必然冷待、偶然遇上
「ねえ、クシの王さまとは、会えなかったって、聞いたけど」
図片をひらひらさせた韶華は、香試たちの控える客間に入った瞬間、一斉に浮かない顔を向けられた。
これは不妙と思う間もなく、王重明はわざとらしく顎を上げ、固い笑いを浮かべた。
「愚か者。棠梨の一人からの使者であろうと、当面に一国の主に見えるのは、軽易に為せるものではない。謁見は、我らが坏心を持たずして来たことを、清楚にさせてからだ」
それが政治と言われると、まあそんな気にもなる。
ただし、静影の紫石の双眸が曇る様からすると、では、どうやって清楚にするのだ、と問うのは控えなければならないようだ。
「まあ、我々も王の臨席しない理由は、理解しているのだ。だがッ」
「だが?」
「香だけ寄越せと言うのが、気にいらぬッ」
韶華が驚きを口にする前に、口訳として同行したジャイが、解説を加えた。
「棠梨の使者さまが思う以上に、香が喜ばれたんですよ」
静影も割って入った。
「おまえの説法は下拙すぎるぞ、重明。口舌するだろう。向こうは、香を寄越せと言ったわけじゃない。妃たちが香を欲しがるだろうと言ったんだ」
「うむ。王太子のなんとかがな」
「そこは正しく覚えろ」
王族の名を覚え損なったのは、重明も分かっているようで、静影から視線を逸した。そして、にやにや笑う韶華と目が合う。
「なんだ?」
「王太子、フジュニ」
「わ……分かっているッ。覚えてるだけで、自尊するなッ! それに、おまえには過ぎたる任が、課せられることになったぞ」
「任って……困ったな。わたしでないと、不成ですか?」
「うむ。我らも性別を偽るわけには、いかないのでな」
「性別……?」
香。妃たち。性別によって、韶華にだけ課せられること。
ばらまかれた言葉が、ひとつにつながり、韶華は理解した。
「もしかして、後宮に……香試として香を届けろってこと?」
ジャイと静影が、大きく頷いた。
北の国、クシにおいて香を最も重んずる者は、王より妃であった。
もっと正確に言えば、夫より妻である。
複数の妻を持つことができるクシでは、どうしても女たちは夫の寵を競うことになる。
そして夜の長い冬を過ごすゆえに、クシの民は直に感覚に訴えるものを好んだ。
たとえば柔らかな羽枕、暖かな毛毯、甘い食事に誘惑の香――
このうち、クシで最も手に入れ難いのは香である。やはり香料の豊さは、南方に優るものはない。
だからクシの女たちは、ひとりの男を虜にするために、香を得ようとする。後宮であれば、なおさら強く欲しがるだろう。
「後宮に入れる……」
セレウによれば、攫われた瑠璃は王にもなれる価値がある少女なので、後宮に隠される可能性は高いという。
クシの後宮は、棠梨と違って男子禁制に徹しているわけではないが、それでも、他国の者が容易に入れる場ではない。
棠梨の皇帝がクシの使節の返礼として香を選んだのは、自身が好むものというだけでなく、奥まった場に住まい、表に出てこないクシの女たちに、韶華が会う口実を与えるためだったのかもしれない。
(まあ……それは良く考えすぎかな……)
黙った韶華に、説明したくなさそうな顏で、重明は告げた。
「来てみて分かったが、クシでは、香試というものが珍しいようだな。王太子に、どのような行であるかを尋ねられた。それを解説しているうちに、棠梨の香試には女人もいるという話になった」
重明は、おまえは仮の副手でしかないがな、と小さく付け加えた。
「それを聞いて……女人が配方した香なら、妃が喜ぶだろうとかなんとか、王太子だけでなく、相公らしき者たちも言い出したのだ。なにやら、おまえの香だけ要求されている気がしたので、連れて来ているのは、副手だと申し上げた。だがもし、妃たちが可心したなら、王の謁見を勧めるだろうと仄めかされてな……」
「あれは、クシの説法でも、わりと清楚に要求していましたよ」
ジャイが説明を添える。
ただ、クシの習俗からすると、男たちが、女の意見で行動を変えるようには思えない。妃によほど政治力があるのか、王が頼りきりなのか。
韶華の考えを読んだかのように、静影が首を傾げた。
「ジャイ。妃たちを通し、王になにかを求めるのは、平素のことなのか?」
「直率に言えば、否です。ですが、ああもあからさまに言うのであれば、すでに決まっていたことかもしれません」
「ええ……だって、わたしが居るなんて知らなかったわけでしょう。まさか後宮に男を入れて、不義だあー斬首ッ、ということは……」
「ないです、ないですよ、いくらなんでもっ。そういう借口なら、後宮を使わなくても、できるじゃないですかっ」
それも嫌な話である。回廊を行く女官に話しかけたら、斬首。女官と目が合ったら、斬首。とても怖い。
暗い顏をする香試たちをよそに、静影は眉をひそめた。
「韶華に係わる謀略ではないのか? セレウ王子が、知らせていたかもしれないだろう。後宮とはいえ、韶華ひとりだけを送り込むのは……」
「徐将軍。たとえ貴公が同伴できずとも、私が行きますよ。口訳として」
「不要担心。後宮なんて、どこもそう変わらないって……ところで立即、行くべきなの?」
「急ぐべきだろう。行かねば、謁見がないのだからな。香なら、私の準備したものを持って行け」
重明は函の鍵を取り出した。
「それは……クシの王さまに贈るものではないの? 香料を使っていいなら、わたしが配方するけど」
香のこととなると、迷于香たちは息を吹き返すらしい。さっと円陣を作り、中央に立つ重明に向けて袖を震わせた。
「副手が作るまでもない! 王香試を侮るなかれ!」
「予め準備した香は、百。順路で集めた材で試作した香は、五十。これをもって、我らは香之最を作り上げるのだ!」
「ああ、そう……」
介士たちをどれだけ困らせたのかが、よく分かる。五十も試作できるほど、香材を集めていたとは。
香之最、香之最と叫び、拳を振る香試たちを残してゆくのは不安だが、女にしかできないことなら、仕方ない。
韶華は図片を静影に押し付け、香を取りに行った。
***
韶華とジャイが後宮に向かうと、残された香試たちは、ふたつに分かれた。より正確に言えば、香の配方に従事する者たちと、香料を求める王重明である。
この場に静影が居たなら、そうはならなかったかもしれない。
だが、武人は己の部下の元に行っていた。武人として使節を守るために、することがあったのだ。
韶華から渡されたのは、軍事機密ともいえるクシの宮城図。後宮はこれから詳細が書き込まれることになるが、逃路などの確認には充分だった。
知らぬ者たちの支配する場を、知らぬままうろつく者がいるとは思えない。静影は、香試たちは部屋に閉じこもり、香をつくるのに熱中するものだと思い込んでしまったのである。
足取りも軽く、フレイ城を行く重明に気づいたのは、彼の見張り役を兼ねた侍童の幼い少年たちだった。
「待って、景景……消えちゃったよ、あのひと。どこ行ったの」
あと少し、というところで見失い、永児は傍らの友へと視線を移した。
景景は答えず、難しい顏をしたまま、回廊の先を見つめていた。
「不妙……あの迷于香どころじゃないかも……」
「どういうこと?」
「ここがどこか……分からない……」
「えっ?」
永児は急いで辺りを見回し、ひとのいないことを確かめた。
たとえ子どもであっても、他国の宮殿の中をうろついていれば、咎められることくらい分かる。見つからないうちに、分かるところまで戻らなければならない。
ただ、いつも平然としている悪童は、永児が思うより困った目をしていた。
「不妙な……外かと思って、下りて来たけど、違うのかも……ここの樓道、匂いがしないし」
「景景……まさか、鼻で探してるのっ?」
「ち、違うって! でもあれ……香試だけあって、珍しい匂いがしてるじゃん」
言って景景は沈黙した。永児もまた、口を閉じた。
クシの宮殿は、棠梨とは異なる空気で満たされている。その中で、少しでも佳い香り、知った香りというものを辿るのが、最も手早い探索法であることは、間違いない。
それではまるで狗、とは、言ってはいけない。
「まあ……狗だっていいか。探せるなら……」
「……だね」
少年たちは、さっと視線を交わし、頷き合った。
ここで言う探すは、香試を指しているのではない。彼らが罪を覚悟してまで、ついてきた理由、大事な幼い少女を見つけ出すことである。
「オレたちが見つけたら、韶姉だって、褒めてくれるよな」
「見つけるだけじゃないよ、取り戻すんだから!」
自分たちの位置さえ分からずにいて、取り戻すもなにもないのだが、少年たちは本気だった。
しかし心意気だけで進むのは、あまり上策とはいえない。行き止まりまで来て、揉めることになった。
「上に行こうよ。攫われた公主っていうのは、塔の上にいるものらしいし」
「もっと下を見てからでいいだろ。隠したければ、地下にある牢に閉じ込めるものだし……瑠璃にそんなひどいことしてるって、思いたくないけど」
口論は小さな声で為されていた。が、クシの宮殿に存在しない少年たちの声は、よく響いた。
重い金具の擦れる足音は、すぐにふたりの元に来た。
「何者かッ」
槍を突き付けられ、景景は番兵を睨みつつ、永児を背に庇った。
「生意気な。おまえら、どうやって入り込んだ」
兵の槍が軽く上がる。叩かれる、と景景は身を固くした。
「止めなさい。その子どもは、棠梨の者だ」
「こ、これはアーシムジィ・キアシム……」
大きな兵の背後から、すらりとした影が現れた。即座に兵が姿勢を正したのだから、かなりの高位にある者だ。
「脅かさないでやりなさい。彼らも、初めての城に迷ったのだろう。務めを果たすのは良いが、傷つければ、おまえたちが罪に問われよう」
「では……」
「私が西回廊まで連れて行こう。さあ……」
なにを言われているのか、全く分からないものの、男の口気は優しい。
差し伸べられた手に応じて、近づいたふたりが明るさの中で見たのは、声と同じく、身のこなしも優美な、壮年の男だった。
白いものの混じった金色の長髪を緩く、ひとつに編み、クシの国に入ってからよく見る長衣に、袖のない韋巾の短衣を重ねている。
そこここに居た民と少し違うのは、衣装の豪華さだろうか。長衣には金糸の刺繍が入っており、韋巾にも、さまざまな紋様が刻まれている。
柔らかな女性的な容貌は、杜家の父親を思わせた。あるいは、男の開かない目が薄い灰色をしていれば、似ていると言い切れたのかもしれない。
「もしかして令令の目は……見えないの?」
「景景ッ! 第一は、お礼だよっ。なんて言うんだっけ……」
焦る子どもらは、クシの言葉を思い出すのに失敗した。
代わりに男が微笑み、言葉を変えた。
「少しだけ……棠梨の言は知っているよ。我の目は見えないが、ここに慣れているから向導はできる。ついておいで」
「謝謝……」
「クシの宮殿に侍童はいないんだ。だから、声だけで……客と分かる。不久前に、瑠璃と言っていたのも、きみたちかな」
「令令、瑠璃を知……」
「そうです。香だけでなく、宝玉も贈れば良かったのに、って思ったので」
永児は景景を遮り、肘で小突いた。瑠璃を拐かしたのはクシである。その国の男に瑠璃について尋ねるのは、あまりにも危険だと教えたつもりだった。
小突き返されたので、景景は分かってくれなかったらしい。
「痛ッ、もう……」
男の目が見えないのをいいことに、少年たちの小突き合いが始まる。推して小突いて手甲や背に字を書いてみる。なにが言いたいのか、分からなくて怒る。
背後で繰り返される気配は、目が見えなくても内容が明らかで、男は忍び笑いを洩らした。
笑われてるぞ、露見してないか。そんなはずは。いやそうかも静かにしよう。
そういったやり取りの後、少年たちが急いで足並みを揃えるのも、男には楽しく感じ取れた。
内門のひとつを抜け、西回廊の下まで来て、男は立ち止まった。
だが景景には、男より僅かに早く、止まる理由が見えた。
「どうしたの、景景」
永児の問いに、友が黙って遠くを指し示す。彼方で手を振る人影があった。
「知らないひとだよ……?」
「オレたちに、じゃないよ」
景景に分かっていることが分からず、永児は首を傾げた。
男の知り合いならば、目の見えないことくらい、知っているはず。手を振って、どうしようというのか。
「きみたちには、なにが見える?」
「手を振るひとたち……」
男の問いに、景景が答えた。
「ああ、ひとりじゃない……? どんなひとだろうか?」
「令令より長輩に思える。どっちも武人かなあ……銀色の髪の身高のあるひとと、褐色っぽいの髪で壮実な……」
「あっちの大きい武人って……痩せ女を矯健にした感じだねえ?」
「そうかあ? 似てるの灰色っぽい髪だけじゃん。長くもないし。武人のが、もっと帥気だろ」
「そうだけど」
痩せ女、と男が困ったように呟いた。
クシに伝わる妖怪ではないので、分からなくて当然である。言葉通りに、痩せた女性と解釈すると、棠梨では女性が矯健になれば、武人も斯くやという姿になるのかと誤解しそうである。
「あ、痩せ女ってね、瑠璃の太君」
「父……女」
永児の解説では、混乱が増すだけになった。
「なんだかさあ……あのひとたち、令令を呼んでるんじゃないかなあ。手を振ってみたら?」
永児が止めるより先、景景は男の手を取り、振り返した。予想は当たり、嬉しそうに男たちが大きく手招く。
景景がそれを伝えるために振り仰ぐと、男はすでに微笑んでいた。目で見なくとも、彼らが持つ懐かしさは、感じられるらしい。
「向導は……いらないかな。オレたちより、詳しいもんな」
「きみたちの労心には、感謝するよ。でも、早く戻らないと、使者人士が担心するだろうね」
言われて少年たちは、はっとした。自分たちがしたのは、瑠璃を探すことでも、重明を見つけ出すことでもなく、ただ迷っていただけ。
戻らなければという焦りとは裏腹に、少年たちは歩き出す男が、待つひとの元に辿りつくまで、見つめていた。




