不放過、不容情之二
クシの使節を迎え入れたのは、水芳宮でも華やかな造りの天香殿である。
扉だけでなく、柱にも細やかな飾りが彫り込まれ、紫檀造りの艶のある家具で設えられていた。
今は皇帝を含む、ほとんどの者が石榴殿で打牌に興じているので、守る介士の姿も少なく、忍び込んでも難はない。
難があったとすれば、クシの下次の王となるかもしれない男に、薄い羅の簾子をかき分け、少女が狙のように飛びかかったことだろう。
どうしてもっと、穏やかな法子を取れないのか。
声にならない声で静影が叫んでいるが、韶華は射刃を揺動させることだけに集中した。
「聞いたよね、王子が誘拐犯になったこと」
ナーニーという音を聞いて、射刃の青い目が、僅かに細められた。
「貴方は、それでいいんだ? 敵手となる王子の後始末のために、命さえ危うくしても」
「どういうことだ」
「クシの男が、棠梨の幼い少女を攫ったんだよ。その責任を取るのは、今、ここにいる貴方たちなんじゃないかな」
「幼子の誘拐は確かに大事だが、我々の知るところではない。なぜ、私が責任を取らねばならない」
韶華は、ちらりと視線を黒風に送った。
「瑠璃のこと、なにも分かってないんだね。知らされてないのかな、瑠璃が……ええと、皇帝の結婚相手の、妹だって」
クシの説法での干妹妹が分からず、繁冗な解説となったが、意思は伝わったようだ。碧眼の内に、大きな揺れが見えた。
「知らなかったんだ……それなら、棠梨で瑠璃がどういう扱いなのかも、理解できてないよね? 棠梨の大婚を阻みたい者は、小さな女の子なんか、誰にくれてやってもいいんだよ。それで妃となる姉が、妹のために自ら辞してくれたら、暗殺より楽に事を収められるから。クシがどうなろうと、知ったことじゃない。誰が罰せられようと、構わないんだよ」
射刃の表情から読み取れるものは少ない。ただ青い目が驚愕に歪むのは、不料にも、彼の知らないことが多いのだと示す。
その事実を、どう読み解くべきか、韶華は悩む。
韶華にとって、王子ふたりに差はないのである。まだ――
「分かってる? 棠梨の碧眼に係わって……それこそ、ふたりもいる王の候補が、ひとり減るとなれば、喜ぶひともいるはずだよ」
揺動したのは晨風だけだった。動かない静影や黒風を見ると、彼らは開首から、送料していたのだろう。
「今は誰が為したかなんて、どうでもいいけど……クシは瑠璃の碧眼を、どう利用するつもりなの。ここにいる武人の方々の予想によれば、王妃にして、王太子を生んで頂くのではないか、と言うのだけれど」
「あの愚か者が、そう考えるほどに愚かとは思いたくなかったが……奴が自分から出向いて攫ったのなら、そうかもしれない。たとえ数年待」
「十年」
射刃の碧眼が、惑うように瞬いた。遮られた非礼より、韶華の言の意思を理解する時間が必要だった。
「悪いけど、十年は待ってもらわないと、瑠璃の結婚は認められないなあ」
「十年……て、それはもう幼児じゃないか!」
「さっきからずっと幼子って、言ってますけど!」
青い目が、韶華から黒風に向く。問いかけるように。
晨風と静影の視線も、黒風に向いた。責め立てるように。
苛烈なはずの黒玉が、没有弁法な視線を韶華を向けているのは、気のせいではあるまい。
「まさか、瑠璃が碧眼っていう話しか、伝えてない……? それでクシは、青い目の子がいるっていう話だけで、動こうとした? それじゃあ、黒風だって、瑠璃を見てろって、言うしかなかったよねえ……誰がなにをするのか、分からないんだから」
棠梨の誰かは、碧眼という石をクシの池地に投げ込んで、波紋が広がるのを待っていただけに等しい。
韶華の呟きは、クシの語言でのものではあったが、黒衣の男は、井然と理解して目を逸した。
「拐子魔はともかく、貴方に確認するけど、なにを目的に、棠梨に来たのかな? 祝辞なんて言わないでね。それと、この黒衣のひとから、なにを聞いたの」
「……話すから、そろそろ手を離せ」
未だ領子を掴まれている射刃が、大息とともに呟いた。
「話したら手を離すので、続きをどうぞ?」
「韶華……」
静影の紫石が、諦め半ばに韶華を窘めた。言の零件までは分からなくとも、動作で答えが明らかになっている。
だが少女の微笑みは、武人の言くらいでは変わらなかった。射刃はそのまま話し始めるしかなかった。
「碧眼の少女の存在については、確かに、不自然な話の聞こえ方だった。私が聞いたのは、あの男から碧眼の子が生まれたということ。少女と知ったのは、ロホンがその子を誘拐したと、彼から伝えられた時だ」
彼、と視線で示されたのは、黒風である。
「ロホンは、女子と知っていたと思う。私も奴も、王となる資質に疑問がつきまとう。そこにもし、正統な王女の血の娘……しかも碧眼の娘を妃とし、正しく碧眼の息子が得られたなら、王位は確実になる。という考えは、クシの者ならすぐに浮かぶ。攫うかどうかはともかく、手に入れようとは、するだろうな」
ただし射刃が聞いたのは、混乱を引き起こす子の存在だけだった。
「配下に確かめさせようにも、王族を信じる者ほど裏切る可能性があった。私が行くにしても、密かに王族が国を出るのも難しい。となれば、なにかの口実で、使節として行くしかない」
「貴方は、碧眼の存在を確かめるために来たってこと?」
「そうだ……排除まで、実行するつもりはないが。その碧眼の子が男だったとしても、我々と同じく、正しく認められる者ではないから」
「正しいねえ……」
クシの王族名冊を思い浮かべつつ、韶華は唸った。
北の国が跡継ぎに、母親の正当な男子を重んずるというのは、書籍で読んで理解している。が、碧眼が王の印として必須であるのは、どこにも書いてなかった。
「碧眼が生まれるのが、珍しいからこその印でしょうに……そんなの条件にしてたら、即刻、候補がいなくなると思うよ」
「実地に、いなくなっている」
静影が短くつけ加えた。
射刃も不快な様態は見せず、頷く。
「いないという言い方は正しい。私の祖父は王太子だが、碧眼の息子は持てなかった。いるのは、碧眼でもない妾から生まれた私の父だけ。だから父は、王子とさえ呼ばれなかった。青い目をもつ私を得てようやく……王族と名乗ることが、許された。その父の子である私が、王子の位を得られたのは、政治的な都合でしかない。先王の孫が碧眼を持って生まれ、王子の位を求めたからだ」
「ああ、そうか。前の王さまにも子がいるのに、王太子になってなくて変だと思ったけど……碧眼じゃないんだね」
前代王の子息の欄には、途切れた名とともに、若紅へと続く名もあった。兄弟の王子はどちらも、次の王とはならなかったのである。
「そう。先王は正妃が碧眼でない男しか生めなかったために、彼女を廃し、別の女を正妃とした。そうしてまで碧眼を得たのに……」
「若くして亡くなったんだっけ」
「いや、刑死した」
「ふはあッ?」
謝罪必須の不妙な声が洩れた。
「なにそれ、静影知って……知ってたのっ?」
紫石が見不得に韶華を見つめている。禁軍は当然知っているかと思えば、晨風は知っているんだか、知らないんだか清楚でない、込み入った否定をしていた。
とりあえず韶華は、詳しい事情を知っている者がいるなら、ここで確かめる必要はないと判断した。偉いひとびとには、紛紛とあるものである、と思うことで処理する。
「事情はありそうですけど、ともかく……お父さんのことだけど、クシの王族に、史雲の名はなかったんだよね。真に王族なの?」
「は?」
下次は、射刃から希奇な声が洩れた。
「誰が、誰の、父親だって?」
「あれ、通じなかった? わたしの父、史雲って名で呼ばれるひとは、クシの王族の系図に、載ってなかったんだけど」
漫漫と言うごとに、射刃の碧眼が大きく開き、韶華を見つめる。
「シウンの娘……なのか」
男の驚きは大きく、韶華は大息を吐いた。
美貌を受け継いでいないことに、失望したのだろう。
だがすぐに、射刃が父親の面貌を知るはずのないことを思い出す。碧眼というだけで、瑠璃の性別も知らないのである。
(だとすると、わたしのなにに、驚いているんだろう……?)
棠梨の武人たちも、クシの男の驚く意思が掴めないらしい。少女と、遠い血のつながりを持つ男を、見比べているだけだった。
やがて、韶華を見つめていた射刃が、口の端で笑った。
「奴も急ぎすぎたな。どうしてもアイシラクトゥの血が欲しいなら、碧眼で十年待つより、棠梨の皇帝の年頃の義妹を迎えた方が、使えるだろうに」
男の低声を正確に聞き取ったのは、黒風だけだった。だからその目の苛烈さに、怒りが抑え込まれているのに、覚察できた者はいなかった。
「うーん……名冊に、お父さんらしいひと、いたかな。アイシラクトゥ家? 家とは言わないのか」
「そう、家ではない。王を生み出す者としての血だ。アイシラクトゥとは、正妃から生まれた王と、彼の正妃の間で生まれた子を意味する……たとえ碧眼を持たず、王となれなかったとしても、最も高貴な血とみなされる。だから……シウン……王女の孫にあたる彼の名は、どの資料を見ても残されていないだろう。あれがクシを捨てたとは、誰も信じたくないのだ」
「少し待ってね、正妃が頻発しすぎて分からない……つまり、お父さんは……」
アイシラクトゥで在世しているのは、王女とその息子のみ。孫として書かれていないものを埋めるとなれば、息子か、亡くなった姉の子となる。
韶華の考える間を充分に与えてから、射刃は答えた。
「シウンは、亡くなったイルガ王女の息子だ」
「でも、夫の名は……なかったよ?」
「だろうな。イルガ王女は、棠梨との戦いで、クシを救ったとされる騎士……遥か西方の国の男を夫にした。だが彼は」
大息とともに、クシの男は呟く。
「王位簒奪に係わったとして、処刑された。無実だと誰もが知っていたが、罪を被る者がいなければ……ならなかったから」
「適合道理即死、新鮮! お父さん、逃げるなら一緒に連れて来れば良かったのにね?」
射刃の領子から手を離し、韶華がくるりと振り向くと、棠梨の武人たちが、言うだろうなあという表情で見ていた。
おそらく、次の言も料想しているだろう。すでに韶華は断言しているのである。
「軽易に瑠璃を郷里に連れて行くなんて、遠戚でも許せないな。迎えに行くから、
支吾してくれる?」
「ええっ、不成ですよっ」
冒失的に答えた晨風の旁で、静影が口許に拳を当てている。あふれ出そうな牢騒を抑えているらしい。行っても無用なのだと、理解しているのだ。
耐える男に代わり、
「弄月に頼め」
黒衣の男が、棠梨の主に労苦を丸投げした。
***
政を持ち込まないという水芳宮の優点は、皇帝に会おうと思えば、会えるところである。
固然、顕官や客として離宮に居なければ叶わないことだが、宮城ほど繁冗な程序を必要としない。
「だからといってだねえ……月亮も沈む刻になって、どういった事情で揃ったのか知りたくもない一行が、余の寝室に来るというは、穏やかでないよ」
弄月は身を起こし、ゆるく髪を掻き上げた。
暗い室内に揃うのは、弄月を除いて四人。いつ現れたとしても、古怪に思わない少女、それを抛っておけない棠梨の将。
そこまではともかく、淡い髪色の殊方の男と、禁軍の若き武人が居るのは、弄月には解せなかった。
皇帝の惑う心境を加強するように、韶華は小さく肩を竦ませた。
「わたしとしては、耳房にでも呼び出してもらえれば良かったんだよ。いくら離宮でも、大殿に入り込むのはね……でも、晨晨がここに来ちゃったから」
「晨晨ね……」
幼子が決めたような外号を笑うわけにもいかず、弄月は当前に跪く若き武人へと視線を移した。
「這次の行幸に随行してきた者ではないな?」
「是、黒風の命により、西街の小玉を守っておりました。我ら禁軍は皇上がため、あらゆる失事を排する者。それが、愚かにも小玉を失うことになり、叱責は免れません。死を以って償うべきものではありますが、まずは報告の必要があり、参りました」
「等等、余の命じるところではないもので、死なれては困る。黒風が……瑠璃を守れと言ったのか。ならばなぜ、やつはここにいない。それに失ったとは、どういうことだ」
弄月の怒りより早く、静影が前に出た。
「皇上、全ては本将が話さなかったことによる失閃。碧眼の幼い少女が、どのような理由で狙われるか明らかにしていれば、黒風も、防身を晨風だけに任せずに済んだはず。瑠璃はクシの王子、若紅に連れ去られました。この責は、知りながら語らなかった者が負うもの。禁軍、そしてここにおられるクシの射刃王子の係わるものではありません」
「もう、話が長いよ静影。責なんか、どうでもいいって。弄月令令、わたしはこれからクシに瑠璃を迎えに行くから、ちょっと零花銭くれる?」
武人を押し退け、少女の手が、ひらひらと動く。要零花銭。
「いや、うん、要再考? ええっとだね……これから行くのかい。君が」
「瑠璃が待ってるし。お母さんに頼んでもいいけど、それでも、わたしがついて行くことになるかなあ。でないと、向こうが怖がるよね」
「なぜ……? 向こう、とはクシのことか?」
錆青になり、封口した皇帝を見て、射刃が疑問を口にした。
杜家の女主を知らないとしても、クシの男は考えが足りなさすぎる。と、韶華は大息を吐いた。
「季児を許しもなく連れて行ったんだよ。親に怒られないとでも、思ってるの」
「殺されても、やむを得ないんですよ……」
消気した晨風も呟く。
杜家の事情が分からない射刃には、言われたところで感じ取れるものは少ない。ただ、幼子を盗まれた親の心境を思うのが、最多だった。
「確かに怒りは、もっともだ……が」
少し考え、射刃は弄月に向き合った。
「棠梨の皇帝に申し上げる。クシには他国に分からぬ事情もあるが、ロホンの非道な行いは、許されるものではない。しかし、私がここで謝ったところで、幼い少女が戻るわけでもない。ゆえに、今より使節を離れ、クシに戻ることを認めて頂きたい。攫われし少女を、力を尽くして助けましょう」
「まだ預定は半ばも終えていないのに、帰りたい。と言うのか、クシの王子よ」
「正しくは、私だけ。元より使節の長は私ではない。いなくなったとて儀式に滞りはありますまい」
ちらりと青い目が、韶華を捉えた。
「私は彼女から、攫われた幼子が、貴方の義妹であると聞きました。クシの者として、棠梨と騒ぎを起こしたくはない。たとえ子の父が、クシの男であっても」
射刃が弄月を撲面から見返す。その貌には、分かっているはずだという居心が見て取れた。
「やむを得ないな」
「では、私は戻りますが、もうひとつ。ここにいる幼子の姉を、密かにクシに向導する任を請け負いましょう」
「なにを言……」
「それは困るな」
静影を制して、弄月は言った。
「攫われた子が余の義妹ならば、こちらも義妹。無事を定められねば、預けるわけにはいかぬ」
「そこも保証すると……申し上げましょう。幼子を返す策は、ロホンの考えを確かめてからになりますが、傷ひとつ、つけさせはしません」
「ああ、いや……クシが瑠璃を傷つけないのは信じているよ。そうでなければ、国が滅ぶ。ではなくて、射刃王子よ、貴公が暗中にここから消えることを、余は准許できぬと言うのだ」
射刃は僅かに美貌を歪めた。棠梨に客として迎えられたとはいえ、クシの王族である。他国の皇帝の許しなど、本来は必要ないのだ。止められるものなら、止めてみよと、身に着けた武具に手を置いた。
室内にいるのは、皇帝に侍するを許された武人がふたり。同時に応じるのは難しいが少女を人質にすれば、と思う視線の先に、少女はいなかった。
「えっ?」
射刃の後面に、韶華はいた。
少女が微笑みとともに見せるのは、手に握った糸。先を辿れば、射刃の足許に張り巡らされた編み糸につながっている。
僅かに引けば、おそらく、締まる。糸に絡め取られる姿が、軽易に思い浮かぶ。
「余も、これは初めて見たなあ……」
「覚えておくといいよ、弄月大人。お姉ちゃんも、できるから」
「まあ、そういうわけで、どこで覚えたのか我が義妹は、無用に鍛錬を積んでいてね。担心が要るのは、どちらかというとクシの者だ。闇に夜猫子、宮城に殺手を放つが如し、同伴をつけずにはいられないのだよ」
説法はひどいが、射刃の理解は深まった。
「だから、誰にも知らせずに、送り出すことはできぬのだ」
「では、どうすると?」
弄月はにやりと笑った。
「左領左右府将軍、これより宮都に戻ると、全ての者に伝えよ。余の任性は知られておるゆえ、預定を変えても、なんということもないだろう」
「甘棠に戻って、それから行く準備をするの? それじゃあ、遅くなっちゃう」
焦れる韶華の叫びが上がる。
しかし弄月は静かな笑みを見せた。
「急ぐだけでは、為せぬことがある。韶華、きみは正しく、クシに入るのさ」
「正しく?」
弄月は頷いた。
「祝辞という情由で、棠梨にやって来た使節だ。こちらも情由を作って、クシへと使節を送ろう」
「皇上、なにを一想したのですか……!」
長い刻をかけて対手を知った静影の目には、弄月の微笑みは、不適なものにしか映らなかった。




