愛児誘拐
どうしてこうなったのか、分からない。
けれど、香青路には大小の影が楽しそうに団団している。互いを追いかけては、離れる。それを飽きることなく、繰り返す。
動く影に合わせ喚声が響かなければ、踊っているようにも見えた。
しかし、細い棒の影もまた地面にあって、ふたつの影が、花招をしているのが分かる。
より小さな影が、大きな影の内に入った。
「行……好! また勝ったよ、景景!」
友の叫好を受けて、幼い少年が得色な貌をした。
「おお、やるなあ!」
老爺も嬉しそうに手を叩いた。
後面からの一打を受けた晨風は、痛みを堪えながら起き上がり、少年の肩を褒めるように叩いた。用度しているとはいえ、棒術が能干になったのは事実である。旁で喜んでいる永児も、まあ、そこそこ強くなっている。
ふたりの少年としては、晨風や老爺の賛辞より、ひとりの少女に声をかけてもらいたいようだが。
その大きな青い目を持つ少女――杜家の季児は、老爺の旁に座り、隠れるようにして封口していた。
幼い少女にとって棒を振り回す者は、母親や姉を除けば、まとめて欺人である。
と、睨んでいた瑠璃が、ぱっと振り返った。
「どうしたね、瑠……」
不審な幼子の行いを見て、問いかけた老爺の言は、中途で潰えた。戸の空子に、子への情が凝り固まった怪、痩せ女がいた。
杜家の主であるが、いつ見ても男とは思えない。それでも、こうまで痩せていなければ、恐ろしく整った容貌であるはずだ。
骨ばった手を伸ばし、愛児へとささやきかける怪を、美しいと言うのは難しいけれど。
「瑠璃……私の愛する瑠璃……一点はいらないかい」
「好!」
「好好! 叔叔、請客になりまーす」
「おまえたちには言ってない」
どこからか吹き荒ぶ冷たい風が、痩せ女の灰色の髪をなびかせる。
ただし冷眼が効いたのは悪童だけで、いつ集まったのか、はな垂れ小児や、請客の意思もわからず喜んでいる幼子らには、無用であった。
「まあまあ、二三子のものは、我が做東するよ。晨晨や、頼んだぞ」
「えっ……はい」
楽しげな老人、謝元宝から銭を受け取りつつ、晨風は身体ではない心目の痛みを堪えた。
香青路での任は、解せないことばかりだ。老爺にまで役使され、しかも悪童らが使う、軽易な綽名で呼ばれなければならないのか。
「晨風よ、我がいるのが、よほど古怪なようだなあ」
「い、いいえ。そんなことは……」
否定したところで、晨風の訝しむ表情は隠せなかった。
張望を命じられた家に、棠梨で名望を欲しいままにした御史大夫が、久坐している。そこで気になるのは、杜家と彼に、どんな係わりがあるかなどではない。彼の訪いが、晨風の用命と同じ居心でなされたものか、それだけを疑問に思う。
だが、その答えを聞くには、晨風は禁軍として馴らされ過ぎていた。上からの命に差し挟むものなど、あってはならない。
老人の視線から逃れるように、踵を返した。
御史台という、禁軍と同じ皇帝の勅令だけを聞く本分にありながら、己の意志を通した老爺に目的を問うなど、幼子の言う鳥人にしか思えなかった。
「絳雪酒楼に……行ってきます」
行きかけた晨風の衣の裾を、小さな手が掴んだ。
「な、なにかな……?」
振り向いた先には、青い目の幼い少女がいた。
瑠璃、と痩せ女の口許だけが動く。よく分からないが、晨風の背粱が、ぎりぎりと絞め上げられているように痛む。側面からも、小さな鋭い視線が突き刺さってくる。呪われているに違いない。
鉄青になる晨風に、碧眼の少女は丸く頬をふくらませ、否と言った。
「晨晨、弱くないよ。永児と景景で、作弄するんだもん。老公公に請客してもらいたいなら、ちゃんと……ひとりで勝たないと」
瑠璃の言に喜んだのは、老人だった。
「おお、小玉は、よく見ておるわ。小子、なんなら、我とも戦ってみるか。勝ったら、包子でもなんでも買ってやろう」
「えええ、でも……老公公にはなあ……」
「止めて下さい。小児たちを対手に、老躯に無用な労苦をさせるわけには……」
晨風は老人を庇ったはずだった。なのに幼子の青い目が、まさしく青眼になる。
幼い少女の強さの評判は、強い老人、越えられない壁、晨風続いて弱い悪童、であって、弱い者が強い者に礼を欠いてはならないのである。
細い少女の手が、晨風に棒を渡した。老人は拐棍を持っているので必要ない。
「え、真的にやるんですか」
「当然であろう。ほら、来来来」
「晨晨、加油ー」
小児らの声とともに、一打を前額に受ける。
どうしてこうなったのか、晨風には、全く分からなかった。
***
悪童らがそれぞれ包子を手にして去って行くと、瑠璃と父親は客人を伴い、白屋に戻った。
「好……絳雪酒楼の包子だよ、お父さん、食べないの」
「瑠璃が食べるといいよ」
「でもこれは老公公が、お父さんにって、くれたのに」
瑠璃の青い目は、謝元宝と父親を見、そして居室の隅に座る晨風を見る。もそもそと包子を食べる彼の前額は、僅かに紅くなっていた。
「あれ……晨晨、手をどうしたの?」
晨風の手背に、新しい口子がある。叩かれた前額はともかく、酒楼に行く前に、そんなものはなかったはずだ。
「没問題」
少年は手を隠そうとするものの、包子を食べていては、隠しようもない。瑠璃は首を傾げて、それを見つめた。
まだ薄く血の滲む創口で、とても痛そうだ。
「誰か、晨晨を欺負めたの? そんな坏人、お母さんが伏せてくれるよ。お母さんね、すごく強い打手なんだから」
「強いのはよく知ってる。でも、欺負められたわけじゃないから……ぼくが冒失してただけで」
瑠璃は少し考え、椅子から下りた。
「あのね……韶姉のね、作坊にね……よく効くお薬があるよ。瑠璃、もって来ようか?」
「いいよ、これくらいすぐ治るから」
「でも、すっごく、すっごく効くんだよ?」
もう一次断ろうと口を開きかけた晨風だが、幼い少女の厚意の向きが、僅かにずれているのに覚察した。
つまり、幼子は、姉の配方する薬を自尊したいのである。
男に対する労心などいらぬと思う父親も、季児の優しさを愛しいと思う心目と、二女の才能を誇る心目とが混ざり合っているせいか、封口して見つめている。
「ええっと、じゃあ……使わせてもらうね。だけど」
晨風は、幼い少女が動きだすより先に牽制を入れた。
「きみはここにいて。もう外に出るには遅いから、ぼくが取りに行くよ。作坊は、老公公の久留しているところだよね。薬がどこにあるかだけ、教えて欲しいな」
「それなら、我が知っておるよ。前に春娃に教えてもらったからな」
「でも……」
謝元宝までが止める様態を見せるので、瑠璃は父親を振り返った。だが、父親の愛しげな目光に、出門を許す気息はなかった。
「すぐ近くなのに……」
「それでも不成。天色も良いとはいえないからね」
父親の言に、おやと思い、老人は窓の外を見た。
天黒ゆえに分かりにくいが、確かに平素より暗く感じる。白天の湿った風が、雲が呼んだらしい。
「雨か。荒れるかもしれんな」
謝元宝と晨風は、速やかに杜家を辞した。作坊まですぐといっても、余輝のあるうちに戻り、すべきことを為さねばならない。
嵐の風色を感じているのか、香青路には、ふたりのほかに人影はなかった。話を聞く者もいない、ということである。
「晨風よ……その創口はどこで?」
「妓楼の附近で、不審な者を追ったら回撃されました。礫を投げつけられただけなので、深間というより二流子でしょう」
「二流子か……おまえに当てられるというだけで、もう少し評価してやっても良いだろうよ。やはり毒のことを考えて、薬を塗っておこう」
老爺は作坊の戸を開けて、立ち止まった晨風を招いた。
「どうした、入れ」
「あ、はい……」
晨風のためらいは、入るのを迷ったというより、言うべきかどうかを考えているように見えた。
その意思が、分からない謝元宝でもなかった。誰かの言うがままに動くのは、楽なようで、楽ではない。身体のどこかから湧く思いを、不顧するのは難しい。
「おまえは……ここから離れても、構わないのだぞ」
老人が示したのは、疑うものを解くために、今は水芳宮にいる男に訊きに行くことである。
晨風は瞬刻に否定した。
「ここであの子を守るのに、異言はありませんから。ぼくだって、分かるんです。黒風が……これから起こることを、望んでいないんだって」
「そうか」
「ただ、ぼくには力量が足りません。そんなの、禁軍の誰もが知ってます。だから彼が、ぼくにしか頼れないくらい追い詰められているのかと思うと、自身に怒りが湧きます……」
もっと強ければ、と。
老人は笑った。ひとの身であれば、いかに強かろうと天命は動かせない。ただ、やってくる刻を待つだけである。
全てを思い通りにできるのは、天地幽明の神のみ。
あるいは。
「己を知り、己を諦めない者だけが、天命を揺るがすことができるのだろう。明君の創りし楽が、青冥にあまねく響いたようにな」
「そう……かもしれません」
言にはしなかったが、ふたりの心目のうちには、焼栗色の髪をしたひとりの少女が浮かんでいた。
***
月が雲に覆われ、また現れる。湿った風の強さは増し、やがて雨になる迹象を感じさせる。
窓から入り込む明るさが、激しく変わるのを瑠璃は見ていた。
もう深夜といってもいい刻である。眠いのにも拘らず、眩しさと暗さの入れ替わりが気になって、密かに起きていたのだ。
姉の韶華が出門してから、どういうわけか、落ち着かない。
景景や永児が連天きて、騒がしいからかもしれないし、古怪な動きを感じるからかもしれない。
健康になった最近はそうでもないが、小弱な季児は眠りが浅く、どれだけ労心しても、ひとの動きを察して起きてしまう。
そのために、家常ではひとりだけ寝室を分けているのだが、母親が行で留守の夜は、父親が旁にいることになっていた。
だから深夜、父親の動きによって、瑠璃も老人の行いに気づいた。
あの作坊に招いた老爺は、三更も遅くなってから、杜家の周りを歩いているのである。
父親は謝元宝という老爺を、とても気にしている。深夜に歩く男に合わせ、必ず起きて息をひそめるている。
瑠璃にはなんとなく、老人が、瑠璃から目を離さないようにしているだけに思えるのだが、父親にはそれが不快であるらしい。
不快を案じてではないが、瑠璃は眠った振りをしていた。
父親は、苛立ちを幼子に見られることを、なによりも厭う。
けれども、それは同じなのに。と、瑠璃は思う。
父親と老爺の瑠璃を見る目光は、優しさと鋭さがよく似ている。おそらく、同じ関心を持っているのだ。
なにについて関心があるのか、瑠璃には分からない。考えようとはするのだが、もう眠りはすぐそこにあり、糢糊なささやきのような風の音の中に、はまり込んでいった。
そして、瑠璃と入れ替わるように、父親の目が開いた。
なかなか眠れなかった幼子が、好容気静息になったことを確かめ、起き上がる。
瑠璃が眠れないのは、当然だろうと思う。幼子にさえ感じられる気息が、外にはあった。まるで彼を誘い出すかのような、ひとの息だ。
灰色の髪をかき上げ、唇をきつく結んだ。
不顧したままではいられない。今、外にいるのは、ここを目的として来た者たちだ。
あれを白屋に迎えは、しない――彼の内の古く、懐かしい血が滾る。
男は父親の貌を置き去りにして、するりと影に紛れた。
一瞬の寂清。
をれを不自然と感じる前に、戸の旁にいた男が、仄かな輝きを持った影に喉道を絞め上げられた。倒れる身体の立てる音は、風に流され聞こえない。
さらにもうひとり、後面の微かな大息も感じないまま、神魂を失う。
しかし男の体躯は思うより大きく、掠めた頭が戸を軋ませた。
音は微か、加えて風もあった。それでも暗い色の口罩をした男が、気づいて振り向く。
薄い灰色の目と、薄青い目が合う。
確かめるまでもない。生まれた国を捨てた男には、それがどういった側影を持つ者であるか、分かりすぎるほどに分かっている。
熱くなる血の導くまま、またひとり、昏倒させた。
碧眼の男は、いともたやすく爪牙を払いのける男を、冷めた目で見た。
「衰えてはいないようだ」
「我もだよ」
刀刃が閃く。老爺の手から、放たれたものとは思えない鋭さで。
だが、低声は瞬刻、早すぎた。預告となったささやきに、男は辛うじて応じる。側面からの一閃を、衣の一部を犠牲にして避けた。
謝元宝とて、それだけで終わりにできるとは思っていない。返す刃で、後方の男の矛を弾く。
老人と侮っていたらしい男は、青い目を細めて笑った。
「お守りにしては、頑強だ」
「名など訊かぬ。愚人で充分。立即離開」
「こちらとしても、そうしたいところだが……」
男の視線が、拐棍を握った男に向けられる。彼は老人の投げ置いたそれで、すでに別のふたりの男を片づけていた。
「シウン、初めてお目にかかる。宝玉を、もらいに来た」
「失せろ」
灰色の長い髪を、風が巻き上げる。それが、杜家に住まう男の答えだった。
「謝公、次が来ます!」
少年の焦れた声が響き、生力軍の気息も同時に届く。
「晨晨!」
「よりによって綽名は止め……惨淡ッ」
大息を吐く間に、晨風はひとりを引きずり倒し、後面にいた手斧を持った男の脚を払った。
襲い来る者の多くは強くはない。棠梨の武具にも慣れていない。だから晨風も、それぞれに応じることはできる。
だが、脚歩声から分かる生力軍の数は、謝元宝も送料できなかった。
「どれだけ連れて来たのか……!」
「必要なだけ、だ」
「では、必要なだけ屠ろう」
シウンと呼ばれた杜家の主が、拐棍を捨て、小刀を拾う。
碧眼の男を庇い、爪牙たちが前に出た。
雨が降り出し、荒れた風に流されて行く彼らの言は、謝元宝には聞き取れない。ただ杜家の男に対する畏れが、含まれていることだけを感じる。
「お父さん!」
「瑠……」
老爺と父親とが振り返った先、男に抱えられた幼子がいた。
家に入られたことを、誰も気づきもしなかった。雨音と風が、侵入の音を薄れさせたのだ。
幼い少女は大きな青い目を潤ませ、怯えている。父親らは馬上救人と応えなければ、ならなかった。
しかし、動く余裕は、晨風にのみ残されていた。たとえ幼子の喉道に刀刃が当てられていようと、人質をとる者の動きを封じるのは、禁軍の武人にとって、口哨を吹くより易しい。
ただし領子に隠した針を投げる打算が、遅れなければ――
晨風も焦っていたのかもしれない。手背の創口のために、針を抜く動作が瞬間、鈍った。
男の背に針が刺さる僅か前に、口をふさがれた幼い少女は、碧眼の男へと渡された。
「麻煩な。我が正面を行く。だから……史雲、聞いておるのか!」
謝元宝の叫びを父親は聞いていなかった。不久前までの様態からは、考えられないほどに、魄力が抜けている。
碧眼の男が、緩やかな動きで幼子を抱え直す。成心、空子を作るように。
緩められた腕、掲げられた灯り。少し走れば届きそうな場に、父親がいるのが見える。
作られた空子とは知らず、逃れるために、瑠璃は暴れた。
「お父さん!」
寝室からわけもわからず連れ去られ、父親を見て争気を取り戻した。けれど幼子には、故意に逃路を示されたことまでは分からない。もがけばもがくほど、見る者の目に、幼子の力のなさが露わになっていると知らずにいる。
晨風は居心を知って、ぞっとした。碧眼の男は瑠璃に、敢えて助けを求めさせたのだ。
男たちを易易と小刀であしらう父親。幼子を溺愛する父親は、戦いと死に馴れた坏人なのだと見せつけ、それをまた、彼自身に知らせるために。
ならば自身が、と晨風が思うと同時に、父親が叫んだ。
「アンバー!」
それは、長く使わなかった彼の生地の言だった。
「小子、諦めるな!」
謝元宝の投げた鉄針が、幼子を抱えた男の足許に刺さった。掠りもしないから、脅しにもならない。
「マファのわりに腕が良い。見習わせたいくらいだ! 収兵!」
北の大国の言を使う男が、棠梨の言で命じる。それもまた、成心だったのかもしれない。刺客として雇われたのが、棠梨の者であると示すために。
男たちが一斉に退き始めるなか、謝元宝は上当してはいけないと思いつつ、追うのを躊躇した。
対手がキュウと思えばこそ、地を知っている謝元宝に利があるのだ。だがもし、棠梨の匪徒を使っているのならば、撲面から行くわけにはいかない。
「謝公、ぼくが追……」
「停」
晨風を止めたのは、愛児を奪われた父親だった。
「どうせ去路は……分かっている。もう……遅い」
「大愚が!」
謝元宝は、手にしていた刀刃を投げ捨て、膝をついた父親の肩を掴んだ。
「失って良いというのか! あの子は……たとえ父親の、ひとを傷つける姿を見ても、恐れたりはしない! 忌まわしい後果となっても、どんなことをしてでも、助けてから、追悔すべきだったのに!」
答えの代わりに、父親は小刀を地面に突き刺した。土を抉る音はない。強い力で一直線に突き立てられた証だ。
それを地面ではなく、ひとの身体に向けたなら、糸を切るようにその命は断たれるだろう。
吹き荒ぶ風が、濡れた灰色の髪をも乱す。仙女にも似た美貌の痩躯の男は、武術など持っていなかった。ひとを殺す術だけを、知っている。
謝元宝が来る前に倒された男たちは、徒手だからこその用度。拐棍は、打手である妻の模倣でしかない。
「瑠璃……!」
嵐のなかに慟哭が響く。
殺すことで生き延びてきた男は、それを封じ、愛しいものを手に入れた。
謝元宝は、それを使わなかったために幼子を守れなかった男を、責めることはできなかった。
晨風もまた、滴り落ちる水滴を拭い、夜陰に消えた幼い少女を案じることで、暗くなる情心を抑えた。




