたちだって、迷わずこのひとを追えたのに」
急に静かになった香試の袖を離し、景景は口をとがらせた。
すまない、と言って、静影は子どもらの頭を撫でた。
城内図など持たせれば、重明ではなく、彼ら自身が出歩くだろうことは、想像に難くない。だからこそ、渡すわけにはいかなかったのだが、迷わせた責任が、静影にはあった。
「もう、重明について回らなくてもいいぞ。抛っておくなと頼んだが、ここはクシで、小児といえど、条理を知らないでは済まされない。おまえたちを傷つけては、双親に向ける面子がない」
「怒られるのは、分かってる。でも、ぼくたちが来たくて、来たんだ。だから、なにかさせてよ」
永児の目は、まっすぐに静影を見ている。香青路で会った幼い少年は、視線を合わせると少し恥ずかしそうだったのに、いつのまにか強くなっていた。
だけど、と韶華は思う。
「永児、情分はともかく、無謀の責を取るのは成人だから。きみたちの命で、収められないこともあるんだから、静影の言うことは聞いて」
「韶華……おまえも含まれるんだが」
「えっ。わたし小児ですかっ? それはないんじゃないですか?」
「少なくとも、瑠璃を見つけ出すまでは、静かにしていろ」
「見出したのだから、図片を寄越せ、静影」
「図はやれないぞ、重明……今、なんと言った?」
驚愕の視線を浴びて、重明は、ふん、と顎を上げた。
「だから、見出したと言っている! 馥郁たる香りをまとい、天より舞い下りし聖なる幼子、小人たる副手の幼き令妹をだ!」
「どこに!」
その場にいた者の声が揃う。
重明は賛辞を受け取るのが当然の顏をして、手を差し出した。
「恐れ入ったか、我が鼻に不可能はない! さあ、図片に匂いを辿った路程を書き込むから、早く寄越すのだ!」
一瞬の間もなく、図片と筆が重明に渡された。
***
「この辺りから白い壁……うん、確かに」
「それ以上、近づくな。介士がいる」
出ようとした韶華を押さえ、静影が視線を奥に投げた。
見れば、僅か先に番兵の立つ入口がある。それもまた、重明の示した通りだ。
「あれを通れば、後宮の下に出るってことだけど……」
韶華は図と入口を見比べ、小さく唸った。
重明は造作なく通れたようだが、韶華たちが通してくれと頼んで通れる場所ではなさそうである。
「今は入れなくてもいいけどさあ……もう少し、後宮の形を見たかったなあ」
「ここから、預見するだけだぞ」
肩越しに静影の圧がかかる。抛っておけば、忍び込みかねないと考えているのだろう。
それには韶華も反論できないので、黙って白い壁を見つめた。
見に行く前は、忍び込む前提で考えていたのだ。ただ、後宮を守るための壁は、望舒党の活動で鍛えたとはいえ、登れるようなものではない。足場のなさと、まっすぐに天に向かう高さ、そしてなによりも白さが、取り付くものを阻む。
(ここに黒い衣がへばりついてたら、まさに白紙黒字だよね……)
それが目的ではないだろうが、異国では、常なる考え方だけで対応できないことが、よく分かる。せっかく持ってきていた烏黒の衣装だが、使えなさそうだ。
「そういえば」
韶華はぽつりと呟いた。
「晨風は……禁軍として来なかったんだね」
「それは、できないことだからな」
禁軍としての証、黒衣を着ていない少年は、静影の私的な従者として加わっている。
言ってしまうと簡単だが、許されることではない。瑠璃奪還を目的に、表向きは香を届けるための使節が編成されたが、この使節に禁軍は差遣されていない。本来は、居てはならない者なのである。
だが晨風は、どうしてもついて行くと言って、きかなかった。幼い少女を目の前で攫われ、許せなかったのだと言う。
「晨風に責はない。だからこそ、怒っているんだ……自身に」
そうだね、と答え、韶華はもうひとりの男を思い浮かべた。
瑠璃になにかあることを知っていた男。禁軍の任ではないと分かっていて、晨風に守らせようとした黒衣の影。
彼の警告は役に立たず、幼子は連れていかれてしまったけれど。
「あのひとは……どう思ってるのかな」
静影から、ひどく惑う気配が伝わってきた。
少しだけ待って、韶華は歩き出した。静影にも、言いにくいことはある。韶華も伝えたいことがあったが、向き合ったまま話せる内容ではなかった。
濃い栗色の結い髪を追って、静影も歩き出す。ふたつの髪の揺れに、軽やかさがないのは、感じていた。
「韶華、どうした」
「静影こそ、なにか……考え込んでない?」
「……少しな。黒風が条理の合わないことをする理由を……考えている」
「それって、あの白い壁を黒衣で越えてきたひとのことかな?」
「うはあっ? 誰ですかっ」
飛び退いたふたりの背後に、にこにこと笑う男が立っていた。
言葉は正しく棠梨のもの。ただし、明らかに西方の血を引いている。決して大柄とはいえないが、手の細かな傷は、長く戦ってきた兵であることを示していた。
敵意は感じないものの、いつから背後に居たのかを思うと、静影はぞっとするのを止められなかった。
「驚かせてすまないね。もしかして幽会だった?」
「不然!」
ふたりの声が重なるほど、明らかな否定。
しかし、男は顎に手をあて頷いている。そして、まあ否定はするよねえとかなんとか呟いている。話を聞かない類のひとのようだ。
「ぼくも覚えがあるなあ。最愛と偶然会ったのを見られて、慌てて否定したっけ。ただ朋友には、抜け駆けしたと思われたらしくて、しばらく不顧されたよ。真実、偶然だったんだけど。でも最愛を得たのは、ぼくだから……ぼくだって彼の処境にいたら、同じことしたかもなあ」
ついでに、とてもお喋りである。
「あとで最愛に怒られたよ。どうして反駁しないのかって。そうしたら、和好だってできたのに……ってね。きみならどうする? きみが怒られるのを受け入れないと、事が済ませられないとなったら。きみには係わりのないことだって、みんなが知っているのに、きみだけが責められるのは」
「あー……ええと、それって開首から収める法子が正しくないと思うのですが」
「どんなところが?」
男の艶のある黒炭のような目が、韶華を見つめる。
「それは……事を済ませるのに、係わりのないわたしで、どうこうって……考えが軽すぎるし、それは東西を抛り出しておきながら、流すのは嫌だと言っているように思えます」
勢いに呑まれ、答えはしたが、なんでこんな話をしているのかと思う。男が言った、壁越えの黒衣が気になるにも拘らず、である。
男は眼角に小さなしわを寄せて笑った。
「きみの答えは、答えがまだ出ていない、ということだね……いつか聞かせて欲しいな、正しい答えを思いついたら」
「考えておきますね……ところで、訊きたいことが」
「黒衣のひとのことだね?」
男は韶華から静影に視線を移した。
「壁が白いと、夜でも微かな光さえあれば、影ができるよね。醒目なのに、なんで黒衣で来たんだろう」
「そのあたりの事情は、今はとくに知りたくないのですが」
「そっか、ごめん。彼は窮鬼と呼ばれるけど、ぼくが見た限り、かなり能手な武人だね。だからきみが、条理の合わないことする彼を古怪に思うのも分かるよ」
「窮……窮鬼? 黒風が?」
「小さな子は、そう思ってるよ」
韶華は、男の言葉に反応できなかった。
いきなり飛び出した窮鬼の呼び名は、苛烈な目をした男とはつながらない。けれど、いつだったか瑠璃が言ったのを覚えている。窮鬼は瑠璃の青い目に驚かなかったと。
そしてまた、男の言う小さな子は。
「等等、中途で口を挟んで悪いのだけど、静影、このひとの言う黒衣が、黒風だって思うのはどうして。あのひとが、ここに来ていると思わなければ、そんなこと考えないよね? それと、あなたは瑠璃と会ったの?」
韶華の視線をまっすぐに受け止め、男は微笑んだ。
「あの子はずっと、きみを待ってる。ぼくは口訳をしてるんだよ。クシネーがあの碧眼を見たら、係わろうとはしないからね」
「口訳……! じゃあ、わたしを向導できる?」
「今は不成だね。ぼくにも口訳すること以外は、許されていない。だけど、なにかきみのものを渡せると思う」
「それなら……」
韶華は、結い髪につけた飾りを取った。彩色の紐を花紋に結んだ、揃いの髪飾りである。
「精彩な飾りだね」
「それはもう! 杜姐妹愛用の品、膠固な武人も、褒めざるを得ない逸品ですし」
「誰かに対する棘を、ものすごく感じるけど……」
男は黙り込む武人に、会えて良かったとささやいた。
「きみにはきっと、全てが見えている。ただ、見えているものを、きみは正しく並べられているのか、判断できないでいるんだ。でも信じてもいいと思うよ」
「なにを」
「きみを」
応えられない静影に、男は再見と手を振った。握られた韶華の髪飾りが、武人の心の中を揺らす。
「韶華……」
「古怪なひとだね。でも、ああいうひとに、側についててもらえて良かった。瑠璃もきっと寂しくないと……なに?」
「黒風は、ここに来ている。それも、おそらく禁軍として」
「え……っと、それは」
「なにがあってそうなったかを、今考える必要はない。瑠璃を取り戻すのが先だ。だから詳しい話は、取り戻してからする。ずっと……係わりないと思い込もうとしていたが、俺が過錯していた……」
僅かに間を置き、韶華は頷いた。理由も事情も、あとで良い。まずは、なにをおいても幼い妹を取り戻さねばならない。
その具体的な策のためには、クシの者の協力が要る。
韶華は西回廊に戻るのではなく、兵舎に向かった。王子という位にあっても、彼は多くの時間をそこで過ごすと言っていたからである。




