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順利入城

 エルデンゲ――クシの都の名を、棠梨(トウリ)の言葉で表すのは難しい。

 意味ならばわかる。不思議(エルデンゲ)、である。

 韶華(ショウカ)にとって、それは紙から得ただけの理解だったが、城門を見ると、まさにと思う。

 城郭からして、なにもかもが異なる。灰を含む岩でできているはずだが、その白さは、光を沈み込ませて不透明だ。棠梨で見かける岩に、あのような種類のものはない。あっても、柔らかすぎて囲墻(かこい)になど使えない。

 だから遮る白さは、壁であることさえ、疑いたくなる。都を守るという意図が見えないのだ。

 高さはあっても、とても薄く、多くの外城門が備えられているから、穴だらけの白い盛り山にしか、思えない。

 獣の巣(キュウ)とは、よく言ったものである。

 どこからでも入れるし、出られる。けれど、知らずに中に入れば、ただ喰われることになるだろう。

 韶華は後ろに座る父親をちらりと見た。

 これが、父親の生まれた国。棠梨とは異なる生き方が、通常となる国だ。

(やっぱり他の国なんだね。分心し(きをつけ)ないと不妙(マズい)ってことかあ……)

 間もなく棠梨の一行は、白い石像で飾り立てられた正門から、エルデンゲに入った。


 棠梨の宮都が甘河(カンカ)に貫かれているように、エルデンゲにも濠があった。街の中心にある宮殿を丸く囲み、幾重にも張り巡らされている。

 濠を越えるごとに橋を渡るのだが、宮門を前にした大きな濠には、掛け橋が据えられていた。

 もし城を落とすならば、ここが最初の難となるだろう。

 しかし今は、戦のために来たのではない。遠い異国の者というだけで、敵とみなす心は、捨てなくてはならない。

 クシの使節団の先頭にいた旗持ちと、先触れの男が進み出た。

「我らが王にお伝え下さい。遠き国に祝いの辞を届け、無事に任を果たしましたことを。さらに、大いなる返礼を頂き、棠梨の帝より遣わされました方々の来訪を、受諾し給うことを願います」

 返ってくる言葉はない。ただ、予め決まっていたかのように、クシの男たちは、ひとりを除き、全て馬を下りた。それは、馬車の中にいた者も例外ではない。

 下馬しなかった男、セレウだけが、棠梨の先頭にいる静影(セイエイ)の元までやってきた。

「我らが王の御意志により、御身らの入城を歓迎する。我らに続き、そのまま進まれよ」

 静影は戸惑う部下たちに、進めの指示を送った。

 クシの作法では、了承に言葉はいらない。頷くことさえ必要ない。セレウの微かに瞠目する様を横目に、静影は、異国の作法を教えてくれた韶華に感謝した。

 棠梨でしているような礼節をクシで守ると、却って侮辱に思われるから傲慢に、などという助言を信じるのは、難しい。韶華の才能を知らなければ、聞き流していたところである。

 ただ、この先においても、無礼とも思える態度で当たらなければならないのかと思うと、静影としては、少し気が重かった。

 もっとも、そんなことを考えているのは、静影だけかもしれない。

 韶華は、攫われた幼い妹のためだけに来ている。無礼上等は間違いないであろうし、使節の(かなめ)である香試(パフューマー)たちは、棠梨の一人(天子)以外に、ひれ伏すつもりはないのである。

 再びセレウが静影の元に来た。僅かに身構えてしまうのは、慣れないクシの言葉を聞き取らねばならない緊張のせいだ。

「将軍、使節の方々の車を内門まで案内するが、貴公らには、そのひとつ前の門で下馬願う」

「我らは、そこで待つことになるのだろうか?」

「いや、仮の兵営を用意してある。今日、侍衛として入城できる武人は、限られているというだけだ。王の御前に他国の武人が現れては、争いごとのようだからな。それに……姿を見られたくない者もいるだろう」

 ちら、とセレウの視線が後方の車に向く。

 隙間から中は見えないものの、そこにはかつてのクシの王族が乗っている。その娘の、(ほう)っておけば、どこに忍び込むか分からない少女も。

 静影は意図せずクシの作法を守り、黙って馬を進めた。

 クシの城の本体は十字の形をしており、それを円形の回廊でいくつも囲み、城壁の代わりとしている。

 クシの者たちが馬を下りたのは、一番外側の回廊。静影らの軍が下馬を求められたのは、そのひとつ内側だった。

 地上からでは分からないが、眺望塔から見下ろせば、その外から二番目の回廊が最も厚いのが知れる。そこが回廊として使われるのは上と下だけで、真中の階は、迎賓の間となっているのだ。

 そして、客のための部分は、東西と南、三つに分けられている。北側は倉庫であり、回廊からも繋がっていない。

 棠梨の西席は格上の者が座るものだが、クシにおいても、敬意をもって迎えるための場であるらしい。西側からだけ、中央の城に直に入れるよう、細い橋がかけられていた。

 ただし、それを通っても、三つの城壁兼回廊を越えるのは変わらない。近いとは言いがたいが、東側に居た場合、下りてまた上らなければならないから、まだ、楽といえる。

  棠梨の帝が宮都ではなく、水芳(スイホウ)宮に『キュウ』の使節を受け入れたように、クシの王も使節に対して、僅かでも離れていたい理由があるのだろう。

 いずれにせよ、迎えられる立場であれば、相手の国に合わせるものである。棠梨の使節は、案内人に従い、内門で三つに分かれた。

 謁見の間へ向かう、香試と侍衛の武人。

 仮の兵営に向かう、護衛の武人と荷運びの下人(したばたらき)

 そして、迎賓の間に入る、下級香試と随従の者たちである。

 韶華は香試副手(アシスタント)なので、迎賓の間へ移る面々に含まれている。拝礼の儀式に加わる必要がなければ、ただ、従僕について室内に入り、寛いでいれば良いわけだが、そうもいかない事情が韶華にはあった。

 クシの従僕が去ったのを確かめてから、香試に話しかけた。

「あのう……忘れ物があるので、一次(いちど)安車(ばしゃ)に戻りたいのですが」

「うむ、早く行くがよい。冒失(うっかり)児女(むすめ)だな」

 一言多いものの、クシの珍しさにはしゃぐのに忙しい官吏たちは、あっさりと許した。

 見向きもされないことを幸いに、韶華は急ぎ、階下へと走った。父親を安車の中に隠したままなのだ。

 動くなと言い含めたが、ここは父親にとって知らぬ場所ではない。懐かしさに誘い出される前に、回収しなければならなかった。

「お父さん……いる?」

 安車の隅に、尚紗(ベール)を巻きつけた父親が座っていた。

「どうしたの、それ」

下人(ウルチウェ)が、(なか)を覗こうとしたので」

「の……覗くっ? もしかして、見つかっちゃった?」

「逃げて行った。プィムールと言いながら」

「ぷいむる……」

 棠梨の妖怪痩せ女は、クシの水霊(プィムール)に変わったらしい。どちらにしても、ひとの身には、思われなかったということだが。

「棠梨が怪を招き込んだとか、言われないかな……?」

 尚紗(ベール)の霊鬼は、首を横に振った。

「悪いものを口にすれば、聞かされた者にも、悪いものが()く。だから彼は、きっと封口し(だまっ)ているよ。呪われたと、ひとに知られてはいけないから……」

「そ、そうなんだ……?」

「うん。呪われたと思っているはず。私が悪いものを口にして、聞かせてやったからね……」

 薄く笑う父親を見ながら、韶華は少しだけ、クシの下人に同情した。ただ仕事をしていただけなのに、妖しきモノに呪われるなんて。

 とはいえ、それで黙っていてくれるなら、韶華たちには好都合。クシに限らず、呪いとは、理不尽なものなのである。

「とにかく、わたしたちは女人ってことで(へや)をもらったから、そこで静かにね」

瑠璃(ルリ)を探したい……」

「分かってるよ。でもまずは、城の図片を描き替えるから、それが正しいか確かめてくれる?」

 尚紗(ベール)越しに、父親の目が瞬くのが見えた。いつ調べたのかという驚きだ。

 韶華は入ってきた門に視線を送り、肩を竦めた。調べる必要はない。見れば、分かるのである。

 宮城――フレイ城の構造については、父親もあまり覚えていなかった。ついでに絵が下拙(へた)すぎて、理解できるものではなかった。

 なので、まず古いクシの城砦を研究した書籍で知識を得、見れば図を描けるように準備した。そしてここで、このところかなり鍛錬を積んだ才能が、()いてきたのである。

(望舒(ボウジョ)党の預見(したしらべ)のあれこれが、中用し(やくにたっ)たわけですよ……言わないけど)

 韶華が描いたいくつもの図片を眺め、静影の紫石の(するどい)双眸が、虚ろになって行く様は記憶に新しい。

「図片さえあれば、みんなにも探してもらえるし……もしかしたら描いただけで、瑠璃の居るところが分かるかもしれない」

 隠す場は意外と少ないものである。

 もちろん、瑠璃がフレイ城に居れば、の話であるが。

「韶華……すまないね、お父さんは、おまえの才能を忘れていたよ。私も、略微(こまか)なところまで思い出してみる」

「うん。ここを知ってるのは、お父さんだけなんだからね。頼りにしてる」

 決意を込め、父娘は頷き合った。


***



 瑠璃はまた車輅(ばしゃ)に乗せられ、移動していた。

 どれだけの路程(みちのり)を進んだのか、幼い少女に分かるはずもなく、ただ、思うよりもすぐ、どこかの宮城に押し込まれることになった。

 毛毯(もうふ)に包まれていたから、真に宮城と分かったわけではない。

 ここではクシと呼ばれるキュウの、王が住んでいる場だと、教えられただけである。

 着いた時は深夜であったらしく、膳食(しょくじ)はでなかった。瑠璃は懐に入れた餠乾(ビスケット)を食べて、飢えをしのいだ。

 そのあとは膳食(しょくじ)がでるようになったが、それだけである。なにかをさせられるわけでも、するわけでもなく、もうずっと室内で(ほう)っておかれている。

 扉が開かないとなれば、できることはない。待っていればいいよ、という(ことば)を守るしかなかった。

 ふわふわと優しく頭を撫でられるのを感じ、瑠璃は目を覚ました。

 知らない国に攫われても、もう怖いと思わずに済んでいるのは、先の城にいた男が、ここでも口訳(つうやく)をしてくれているからだ。

 だが、彼のことは、いないものとして扱わなければ、近旁(そば)に居られないという。自由に話せるのは、ふたりの時だけ。

 もっとも、室内に入って来るのは、瑠璃を見ようとしもしない、そして全く喋る様態(ようす)のない使丁(めしつかい)ばかりなので、誰もいない模擬(ふり)をするのは易しい。膳食を置いて去る(あいだ)だけ、住口(ちんもく)していれば良いのである。

叔叔(おじちゃん)……早上好(おはよう)

「うん、おはよう。今天(きょう)は、きっといいことがあるよ」

「わあ、楽しみ」

 ぱっと身を起こすと、瑠璃は着替えた。その間、男は毛毯(もうふ)を被り、末端(すそ)をふらふらと揺り動かしていた。

霊鬼(オバケ)だぞー?」

「ちっとも怖くないよーだ。瑠璃にはねえ、お父さんがついてるからね」

「そうか。きみのお父さんは、強いんだね」

 男が大笑し、頭を出した。

 瑠璃は胸を張り、いつも姉がしているように、腰に手を当てた。

「信じてないね、叔叔(おじちゃん)。お父さん、すっごく強いんだよ? 瑠璃を欺負(いじめ)るひとを、ひとり残らず呪うんだから」

「の、呪うの……?」

「うん! 転んだり、指に(とげ)がささったりするの。痩せ女だから、できるんだよ」

「お父さんは痩せ女……」

 幼子には悪いが、男はよく分からない、といった表情をしていた。

「それにね、もしも、瑠璃が怖いなって思っても、冥鬼(おに)くらい、韶姉(ショウねえ)が処理してくれるし」

「すごいお姉さんなんだね。二姐妹なんだ?」

「ううん、三姐妹。蕣姉(シュンねえ)と韶姉と、瑠璃。蕣姉は、朱蕣(シュシュン)でお花の名。韶姉はね、韶華で、(そら)に響く、楽のことなんだって」

「そしてきみは、青い玉の名をもらった。みんな綺麗な名だ……」

 言いながら、男は照れる瑠璃の頭を、優しく撫でた。

「瑠璃……きみの待っているひとが、ここに来たよ」

真的(ほんと)?」

「ああ、強くて明るくて……真実(ほんとうに)青冥(あおぞら)に響きわたる楽のようだ」

「韶姉だ!」

 小さな窓は外を見るのに向いていないが、瑠璃は(ふち)に飛びついた。

 しかし、格子の僅かな空子(すきま)からは、白い壁が見えるだけ。もし、下を覗けたとしても、台階(ふみだい)が必要だった。

 灰心(しょんぼり)する幼子に、男はすぐ迎えにくるからと言った。

「少しだけ待っておいで、瑠璃……クシではね、美しい音(ボアジルガ)は魔除けなんだ。(エジェン)から与えられた守り(スゥン)を呼び寄せ、悪いもの(オルチン)を払い清める。きみにふりかかった悪いものも、きっと彼女が、取り去ってくれるよ……」

 男の言は、ほとんど分からなかったが、瑠璃は嬉しくなって笑った。

 姉の韶華を()いと信じるひとは、なによりも正しいのだ。

「うん、瑠璃……ここで待ってる。瑠璃が泣いたら、韶姉は必ず来てく……」

 男の手が、瑠璃を制した。

「瑠璃、ぼくを見てはいけないよ」

 男の視線は、固く閉じられた扉に向いている。ただ、見ているのは、扉のさらに向こうだ。

 (とき)としては、朝餐(あさごはん)使丁(めしつかい)が持って来るところだ。なのにこれまでとは違う、多くのひとの気息が近づいてきているのが、瑠璃にも分かった。

 恐ろしさから男を振り返りたくなるが、小さな拳を握り、耐えた。

 脚歩声(くつおと)は扉の前で、ぴたりと止まった。

 瑠璃には分からない(ことば)で、怒っているような声が聞こえる。声は瑠璃に向けられたものではないが、恐ろしさで涙が滲んだ。

 閂を(いじ)る音のあと、男がひとりで入って来た。

「失礼、(エジェン)より認められし青い目(ナサルニ・)の者(ニョンジャン)よ……」

 瑠璃を攫った男だった。

 明るい刻に見たのは、初めてとなる。瑠璃と同じ、青い目をしている。色は僅かに薄いが、青さは認錯し(みまちがい)ようがない。

 同じ青い目――それは、驚くというより、恐怖だった。理由は分からないのに、身躯(からだ)が震えてしまう。

 見下ろす男の視線が、瞬刻(いっしゅん)、揺らぐ。

 幼子の大きな青い目は潤み、噛みしめている丹花(くちびる)は紅い。握る小さな手の血の色は失せて、肌理(はだ)の白さばかりが醒目(めだつ)幼弱な(いとけない)少女の放つ妖冶(チャーム)は、正しく男を加圧していた。

「瑠璃、瑠璃、ヒカエヨって言うんだ」

 後面(はいご)で男がささやいた。

 いない模擬(ふり)はどうするのだろう、と問うより先、言がでた。

「ひ……ヒカエヨッ」

「はッ」

 呪言(じゅもん)の威力はすさまじく、瑠璃が呟くや否や、誘拐者(ひとさらい)(ひざまず)いた。

「覚えが早いのですね……幼すぎて、私の申し出が理解できないかと危惧しておりましたが」

「ヒカエヨッ」

「はっ」

 男は再び、上げかけていた貌を下げた。

 サテドウシタモノカ、コレダケオサナイト、イツマデマタネバナラナイノカ。

 知らない言で作られた低声(こごえ)が、誘拐者の口から洩れる。

 瑠璃は首を傾げ、男を見つめた。成人(オトナ)の話に口を挟んではいけない、という教えからすると、これ以上、ヒカエヨと言っては、ならないような気がする。

 瑠璃の視線に気づくと、(かどわ)かし魔は、その焦れたような表情を改め、皮相(うわべ)だけの笑みを浮かべた。

「いと貴き血の(すえ)、青い目の主よ、改めて、紹介致します。私はロホン。(ボアナイ)の血を持つ、ムングルクトゥの者。フミエクトゥの血に移りし王太子(ナーアガー)を、正しく受け継ぐべき者です。お見知りおきを」

 返す言は、瑠璃にはない。

 なにを言っているのか分からないが、難しい声の内、若紅(ロホン)という音だけが、明らかに違って聞こえた。

若紅(ロホン)……?」

 男が笑った。這次(こんど)は、坏心(あくい)がないように見えた。

「そう、私はロホン。シウンに瑠璃と呼ばれていたが……それが名か?」

 クシの男は、瑠璃が答えられないまま青い目を瞬かせているのを見て、己の吐く言葉が、全く理解されていないのだと、ようやく気づいた。

 そして、大息を吐きつつ身を起こした。

 呪言(じゅもん)が効かなくなり、瑠璃は睥睨する誘拐者を、見上げるだけになった。

 けれど、視線は外さない。なにを考えているのか知りたければ、目を見なくてはならない。ただし(サル)を除く――とは、姉の教えである。

 薄青い目が、見つめ返してきた。

「全くな……おまえは、自分の価値が分かっていないのだ。この国で、王家の名を与えられるという事実が、どんな意味を持つのか……青い目を顕現させ、血統の正しさを持っていること……それを私が、どれほど求めているのか。シウンだって、利用を考えなかったはずはない。おまえを使えば、正しき血だと認められるのだからな」

 幼い少女は、男の口から出る史雲(シウン)という父親の名が、苦く聞こえるのを、古怪(ふしぎ)に思った。

「どこで覚えた、ひとを従わせる言葉を。おまえが控えろと言えば、私は従わなくてはならないことを、確かめたかったのか? そうやって、おまえは願えばこの国の全てを、(かしず)かせることができる。私でもセレウでもなく、それは……おまえにだけ、可能なんだ。恐ろしい話だよ! 三代、いや四代を越えて、王妃の血に碧眼が現れるなど」

 知らない音の並びを聞きながら、瑠璃は、姉の教えの正しさを知る。対手(あいて)目光(まなざし)には、怒りと迷いと憐れみと、まだ幼子の知らない、なにかが混ざり合っている。

 だが、それは全て、瑠璃ではなく、男自身に向けられているのだ。

 だから多半(たぶん)。と、瑠璃は唇を結んだ。

 彼は真実、悪いことを考えて、瑠璃を(かどわ)かしたのではない、ような気がする。

 強い子だ、と後面から男が呟くのが聞こえる。そして、ささやきがあった。

「瑠璃、こう言ってごらん……」

「え、うん……えっと?」

 もごもごと言い始めた幼い少女のために、クシの男はまた跪いた。

「なにか欲しいものが、あるな……ら」

「瑠璃ヲイジメタラシケイッ」

 動きが止まる。それから男の目と口が大きく開く。

「えっと、シケイ。ヲ……ジメタラシケイッ」

 まだ動かない。

 もう一次(いちど)、言うべきか。

 もしかしたら、音が違っているのかもしれない。応じない男に困り、瑠璃は禁じられていたことを忘れ、思わず振り返った。

 口訳(つうやく)の男が、嬉しそうに独笑し(にやにや笑い)古怪な動作(グッジョブ)をしている。おそらく瑠璃は、正しく言えたのだ。

 クシの拐子魔(ひとさらい)は、封口し(だまっ)たまま(へや)を出た。

 大きいはずの背影(うしろすがた)が、ひどく小さく見える。どうしてか分からないが、瑠璃は、檻の外から獣を欺負(いじめ)たような心境(きもち)になっていた。


***


 棠梨の帝よりクシの王に香を贈るため、都エルデンゲに使節が訪れた。

 戦いによるものではなく、和平の儀として謁見が行われるのは、初めてのこと。

 珍しき香は、両国をつなぐ()きものとなるだろう。


 しかしクシの民(クシネー)が知るのは、そこまでであった。

 謁見の間にピアグダン王が姿を現さず、ある部分において棠梨に不審を、クシの貴族たちに動揺を与えたことは、フレイ城のごく一部にしか、広がらなかったのである。


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