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妖怪大戦争

 水芳(スイホウ)宮から行幸の一行が戻ることは、恐ろしく早く宮都に伝わった。

 どのように伝わったかを考える間もなく、韶華(ショウカ)は僅かな者たちとともに離宮を離れ、南下した。

 クシの使節を含めた一行は、去路(きたみち)と同じく東の港口(みなと)へ向かっている。これについて行くと、宮都に戻るのが遅くなってしまうので、醒目な(めだつ)動きは控えたかったのだが、先に行かねばならなかった。

 甘棠(カントウ)の南西側から入れば、西街(セイガイ)はすぐだ。

 昊天(なつぞら)(しげ)西苑(サイエン)を通り抜け、むせ返るような緑が途切れると、見えるは西門。いかなる敵を阻む城壁と、角楼(やぐら)を備えた壮麗な門が現れる。

 待ちきれなくなり、安車(ほろばしゃ)から外を覗いた韶華は、送料(よそう)と異なるものを見て、首を傾げた。

 城楼には、その壮麗さに似合わない、奇怪な(あやしい)ものが展招し(はためい)ていた。

変故(さいなん)があったら、(いぬ)を城門にぶらさげるっていう……(まじな)いがあるのは知ってるけど、あれは……猫の絵だよね」

 猫と言い切るのも難しいかもしれない。耳があって(ひげ)があって、縦に長い瞳孔をもった、黄色っぽい動物。

 返事に窮して、静影(セイエイ)晨風(シンプウ)封口(ちんもく)したのも、やむを得ないところである。

「とにかく……急ぐぞ」

 が、静影が皇帝から開門の符を得ているにも(かかわ)らず、門士たちは入門を止めた。

 門を守るのは、左右監門府の介士(へいし)である。辺境から集められた士兵ではないのだから、侍衛の将、左領左右府将軍の(かお)を知らないはずもない。なのに、どうしてか首を横に振る。

日来(このごろ)は、甘棠に入れる者を、選べと言われております。通せないというわけではありませんが、澄清(きよめ)の口上をお願い致します」

「澄清……俺は、呪法などは知らないのだが」

「なに、我の(ことば)を繰り返していただければ、良いのですにゃー」

 にゃー。

 にゃー、とは。

 紫石の双眸が、なにを言っているのか分からない、と査牙(とげとげ)しくなっても、門士は認真(しんけん)に「にゃー」を繰り返した。

「静影、よく分かんないけど、にゃーって言って!」

小妹(おじょうさん)も言って頂ければ……」

「にゃあー」

 次はと視線を向けられ、晨風もにゃあと鳴いた。動物の模倣(まね)は、偵人(スパイ)の鍛錬にもあるが、公に鳴けと言われたのは初めてである。

 ひとり残された武人も、ここまできては鳴くしかなかった。視線でひとを殺せたなら、殺していたかもしれないが。

「に、にゃー」

「お通り下さい!」

 ぎこぎこと音を立てて過ぎる安車と、騎馬の男たち。

 やがて彼らも知ることになる。

 宮都の内側では、門で起こったことが、区区だ(とるに足らぬ)と思えるような事実が、蔓延しているのだと。


***



「なんてこった! 棠梨(トウリ)に北の凍土の妖が、攻めてきたんだってよ!」

「どれ、(あっし)にも見せてくんな」

「迎え打つは、木魅(ぼくみ)幽鬼(せいれい)か、またまた痩せ女か!」

「怖いねえ、恐ろしいねえ」

 語り合うひとの群れからはみ出して、ひらり、と韶課の足許に紙片が落ちる。

 篇子(ちらし)配りのかけ声から、内容の料想(よそう)はつくものの、拾い上げて字を目で追う。

 大きく紙面を埋めるのは、妖怪大戦争の字であった。

「ナンジャコレ」

 しばらく使い続けていたクシの語言(ことば)で、呟く。

 応じる者はいない。西街に入ってから、静影は口を開こうとしなかった。

(まあね……分からなくもないけどね……)

 (かお)をこわばらせ、ひとと目を合わせないよう、一点を見据える静影の心境は、察するにあまりある。大路で知己に会うごとに、にゃあと言われていれば、消気(げんなり)するというものだ。

 乗便(ついで)に言えば、にゃあと鳴きかけられた晨風は、繰り返すうちに慣れてしまったようだ。にゃあにゃあ言いながら、界隈を鋭く見回している。

「これって、あの西門の眠子図と係わりがあるのでしょうか……」

「どうなんだろう。甘棠を妖怪が跋扈していることになってるみたいだから、(まじな)いなのかなあ? うっ……これは」

 韶華は慌てて篇子(ちらし)を丸めた。そして口袋(ポケット)につっこみ、矩歩(あし)を速める。

 (まつび)に押された印は、認錯し(みまちがい)ようもなく白果(ハクカ)舎のもの。しかも冬栄(トウエイ)――韶華の同事(どうりょう)であり、棠梨の世子(よつぎ)でもある男の署名だった。

(なに考えて……というか、なんで妖怪戦争……)

 杜家(うち)に戻るより先に、白果舎に行くべきかもしれない。

 去路(行き先)藍雪(ランセツ)路に変えた韶華を、呼び止める声が上がった。

「あっ! 姐姐(ねーちゃん)!」

 小路から、ばらばらと小児(こども)らが寄って来た。

「うおっ、大哥(にーちゃん)もいるぞ。良かったあ……景景(ケイケイ)、姐姐が来たよー!」

晨晨(シンシン)、どこ行ってたんだよー。杜大娘(おばちゃん)、すっげえ困ってたのにい」

「ごめん、少し(ようじ)があって」

 当然のように晨晨呼ばわりされているが、晨風はとくに気にすることもなく、軽く応じた。

 慣れきってるなあと眺める韶華の元に、遅れて景景と永児(エイジ)が走り込んできた。

(ショウ)(ねえ)! 瑠璃(ルリ)が……」

 泣きそうな悪童の(わき)で、別の小児(こども)もまた泣きそうになっていた。

「そうなんだよ、姐姐(ねえちゃん)。瑠璃がいなくなっちゃったんだよ。(おれ)たちどうなっちゃうの? 北の妖怪に連れてかれて、連天(まいにち)、地下で葉っぱを盤子(おさら)に乗せる工作(しごと)をやらされるの?」

「そんなの、おれ、できないよう」

「ね、痩せ女が雪精霊(ゆきおんな)に負けたって真的(ホント)? それとも、雪人(イエティ)が来てたの? 北東の門に掲げてるのって、雪人(イエティ)なんだって。それでねえ、雪人の模倣(まね)をしないと、甘棠に入れないんだよ」

 どうやら門の図絵は、(まじめ)(まじな)いだったらしい。

(北東から入らなくて良かった……雪人(イエティ)の模倣って、どんなよ)

 なにをしても、入れそうもない。

「ええとね、とりあえずみんな、ちょっと結舌し(だまっ)て。情形(じょうきょう)が、許許多多的(めちゃくちゃ)に分かりにくいんだけど」

 小児らは直率(すなお)封口し(口を閉じ)頭目(ボス)である景景を見た。

「瑠璃がいなくなっちゃったんだってば。不久前(すこしまえ)の、雨が降った夜のあとから……第一に(さいしょ)はさ、叔叔(おっさん)が隠してるのかなって思ったけど、杜大娘(おばちゃん)が暗い(かお)で、しばらく(しごと)を休むって言うんだ。でも、瑠璃が急症(びょうき)なら、尹大医(インせんせい)が来るだろ? そうじゃなくて、誰も息してないみたいに、静かになって……そしたら、この篇子(ちらし)だよ!」

 景景は、永児が持っていた篇子を韶華に見せた。

「オレ、分かったんだ。瑠璃は北の怪に攫われたんだよ! だからオレたち、ずっと探してたんだ。まだ近くに居るなら、助けられるかと思って」

 料想(すいそく)不妙(ビミョー)さはともかく、瑠璃を思う小児()らに、韶華が示せる答えはなかった。

 なにを言うべきか迷っていると、

「よう、小妹(じょうちゃん)

 大男が小路の後方から現れた。

 名は知らない。だが、誰であるかは分かっている。藍雪路の取り立て人は、大きな個兒(からだ)を見せつけるように歩み寄り、韶華と静影、そして晨風を見た。

久久(ひさしぶり)だな。真卒(まじめ)大兄(にーさん)も。あんたは……初めまして、か。それとも、絳雪(コウセツ)酒楼にやたらと甜食(デザート)を買いに来てるっていう、晨晨(ハヤブサくん)かい」

 晨風の綽名は、いつの間にか知れ渡っていたらしい。

 笑うに笑えない晨風の肩に、大男は手を置いた。

「まあ、そんな(かお)するなよ。哥哥(にいちゃん)の名は、悪い意思(いみ)には取られてねえからさ。それに(ようじ)があるのは、小妹だ。うちの老板(あるじ)から、花客(おとくいさま)のことで礼をしてこいと言われてな」

「あの敗家子(どらむすこ)……懲りずに、賭場通いしてるみたいだね」

「ああ。なんで絵身し(額に字を入れ)てるのかは、分からんがな」

 大男が笑う(そば)で、静影が回神(はっと)した表情を見せた。絵身(かいしん)(ことば)で、なにについて言っているのか分かったらしい。

 もっとも、話題にしているのが、棠梨の左丞相の息子だと、口にするわけにはいかないが。

 しばらく大笑して、大男は表情を改めた。

「西街では、かなりの風聞になっている。香青(コウセイ)路の小娃(ちっちゃいの)が、下落不明(ゆくえふめい)ってな」

雪人(イエティ)に攫われたとは、言わないんだ?」

「妖怪大戦争かどうかは知らんが、水老鴉(水の妖鳥)甘河(カンカ)で暴れてるだの、過樹龍(南の毒ヘビ)が潜んでるだのは、昔日から言われてるだろう。痩せ女と戦いに、北の陰鬼(ばけもの)が来たって古怪(へん)じゃないさ。子どもを攫われた親にしてみれば、怪がしたことにするほうが、まだ救いがあるかもしれん……」

「そうだね……」

「ただまあ、ここは西街だ。ひとがしたことなら、どこかで必ず舎弟(うちのもの)の耳に入る。怪じゃねえなら、おれたちにだって、できることはある。だから……なにか分かったら教えるよ。妓楼の女たちも、そう言ってる」

「瑠璃のために……ありがとう」

「いいってことよ。なあ?」

 大男の呼びかけは、窓から覗く妓女たちにも届いた。

 欄杵(てすり)(なま)めかしく寄りかかりながら、女たちが手を振る。その下では、小さな拳を振り上げ、子どもらが叫ぶ。

 小さな少女を守ろうとしてくれる情分(きもち)に、韶華は、どう応えていいのか分からなかった。

 彼らの配合(きょうりょく)は、ほぼ無用(むだ)となるだろう。探すべき対手(あいて)が宮都にいないと、韶華は知っている。

(だけど……)

 多くのひとが、瑠璃を探そうとしている。それは、朱蕣(シュシュン)のために香料を集めようとしてくれたひとびとに似て、韶華の内に喜びを湧き上がらせる。

「なんとかなりそうな気がしてきたよ……! 静影!」

「な、なんだ?」

「怯えたように応じないでくれるかなあ。あのね、お父さんを、白果舎に連れて来て欲しいんだ。晨風は、老公公(おじいさん)を」

「構いませんが……白果舎って、どこですか」

 韶華だけでなく、誰もが晨風を驚きの目で見た。

 藍雪路まで来て、白果舎を知らないとは。

「晨風のために言っておくが、西街では自明で(分かりきってて)も、真卒(まじめ)に生きていたら、白果舎と係わったりしないものだぞ」

 言った静影が、ひとびとの更なる驚愕の視線を浴びる。

 大兄(オトコ)なら、一次(いちど)は雑誌『白果』を手に取るものなのに。

「いやまあ……静影だもんね。晨晨(ハヤブサくん)、白果舎には……()家で、静影と待ち合わせてから来て」

 韶華が戻って来るのを待っている(シャ)老人より、父親を連れ出すほうが、棘手な(てこずる)はずである。おそらく静影には、助けが必要だろう。

 とはいうものの、韶華も大息(ためいき)が止められない。

 どれだけ牢騒さ(ぐちら)れようと、妖怪大戦争を勃発させた男に、話を通さねばならないのである。

書肆(みせ)に……いるのかなあ?」

 冬栄の動静は分かりやすいといえども、それだけは、韶華にも分からなかった。


***



 欠佳(いや)なものだけでなく、稀に、全てを掴めたような預感(よかん)がすることがある。

 書肆の戸に手をかけた韶華はまさに、そんな情形(じょうきょう)だった。

 音を立ててはいけない。

 できるだけ気息(けはい)を潜め、肆中(てんない)に入る。

 後門(うらぐち)を塞ぎ、予め逃路を断っておくのも重要だ――

 それらを全てこなし、するりと入り込めば、几案(つくえ)に向かい、原稿(したがき)に集中している男が、後方から忍び寄る影に覚錯する(気づく)ことはない。

 手許を覗き込めば果然(あんのじょう)

怪奇(スクープ)雪人(イエティ)の足跡か! 見れば終り、百年(しょうがい)語ってはならぬ雪精霊(ゆきおんな)の怨、って」

「うおお、韶……ッ、杜韶華(ト・ショウカ)! いつ帰ってきたのだ」

剛剛(たったいま)、西街に着いた。で、冬栄先生(さん)、言いたいことがあるんだけど」

「なにが言いたい」

「近日出售(はつばい)、妖怪大全……」

 韶華の探る視線から、机上のあれこれを隠すのを諦め、冬栄は胸を張った。

「これも、東西(ものごと)模糊と(あいまいに)するための策だ! 棠梨と北の国との係わりを(おもんぱか)るならば、おまえの幺妹(末妹)拐子(ゆうかい)されたことを、露見させるわけにはいかぬ。しかし、留守と言うだけで、隠し通すのも難しい。だから!」

 妖怪の字踊る篇子(ちらし)を掲げる。

 確かに、男の言いたいことも分かるのだ。坏人(あくとう)の存在を幽明(人と鬼)(まぎ)れさせ、市人(たみ)興趣(きょうみ)を別のものに引き寄せておく。それは悪い做法(やりかた)ではないと、韶華も思う。

 だが。

「なんで妖怪! しかも戦争!」

「それは……杜韶華……おまえの令姉(あねうえ)が……」

「お姉ちゃん? お姉ちゃんが、冬栄先生になん」

 韶華の言は、中途で切れた。美しく聡明な杜家の長女が、当前(めのまえ)灰心(しょんぼり)している男に対して、どんな処境(たちば)にあるか思い出したのだ。

「つまり……お姉ちゃんが、首謀を妖怪にしろって言ったんだ……」

「あの娃娃(ちっちゃいの)が攫われたと、晨風が報告に来てすぐ、小王(わたし)は呼ばれたのだ。その場におられた令堂(ははぎみ)は、ひどく取り乱して……抑えて頂くのは労苦(たいへん)であった」

「ああ、うん……ごめん」

 冬栄が無自覚(いしきせず)側腹(わきばら)を押さえているのを見て、情形(ようす)は理解した。(かお)に傷をつけていないところが、恐ろしくもある。

「しかしながら、明哲であられる杜娘君は、キュウ……クシと言わねばならないだろうが、彼らと棠梨が乱子(もめごと)を抱えてはならないと、令堂に理解を求められたのだ。ただ令堂も涙ながらに、愛する痩せ女から、愛する子を奪うのは許されることではないと仰られて」

「お母さん? お母さんが痩せ女を推荐し(すすめ)たのッ?」

 しかも、さらりと愛するの形容が、加えられている。

「それをお聞きになった杜娘君は、回神(はっと)した表情で、それで(いこう)とお決めになられたのだ。小王(わたし)も、こう……脳里になにを書くべきかが浮かんでな」

 冬栄の輝く目の見ているものは、乗便(ついで)に白果舎から書籍を出して、搶手(おおもうけ)している様態(じょうたい)だろう。

「棠梨の継嗣が、なにをしているかを露餡させる(ばらす)のが、国家転覆の策としては良いのかも……」

「なにか言ったか」

「いいえ。それにしても静影、遅いなあ」

 韶華の呟きに、冬栄が首を傾げた。

「ここに静影を呼んで、どうするというのだ。それにおまえは、妖怪の風聞で私を責めに来ただけか?」

「そうじゃないよ。わたし、これからクシに行くからさあ……あ、来た、かな」

 がたがたと(あらが)う戸の音が聞こえる。と思うと、激しい勢いで開いた。

遅疑(ちこく)を謝らねばならんなあ、春娃(おじょう)よ」

「ナンジャソレ」

 韶華の口からこぼれたクシの言を、聞き取った者がいたかは判然としない。誰もがそれどころではなかった。

 謝元宝(シャ・ゲンポウ)前額(ひたい)の汗を拭きつつ大息を吐き、晨風が、静影の肩に担がれたものを支えている。

 紫石の双眸の昏く沈んだ思考を読む限り、やがて藍雪路から、痩せ女は繭から出てくるという、新たな伝承が生まれるのは不錯(まちがいない)ところである。

 韶華の当前(まえ)に、細長な白い紐で巻かれ、中のものが見えなくなっているそれを、静影は置いた。まだ諦めることなく、動いている。

淑英(シュクエイ)女士(さん)の助けがあれば、もっと楽であったのに……後宮に詰めておられるそうな。まあ、これでひとに知られずに話ができよう」

 べり。と紐が、頭らしき場から(はが)された。

 乱れた灰色の細い髪と、眼底に血の色を(たぎ)らせ、(くう)を睨む片目が現れる。

 晨風が怯えたように、一歩退()く。冬栄に至っては、初めて見る棠梨の妖、痩せ女への恐怖のあまり、隅の柱にへばりついていた。

「お父さん、聞きたいことがあるんだけど」

「韶、華……」

 揺れる視線が韶華を捉えると、(まばた)きもないまま、涙が流れ出た。

 そこにあるのは、嘆きではない。追悔(こうかい)でもない。ただ澄みきって、色のない涙に誰にも見えない昔日が込められている。

「とりあえず、お父さん。クシの城砦図を描いて?」

 一次(いっかい)(まばた)きがあった。

「あんまり絵が能手(じょうず)でないのは知ってるけど、大約(だいたい)でいいから。造りについては、学術書を見るし。行ってみて、わたしが迷わなければいいんで」

「待ちなさい、春娃。おまえさんが、行く打算(つもり)なのかね?」

 老人が驚きの表情で、座ったばかりの椅子から立ち上がった。

「そうですよ。って、静影も晨風も、言わなかったの?」

「言う(ひま)などあるか。書院から、これ……いや、太君(ちちぎみ)を引き出すのに工作(てま)がかかって」

「それもそうか。あのですね、老公公。わたし、瑠璃をクシまで迎えに行くので、お姉ちゃんたちの防護を、お願いします」

 失落(ぼうぜんと)する老爺に、韶華は重ねて解説(せつめい)した。

「すでに皇上からは許しをもらってます。なんか使節をクシに送るので、それについて行くことになりました」

「韶華……」

「分かったら、お父さん、描いて……まあ、そんなのに巻かれてたらできないか」

 外す(はし)を探すのも麻煩(めんどう)になって、韶華は紐を小刀で切り出した。

 少女が懐の小筒をすらりと取り出し、そこに刃が入っていることに、僅かばかり引いている者もいるが、構ってはいられなかった。

「韶華」

 瞬いて、涙を落とす灰色の目は、差し出された筆ではなく、自身(じぶん)の愛児を見つめた。

「どうして責めない……」

「責めるって……忙しいのに、無用(ムダ)なことはしないよ。瑠璃が待ってるんだから」

「春娃よ。その愚人(ばかもの)は、おまえがどこまで知っているのか、知りたいのだよ。どうして瑠璃が攫われたか、どうして己が……ここに来たのか」

 謝元宝が言った。

 韶華は、片刻、考えるように結い髪を揺らし、父親の灰色の目を見つめ返した。

 そして、改めて筆を突き付けた。

「お父さんが来たいから、ここに来た。それでいいでしょう。わたしが事由(わけ)を知ったからって、事実が変わるわけじゃなし。それより、瑠璃! 迎えに行ってやらないと!」

「おまえは、迎えに行くと……言うんだね」

 震える低声(こごえ)に、韶華は、ほかに言いようがない、と首を傾げた。

 韶華の焼栗色の艶のある髪に、かつて仙女に似ていた美貌の父親は、静かに手を伸ばした。

「おまえは似ているんだよ。あのひとに……私の父に。なのに、諦めないのだね。あのひとは諦めて、死を選んだのに……おまえは当然のように、瑠璃を迎えに行くと言う」

「お父さんの、父……って、亡くなってるの」

「遠い西方のひとだったんだ。大きな声でよく笑う、誰よりも強い武人だった。でも私が小恙(かるい病)で寝込むと、慌てて医者を呼んで来た。そしてよく怒られていたよ……担心(しんぱい)しすぎだと」

 誰の目にも、料想(そうぞう)などいらないくらい、灰色の痩せ女に肖似(そっくり)な男が浮かぶ。

 それが伝わったのか、父親は微かに笑い、韶華の髪を撫でた。

身高(せたけ)はそこまであったわけじゃない。とても細いひとではあったけれど。西方の者らしく、もっと明るい、熟れ損ねの栗のような色の髪をしていた」

「わたしの髪は、太父(おじいさん)から来るものだったんだ」

「韶華、おまえが似ているのは、そこだけじゃない。私はそれを知って、淑英に、決不(けっして)、おまえには武術を教えないでくれと頼んだ……おまえはきっと、見ただけでできるようになってしまう。見たものを、身躯(からだ)肖似(そっくり)模倣(まね)できるようになる。父が、できたように……!」

 叫びを(よそ)に、謝元宝は目を閉じた。

 韶華を見て、当先(まっさき)に思い出した男は、認錯(思いちがい)ではなかった。

 武神――他日(いつか)のクシとの戦いに、クシの武神と呼ばれた男がいた。

 若く、幼いとさえ言える男が、明るい髪をなびかせ、戦場を縦横に走る。戦いの法子(ほうほう)を対する者ごとに変え、初めて見る棠梨の武具でさえ、その場で馴染んだもののように使いこなした。

 今、息子の口から話を聞けば、どうしてかが分かる。男は、見ただけで模倣できる才を持っていたのだ。

 韶華の太父(祖父)杜照白(ト・ショウハク)は、男から謝元宝を庇って傷を負った。自制(じさく)の節棍を使える他国の者が、いるとは思わなかったからだ。傷は長く治らず、果然(けっか)として、杜照白は御史台の勤めを退(しりぞ)いたのである。

「照白よ……かの男の、子を受け入れた理由が、分かる気がするぞ」

 老人は小さく呟いた。

 やがてその武功を()って、クシの王女と結ばれた男は、武神ではなく、子を溺愛する父親となった。

 照白という剛介な男なら、自身(じぶん)を傷つけた者もただの父親だったと知れば、その子を守ろうとするはずだ。

 だが、遠い日を知る者は、今や老いた謝元宝だけになった。男は政変に巻き込まれ、処死(処刑)となっている。

 あり余る才能を妬まれたという送料(よそう)は、正しいのかもしれない。だからこそ父親は、韶華という明るい空のような少女に、武具を、そしていずれは殺す術を、馴染ませたくなかったのだろう。

「お父さん、わたしはわたしだよ。誰の命運とも、同じにはならない」

 震える父親の手を、韶華は握った。

「まあ……出走(いえで)するくらいだからね、紛紛(いろいろ)あったんだろうなって思うよ。だけど、わたしが太父(祖父)と似てるって、それが瑠璃を迎えに行くのに、なんの(もんだい)となるの? なるのなら……ほかに難となりそうなことも、あるんじゃない? そういうの、ここに、忘れずに書いてくれるかなあ? でなかったら、老太爺(おじいちゃん)珍奇(とんきょう)小技(テク)を持ってて、お父さんは作家なのに、不妙(アレ)な形容しかできないんだなあ、ってことだけ覚えとくから」

「韶華……」

 紙片を積み上げる少女の上から、武人の大息(ためいき)がかかった。

「おまえの専長(とくぎ)でもあるのに、珍奇はないだろう。せめて神奇……」

「その少女にとっては、どちらでも同じなのでしょう」

 いつ入って来たのか、男がひとり、戸口に立っていた。にこにこと笑い、当たりの良さそうな、淡泊な(あっさりとした)印象の男である。

 戸口側に貌を向けていた老人と冬栄には、見えていたようだ。知らぬ者でもないらしく、冬栄などは、ひどく不快そうに眉を顰めている。

 男はなにが怖いのか、痩せ女だけ見ないようにしながら、拝礼(あいさつ)をした。

「謝公、(ジョ)将軍には、久しく。殿下の照料(せわ)は、我らがなすべきでありますのに、常に麻煩(めんどう)をおかけします」

 殿下と言うからには、皇太子である冬栄の宇下(部下)ということだ。

 韶華が静影に問う視線を投げると、頷きが返ってきた。

「彼は東宮十率軍の者だよ。備身(みのまわり)充当(たんとう)になったのは、昨年からだが、徐家に殿下が居たころから仕えている」

勒古(ロクコ)とお呼び下さい、小妹(おじょうさん)

 その微笑みを見た通りに受け取ることができず、韶華は冬栄と男を見比べた。

「備身っていうからには、冬栄先生を張望し(みはっ)てたんだよね……?」

「あー……いえ、殿下がどうしても単独活動(ひとりだち)がしたいということで、送り出す以外は、放過(みのが)しておりました。まあ……白果舎の老板(てんしゅ)にだけは、報告を頼みましたが」

「それって全く放過してない……あ、もしかして、そろそろ任性(きまま)にやらせておけなくなって、迎えにきた?」

「それが、まだ(ほう)っておくことになっておりまして。小妹におかれましては、心煩(めんどう)をお察し致します。小官(わたくし)が来ましたのは、禁軍の者を使えなかったからで……皇上の辟令により、特使が選定されたことを、お伝え致します」

「特使……クシの祝辞に対する返事じゃなかったの?」

 勒古という男は、大きく頷いた。

「ただ返すだけでは、棠梨の威を示すことにはなりません。ゆえに、皇上の最も好むものを、贈物として届けに行くことが決まりました」

 静影が頭痛を抑えるが如く、前額(ひたい)に手を当てる。韶華も全く同じ心境にあった。

 伝えられたのは、弄月(ロウゲツ)の最も好むもの、それを最も知っている人物が、特使に定められたということである。

「うう……あの迷于香(香オタク)(オウ)先生(さん)と……クシに行くのかあ……」

 もっとも、鼻が利くことにかけては、並ぶもののない香試(調香師)である。

 瑠璃の下落(いどころ)については、立即(そっこう)で分かるような気がした。


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