毒花隆重之苑
物珍しそうに歩いているが、彼にとって、クシにそれほど惹かれるものはなかった。変わった匂いも、見知らぬ花もあったけれど、香料として使いたいとは、思えなかったのだ。
王重明は白い壁を見上げつつ、大きく息を吸い込んだ。
それにしても、である。
棠梨という他国の男が城内をうろつき回っているのに、誰も咎めない。兵士たちと目が合うのも、一度や二度ではない。彼らはまるで、重明を見なかったことにするが如く、目を逸した。
これが棠梨であれば、怠けていると叱責するところだが、今は自由に歩き回れるという利点を捨てる気はなく、重明も兵士たちを見なかったことにした。
構っている暇はない。彼は、見つけなければならないのだ。
とても重要で、大事なものを。
ぴたりと壁に張り付き、鼻先を寄せる。流れてくる微かな風に乗って、求めるものが、強くなる。
「近い……近いぞ」
自身の行動が、かなり変わったものに見えると知らず、香試はフレイ城の奥に入り込んで行った。
***
後宮とは呼ばれるものの、王族の女たちが城の奥に住まうというだけで、禁断を思わせるような場ではなかった。
つまり、女人と目が合った男は斬首、という考えは捨てても良いわけである。
とはいえ入る者が、城内のどこよりも厳しく限られているのは、間違いない。香を届ける韶華を案内したジャイは、兵士に止められてしまった。
「通せないとは心外です。私はクシネーであり、通訳として選ばれたのですよ」
「それでも、通すことはできません。ここでお待ち下さい」
「棠梨の帝からの贈物を、貴き血に仕えし妃の方々に、なんの言葉もなく、渡せというのですか?」
「しかし……選ばれた使者ならば、少しはできるのでは?」
少しどころでなくできるが、韶華はできない振りをした。
「チョーカタコトッ」
やりすぎたらしい。ジャイも兵士も、これで選ばれたとか新鮮、という顏をしていた。
隠したいことのために、ジャイを入れたくないのか、それとも言葉のできない者の方が都合が良いのか。結局、韶華はひとり、後宮に入ることになった。
「断られてしまいましたね……私は、ここで待ちましょうか?」
「それには及びません。戻って休まれると良いですよ」
一瞬、間を置いてジャイは承諾した。
韶華の短い言葉だけで、兵士が棠梨の言葉を理解している可能性を考慮しなければならないと、気づいてくれたようだ。
「では、私は戻りますね。今天は忙しかったので、ゆっくりと我が最愛に思いを馳せることに致します」
ジャイが離れると、兵士は後宮の扉を開けた。
それまでが暗かったわけではないが、急な煌きに包まれたような気がして、韶華は目を瞬かせた。
否、煌きは事実――眩いばかりの明るさが、そこにはあった。
回廊の片側が、全て窓になっている。それも、ひとの大きさを越える窓だ。
差し込む光が内壁の白さを際立たせ、なにもかもが輝いて見える。
だが、よく見れば窓の外には、白い壁が立ち塞がっている。棠梨でいう影壁のようなものだが、白さで陽光を反射し、塞がれた印象を与えない。
窓から見えるものを諦めても、明るさは譲れない。北国の光への執着が、目の前に広がっていた。
(すごいなあ……この眩しさのためだけに、白いのかな……)
感心する韶華の後ろで、扉が閉まった。
と同時に、女官らしき一団が、奥から歩いてきた。後宮を守る衛士であろうと、クシの女たちは、男に姿を見せないようにしているようだ。
韶華は言葉が分からないという設定なので、微笑みを浮かべ、棠梨の拝礼の形を取る。
応じたのは、先頭を歩く女官だった。
「遠き国より、ようこそ香りを為す者。珍しきものを棠梨の帝より贈られるのは、喜びに絶えません」
最初に使われたのは、先ほどの韶華のカタコトより、ずっとすべらかな棠梨の言葉である。
もっとも、できるのはそこまでで、すぐにクシの言葉に戻った。
「こちらへ。スゥグジェン様がお待ちです」
女官たちが歩き出したので、韶華も黙ってあとに続く。そうしてついて歩きながら、スゥグジェン、と声なく呟く。
(向導されるんだから、後宮の主は……そのひとなんだろうけど)
王ピアグダンの妃、すなわち王妃は、かなり前に亡くなっている。
だから、前王の王妃が権威を持つのは、あり得ることだ。
(でも、スゥグジェン様って……廃妃、だよね……?)
正妃から碧眼の息子を得たいがため、捨てられた女。それがまだ後宮に居るというのは、どう考えてもおかしい。
しかも次に正妃となった女性は、まだ存命である。彼女でも、王太子フジュニの妃ギリアでさえなく、廃された王妃が主とは。
疑問を顏の下に隠し、広間に入る。特別な部屋であるのは、急に毛足の長い絨毯を踏んだことで感じた。
「ようこそ、棠梨の御方……まことに女人なのですね」
声に蔑みが混じる。なにを疑っているのかは、明らかだ。
太監は、宮城の外には決して出ないのだ、と説明してやりたいが、韶華は微笑みだけを返した。あくまでもクシの言葉は、分からない設定である。
「香試副手、杜韶華が申し上げます。棠梨の一人より預りしこの香こそ、クシの貴き妃への贈物にございます。甘く花のように香り、それでいて、あえかな辛さを含み、冷たさを暖かさに変じる珍品。ひとの肌理によって香りを移ろわせ、なんびとたりとも、香りの重なることがありません」
「この者は、なんと言っておるのだ」
「珍品です、と」
省きすぎだと言わなかった韶華を、褒めて欲しいものである。笑みの下に隠すものを疑問から忍耐に置き換えて、匳を差し出した。
繁雑な規則は、後宮にはつきもの。匳が女官たちの手から手へと移る間に、韶華は並ぶ妃たちを見た。
僅かに中央を空けて、女たちは椅子に座る。隙間は、当代の王妃がいないという敬意なのかもしれない。
匳を最初に取った妃が、おそらく廃妃スゥグジェン。ほぼ中央、西寄りに座り、老いを感じさせない美貌を堂々と晒している。
東側に座るのは、衣装の華やかさから、王太子妃ギリアだろう。薄い羅で口許を押さえている。
どちらも韶華の祖母くらいの年齢なので、間違いないはずだ。
対して、スゥグジェンの隣に座る妃は、祖母というには若く、母というには老いている。新たに迎えられた正妃、ウイケと思われる。
本来なら後宮の主となるべき女性だが、まるで消え入るような存在感のなさだ。
王となるべき碧眼の息子を、罪人として失ってしまったことが、影響しているのかもしれない。
(それにしてもなあ……名乗りもしないって、すごいよね)
妃たちは韶華など、目に入っていないかのようだ。
することもなく、視線を泳がせる韶華に、ひとりだけ微笑む者がいた。それが、ギリアの後方に座る女性だ。
ギリアより若い。ただし、ウイケほどではない。女官ではないのは、衣装から分かるが、儚さはウイケ以上。
判断に困るものの、ある面影から、王太子フジュニの妾、チャチャカではないかと思い当たった。
(セレウ王子の老太婆……かな。眼角から耳までの形が、似てる)
しかしながら、微笑みを向ける理由が、セレウから伝えられているためだとしたら少し困る。瑠璃を見つけるまでは、韶華が誰か、知られてはならない。
(露見するようなこと、しないとは思うけど……)
セレウという男の性格と、目の前の儚い女性の様を思うに、優しさから微笑むのだと思いたいが。
「まあ……! 身に着けると、香りが変わったわ」
ギリアが驚きの声を上げた。
「なんて甘い香りなのかしら……若さを取り戻したようだわ。わたくしは、なにもしなくても、肌から花の香りがすると言われたものよ」
「老いとは悲しいものね」
スゥグジェンが低く笑った。
ギリアもまた、笑う。
「もう、失うものがないというのも、悲しいことですね」
「そうね。わたくしは、あとは得るだけですもの。さぞかし辛いでしょうね。貴女は、彼のために失わなくては、いけないのですから」
チャチャカとウイケが、口許を羅布で隠し、目を伏せる。女官たちは、無表情を努める。
韶華だけでなく、居る者全ての目に、ふたりの女の剣戟が見えているようだ。
(どうして、同じところに住まわせるんだろうね……)
王族の女だからといって、この城以外に住めないわけではない。実際、最も高貴な血を持つと言われるアイシラクトゥの王女は、領地に住んでいる。王太子と、王の妃たちが、同じ宮城にいなければならない理由は、ないように思えた。
(棠梨だって、掖庭はひとつだけどさ……分けられては、いるよね)
皇后は女主として掖庭を支配するが、東宮の後宮は、皇太子妃が治めている。
そして掖庭に住む公主たちも、皇后の下にあるとはいいつつも、治める責任は別のところが持っている。
クシの女たちは、ここで蟲毒でも為そうというのか。
居たたまれなくなって、韶華は、言葉の通じないふりを使って、厚かましさを表に出した。
「スゥグジェンさま、ここはあまりに美しい城で、感動しました。心目が震え、新たな香の印象が湧いてくるのです。ああ、隅まで見て、もっと感動したい! どうか、白い輝きの奥まで見せて頂ければ、天にも昇る心境になれましょう」
「この者は、なにを言っておるのか」
「城です、と」
通訳を変えろと叫ばなかった韶華を、神のように讃えて欲しい。
視線に呪いを込める力を、父親から譲られていれば良かったのに、と思いつつ、韶華は女たちの宮で、虚しい時を過ごさねばならなかった。
***
「ねえ、叔叔……なんだか、ひとの気息がする」
膳食を終え、瑠璃は窓から外を覗こうとした。
眩しい白い壁があるだけで、見たいものは見えない。無用とは分かっているのだが、外のざわめきが気になって、諦められない。姉が来ていると思うと、待ち切れないのだ。
「いつ、会えるかなあ……」
「もうすぐだよ。きみのことを、強く思っているのが分か……」
寝台に寝そべっていた男が、ひどく迷う表情を見せた。
上身を起こすか、起こすまいか、決めかねるような動きを忙しく繰り返す。
「叔叔、どうしたの?」
古怪に思った幼い少女が、台階を下りると同時に、扉の閂が激しく弄られる音がした。鍵を持っていない者が、扉を開けようとしているらしい。
姉ではない。韶華ならば、きっと音も立てずに開けられる。
青い目の男でもない。彼は鍵を持っているのだから。
では、膳食を下げにきた使丁か。今まで、こんなにうるさくしたことはなかったけれど。
瑠璃も右に左に歩き回り、どうしようと思ううちに、どこかで聞いた声が、扉の向こうから響いた。
「これで私を止められると思うなッ」
「あれ? ええっと……誰だっけ。えっと……」
「瑠璃、今、そこにいる侵入者は、知ってるひとなのかい?」
シンニュウシャは知らないが、声は確かに聞いたことがある。
「うん……あっ、怖いひとより偉いひと! 瑠璃の白屋にも来たよ。蕣姉に、お届けものって」
名は思い出せない。良い香りがしたことだけは、覚えている。
瑠璃の嬉しそうに頷く姿を見、まあいいか、と呟いて男は扉に近づいた。
重そうな扉が、大きく開く。
「見よ、我が智慧の勝利だ!」
懐かしくさえ思える棠梨の衣を身に着けた男が、そこに居た。輝く目光に、鼻から荒い息を出した姿は、差錯なくアレ――思い出せないひとである。
「おお……やはりここに! 見よ、我が鼻腔を欺くことはできぬッ。迷うことなく見出したり! 嗚呼、芳しき香魂を持てる、花仙子の具現たる幼子よ、お探し致しました……!」
会うのも第几次であれば、香りのする男の言が、まだまだ続くと瑠璃も知っている。なにを言っているか分からないので、聞いているしかないという理由もあるにせよ、喋り終わるまで待った。
ちらと口訳の男を見ると、初めての遭遇に戦栗を隠せないらしく、困った表情でうろうろしていた。
「怖くないよ?」
「ええ、怖がらせるなど、もってのほか! しかし、嗚呼、可憐なことよ、凍てつく国土に拐かされるとは! 壮健そうで、少しは放心致しましたが……北の怪も、それなりに礼節を尽くしたとみえる。クシの扮装も愛らしいですな。令姉も、真に会いたがっておりますよ」
「韶姉っ? 韶姉はどこにいるの? ここ……ここに来てるのね?」
瑠璃は男の袖を握り、急かすように揺らした。ずっと抑えていた、帰りたい、という思いが、あふれ出した。
「ええ、迎えに来ておりますよ」
跪いて幼子の涙を拭き取り、香り男は微笑んだ。
ただし、笑みが拭った手巾に向けられたものに見えたのは、口訳の気のせいではあるまい。
「韶姉のところに、瑠璃を連れてって、令令」
手巾の匂いを確かめてから、香り男は、すっと表情を改めた。
「そうしたいのですが、難点があるのです。クシの怪は、貴女を宮城に連れて来てしまった……その做法は不見識ではありますが、客人として迎えられた小生が、軽易に係われることではないのです。つまり、解説もなく……貴女をここから出せないということになります」
「瑠璃……もう、帰れない……の?」
「否! 小生からできないというだけで、クシに、させることはできます」
言いながら、香り男は小さな幃を瑠璃に渡した。
「令姉は、必ずや貴女を迎えに参ります。ですからあと少しだけ、お待ち下さい。そしてもし、クシの者が横逸であると思いましたら、これを口に含み、吹きかけてやりなさい。全ては意志のままとなりましょう」
不成なものじゃないのかそれ、と口訳が呟くのが聞こえた。
「クシが香試を知らぬとは、好在。小生としましては、自身がやりたいくらいですが……棠梨の一人に仕える身は、私下に動けないもので」
告げる面貌は、故人も驚くほど認真なものだった。
「番兵が来た」
口訳の男の鋭い声に、香り男は袖を翻して立ち上がった。
「では……ではっ、去るのは惜しいですけれども、ずっと側についていたいけれども……嗚呼、しばしのお別れです」
「令令……」
「何者か! 怪しいやつ、どうやってここに入った」
開いていた扉の外から、番兵が叫んだ。彼らでさえも入ってはいけない室に、見知らぬ男がいれば、焦慮も当然である。
「そう喚くな。私は香を探求せんと百年を捧げ……無状だろう、手を離せ!」
「うるさい。後宮の門番どもは、なにをしていたんだ。変な男を入れるとは……」
「妃の方々に、香を持ってきた者では?」
「それは女だと聞い……これ、もしかして女なのか?」
「えっ。そんな……」
番兵たちの視線が、なにか期望を失ったようなものになった。
「なにか聞き捨てならぬことを言われた気がするぞっ」
「うん、いいから帰れよ、な?」
「なにを言っているか、分からぬ!」
やがて、男たちの互いに通じていない怒声が遠くなる。響き渡る騒がしさが消えると、室内には静けさが戻った。
口訳の男は大息を吐いて、腕のなかに抱えていた幼い少女を離した。
「なんだろね、あれは……香試は、香りを配方するひとだったと思うんだけど」
「そうだよ。あの令令、佳い香りがするんだよ。ふうう……って、やってみて。すごく……」
微かな懐かしい香りが、今、ここに姉のいないことを教える。
この香りがして騒いだあとは、静影か韶華が、瑠璃のところに来るはずなのに。
居ない。まだ会えない。
と思った瞬間、丸い頬に涙がこぼれ落ちた。
「瑠璃……」
嗚呼拭わせ給えとまた声が響く。口訳の唇が、令人不快的と形を作るが、声は出さなかった。
彼が気にするのは、離れる兵士でも怪しい声でもなく、室内の隅。そこに向けた視線は、幼子には見せられないほどに鋭い。
問いかけはしない。黒い影が幼い少女を見つめている間は。
涙を拭くために手を上げて、瑠璃がそれに気づいた。
黒衣の影。苛烈な目をした男の姿が、涙で潤んだ眸のなかに映っていた。
「窮鬼……」
窮鬼、と口訳の男が繰り返すのを後面にして、瑠璃は大きく口を開けた。
窮鬼が、来た。ここはクシなのに。
あまりの事実に、姉に会えない寂しさも、どこかに飛んで行ってしまう。
「ど、どうしたの、窮鬼……ここ、蕣姉のいる宮城じゃないよ?」
「分かっている」
黒衣が揺れる。答えるつもりはなかったかのように。
けれど、瑠璃は続く言を待って、首を傾げた。
大きな青い目を見返す黒玉の冷たさは、すぐに逸され大息となる。こうなると、もう返ってくる言は、なさそうだった。
「瑠璃、このひとって、窮鬼なのかい……?」
男のささやきの小ささに、瑠璃も応じて微かに頷いた。
彼は正しく窮鬼である。ほかに見たことがないし。
幼い少女の得得な笑みを、どう取ったのか、黒衣が告げた。
「韶華を待て」
「……うん」
短い言だった。それでも言いたいことは分かった。
姉が来るまで、泣いてはいけない。
瑠璃は誓いのように、涙を拭いてみせた。
「あ……いなくなっちゃった……」
視線を外したのは、瞬刻だったはずだが、黒衣の影は室内のどこにもない。
そしてまた。
「叔叔……?」
口訳の男もいなくなっていた。
もっとも彼は、常に室内にいるわけではないので、不放心はない。戻ってきてくれるという信心もあった。
瑠璃は、香り男から渡された幃を口袋にしまい、待つことにした。
韶華は来ている。すぐそこに。
もう、泣く必要はなかった。




