申請期日之二
韶華は首の角度を上げ、止めに入ったひとを見た。見なければ良かったと思うであろうことは、知っていた。
聞き覚えのある声、見覚えのある紫石の双眸。長相は端正なるも情態に親しみを得られず、どこか狷介。額にかかる髪が僅かに湿り、純黒をさらに濃くしているのは、あちこち走り回って騒ぎを収めていた痕跡か。
悪いひとではないけれど、会いたいひとでもない。
官方を引き起こす静影へ、韶華はこわばった笑みを向けた。
「あー……コンニチハ。コンニチハ。晴天ヨロシカリ、風モ又スズシ」
「そうか? 曇天だが……足は傷めてないな?」
「静影! 蹴られたのは私だぞ! 宮廷香試の私に対して、無状だろうが。皇帝の信も篤く、考試の主文の席を賜わった……」
「香試?」
「知らないのか。宮中の香を配方する者だ。我が一人は殊の外、香りを愛でておいでなのだ」
官方、もとい香試は韶華を見下ろし、くすりと笑った。
「香木や香草は、おまえの如き窮した者に手が届く物じゃないぞ。さっさと諦めいたい痛い痛い離せ耳から手をっ」
「少し結舌していろ、重明。でないと鼻をつまむぞ。おまえの説法は下拙すぎる」
男が恫喝「し」なれているというのならば、重明と呼ばれた香試は「され」なれている。耳を引っ張られても、まだ暴れていた。
「ここで小児を怒鳴るよりも、まず事を進めろ」
「分かった、分かりました。では……帖子がないっ!」
叫ぶ重明に憐れみを覚えた、わけではないが、韶華は香試に助言した。
「名を集めるよりも、候補となるひとに言わせたら? あなたは報名表を受け取って、それを読み上げる。で、ここに来てもらって、確かめるの」
「それは好主意」
「というわけで、第一」
香試は流されるまま、韶華の差し出す紙片を受け取った。
「杜朱蕣……」
読んだのであって、呼んだのではない。だが是と澄んだ声がして、さっと美女が進み出る。探せないのなら、出てきてもらいましょう。という韶華の狙いは、正しく作用したようである。
ひとつ例ができれば、あとは倣うだけ。粛々と申請は行われた。
「小季、考試より先に売り込みをかけるなんて、信心がおありなのね」
韶華が振り返ると、大きな木槿の髪飾りをつけた若い女が立っていた。
朱蕣には劣るが美人の類に分けられるだろう。華やかな刺繍の襴と、花兄の無傷なさまが、良家の息女であることを明らかにした。
険のある視線を韶華に向けていなければ、通りすがりの令媛としか思わなかったはずだ。そうではなかったゆえに、評価はだだ下がりである。
「売り込みなんて、してないけど」
「だけど、あの香試の仰る通りではなくて? 后妃となるには、それなりの財貨が要るのだもの」
「でも令姉だって、庶人よね? とある門閥の令女が、どこかの商家の領養となって申請していたら……ふたつの後台には、敵わないんじゃない?」
「ええっ、それってありなの? 卑怯じゃない?」
「という醜聞で候補を減らすっていうのは、どう?」
「わりと方策を選ばないひとね……」
妖しく笑う韶華と令媛。和好したかに見えるが、すでに考試は始まっているようなもの。笑顔の下で探り合いが行われていた。
静影には、ふたりの後ろに龍虎の画が幻のように浮かび上がるのが見えた。
「もういいから、さっさと考試の手冊を受け取ってこい。そして、うろうろしないで早く帰れ」
「帰れ帰れって、繁冗ってば。それにわたしは申請しないし、姉を待ってるだけなの」
「だったら静かにしていろ。このままでは、天下転覆の計まで聞かされかねない。それに大路でお喋りは不行儀と、親に言われなかったか」
「まあ怖い」
静影の指摘には令媛も含まれていたはず。が、まるで係わりのない顔で口許を覆うと、逃げるように去って行った。
「妹妹?」
いつ来たのか、事を済ませた朱蕣が韶華をじっと見つめていた。いつもと違う呼びかけは、見知らぬ男が妹のそばにいたからである。
静影のほうは朱蕣の居心に気づくことなく、姉妹が現れたことで明らかにほっとした顔を見せた。
「申請は済んだようだな。ならばすぐ帰るように」
「ええ? それだけ? もう少し静女のみなさまを見かけたら、言うことがあるんじゃなかったの?」
「なんだそれは」
静影は真に分からない、という顔をして韶華を見た。
おやと思うと同時に、韶華も困惑することになった。韶華があれだけ熱を入れて綴った恋愛相談を、静影が全く覚えていないように思えたからだ。これがもし仮意知らない装いであれば、天生の騙子と呼ぶしかない。
などと考えていたのは、僅かな間となった。朱蕣が目光だけで問いかけてきていた。
――――誰何。
他人、武人、言えないけど投稿者。
いろい答えはあるものの、瞬きで知らせるには難しい内容である。そんな迷いが顔に表れたために、朱蕣の判断は不許と出たようだ。話す居心ナシという、巧妙な淑やかさで目礼をしていた。
「ああ……どうも」
心硬はどうしたって伝わる。静影の返す口気に勢いはなかった。
(ここは鼓励すべき? でも……)
嫌がっていても、全力で指南欄目を書いてきたつもりだった。けれど彼が覚えていないのなら。
韶華は黙って姉を追った。そうしなければ、静影によく分からない怒りをぶつけそうになっていたのだ。