不放過、不容情之一
水芳宮の存在が、皇帝を寛がせるだけのものであり、政をする場ではないというのは、事実であった。
ただひたすらキュウ――と棠梨の者が呼ぶ名ではなく、クシと言わねばならない者たちと、宴席温泉会餐温泉戯劇温泉観游温泉が続いている。
とはいえクシの使節が来るそもそもの目的が、大婚への祝辞なので、預定など緩すぎるくらいで充分なのだろう。
そして今天は。
「なんで打牌! どうして打牌! そんなもので歓迎するっていうのも、どうかと思うけど」
韶華は大庁を眺め、呆れたように貌を歪めた。
内部には、卓子が占満に並び、そのひとつひとつから、熱のこもった歓声が上がる。楽しそうでなによりだが、つい最近、どこかで見たような情形である。
「こういう遊戯は、どこの国のひとでも、同じように楽しめるんだね。江那さんの国でも、そういうもの?」
江那が小さく頷いた。
「ワタシの郷里にも、似たようなぷれいがあります。ですが、ここではぎゃんぶるでないだけ、良いのではないでしょうか」
「賭博かあ……」
韶華は疑う視線を、打牌に興じる人士に送った。
見た限り、当面に銭を出している者はいない。だからといって、賭けをしていないとは言い切れない。疑いの目で見ているためでもあるが、不審な動きがないわけではないのだ。
「あの隅の卓子を見てよ。片書を持ってる管人がいるんだけど。照料であんなことする?」
「す……するのかも?」
と、言いながら、江那の表情には否定が浮かんでいる。
ならば確かめてみようか、というふたりの謀議が成る前に、紅司正が盤子で差し止めた。
「黙っていると、これだから! さあ、注子を取り替えに行ってきなさい」
「分かりました。あの……少し休んではいかがですか」
え、という貌で紅司正は韶華を見返した。
正面から見ると、送料が差錯ではなかったのが分かる。眼晴が落ち窪み、肌理の張りもなくなって、隠しきれない疲れがあった。
「労心は嬉しいのですが、休むことなどできません」
「大庁をずっと見てますけど、注子に手をつける暇もないほど、打牌に集中してるので……基本、抛っておいて良いかと思います。盤托を交換するのに、刻を決めて巡回すれば、足りるでしょう。耳房で控えていても、良いのでは。なんというか、みなさん、一只手で食べられる包子さえ惜しんで打牌してますし」
「そう……ね」
「取り替えるだけなら、わたしたちで、難なくこなせますから」
打牌に著迷な男たちには、紅人の動作の高下など、係わりのないことである。
片刻、大庁を見つめた紅司正は、韶華の言が真であると認め、弱弱しく歩き出した。それでも、なにかあれば知らせるように、と言うことは忘れなかった。
「では、どれくらいいんたーばるしますか?」
「まず全てを取り替えないと……で、大約の残りの分量が小半なら、半刻待って。もっと残ってたら、次はもう行かなくていいと思うよ」
「そ、そんな?」
「今呑ませてるの、白酒だからね」
注子を呑みきってまだ呑むような酒鬼は、弄月くらいなものだろう。
しかしその弄月は、すでに大庁から退いている。同時に禁軍も両半が下がっており、黒衣の戎人の加圧は緩いものとなった。だからこそ、打牌に熱が入っているのだ。
「では、まあ……ちぇんじしてきましょう」
「わたしが注子を集めるから、江那さん、厨房に行ってもらえる?」
「分かりました。樓道、気になりますよね?」
江那が猫のような笑みを浮かべた。
同意する代わりに、大息で答えた。たとえ酔客が紅人の容止を見ていなくても、樓道に出れば、紫石の双眸が見つめてくるのである。
(不行儀があったら許さないって面貌だよね、あれは。どこの蒼鷹ですか……)
静影が知りたいのは、内側の様態であって、韶華の動きではないはずだが、矩歩が粗くなると、秀逸な天弓がぎゅっと引き絞られ、情態を草率にすると、査牙しさで紫石が磨き込まれてゆく。馬馬虎虎にはできないのであった。
麻煩なので、数落で気を紛らわせるくらいなら、烏黒の衣装を貸すから入れば、と言いたくなる。
扉越しに感じる愁いた視線を振り払い、韶華は注子を集めた。
「あれ……」
クシの使節のひとりに、管人がささやいている。
不久前までと変わりのない様態だが、管人は、韶華の知らない男だった。
古怪と思ったのは、韶華だけらしい。
控える禁軍の武人たちも、同事である管人たちも、男を面生とは考えていないようだ。
けれど、韶華の覚えている限り、男は宮都から連れてきた管人ではない。水芳宮の者でもない。そもそも管人とは思えない動きをしている。
ふたりの男の間に入り、ささやく管人。より近くにいるクシの男は、さも聞いているといわんばかりに頷いているが、
(あの向きで話されても、聞こえないと思う)
聞こえている、聞いているのは、射刃という名の――クシの王族である。
(それに、うん……クシの言で伝えてるな)
管人の口許が「ナーニー」と動いた。それ以上は離れすぎていて、韶華には読み取れないが、棠梨の語言でないのは確かだ。
ナーニー。クシでの意思は、地の人――王族に呼びかけるならば、王子を示す言だ。
その射刃の面色が、変わった。
驚きなのか、不快なのか、クシの男の美貌からは、明白に読み取れない。
韶華は手を動かしつつ、射刃の退出しようとする動きを睇視で追った。
射刃が、院庭に向かう扉から樓道に出た。
(江那さんは……まだ戻ってこないか。どうする、追うか……静影に)
知らせる暇はない。
膠固な将は、古板なまでに主持する場を離れずにいる。彼の立っている樓道は、射刃が向かったのとは逆なので、呼んでから追うのでは遅い。
ひとりで行くしかない。と、迷いを捨てて大庁を出た韶華は、不料にも、すぐに射刃を見つけた。
樓道の端で立ち止まり、院庭に行こうかと迷うような様態である。
片刻考え、韶華は近づくより、槐の木に隠れることを選んだ。
その判断は正しかった。
(あのひと……!)
射刃の旁から男が現れる。黒衣の、苛烈な目をしたそのひとを、認錯することはない。
そして思い出した。
ささやいていた管人が、禁軍の男だということを。
(黒風が、なにをクシに言うの。というか、禁軍がクシのために動いてる……?)
彼らは皇帝の下命でしか、動かないはずなのに。
湿った風が、韶華の頬を撫でた。嵐が近づいて来ている。
否、水芳宮で嵐を預感するのならば、あるいはもう、宮都では嵐になっているのかもしれない。
誰がなにを考え、なにを始めようとしているのか。
確かめたくない心が、韶華の動きを封じていた。
***
「韶華?」
恍惚としている韶華を回神させたのは、よく知るひとの声だった。
貌を上げれば潅木を後面に、紫石の双眸が労心を窺わせて韶華を見ている。
静影、と答えようとして、韶華は、そうではないことに気づいた。
すでに韶華にとって、静影の声はよく知るものではない。もっと近くに、ずっと親しくあるものだ。
韶華を覚錯させた声は、静影のものではなく――
「静影、結舌ッ! こっちに来て」
「なにをす……」
少女が骨節を極めながら、男を引きずり込む。個兒の大きな武人でも隠れられるよう、隆重を極めて繁る潅木の中に収まる。
「韶華、いつ、こんな技をっ……」
「だから封口だってば。聞いて。不久前まで、向こうの樓道に射刃がいたよ。それと、黒風」
さらなる技を決められては堪らないと、た静影は眉をひそめることで、問いの代わりにした。
「禁軍っていっても、今は守りの任に就いてるんだし、クシのひとと話しをするくらい、古怪でもないかもしれないけどさ……クシの王族が面色を変えるようなことを、伝える必要はないよね」
「面色を変えた?」
「なにを言ったかは、知らないよ? でも、禁軍のひとが管人の模倣をしてまで、クシの王子を黒風に会わせようとした。そうして黒風が伝えたことで……驚いたってこと。それにね」
韶華は静影の言を封じるように、低声になった。
「あれは……弄月大人の係わりのないところで、やってるんじゃないかと」
密謀説を述べたにも拘らず、否定は返ってこなかった。
黒風という人物が、禁軍にあらざる不審な動きをしているのは、静影にも分かっていることだ。ただ友人を疑いたくないという情分が、韶華への解説の口を閉ざさせている。
だから韶華は、真卒な武人を潅木の深みへと導いた。庭院で聞き取ったのは、彼の声だけではなかったからだ。
庭院に突き出した平台の下、言い合う声が響いてきた。
「静影、聞こえる?」
「黒風……いや、晨風?」
韶華は静かに頷いた。
宮都にいるはずの少年が、離宮に来ている。しかも、己を都に残す命を下した者と、舌争している。
「あの子が、狙われていると知っていて、あなたは……!」
晨風の声調は激昂に近い。素の穏やかさからは、同じ人物とは思えないほどだ。
対する答えは、低声すぎて聞こえない。求める答えではなかったことだけが、続く叫びに込められていた。
「そんなこと、どうでもいい。あなたが知っていたかどうかだけ、知りたい。誰が企んだかなんて、今聞いたってどうにもならない!」
「忘れろ」
短い応えだった。
「皇上に従い、皇上のために動く。おまえは、それだけでいい」
「それではまるで、あなたが……別の……ことのために動いているように聞こえます」
別のひと、と言わなかったのは、晨風の対手を信じる心がさせたことだろう。
黒風の微かに笑う気息があった。
「笑わないで下さい。ぼくを怒らせるのは無用です。もう……怒る暇なんてないんですから。それに、あなたの目的がなんであれ、ぼくがあの子を守れなかったのは事実です。あの子は、真にキュウが連れて行ったんですね?」
どの子を、キュウが、連れて行った――のか。
瞬刻、晨風の言は、韶華の内に入ってこなかった。
息を止めた韶華の旁で、静影も陶俑の如く動きを止めた。
「あの……痩せ女みたいな妖しい男の名を、キュウの男は知っていましたよ。初めて会ったようですが。それに、あの子の青い目のことも……! 誰かが教えなければ、知りようもないのに! あなたが、教えたのですかっ」
「……あの男に対しての留神は、キュウの内でも差異がある。だから、棠梨に来ているのを以前から知っている者もいれば、知らない者もいる。今となっては、知っていたのに、忘れてしまった者も」
ということは、と韶華は思った。
少なくとも、父親が棠梨に来たことを調べたのは、黒風ではない。
父親が棠梨に来たのは、二十年は前のことだ。黒風の年齢を考えると、彼が瑠璃よりも幼いころの話となる。禁軍が世襲だとはいえ、当時の彼が武人として動いていたとは思えない。
しかし、季児の碧眼という杜家の事情については、黒風の行かもしれない。
だとしても、禁軍がいつから北の大国と係わっていたのか。
同じ疑問を晨風も口にした。
「ぼくは……当時の行いが、禁軍のしたことではないと、信じていいんですか?」
封口という答えがあった。
(うん……武人って、分かりやすいのかも……)
韶華は静影の旁臉にちらりと視線を送った。
静影と黒衣の男が朋友であるというのが、よく分かる。做法が、似ているのである。
黒風という人物も、偽りを言うことに躊躇いがないように見えて、同事には細心をもって戯言を吐かない。代わりに、言わなかった部分を模糊にしたり、小半しか解説しなかったりする。
つまり、問いに黒風が答えなければ、晨風の言は正しい。韶華の父親について、キュウ、すなわちクシに伝えたのは禁軍なのだ。
(当時の皇上は……弄月大人では、ないのかな。どうかな……違うと思うけど)
的確と言えるのは、韶華が生まれるより前の事由によって、青い目を持って生まれた瑠璃が、攫われたことだけだ。
考えているうちに、心煩が湧き上がる。
中途にしか伝えないのは、偽りより良いという判断だろうが、それなら、初めから全て投案と言ってやりたい。
そもそも、困っているのは、晨風でも黒風でもない。
「瑠璃なんだから! ねえ、どういうことよ、クシに攫われたって!」
突如として顕示した韶華に、驚きを隠せた者はいなかった。
「悄悄と聞いてても、分からないし! 井然と解説してもらうから、わたしの前に並んでくれる?」
冷戦したのはふたり、真卒に並んだのはひとり。いかなる反応も見せなかった者については、逃げなかっただけ許すことにする。
「並んだのは静影だけ? まあいっか……それじゃあ、宮都の主持のひとから訊きましょうか。瑠璃が攫われたって、なに」
睨まれた晨風は、餌を呑み込んだ蛇が吐き戻すように、話し出した。
西街にクシの爪牙が入り込んでいたこと、晨風が几次か追い払ったこと。深夜に碧眼の男が来て、父親と謝元宝とで回撃していたが、晨風の力も及ばす、瑠璃が攫われてしまったことなど、小節までを全て。
誰も、なにも言わずに聞いていた。
「攫いに来た碧眼の男は、年齢からするとクシの王子……射刃か若紅ではないかと思いますが」
射刃が離宮にいるのであれば、残るは若紅だけとなる。
「碧眼っていうだけで、そこまで言い切っていいの?」
「王族でも、もう王となれる碧眼を持つ者は少ないんです。当代の王と王太子を除けば、そのふたりだけなので、どちらかが王に……なにするんですかッ」
少女に領子を掴まれ、晨風は哀訴した。
「方才、すっごく重大なことを聞いたように思うんだけど。王となれる、碧眼? それって、クシの王は、必ず青い目をしてないといけないって意思だよね?」
「碧……碧眼に生まれた者がっ、王の証になるって、聞いてま……」
「じゃあ、瑠璃は」
絞め上げた手を離さないまま、韶華は封口した男たちを見た。
紫石も苛烈な黒玉も、ただ、韶華を見返している。
「等等、話を聞い……碧眼でも、女子は王になえあい……なれませんっ」
韶華の手を逃れ、肩で息をする晨風が、怒ったように下巴を上げた。
「クシでは、男子しか家を継げませんから、碧眼の女王はあり得ないんです。だから、傀儡の王にするために、攫ったわけではないと思います」
「それを聞いて放心すると思う?」
「いえ……ただ、彼らはあの子だけが欲しいんですよ。痩せ女を行刺する打算は、なかったみたいですから。もっとも、今までの刺客は、あれに淡泊に処理されてたのかもしれ……って、なにするんですかあっ」
再、領子を絞め上げられ、少年は苦悶の声を洩らした。
「方才、すっごく古怪なことを聞いたように思うんだけど。淡泊に処理って、お父さんが刺客を? お母さんじゃなくて?」
「いやあのっ……あの女士もできそうですけど、気にするところ、そこですかッ」
苦しむ晨風を捨てておけず、静影が止めに入った。
「韶華、停……こんなことを言うと呪われそうだが、あれだけ気息を消せるのならば、それはもう殺手と同じだ。易易と下風にはなるまい」
晨風と静影が思い浮かべたのは、同じものだった。
いつ現れたのか、いつからそこに居たのか。振り向けば、柱の影に眼底に恨みを込めて見つめるそれが、立っている。もし、その骨ばった手に鉄針が握られていたなら、気づくこともなく、後面から命を奪われたに違いない。
失った子への情に凝り固まった女妖、痩せ女が、ひとを殺したという伝説は寡聞にして知らないけれど、あれならば、やりかねない。
「それにしたって、瑠璃は攫われちゃったんだから……」
武人ふたりの表情を見ながら、韶華は大息を吐いた。
彼らの脳里にあるものを、送料できないわけではないが、中用にならなかった父親の素養など、どうでもいいのである。冒失、拘ったのは韶華だが。
「ぼくも考えたんです。あの子が攫われる理由を。もしかしたら、碧眼の少女は王になれなくとも、王になる子を……生むことができるって、いや、十年は先の話ですがっ」
「わたしの呪いだけでも、男の命は十年もたないと思う。碧眼の子が注定、碧眼だろうという送料で、瑠璃を攫うのっ?」
韶華の怒りはもっともだが、否定してやれる者は、いなかった。
あるいは、可能性を信じたかったのだ。いずれ妃にする打算ならば、瑠璃が害されることはないのである。
しかし。
「清楚にさせましょうか」
「え、なにが」
怯えた声で晨風が応じた。
応じなかったが、静影には、韶華がなにを言っているのかが分かった。瑠璃を連れて行く理由が知りたければ、連れて行った者に訊けば良いのである。攫った者ではないが、クシの王族は離宮にいる。
「韶華……」
「どうせクシに行くんだから、聞けるだけ聞いておかないと」
韶華の放った言を瞬刻に理解できたのは、やはり、静影だけだった。




