妖怪大戦争
水芳宮から行幸の一行が戻ることは、恐ろしく早く宮都に伝わった。
どのように伝わったかを考える間もなく、韶華は僅かな者たちとともに離宮を離れ、南下した。
クシの使節を含めた一行は、去路と同じく東の港口へ向かっている。これについて行くと、宮都に戻るのが遅くなってしまうので、醒目な動きは控えたかったのだが、先に行かねばならなかった。
甘棠の南西側から入れば、西街はすぐだ。
昊天に繁る西苑を通り抜け、むせ返るような緑が途切れると、見えるは西門。いかなる敵を阻む城壁と、角楼を備えた壮麗な門が現れる。
待ちきれなくなり、安車から外を覗いた韶華は、送料と異なるものを見て、首を傾げた。
城楼には、その壮麗さに似合わない、奇怪なものが展招していた。
「変故があったら、狗を城門にぶらさげるっていう……呪いがあるのは知ってるけど、あれは……猫の絵だよね」
猫と言い切るのも難しいかもしれない。耳があって須があって、縦に長い瞳孔をもった、黄色っぽい動物。
返事に窮して、静影と晨風が封口したのも、やむを得ないところである。
「とにかく……急ぐぞ」
が、静影が皇帝から開門の符を得ているにも拘らず、門士たちは入門を止めた。
門を守るのは、左右監門府の介士である。辺境から集められた士兵ではないのだから、侍衛の将、左領左右府将軍の貌を知らないはずもない。なのに、どうしてか首を横に振る。
「日来は、甘棠に入れる者を、選べと言われております。通せないというわけではありませんが、澄清の口上をお願い致します」
「澄清……俺は、呪法などは知らないのだが」
「なに、我の辞を繰り返していただければ、良いのですにゃー」
にゃー。
にゃー、とは。
紫石の双眸が、なにを言っているのか分からない、と査牙しくなっても、門士は認真に「にゃー」を繰り返した。
「静影、よく分かんないけど、にゃーって言って!」
「小妹も言って頂ければ……」
「にゃあー」
次はと視線を向けられ、晨風もにゃあと鳴いた。動物の模倣は、偵人の鍛錬にもあるが、公に鳴けと言われたのは初めてである。
ひとり残された武人も、ここまできては鳴くしかなかった。視線でひとを殺せたなら、殺していたかもしれないが。
「に、にゃー」
「お通り下さい!」
ぎこぎこと音を立てて過ぎる安車と、騎馬の男たち。
やがて彼らも知ることになる。
宮都の内側では、門で起こったことが、区区だと思えるような事実が、蔓延しているのだと。
***
「なんてこった! 棠梨に北の凍土の妖が、攻めてきたんだってよ!」
「どれ、吾にも見せてくんな」
「迎え打つは、木魅か幽鬼か、またまた痩せ女か!」
「怖いねえ、恐ろしいねえ」
語り合うひとの群れからはみ出して、ひらり、と韶課の足許に紙片が落ちる。
篇子配りのかけ声から、内容の料想はつくものの、拾い上げて字を目で追う。
大きく紙面を埋めるのは、妖怪大戦争の字であった。
「ナンジャコレ」
しばらく使い続けていたクシの語言で、呟く。
応じる者はいない。西街に入ってから、静影は口を開こうとしなかった。
(まあね……分からなくもないけどね……)
貌をこわばらせ、ひとと目を合わせないよう、一点を見据える静影の心境は、察するにあまりある。大路で知己に会うごとに、にゃあと言われていれば、消気するというものだ。
乗便に言えば、にゃあと鳴きかけられた晨風は、繰り返すうちに慣れてしまったようだ。にゃあにゃあ言いながら、界隈を鋭く見回している。
「これって、あの西門の眠子図と係わりがあるのでしょうか……」
「どうなんだろう。甘棠を妖怪が跋扈していることになってるみたいだから、呪いなのかなあ? うっ……これは」
韶華は慌てて篇子を丸めた。そして口袋につっこみ、矩歩を速める。
末に押された印は、認錯しようもなく白果舎のもの。しかも冬栄――韶華の同事であり、棠梨の世子でもある男の署名だった。
(なに考えて……というか、なんで妖怪戦争……)
杜家に戻るより先に、白果舎に行くべきかもしれない。
去路を藍雪路に変えた韶華を、呼び止める声が上がった。
「あっ! 姐姐!」
小路から、ばらばらと小児らが寄って来た。
「うおっ、大哥もいるぞ。良かったあ……景景、姐姐が来たよー!」
「晨晨、どこ行ってたんだよー。杜大娘、すっげえ困ってたのにい」
「ごめん、少し事があって」
当然のように晨晨呼ばわりされているが、晨風はとくに気にすることもなく、軽く応じた。
慣れきってるなあと眺める韶華の元に、遅れて景景と永児が走り込んできた。
「韶姉! 瑠璃が……」
泣きそうな悪童の旁で、別の小児もまた泣きそうになっていた。
「そうなんだよ、姐姐。瑠璃がいなくなっちゃったんだよ。我たちどうなっちゃうの? 北の妖怪に連れてかれて、連天、地下で葉っぱを盤子に乗せる工作をやらされるの?」
「そんなの、おれ、できないよう」
「ね、痩せ女が雪精霊に負けたって真的? それとも、雪人が来てたの? 北東の門に掲げてるのって、雪人なんだって。それでねえ、雪人の模倣をしないと、甘棠に入れないんだよ」
どうやら門の図絵は、真に呪いだったらしい。
(北東から入らなくて良かった……雪人の模倣って、どんなよ)
なにをしても、入れそうもない。
「ええとね、とりあえずみんな、ちょっと結舌して。情形が、許許多多的に分かりにくいんだけど」
小児らは直率に封口し、頭目である景景を見た。
「瑠璃がいなくなっちゃったんだってば。不久前の、雨が降った夜のあとから……第一にはさ、叔叔が隠してるのかなって思ったけど、杜大娘が暗い貌で、しばらく行を休むって言うんだ。でも、瑠璃が急症なら、尹大医が来るだろ? そうじゃなくて、誰も息してないみたいに、静かになって……そしたら、この篇子だよ!」
景景は、永児が持っていた篇子を韶華に見せた。
「オレ、分かったんだ。瑠璃は北の怪に攫われたんだよ! だからオレたち、ずっと探してたんだ。まだ近くに居るなら、助けられるかと思って」
料想の不妙さはともかく、瑠璃を思う小児らに、韶華が示せる答えはなかった。
なにを言うべきか迷っていると、
「よう、小妹」
大男が小路の後方から現れた。
名は知らない。だが、誰であるかは分かっている。藍雪路の取り立て人は、大きな個兒を見せつけるように歩み寄り、韶華と静影、そして晨風を見た。
「久久だな。真卒な大兄も。あんたは……初めまして、か。それとも、絳雪酒楼にやたらと甜食を買いに来てるっていう、晨晨かい」
晨風の綽名は、いつの間にか知れ渡っていたらしい。
笑うに笑えない晨風の肩に、大男は手を置いた。
「まあ、そんな貌するなよ。哥哥の名は、悪い意思には取られてねえからさ。それに事があるのは、小妹だ。うちの老板から、花客のことで礼をしてこいと言われてな」
「あの敗家子……懲りずに、賭場通いしてるみたいだね」
「ああ。なんで絵身してるのかは、分からんがな」
大男が笑う旁で、静影が回神した表情を見せた。絵身の言で、なにについて言っているのか分かったらしい。
もっとも、話題にしているのが、棠梨の左丞相の息子だと、口にするわけにはいかないが。
しばらく大笑して、大男は表情を改めた。
「西街では、かなりの風聞になっている。香青路の小娃が、下落不明ってな」
「雪人に攫われたとは、言わないんだ?」
「妖怪大戦争かどうかは知らんが、水老鴉が甘河で暴れてるだの、過樹龍が潜んでるだのは、昔日から言われてるだろう。痩せ女と戦いに、北の陰鬼が来たって古怪じゃないさ。子どもを攫われた親にしてみれば、怪がしたことにするほうが、まだ救いがあるかもしれん……」
「そうだね……」
「ただまあ、ここは西街だ。ひとがしたことなら、どこかで必ず舎弟の耳に入る。怪じゃねえなら、おれたちにだって、できることはある。だから……なにか分かったら教えるよ。妓楼の女たちも、そう言ってる」
「瑠璃のために……ありがとう」
「いいってことよ。なあ?」
大男の呼びかけは、窓から覗く妓女たちにも届いた。
欄杵に艶めかしく寄りかかりながら、女たちが手を振る。その下では、小さな拳を振り上げ、子どもらが叫ぶ。
小さな少女を守ろうとしてくれる情分に、韶華は、どう応えていいのか分からなかった。
彼らの配合は、ほぼ無用となるだろう。探すべき対手が宮都にいないと、韶華は知っている。
(だけど……)
多くのひとが、瑠璃を探そうとしている。それは、朱蕣のために香料を集めようとしてくれたひとびとに似て、韶華の内に喜びを湧き上がらせる。
「なんとかなりそうな気がしてきたよ……! 静影!」
「な、なんだ?」
「怯えたように応じないでくれるかなあ。あのね、お父さんを、白果舎に連れて来て欲しいんだ。晨風は、老公公を」
「構いませんが……白果舎って、どこですか」
韶華だけでなく、誰もが晨風を驚きの目で見た。
藍雪路まで来て、白果舎を知らないとは。
「晨風のために言っておくが、西街では自明でも、真卒に生きていたら、白果舎と係わったりしないものだぞ」
言った静影が、ひとびとの更なる驚愕の視線を浴びる。
大兄なら、一次は雑誌『白果』を手に取るものなのに。
「いやまあ……静影だもんね。晨晨、白果舎には……杜家で、静影と待ち合わせてから来て」
韶華が戻って来るのを待っている謝老人より、父親を連れ出すほうが、棘手なはずである。おそらく静影には、助けが必要だろう。
とはいうものの、韶華も大息が止められない。
どれだけ牢騒されようと、妖怪大戦争を勃発させた男に、話を通さねばならないのである。
「書肆に……いるのかなあ?」
冬栄の動静は分かりやすいといえども、それだけは、韶華にも分からなかった。
***
欠佳なものだけでなく、稀に、全てを掴めたような預感がすることがある。
書肆の戸に手をかけた韶華はまさに、そんな情形だった。
音を立ててはいけない。
できるだけ気息を潜め、肆中に入る。
後門を塞ぎ、予め逃路を断っておくのも重要だ――
それらを全てこなし、するりと入り込めば、几案に向かい、原稿に集中している男が、後方から忍び寄る影に覚錯することはない。
手許を覗き込めば果然、
「怪奇、雪人の足跡か! 見れば終り、百年語ってはならぬ雪精霊の怨、って」
「うおお、韶……ッ、杜韶華! いつ帰ってきたのだ」
「剛剛、西街に着いた。で、冬栄先生、言いたいことがあるんだけど」
「なにが言いたい」
「近日出售、妖怪大全……」
韶華の探る視線から、机上のあれこれを隠すのを諦め、冬栄は胸を張った。
「これも、東西を模糊とするための策だ! 棠梨と北の国との係わりを慮るならば、おまえの幺妹が拐子されたことを、露見させるわけにはいかぬ。しかし、留守と言うだけで、隠し通すのも難しい。だから!」
妖怪の字踊る篇子を掲げる。
確かに、男の言いたいことも分かるのだ。坏人の存在を幽明に紛れさせ、市人の興趣を別のものに引き寄せておく。それは悪い做法ではないと、韶華も思う。
だが。
「なんで妖怪! しかも戦争!」
「それは……杜韶華……おまえの令姉が……」
「お姉ちゃん? お姉ちゃんが、冬栄先生になん」
韶華の言は、中途で切れた。美しく聡明な杜家の長女が、当前で灰心している男に対して、どんな処境にあるか思い出したのだ。
「つまり……お姉ちゃんが、首謀を妖怪にしろって言ったんだ……」
「あの娃娃が攫われたと、晨風が報告に来てすぐ、小王は呼ばれたのだ。その場におられた令堂は、ひどく取り乱して……抑えて頂くのは労苦であった」
「ああ、うん……ごめん」
冬栄が無自覚に側腹を押さえているのを見て、情形は理解した。貌に傷をつけていないところが、恐ろしくもある。
「しかしながら、明哲であられる杜娘君は、キュウ……クシと言わねばならないだろうが、彼らと棠梨が乱子を抱えてはならないと、令堂に理解を求められたのだ。ただ令堂も涙ながらに、愛する痩せ女から、愛する子を奪うのは許されることではないと仰られて」
「お母さん? お母さんが痩せ女を推荐したのッ?」
しかも、さらりと愛するの形容が、加えられている。
「それをお聞きになった杜娘君は、回神した表情で、それで行とお決めになられたのだ。小王も、こう……脳里になにを書くべきかが浮かんでな」
冬栄の輝く目の見ているものは、乗便に白果舎から書籍を出して、搶手している様態だろう。
「棠梨の継嗣が、なにをしているかを露餡させるのが、国家転覆の策としては良いのかも……」
「なにか言ったか」
「いいえ。それにしても静影、遅いなあ」
韶華の呟きに、冬栄が首を傾げた。
「ここに静影を呼んで、どうするというのだ。それにおまえは、妖怪の風聞で私を責めに来ただけか?」
「そうじゃないよ。わたし、これからクシに行くからさあ……あ、来た、かな」
がたがたと抗う戸の音が聞こえる。と思うと、激しい勢いで開いた。
「遅疑を謝らねばならんなあ、春娃よ」
「ナンジャソレ」
韶華の口からこぼれたクシの言を、聞き取った者がいたかは判然としない。誰もがそれどころではなかった。
謝元宝は前額の汗を拭きつつ大息を吐き、晨風が、静影の肩に担がれたものを支えている。
紫石の双眸の昏く沈んだ思考を読む限り、やがて藍雪路から、痩せ女は繭から出てくるという、新たな伝承が生まれるのは不錯ところである。
韶華の当前に、細長な白い紐で巻かれ、中のものが見えなくなっているそれを、静影は置いた。まだ諦めることなく、動いている。
「淑英女士の助けがあれば、もっと楽であったのに……後宮に詰めておられるそうな。まあ、これでひとに知られずに話ができよう」
べり。と紐が、頭らしき場から剥された。
乱れた灰色の細い髪と、眼底に血の色を漲らせ、空を睨む片目が現れる。
晨風が怯えたように、一歩退く。冬栄に至っては、初めて見る棠梨の妖、痩せ女への恐怖のあまり、隅の柱にへばりついていた。
「お父さん、聞きたいことがあるんだけど」
「韶、華……」
揺れる視線が韶華を捉えると、瞬きもないまま、涙が流れ出た。
そこにあるのは、嘆きではない。追悔でもない。ただ澄みきって、色のない涙に誰にも見えない昔日が込められている。
「とりあえず、お父さん。クシの城砦図を描いて?」
一次、瞬きがあった。
「あんまり絵が能手でないのは知ってるけど、大約でいいから。造りについては、学術書を見るし。行ってみて、わたしが迷わなければいいんで」
「待ちなさい、春娃。おまえさんが、行く打算なのかね?」
老人が驚きの表情で、座ったばかりの椅子から立ち上がった。
「そうですよ。って、静影も晨風も、言わなかったの?」
「言う間などあるか。書院から、これ……いや、太君を引き出すのに工作がかかって」
「それもそうか。あのですね、老公公。わたし、瑠璃をクシまで迎えに行くので、お姉ちゃんたちの防護を、お願いします」
失落する老爺に、韶華は重ねて解説した。
「すでに皇上からは許しをもらってます。なんか使節をクシに送るので、それについて行くことになりました」
「韶華……」
「分かったら、お父さん、描いて……まあ、そんなのに巻かれてたらできないか」
外す端を探すのも麻煩になって、韶華は紐を小刀で切り出した。
少女が懐の小筒をすらりと取り出し、そこに刃が入っていることに、僅かばかり引いている者もいるが、構ってはいられなかった。
「韶華」
瞬いて、涙を落とす灰色の目は、差し出された筆ではなく、自身の愛児を見つめた。
「どうして責めない……」
「責めるって……忙しいのに、無用なことはしないよ。瑠璃が待ってるんだから」
「春娃よ。その愚人は、おまえがどこまで知っているのか、知りたいのだよ。どうして瑠璃が攫われたか、どうして己が……ここに来たのか」
謝元宝が言った。
韶華は、片刻、考えるように結い髪を揺らし、父親の灰色の目を見つめ返した。
そして、改めて筆を突き付けた。
「お父さんが来たいから、ここに来た。それでいいでしょう。わたしが事由を知ったからって、事実が変わるわけじゃなし。それより、瑠璃! 迎えに行ってやらないと!」
「おまえは、迎えに行くと……言うんだね」
震える低声に、韶華は、ほかに言いようがない、と首を傾げた。
韶華の焼栗色の艶のある髪に、かつて仙女に似ていた美貌の父親は、静かに手を伸ばした。
「おまえは似ているんだよ。あのひとに……私の父に。なのに、諦めないのだね。あのひとは諦めて、死を選んだのに……おまえは当然のように、瑠璃を迎えに行くと言う」
「お父さんの、父……って、亡くなってるの」
「遠い西方のひとだったんだ。大きな声でよく笑う、誰よりも強い武人だった。でも私が小恙で寝込むと、慌てて医者を呼んで来た。そしてよく怒られていたよ……担心しすぎだと」
誰の目にも、料想などいらないくらい、灰色の痩せ女に肖似な男が浮かぶ。
それが伝わったのか、父親は微かに笑い、韶華の髪を撫でた。
「身高はそこまであったわけじゃない。とても細いひとではあったけれど。西方の者らしく、もっと明るい、熟れ損ねの栗のような色の髪をしていた」
「わたしの髪は、太父から来るものだったんだ」
「韶華、おまえが似ているのは、そこだけじゃない。私はそれを知って、淑英に、決不、おまえには武術を教えないでくれと頼んだ……おまえはきっと、見ただけでできるようになってしまう。見たものを、身躯で肖似に模倣できるようになる。父が、できたように……!」
叫びを旁に、謝元宝は目を閉じた。
韶華を見て、当先に思い出した男は、認錯ではなかった。
武神――他日のクシとの戦いに、クシの武神と呼ばれた男がいた。
若く、幼いとさえ言える男が、明るい髪をなびかせ、戦場を縦横に走る。戦いの法子を対する者ごとに変え、初めて見る棠梨の武具でさえ、その場で馴染んだもののように使いこなした。
今、息子の口から話を聞けば、どうしてかが分かる。男は、見ただけで模倣できる才を持っていたのだ。
韶華の太父、杜照白は、男から謝元宝を庇って傷を負った。自制の節棍を使える他国の者が、いるとは思わなかったからだ。傷は長く治らず、果然として、杜照白は御史台の勤めを退いたのである。
「照白よ……かの男の、子を受け入れた理由が、分かる気がするぞ」
老人は小さく呟いた。
やがてその武功を以って、クシの王女と結ばれた男は、武神ではなく、子を溺愛する父親となった。
照白という剛介な男なら、自身を傷つけた者もただの父親だったと知れば、その子を守ろうとするはずだ。
だが、遠い日を知る者は、今や老いた謝元宝だけになった。男は政変に巻き込まれ、処死となっている。
あり余る才能を妬まれたという送料は、正しいのかもしれない。だからこそ父親は、韶華という明るい空のような少女に、武具を、そしていずれは殺す術を、馴染ませたくなかったのだろう。
「お父さん、わたしはわたしだよ。誰の命運とも、同じにはならない」
震える父親の手を、韶華は握った。
「まあ……出走するくらいだからね、紛紛あったんだろうなって思うよ。だけど、わたしが太父と似てるって、それが瑠璃を迎えに行くのに、なんの難となるの? なるのなら……ほかに難となりそうなことも、あるんじゃない? そういうの、ここに、忘れずに書いてくれるかなあ? でなかったら、老太爺が珍奇な小技を持ってて、お父さんは作家なのに、不妙な形容しかできないんだなあ、ってことだけ覚えとくから」
「韶華……」
紙片を積み上げる少女の上から、武人の大息がかかった。
「おまえの専長でもあるのに、珍奇はないだろう。せめて神奇……」
「その少女にとっては、どちらでも同じなのでしょう」
いつ入って来たのか、男がひとり、戸口に立っていた。にこにこと笑い、当たりの良さそうな、淡泊な印象の男である。
戸口側に貌を向けていた老人と冬栄には、見えていたようだ。知らぬ者でもないらしく、冬栄などは、ひどく不快そうに眉を顰めている。
男はなにが怖いのか、痩せ女だけ見ないようにしながら、拝礼をした。
「謝公、徐将軍には、久しく。殿下の照料は、我らがなすべきでありますのに、常に麻煩をおかけします」
殿下と言うからには、皇太子である冬栄の宇下ということだ。
韶華が静影に問う視線を投げると、頷きが返ってきた。
「彼は東宮十率軍の者だよ。備身の充当になったのは、昨年からだが、徐家に殿下が居たころから仕えている」
「勒古とお呼び下さい、小妹」
その微笑みを見た通りに受け取ることができず、韶華は冬栄と男を見比べた。
「備身っていうからには、冬栄先生を張望してたんだよね……?」
「あー……いえ、殿下がどうしても単独活動がしたいということで、送り出す以外は、放過しておりました。まあ……白果舎の老板にだけは、報告を頼みましたが」
「それって全く放過してない……あ、もしかして、そろそろ任性にやらせておけなくなって、迎えにきた?」
「それが、まだ抛っておくことになっておりまして。小妹におかれましては、心煩をお察し致します。小官が来ましたのは、禁軍の者を使えなかったからで……皇上の辟令により、特使が選定されたことを、お伝え致します」
「特使……クシの祝辞に対する返事じゃなかったの?」
勒古という男は、大きく頷いた。
「ただ返すだけでは、棠梨の威を示すことにはなりません。ゆえに、皇上の最も好むものを、贈物として届けに行くことが決まりました」
静影が頭痛を抑えるが如く、前額に手を当てる。韶華も全く同じ心境にあった。
伝えられたのは、弄月の最も好むもの、それを最も知っている人物が、特使に定められたということである。
「うう……あの迷于香の王先生と……クシに行くのかあ……」
もっとも、鼻が利くことにかけては、並ぶもののない香試である。
瑠璃の下落については、立即で分かるような気がした。




