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「かの国の祝辞に対し、我らが一人(天子)が特に感受したことを伝えるため、私に香を(たずさ)え、使節とともに問侯(伺侯)することを下命された。しかしながら、かような栄誉は、私ひとりのものではなく、香試(調香師)全てにかかるものである! 我らは、あらゆる努めを()ってして、御意に(かな)う香を配方(ちょうごう)し、北の国を驚嘆せしめんとす!」

「応ッ!」

 使節として選ばれた者たちが、王重明(オウ・チョウメイ)に答える。

 左の端から拳が重重(つぎつぎ)と上がり、また下がる。無用(ムダ)に美しい拳の波動(ウェーブ)を見ながら、韶華(ショウカ)は、ここが宮城の内であることを忘れそうになった。

 彼らの行いはともかく、沙棠(サトウ)宮の東側、蓬薬(ホウヤク)殿に香試が居るのは古怪(おかし)なことではない。皇族の下賜品を簿子(ちょうぼ)に記したり、選んだりする場なので、蔵を管理する者が居るのが通常だ。蔵には薬草園も含まれるので、当然のように、香試もいる。

 だが弄月(ロウゲツ)に呼ばれ、登城したものの、韶華を待っていたのは皇帝ではなく、変態だった。それも逸品の変態である。

 弄月が来ると信じて、膠固な(おカタい)武人が韶華とともに、身じろぎもせずに男たちを見ているのでなければ、とうに帰っていたところである。

 迷于香(香フェチ)の王――重明は、同事(どうりょう)の華麗な容止(うごき)中意(まんぞく)したようで、隅に()し、封口し(だまっ)ているふたりを見た。

静影(セイエイ)、そのような(カオ)をするな。準備にかける間は少ないが、誰もが驚く香を創ってみせよう」

「そこは分心(しんぱい)していない」

 とは言いながら、狷介な紫石の双眸が、朋友を見ることはない。

 静影の草率(ぞんざい)さに覚錯し(気づい)ているのか、いないのか、重明は大きく頷いた。

「香の秘方にまつわる書籍は、手に入れてあるゆえ、そこの小人(コドモ)の手を借りるまでもない。ただ、訊いておきたいのだが……天に咲く花蓮が如き純麗なる容姿で万世(たみ)をひれ伏させ、甘美な蜜に潤んだ青き目も愛らしく、身にまとわせた(かんば)しき香りを持つ幼女が、北の雪人(イエティ)に連れ去られたという風聞は……(まこと)か」

「それに、どう答えて良いのか分からん」

 静影は大息に続き、瑠璃(ルリ)が愛らしいのは正当(たしか)だが、と呟いた。

「しかし静影、そこは清楚に(はっきり)して欲しいのだ。キュウ、いや、クシに逸品の香を贈るのは可能だが、もし幼弱な(いとけない)子を守るというのであれば、持って行くものも変わるのだ」

「変えなくて良いと思います、王先生(さん)。だいたい、なにを作る打算(つもり)なんですかっ」

 韶華が口を挟むと、重明は下巴(あご)を上げて鼻を鳴らした。

「これだから外行(しろうと)は困る。皇上の御前で承ったことであるから、小人(おまえ)の随行も許すが、一時でも香試に仕えるのならば、覚えておくがいいッ。香の配方(ちょうごう)零活(細かな作業)に至るまで、経心(ちゅうい)を要する。上路(しゅっぱつ)明天(あす)であるのに、甘棠(カントウ)作坊(こうぼう)成品(かんせいひん)など、望むべくもない。半路(どうちゅう)の香材も使い、作り上げる預定(よてい)だッ」

「ああ、半路も……使う」

 山野里巷(山と里)(かかわ)らず、香となる得る材を求め、韶華が彼らに役使さ(こきつかわ)れる様態(さま)が思い浮かんだ。

「そんな暇ない……わけでもない、のかな。クシに着くまで、することはないし。中途で拐子(ひとさらい)の賊に追い付くか、瑠璃が見つかれば別だけど」

「なっ……やはり幼女は攫われたのか。甘棠に広がる匂いが薄いはずだッ。跡を追うのであれば、私に任せろ」

「居ないの、分かるんだ……」

 迷于香(香オタク)とは、どこまでも変態である。素養を、もっと正当に使えば良いと思わなくもない。

「ふたりとも、控えろ」

 謁者(呼出し人)の来るのを見て、静影がささやいた。

 武人らしい紫石(するどい目)()きに救われ、棠梨の(あるじ)の光臨までに、全ての者が控えの儀止(しせい)を取った。

「急ぎゆえ、そう畏まるな。そなたらをここに呼んだのは、暗地(ないない)行事し(ことを運び)たいがためだ。クシの使節とは、紫陌(郊外)で一同とならねばならぬ。明天(あす)には宮都を出門してもらうが……」

 弄月は一人(天子)(かお)をして香試を見た。

「王重明、準備に遅疑(おくれ)はないな」

「ございません。方才(たったいま)杜韶華(ト・ショウカ)に、我らが倣法(やりかた)を伝えていたところでございます。もっとも、この者が能干(ゆうのう)であるのは、不錯な(まちがいない)のでありますから、(もんだい)とはならないでしょう」

 褒めているように聞こえないのだが、韶華は頷いた。

(よし)。では徐静影(ジョ・セイエイ)、守候の兵は選んだか」

(はい)真誠(せいじつさ)を第一に、随分(そうおう)の者を。ただし、(シャ)公とは商量(そうだん)致しまして、彼には宮都の防護を頼んでおります」

「まあ、あれも(とし)だからなあ……」

「それも含め、残って頂くことに。クシにはまだ……彼を覚えている者がいるやもしれません」

 それから――と続く言を韶華は待っていたが、棠梨の武人は封口(ちんもく)した。真卒(まじめ)であり、膠固でもある(融通のきかない)男には、受け入れがたい言なのだろう。

 惑う弄月の視線が、韶華に向く。

 言いにくさは韶華もまた同じなので、片刻、寂静が大堂(ひろま)を制した。

「おまえたちに黙られると、欠佳(いや)な預感がするのだが……」

「皇上は、極了(じつに)英明であらせられます」

「褒めても東西(ものごと)は変わらんぞ?」

 それは、言え、と急かすものである。そして、聞いても追悔(こうかい)しない、と告げるものでもある。

 だから韶華は、(つと)めて平静にそれを述べた。

「特使に紛れさせるは、両名(二名)界限(げんかい)……ということですので、クシを知っている者を連れて行きたいと思っております、はい。よく知っている者といえば、クシの生まれの者となりますね。かような人物は稀ですが、謝公、禁軍の者の熟慮もあり、杜家の主が合適ではないかということで、頼みましたところ、快諾を得ました。つきましては、皇上の准許(ゆるし)期望(きたい)するものであります」

 直率(しょうじき)に言えば、杜家(ウチ)のお父さんを連れてくけどいいよね、である。

 弄月の面色(かおいろ)(うつ)ろいは見られない。思考に激しいせめぎあいのあることだけが、分かった。

 だが、どれだけ考えようと、否とは言えまい。元御史大夫と禁軍、侍衛の将までが尽心に(せいいっぱい)商定し(うちあわせ)後果(けっか)である。

(まあ、静影は断然拒絶(だんこはんたい)してたけどね!)

 不久(ややあって)、弄月は口を開いた。

「女兵に切合(てきせつ)な者は……いなかったんだろうね。あい分かった。(よかろう)

「容赦頂き、真に感謝致します」

 拝礼する静影と韶華。香試たちも、それに続く。

 固然(もちろん)、彼らのなかに、韶華とともに誰が随行するのか理解している者はおらず、ただ、(なら)っただけの動作だった。


***



 蓬薬殿に香試を残し、韶華と静影は昭彰(ショウショウ)殿に向かった。

 ひとつの難を越えたなら、次なる難を越えなくてはならない。

「弄月大人(さん)は、ついて来ないんだ?」

「皇上は、香試を送り出す儀など、多くの条理(だんどり)をこなさなければならない。宮城には、剛剛(ちょうど)お着きになられたばかりなんだ。俺たちが沙棠宮に入るまでに、戻られているはずが、遅到し(おくれ)たようで……」

 西門でのことを思い出したのか、紫石の(するどい)目が疲れた風色(ようす)を見せた。

「あらぬものの模倣を、要求されたらしい」

「ああ……皇上の一行は、北東の門から入ったんだ……」

 (まじな)いとして北東に掲げられたのは、雪人(イエティ)の図。門士たちは、皇帝を対手(あいて)に、通りたければ雪人の模倣(インプレッション)を、と要求したのである。

「けど、通れたんだよね。なにをどうすれば、雪人になるの?」

「俺もその場に居たわけじゃないからな……ただ、監門府の知己(しりあい)が言うには、破格の模倣だったらしい」

「そっか。破格か。弄月大人に、あとで訊いてみよう」

 静影が(よせ)と言うより先、樓道(ろうか)を行く(コウ)女史と女兵たちが見えた。

 韶華の姿を当先(まっさき)に捉えたのは、一直(まっすぐ)矩歩(あゆみ)を進める女官(じょかん)ではなく、ずっと攫われた幼子を気にしていた、女兵の韋翠雀(イ・スイジャク)だった。

 翠雀に教えられて、紅女史も視線をふたりに向けた。

「杜二女? 這次(つぎ)は、クシに向かうとか」

「はい。それで、お願いした配合(きょうりょく)ですが……」

「俺はここで待とう」

 大堂(ひろま)の戸口で脚を止めた静影に、女官は構いませんよと応じた。

「ことによると、書籍を運んで頂かねばなりませんので」

「書籍、とは韶……杜韶華に読ませるものですか?」

「そうだよ、静影。クシについての書籍を、集められるだけ集めておいて下さいって、封信(てがみ)を出したの。まあ、届けてくれたのは、晨風の使いのひとだけどね」

「それは禁……」

「まあ、いいじゃない、そこは。とにかく、わたしだって、お父さんの昔日の記得(きおく)だけじゃ、頼りないって思うわけで……とりあえず、あるだけの書籍を見ておこうと……理解は、着くまでにすれば良いし」

 内に入ると、積み上げられた書籍に埋もれるようにして、星江那(セイ・エナ)馬銀花(マ・ギンカ)が手を振っていた。

「江那さん、もう着いてたの」

小妹(おじょうさん)、ワタシは儀式をさぼたーじゅして、知らせに走りましたよ! 乗便(それから)、必要なのは、地史に関してだと思い、地図を兵営から、げっと(奪取)して来ました!」

「わたくしも、郷里(じっか)でよく読んだ書籍と……新しい臥遊図などを持ってきました。それから、頼皮(ずうずうしい)かと思いましたけれど、許婚者(こんやくしゃ)がクシの出ですから……向導(あんない)口訳(つうやく)を、お願いする封信(てがみ)を出しました」

 兵営からと聞いて、紫石の双眸が曇るが、韶華は天真(すなお)に喜んだ。

「ありがとう。地図も口訳(つうやく)も、とても助かる!」

「小妹に口訳は、要らないかと思ったのですけど……もし宮廷に行くのなら、正当な説法(いいかた)が分からないと、労苦があるかも、と」

「困らないのと、必要ないのとは違うから。分かるひとが居てくれると嬉しいよ。香試(調香師)のひとたちも、口訳(つうやく)は連れて行くと思うけど、わたしが使っていいとは限らないしね」

「それにしてもあすとにっしゅ(びっくり)です。小さい妹妹が、北方の妖怪に攫われたとは」

「星女士!」

 鋭い紅女史の声に、江那は回神(はっと)して口許を押さえた。

 瞬刻、張り詰めた風色(ふんいき)が広がり、それを緩めるように、紅女史は大息を吐いた。

「貴女は……いなかったのですから」

「申し訳ないです……」

 幼子が下落不明(ゆくえしれず)になった夜、後宮での()家の者たちの嘆きは深く、()えて誰も言わないようにしてきた。

 朱蕣(シュシュン)が今、ここに居ないのも、同じ理由だ。嘆きを伝えようとして、韶華の準備を妨げてしまうからである。

 翠雀が韶華の読み終えた書籍を拾いつつ、呟いた。

(あたし)たちは……小妹(おじょうさん)がキュウに行くと聞いてようやく、争気(げんき)を取り戻したんです。それまでずっと、狼狽するばかりで、なにをしたら良いのか分からなかった。大愚(ばか)ですよねえ、ただ迎えに行けば、良かったんですよ」

 クシと言わない翠雀の低声(こごえ)は、僅かに怒りが混じる。それでも幼い少女を(かどわ)かした賊と思えば、まだ優しい反応だったかもしれない。

 紅女史が(たしな)めるように、告げる。

「皇上の許しもなく、殊方(異国)に攻め入るようなことはできません……杜二女が離宮で商量(そうだん)したことで、動きが取れるようになったのですよ」

「まさに」

 紅女史の女官らしい正統な言ではあるが、応えたのは静影だけだった。女兵たちの視線から逃れるため、小さな咳で支吾(ごまか)した。

(ジョ)将軍。(あたし)たちが行けるわけではないのは、分かっていますとも。だからこうして、小妹の助けになろうとしているのです」

「すまぬ。考えが足りなかった」

 皇帝の侍衛の武人が、直率(すなお)に謝るのを聞いて、女兵たちは目を丸くした。

「まあ、驚いた……謝って頂く打算(つもり)ではなかったのですが」

「静影は、そういうひとなんだよ」

 どこか得色(とくいげ)に韶華が言うと、翠雀は笑った。

「ですね。徐将軍なら、小妹を守って下さいますね。あの、それで……いらぬことかもしれないんですけど、(あたし)、大学にも伝えてきました。小妹が、クシ……について、いろいろと必要としてるものがあると」

「ありがとう。書籍は、品類(しゅるい)があればあるだけ助かるよ。まあ、牢騒少女(パーティクラッシャー)配合(きょうりょく)してくれるひとは、李潭(リ・タン)くらいだろうけどね……」

 不意に、韶華の胸が懐かしさで埋まった。

 牢騒少女(パーティクラッシャー)と呼ばれた日を、そんなふうに思い出すのは、古怪(ふしぎ)としかいいようがない。

 だがあれも、愛すべき家常(にちじょう)だった。またしばらくは宮都を離れ、(いつも)からは遠くなるけれど。

(でもそれは、瑠璃も同じ……瑠璃を家常(ふつう)に戻さないと、わたしの、わたしたちの家常(にちじょう)もないんだから)

 韶華は立ち上がった。

大約(だいたい)見終ったから、大学に行くね」

「韶華、左側の並びは読まなくていいのか。書面(ひょうし)しか見てないだろう」

 静影が止めるのも当然で、左の壁側の書籍全てとなれば、かなり読み残したように見えるだろう。

「うーん……見ておきたいんだけどね。それ、伝承なんかを扱う、かなり古い書籍なんだ。ひとを知るには良くても、遊びに行くわけじゃないから」

「だったら、俺が大学に行って、書籍なりなんなりを運んで来よう。おまえはここで、それを読んで待っていればいい」

「あ、ワタシも行って運びましょう!」

「大学まで行く時だって、惜しいくらいですよ」

 そう言って、武官たちは紅女史とクシに詳しい銀花を残し、大学に向かった。

「ところで杜二女……」

「なんでしょう、紅女史」

「あの子を助けるのに、咒禁博士に尋ねる必要は……ない?」

「わたくしも気になっているのです。この悪魔伝説という書は、それで選んだくらいで……あの……あれは……棠梨の怪と、どちらが強いのでしょうか」

「ああ、まあええと……」

 韶華は銀花の差し出す書籍を受け取り、書面(ひょうし)を紅色の題字を見つめた。

 クシに攫われたと分かっていても、妖怪大戦争は気になるらしい。

「とりあえず……咒禁博士の配合(きょうりょく)は、要らないです。それに痩せ女が、愛児を奪われたままにはしないと思うので、棠梨の怪が負けることはないと……思います」

 嗚呼、と目を輝かせる女たち。手を組み合わせ、胸を押さえた。

 答えとしては正しかったのかもしれないが、韶華の心目(むねのうち)に解せないものが湧く。

 杜家は、棠梨の妖の行営(前線基地)ではない。

「まずは放心(あんしん)しました。わたくしは、信じておりましたけれど」

「なにをですか、紅女史……」

 紅女史は愁いた目許を隠すように、袖を当てた。

「皇上がクシに香を贈るとお決めになられたのは、まさに突変、といった風色(ふぜい)だったとか。(よき)き香りは、幽明(鬼と人)を導く(まじな)いになると言われております。我が棠梨の一人(いちじん)は、離宮の地で、宮都に地妖が攻めてきた風波を感じとられたに違いありません」

 あれは感じ取ったのではなく、禁軍の知らせによるものである。

 しかも、禁軍本来の(しごと)ではない――が、事実を話すわけにもいかず、韶華は封口(ちんもく)を守った。

「我が妹からの口信(ことづて)によれば、政の意思(いみ)は全くなかったとのことですが、使節を出すとなれば……嘴砕的に(口うるさく)申し立てる者もおります。やむを得ません。妖しきものを信じない者たちにしてみれば、政にしか見えないでしょうから。ですから、わたくしは……!」

 短い()めを取って、女官は続けた。

「皇上を任性(きまぐれ)が過ぎると(そし)る者こそ、北の妖に操られていると、()公に陳述したのです」

「妖怪大戦争、かなり中用(おやくだち)だな……」

 政治として語れない事情は、全て地妖に押し付ける、という策は、千古(遠い昔)から使われている。それは今も、正しく効くものらしい。

 銀花も大きく頷き、微笑んだ。

「上策だったと思います。多くの者は、それで使節を認めました。口を開けば、怪と疑われるのですから、当然ですね。ただ好運(ラッキー)でもありました。左丞相が暑暇(なつやすみ)で、議事に加わっておられなかったので……」

「政ではありませんから、戻るよう、()うこともせず。もっとも、どちらの館第(おやしき)燕して(くつろいで)おられるのか、誰も知らなかったようですが」

 冷めた口気(くちょう)で、あからさまに燕楼(妾宅)を示すのは、紅女史には珍しい。沈修容(チン・シュウヨウ)が妾を抱えることに対して、思うところがあるようだ。

 だが、理由は知らないままが吉。

 脳里(のうない)で引いた(くじ)に従い、韶華は書籍に集中する。その間に、太監が女官にささやいた。

 どうやら静影らが戻ってきたようだ。

「徐将軍、こちらで良いのですか……」

 李潭の低声(こごえ)も近づいてきた。皇后の執務殿に、学生の(みぶん)で入っている(おそ)れが、硬い声調(こわね)に表されている。

背粱(せすじ)を伸ばせ、李潭。我らに続いて行けば良いのだッ」

老弟(きみ)こそ、図片を落とすなよ」

 丸い声と梅老(バイさん)の声もする。彼らは、貢挙(こうきょ)及格(ごうかく)した進士なので、登城が初めてというわけではないが、それでも声は僅かに震えていた。

「まずは、そこで待て」

「紅女史、国子大学より奇書を借りて参りました」

 静影に続き、翠雀の声が響く。そして許しを得て入ってきたのは、朋友と長輩の進士と、特に会いたいわけでもない丸い進士だった。多半(たぶん)面貌(かお)は持った書籍の積み上げで隠され、よく分からない。

「どぶりーでん」

「は? なにを言っているのだ、牢……その者はッ」

 書籍からはみ出た腹が叫ぶ。牢騒少女(パーティクラッシャー)と呼ばなかっただけ、(よし)としなければならない。

「変わらん輩だ……それで、これらのものを、どこに置けば良いのか」

 江那が応じた。

「ここなら、ばかんしーで(空いてま)すよ」

 丸い進士は言われた場に、急いで書を置く。古怪な(かわった)説法(いいかた)を気にしてというより、彼らより身高(せたけ)のある女人というものが、怖いらしい。

 大学の儕輩(なかま)に向けて、とりあえず韶華は謝辞を述べた。

殊方(がいこく)についての希少な書籍を貸して頂き、真にありがとうございます」

「うむ……なんだか正当(まとも)になったな。脳子(のうみそ)の不良で開刀(しゅじゅつ)したと聞いたが、それが効いたのか?」

「どこのどなたですかね、そんな蜚語(デマ)とばしてるのは」

()教授が」

「あの(ロバ)が!」

 韶華の叫びと同時に、失笑が響いた。表情を変えなかったのは、馬教授を知らない女兵たちだけで、静影も、紅女史すらも口許を覆い隠している。

「そ、それはひどいよ小華(ハナちゃん)……じゃなかっ……た杜韶華。みんな、あえて言わなかった、のに」

「そのようですね。紅女史まで笑ってるし」

「わ、わたくしはなにも……」

「まあね、(ロバ)って、秘事(ひみつ)ってわけじゃないけどね。大学では名乗らなくても、書籍の署名には使ってるから……これとか」

 と、李潭は置いたばかりの書籍を拾い上げた。

 苔色の書帙(しょちつ)に入ったそれには、馬盧(マ・ロ)の署名と北方殊俗研究の大きな題字が、輝いていた。

「北方殊俗研究……礼記の教授ってだけじゃないんだね」

私下(こじん)で行っている研究らしいよ。キュウについての、最も新しい書籍だと思う」

「私が持って来たのは、県令などになった者が読む、査封(さしおさえ)課本(テキスト)だ」

 進士だけあって選ぶものが実地に即しているが、査封に手冊(マニュアル)があるなどと、知りたくなかったかもしれない。

 しかし、自身(じぶん)から手に取りもしない書籍であれば、なにか重要なことが知れるだろうと、ぱらりと開いて短く唸る。

 北方人士(北のひとびと)が、己が財をいかに蓄え、いかに支吾しよ(ごまかそ)うとするか、略微に至るまで書かれていた。

「これはこれで北方に歪んだ視線を向けそうな……事先(じぜん)に策を立てるには意思(いみ)があとしても、世は広いですね……」

「それで、まだ休むのか?」

 梅小岩(バイ・ショウガン)の問いに、韶華は清楚に(はっきりと)頷いた。

季児(末っ子)を北方の国まで、迎えに行かなくちゃいけないので」

「やはり、そうか! ならば、我の持ってきたこれが中用となる(つかえる)はずだ!」

 丸い進士が、懐から巻軸を取り出した。大学の書籍ではなく、自身(じぶん)のもののようである。

「そこまで丸いものがお好きだとは、知りませんでした」

「なにを言う! これぞ妖怪大全、全ての妖しきものどもに捧げる書、眠子跳蚤混(ネコノミコン)だ!」

眠子(ねこ)跳蚤(ノミ)って、いやそれただの養的指南の(ペット飼育)実用書(ガイド)……だいたい、著、白水真人(おぜぜ)て! 儲けることだけを目的とした偽書では?」

「我も読んだが、そういう内容ではなかったぞ?」

巻子(とうあんようし)脳力(ちのう)を、置いてきちゃったひとに言われてもなあ」

 ずしりと重い書籍を手にしたものの、開くことは止めておいた。

 一次(いちど)見ただけで覚えられるといえども、脳子(のう)の容量に界限(かぎり)はあるかもしれない。無用(ムダ)な内容を詰め込んで、圧迫したくはなかった。なにか呪われそうでもあるし。

 そうして選んだにも(かかわ)らず、後果(けっか)として、大約(おおよそ)無用な(いらぬ)ものを覚えることになったのは、ある意思(いみ)、ひとびとが韶華の小技(とくぎ)を信じてくれたからだといえる。


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